『騎士団長殺し』の考察 ― 3. 二重メタファーと本当の悪である男のこと ―

詩人はふりをするものだ

そのふりは完璧すぎて

ほんとうに感じている

苦痛のふりまでしてしまう

 

フェルナンド・ペソア  『断章』 1

 

 

二重メタファーについて

 

…心 が〈 二重 思考〉 の 迷宮 へと さまよい こん で いく。 知っ て い て、 かつ 知ら ない で いる こと ─ ─ 入念 に 組み立て られ た 嘘 を 告げ ながら、 どこ までも 真実 で ある と 認める こと ─ ─ 打ち消し 合う 二つ の 意見 を 同時に 奉じ、 その 二つ が 矛盾 する こと を 知り ながら、 両方 とも 正しい と 信ずる こと ─ ─ 論理 に 反する 論理 を 用いる ─ ─ 道徳性 を 否認 する 一方 で、 自分 には 道徳性 が ある と 主張 する こと ─ ─ 民主主義 は 存在 し 得 ない と 信じ つつ、 党 は 民主主義 の 守護 者 で ある と 信ずる こと ─ ─ 忘れ なけれ ば いけ ない こと は 何 で あれ 忘れ、 そのうえで 必要 に なれ ば それ を 記憶 に 引き戻し、 そして また 直ちに それ を 忘れる こと、 とりわけ この 忘却・想起・忘却 という プロセス を この プロセス 自体 に 適用 する こと( これ こそ 究極 の 曰く 言い がたい デリケート な 操作)─ ─ 意識的 に 無意識 状態 になり、 それから、 自ら 行なっ た ばかりの その 催眠 行為 を 意識 し なく なる こと。〈 二重 思考〉 という 用語 を 理解 する のにさえ、〈 二重 思考〉 が 必要 だっ た。

 

ジョージ・オーウェル著 高橋 和久訳  『一九八四年 』(ハヤカワepi文庫)  早川書房 Kindle 版 (Kindle の位置No.982-993).

 

 これはオーウェルの『1984年』の中の二重思考(Doublethink)について詳しく記載されている部分です。これと『騎士団長殺し』の二重メタファーとの類似性についてずっと考えていたのですが、メタファー通路で捕まってしまうと危険だとメタファーから告げられた二重メタファーとは、この文章の最後の部分〈意識的 に 無意識 状態 になり、 それから、 自ら 行なっ た ばかりの その 催眠 行為 を 意識 し なく なる こと〉をそのまま応用して〈意識的に暗喩に変換し、自ら行ったその暗喩したものの本体について、さらに暗喩して別の物として本体自身のことを自身でも解らなくしようとすること〉と定義することができるように思います。そして、『1984年』でビッグ・ブラザーと呼ばれている(架空の、そして至高だと信じられている)指導者は、『騎士団長殺し』では、「あなたの中にありながら、あなたにとっての正しい思いをつかまえて、次々に貪り食べてしまうもの、そのようにして肥え太っていくもの。それが二重メタファー。それはあなたの内側にある深い暗闇に、昔からじっと住まっているものなの」と言われる白いスバル・フォレスターの男なのです。

 

 さて、『騎士団長殺し』の主人公はメタファー通路の無を行き、無と有の間の狭間(川)を渡り、行動の関連性の道を通り抜け二重メタファーとの対決の時を迎えます。彼を二重メタファーから解き放った鍵は、理性を捨て去り、〈その場所のすべては関連性の産物だ。絶対的なものなど何もない、すべては相対的なものなのだと信じる〉ことでした。

 

正義について

 

「分かり ませ ん ─ ─ どう でも いい ん です。 でも どうやら あなた 方 は 失敗 し そう です。 何 かが あなた 方 を 打ち破る。 人生 が あなた 方 を 打ち破る でしょ う」 「われわれ が 人生 を すべて の レベル で コントロール し て いる の だ よ、 ウィンストン。 君 は 人間性 と 呼ば れる よう な 何 かが 存在 し、 それ が われわれ の やる こと に 憤慨 し て、 われわれ に 敵対 する だろ う と 思っ て いる。 だ が われわれ が 人間性 を 作っ て いる の だ。 人間 という のは 金属 と 同じ で、 打て ば ありとあらゆる かたち に 変形 できる。 いや ひょっと する と、 プロレタリア か 奴隷 が いつ の 日 か 蜂起 し て、 われわれ を 打ち倒す など という 以前 の 考え に 逆戻り し た のかね。 そんな 考え は 捨て去る こと だ。 かれ ら は 無力 だ、 動物 と 同じ。 人類 が 党 なの だ。 他 は 除けもの に し て いい ─ ─ 関係 が ない の だ」 「構い やし ませ ん。 最後 に はかれ ら が あなた 方 を 打ちのめす。 遅かれ 早かれ、 かれ ら は あなた 方 の 真 の 姿 を 知っ て、 ずたずた に 引き裂い て しまう でしょ う」 「そんな こと が 起こり そう な 証拠 でも どこ かに ある のかね?   あるいは そう なる という 必然的 な 理由 でも?」 「いいえ。 わたし が 信じ て いる だけ です。 あなた 方 が 失敗 する と 分かっ て いる ん です。 宇宙 には 何 か ─ ─ わたし には 分かり ませ ん が、 精神 とか 原理 といった よう な もの で ─ ─ あなた 方 が 絶対 に 打ち勝つ こと の 出来 ない もの が ある ん です」 「神 の 存在 を 信じ て いる のかね、 ウィンストン?」「いいえ」 「それなら われわれ を 打ち破る という その 原理 とは、 いったい 何 なの だ?」 「分かり ませ ん。『 人間』 の 精神 です」 「それで、 君 は 自分 の こと を 一人 の 人間 だ と 思っ て いる のかね?」 「はい」 「君 が 人間 だ と し たら、 最後 の 人間 に なる、 ウィンストン。 君 の よう な 人間 は 絶滅種 なの だ。 後継者 が われわれ だ。 自分 は 独り だけ だ という こと が 分から ない かね?   君 は 歴史 の 外 に いる、 君 は 非存在 なの だ」 彼 の 態度 が 一変 し、 それ まで 以上 に 荒々しい 口調 で 言っ た ─ ─「 君 は われわれ よりも 道徳的 に 優越 し て いる と 思っ て いる の だろ う?   われわれの よう に 嘘 は つか ない、 われわれ の よう に 残酷 では ない と?」 「はい、 自分 の 方 が 優れ て いる と 思っ て い ます」

 

ジョージ・オーウェル著 高橋 和久訳  『一九八四年 』(ハヤカワepi文庫)  早川書房 Kindle 版 (Kindle の位置No.7966-7994)

 

 結局自らはビッグ・ブラザーの手に落ちてしまった哀れなウィンストン。彼がオブライエンとの洗脳の戦いの最中口にする言葉です。ウィンストンのいる環境は過酷で逃れる術はなかった。なぜなら、ウィンストンこそが英雄の器だったからです。たった一人の少女を救う闘いと、国を救う闘いとでは相手が違って当然ですが、この物語でウィンストンが目指した勝利を『騎士団長殺し』の主人公が勝ち取ることは、村上春樹が意図したことであっただろうと想像できます。

 『1984年』をじっくり読み解くことは結構な苦痛を強いますが、やはりきちんと読んでおくことをお勧めします。『騎士団長殺し』で表現されている雨田具彦氏に起きた事実や洗脳について、『騎士団長殺し』の中でも酷いことであったと想像はできますが、より具体的にどれほどの傷を負わせられるものなのか、その時人は何を思うのかを考えさせられます。

 

「ひとりひとりの人間がもっているそのような〔真理を知るための〕機能と各人がそれによって学び知るところの器官とは、はじめから魂のなかに内存しているのであって、ただそれを―あたかも目を暗闇から光明へ転向させるには、身体の全体といっしょに転向させるのでなければ不可能であったように―魂の全体といっしょに生成流転する世界から一転させて、実存および実存のうち最も光り輝くものを観ることに堪えうるようになるまで、導いて行かなければならないのだ。そして、その最も光り輝くものというのは、われわれの主張では、〈善〉にほかならぬ。そうではないかね?」

「そうです」

「それならば」とぼくは言った、「教育とは、まさにその器官を転向させることがどうすればいちばんやさしく、いちばん効果的に達成されるかを考える、向け変えの技術にほかならないということになるだろう。それは、その器官のなかに視力を外から植えつける技術ではなくて、視力ははじめからもっているけれども、ただその向きが正しくなくて、見なければならぬ方向を見ていないから、その点を直すように工夫する技術なのだ」

「ええ、そのように思われます」

「そうすると、魂の徳とふつう呼ばれているものがいろいろとあるけれども、ほかのものはみなおそらく、事実上は身体の徳のほうに近いかもしれない。なぜなら、それらの徳はじっさいに、以前にはなかったが後になってから、習慣と訓練によって内に形成されるものだからね。けれども、知の徳だけは、何にもまして、もっと何か神的なものに所属しているように思われる。その神的な器官〔知性〕は、自分の力をいついかなるときもけっして失うことはないけれども、ただ向け変えのいかんによって、有用・有益なものともなるし、逆に無益・有害なものともなるのだ。それとも君は、こういうことにまだ気づいたことがないかね―世には、『悪いやつだが知恵はある』と言われる人々がいるものだが、そういう連中の魂らしきものが、いかに鋭い視力をはたらかせて、その視力が向けられている事物を鋭敏に見とおすものかということに?この事実は、その持って生まれた視力がけっして劣等なものではないこと、しかしそれが悪に奉仕しなければならないようになっているために、鋭敏に見れば見るほど、それだけいっそう悪事をはたらくようになるのだ、ということを示している」

「まったくそのとおりです」と彼は答えた。

「しかしながら」とぼくは言った、「そのような素質をもった魂のこの器官が、もし子供のときから早くもその周囲を叩かれて、生成界と同族である鉛の錘のようなものを叩きおとされるならば、―この鉛の錘のようなものは、食べ物への耽溺とか、それと同類のものの与える快楽や意地きたなさなどのために、この魂の器官に固着してその一部となり、魂の視線を下のほうへと向けさせるものなのだが―、もしそういったものから解放されて、真実在のほうへと向きを変えさせられるとしたならば、同じ人間のこの同じ器官は、いまその視力が向けられている事物を見るのとまったく同じように、かの真実在をも最も鋭敏にみてとることであろう」

 

プラトン著 藤沢令夫訳 『国家(下)』岩波書店 pp115~117

 

  『1984年』でウィンストンが考えた「人間の持つ何か」と彼の夢見た国家とその指導者について、この先の部分にも多くのヒントが隠されているのですが、いかんせん人の世とは、ソクラテスが考えるような、本来は誰もが持ち合わせている正義について、方向を定めさせてくれないものなのだなぁとつくづく感じます。

 

 二重メタファーの脅威を抜けて、まっすぐ光を見て生きられる世の中にいられることになった『騎士団長殺し』の主人公は、奇跡の娘を得て幸福に暮らします。最後の東日本大震災の映像を彼女に見せなかった時の「何かを理解することと、何かを見ることは別なのだ」だとか、「どこかに私を導いてくれるものがいると、私は率直に信じることができる」と自分を考えることのできる主人公は、この物語を読むと、ある意味英雄なのかもしれないと思ってしまったりもするのです。この時代の英雄は一人の指導者ではなくて、自分自身と戦える人なのかもしれないと。

 

「心は記憶の中にあって、イメージを滋養にして生きているのよ」

 

村上春樹著 『騎士団長殺し 第2部 遷ろうメタファー編』 p376

 

イメージは私の大好物。心について考えるのも難しいけれど楽しいですね。

 

 

おしまい