「バカにつける薬はない」という話

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うおー、ひっさしぶりの暇人だ
なででくり、なでてくり

な、なんだ
暇人は俺のものだぞ
近づくな
近づくとこの猫手パンチが火を噴くぞ


(散歩中間違って入ってしまったお墓にて ぬこ)

 ※脱出までに20分かかりました







 ここのところ、不倫疑惑とか浮気発覚とか、そんな下世話な話題で持ちきりですが、どの男もまったく悪びれる様子もなく謝るのがむかつきますね。
 悪いことする奴は簡単に謝るな!って最近よく思います。
 謝るという行為は世間にするものじゃなくて、悪いことしてしまった人たちに対してするもので、結果世間を騒がせたことなど二の次であるべきではないかと。
 結局のところ、そういう人たちは自分のために謝っているのであって、そういうのは謝っているというのとは違うのではないかと思うのです。
 
 田中角栄にだって二号さんはいたけど、その人にだって奥さんにだって責任持つって決めてたから謝ったりしなかったのだろうなぁ。
 そういう、全員針の筵的なイエがだめっていうことになって今があるのだと思うけれど、
 何がだめっていう部分がどんどんぼやけてしまって、だめっていうことだけが大きくなっている気がします。
 「奥さんへの愛に忠実でない」という理由はそれはそれで変ですよね。
 「愛に忠実」というのは自分の中で起きることですから、誰へのという部分は変わりえることです。

 もう少し、何がだめという部分をきちんと考えていかなくちゃいけないんだろうな。
 人間はイエや環境の中で生きるもので、一人で生きられるものではないですから。
 
 最も、イエ制度自体が完全に崩壊して、社会全体の中で個が生活できるパターンになれば、恋愛もお互いの責任でという風になっていくのでしょう。
 イクメンの方向ではなく、子育ての形も大きく変わるはずです。
 
 「ひとり親でもりっぱにできる子育て(男性編)」
 議員としてならそっちの充実目指して、がんばったら?
 そのほうがあなたにはあっているかも。

 


 

オタク試考

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きょうもいちにち
たのしかった・・・・

あずまきよひこよつばと!』13巻末尾









 オタクの定義というのはかなり難しいと私は思っているのですが、今やマクドナルドと同じ「世界の言葉」になってしまっているがゆえに、世界中の人々が何らかの形で知り、各々の解釈でオタクという語を使っているのだろうなぁと思うと、逆にワクワクします。
 言葉というものは何より有用性が高ければ高いほど、自在にありようを変えていくものですから、日本語のあいまいさも手伝って、広がりと変化に適応できる、まるでパンケーキみたいな素敵なものになっているような気がします。
 明治時代に作られた造語たちのような、何やら分けのわからぬ理屈を付けられてがんじがらめになっている語(例えば宗教とか!)に比べて、その響きをそのまま世界中に広められる語(「かわいい」とか「もったいない」とか)の特徴は、直接感情にすんなり入ってくる気安さと、それでいて納得の使い心地が得られる安心感で、それはそれは素晴らしいと思います。
(ほら、パンケーキでしょう!)

 〈(一般的な)自分たちとは違うもの〉というオタクという言葉に根付いている差別的な感情は、未だにチェックシャツから連想されるもの的な意味で残されてはいるけれど、ダサさとかっこよさの境界というやつは、例えば女子高生の評価くらいな意味でしか通用しなくなってきたような気がしているのは私だけでしょうか。暗い場所から引きずり出された負の感情は、引きずり出された時点でもう負とは違い方向に飛び散っていくように思うのです。
 さらに、専門に特化した趣味という意味で使用されるオタクという語には、もはやゲーム好きやアニメ好き写真好きといったジャンルから、サッカー好き、ラグビー好き、映画好きといったありとあらゆるジャンルで使用されているのでオタク=文系男子という枠は取っ払われていると考えるのが自然であろうかと思います。

 一方、閉鎖的な場でのオタクという語には、例えばミニコミ誌の性描写のような、人の欲求と切り離せないが公に晒されるにはタブーである部分が多く含まれます。
 そういう部分はオタク文化にとっては大変重要なのですが、開かれた場に出て行ってしまった以上、批判の対象になってしまうのは仕方のないことです。


 これらを鑑みただけでも、オタクという語の示すもの自体が相当複雑で、自らがオタクだと自負している人の多さと多様さを考えるだけで頭を抱えてしまいます。〈狭義のオタク〉とか〈広義のオタク〉とか、そんな風に表現されるのかもしれないなぁとも思いますが、それこそ、文化にとって何が狭義かという部分を規定する勝手さを感じざるを得ません。

 強いて言えば、私たちの日常は思いのほか辛く長く、平坦で面白味のないものですが、そこに色付けをする何かを持っていれば毎日を少しはましに過ごせるかもしれない。その部分を自分の楽しみの方に寄せている人がオタクだと私は思っています。その部分を社会への貢献や政治的な活動に費やしている人たちももちろんいらっしゃっるし、子育てや仕事で手一杯という人もいらっしゃる。ただこういった活動が経済活動にどんどん組み込まれていっている反動で、オタク文化は独自に発展を遂げているのではないかと感じます。
 難しいかもしれないけれど、経済活動と生活時間の変化とオタクに関する研究なんていうのも家政学的には楽しいかもしれないと思ったりします。




 ところで、親愛なる日本女子大学の近藤光博先生が企画なさっているエコノミメーシスR&D
 次回企画は「オタクにとって聖なるものとは何か」
 2月27日(土)13時30分~ 日本女子大学の目白キャンパスでワークショップが行われなます。

lizliz.tea-nifty.com


 時間が合えば参加させていただきたいと考えています。
 皆様もぜひぜひ!

物質のすべては光







純粋数学には美しいアイデアがぎっしり詰まっている。
物理学のとっておきの音楽は、美しいアイデアと現実(リアリティー)のあわいに、いとも調和した響きで流れている。
そろそろ少し現実(リアリティー)について論ずべきころあいだ。


フランク・ウィルチェック著 吉田三千世訳 『物質のすべては光』















 以前からきちんと(でなくてもいくらか)把握しなくてはと感じていた素粒子物理学ですが、買っておいた本もどうも苦手意識から手が出ずに放ったらかしになっていたので、とうとう読み始めました。
 すごく読みやすい本なのに、まあ進まないこと!


 ニュートリノニュートリノ振動(スーパーカミオカンデHPより)
 http://www-sk.icrr.u-tokyo.ac.jp/sk/sk/neutrino.html

 「宇宙を構成するすべての物質は、クォークレプトンという素粒子の仲間から形成されています。例えばクォーク3つからできる陽子1つと、レプトンの仲間である電子1つを組み合わせて水素原子が作られます。」
 ここからして、聞いてないよーという感じなので、素粒子物理学というより科学そのものからやり直し感が大きいです。

 ということで、しばらくこの素粒子と物質の始まりについての考察を行っていきたいと思っています。

無口な神と雄弁な神  「人類学=物語的 想像力の ‟不自由な” 跳躍」感想




「忘れるなよ。たとえ、この世の外側は全き玉だとしても、我々が生きている内側には混沌があるのだ、ということを。その混沌の野をひとつひとつ掘り返して見て、考えて、はじめて、新たな一歩を踏み出せるのだ。
 司祭医は人が病で死ぬことを、はなからあきらめてしまっている。清心教が持ち出す神の道理というのは、そのあきらめを、患者と身内に納得させ、自らの無力を納得するために生み出した究極の理屈だ」

  上橋菜穂子 『鹿の王』







 現代思想の3月臨時増刊号「人類学のゆくえ」を私も読んでいる途中なのですが、巻頭の中沢新一氏と上橋菜穂子氏の討議記事「人類学=物語的 想像力の ‟不自由な” 跳躍」は大変興味深く読ませていただきました。

 内容はまだ読んでいらっしゃらない方も多いかと思うのであまり突っ込まないことにして、この記事を読んで私が感じたのは「無口な神と雄弁な神」のことについてです。
 お二人の学生時代の研究の話題からシャーマンについて語られることも多かったのですが、それではシャーマンに囁く、そして私たちに囁く神は無口なのだろうか、それとも雄弁なのだろうかということがとても気になりました。
 言葉の不自由は私たちに縛りとともに安心を届けます。しかしそれは私たちに近づくために本物としての何かをそぎ落としてやってくるわかりやすさです。雄弁な神は私たちに安心と理解をもたらすでしょう。一方、無口な神は私たちの理解の及ばぬところで私たちを包み影響します。語りかけるのとは別のやり方で私たちに何かを伝える、その方法は私たちの奥深くで感じることしかできない不可解で奇妙な、しかし、私たちが考え及ぶ範囲を大きく超えた、この世にあるありとあらゆるものに通じる何かなのです。しかしそれはおおよそ人知の理解を超えているため、信じることしかできないのです。

 「恐ろしさ」について、私たちはもっと深く自覚するべきなのかもしれないと思います。

 人に及ぼされる様々な恐ろしさから神が救い上げてくれること。それは宗教ではとても大切な部分です。死や病やその他にも、人が生きていくため立ち向かわなければならない苦難は多すぎます。それを凌いでも生きていくために、神は多くのものを私たちに与えることができる存在です。

 しかし、人の究極の恐怖のもとである死は、もともと人だけではなく生きとし生けるものすべてに与えられているものです。そしてそれを与えているのは万物を作り出したあるもの≪神≫であり、人はこのことをすでによく知っています。

 それならば、神は人に受け入れることを諭す装置なのでしょうか?
 だったら、神の声を聴くシャーマンなど必要なくなるのではないでしょうか。
 「あなたはもうじき死にます。それがあなたに与えられた宿命です。」
 「今年は不作です。それがあなたたちに与えられた宿命です。」

 そういうことに抗うために存在していた(本物らしからぬ)神の声を、私たちは本物でないと言ってしまっていいのでしょうか。

 そうして私たちは科学という神に対抗する神を作り出したのだろうなぁと感じるのです。

 だからこそ、シャーマンの聴いていた声が気になるのです。
 神は私たちにどんなふうに何を伝えていたのだろうか。

 ある日大きな竜が天井を泳いでいくのをぼんやりと眺めていると、しばらくして大きな大きな地震がやってきました。
 さて、竜はいったい何しに現れたのだろう。


現代思想 2016年3月臨時増刊号 総特集◎人類学のゆくえ

現代思想 2016年3月臨時増刊号 総特集◎人類学のゆくえ

恋愛を語るあれこれ


 

 そうだ。わたしたちがまた会ったとしても、同じことだろう。会わなかったとしたって。使いものにならない、身のほどをわきまえた愛(本物じゃないと言う人もいるだろう、くびり殺されたり、悪い冗談になってしまったり、哀れにも摩滅してしまう危険を、決して冒さないのだから)。危険はひとつも冒さないけれど、それでも甘い滴りとして、地下資源として生き続ける。その上に、この新たな沈黙の重みを乗せて。この封印を。


アリス・マンロー作 小竹由美子訳 『イラクサ』より


 





 
 「恋愛を語るのに哲学を出してくるのは、あまりにも人の生き方を型にはめすぎてやしませんか?」って思います。

それは、まったく哲学を馬鹿にしているわけではなくて、恋愛感情があまりにも個人的で、自分でもコントロール不可能な不可解な現象であると思っているからです。

理性や個性の枠だけではなく、野生や遺伝の継承と言った生物学的なことと感情が相まって、人としても一番扱いに困る、それでいて私自身のうちに確固として君臨する何かを、抽象的な表現を取り除いて現すことの困難を深く感じるからです。

 例えば『イラクサ』の主人公の恋愛はまったく褒められたものじゃないし、夫や子供たちを犠牲にしてまで欲しがったわりには、本当に欲しがっていたものかよくわからない。そんな主人公にとって残しておきたいと願う一つの思い。

 大人になれば誰だって、ラブストーリーの結末が幸せじゃないかもしれないことは知っている。ただそれをどう受け入れるかがその人の恋愛の価値であろうと思うのです。
 表面は紳士的・淑女的になれても熱情に浮かされる心のうちを打ち消すことは困難で、でもそれがただ肉欲に左右されるものなのか否かは自分ではよくわかっていて、はてそれならこの気持ちはいったいどこから生まれているのかと戸惑ったり、そういう恋愛が人に及ぼすあれこれは、とても一筋縄で理解できるものではないでしょう。

 マンローでさえそこのところはどうのこうのと断言せずに、汚らしい部分は一切否定せず、それでもなお純粋にいとおしくなる部分のために、主人公を最高に貶めながらも表現しているのですから。

 恋愛を語るあれこれは一筋縄ではいかないのです。

実験1 (2)

 

論理哲学論考 (岩波文庫)

論理哲学論考 (岩波文庫)

5・11  いくつかの命題に共通な真理根拠のすべてが、ある一つの命題の真理根拠にもなっているとき、後者の命題が真であることは前者の諸命題が真であることから帰結すると言われる。
5・12  特に、命題「q」の真理根拠のすべてが命題「p」の真理根拠である場合、「p」が真であることは「q」が真であることから帰結する。
5・121 「pがqから帰結する」とは、一方の真理根拠が他方の真理根拠に含まれているということにほかならない。
5・122  pがqから帰結するならば、「p」の意味は「q」の意味に含まれている。
5・123  神がある命題を真とする世界を創造するならば、同時に神はまた、その命題から帰結するすべての命題が真となる世界をも創造するのである。同様に、命題「p」が真となる世界を創造しておきながら、命題「p」に関わる諸対象の全体を創造しないなどということもありえない。
5・124  命題は、そこから帰結するすべての命題を肯定する。
5・1241 「p.q」は、「p」を肯定する命題の一つであり、同時に「q」を肯定する命題の一つでもある。
        二つの命題は、双方を肯定する有意味な命題が存在しないとき、互いに対立の関係にある。
        ある命題と両立不可能な命題はすべて、その命題を否定する。
5・13  ある命題の真理性が他の諸命題の真理性から帰結することは、それらの命題の構造から見てとられる。
5・131 ある命題の真理性が他の諸問題の真理性から帰結するとき、そのことはそれら諸命題の形式相互の関係によって表現される。すなわち、その関係を規定するのに、それらの諸命題の相互関係をあらためて一つの命題のうちに表す必要はない。この関係は内的であり、関係する諸命題が立てられれば、それと同時に、そしてそれによって、関係は成立しているのである。
5・1311 われわれがpVqと〜pからqを推論するとき、「pVq」と「〜p」の命題形式の関係は、ここではその表現方法によって隠されてしまっている。他方、われわれがたとえば、「pVq」の代わりに「p|q.|.p|q」と書き(「p|q」は「pでもqでもない」に等しい)、「〜p」の代わりに「p|p」と書いていたとすれば、そのとき内的関係は明らかになっていただろう。
    (人は(x).fxからfaを推論しうる。この事実が「(x).fx」というシンボルに一般性が存していることを示している。)
5・132 pがqから帰結する、そのとき私はqからpを推論することができる。―「pがqから導出される」とは、つまりそういうことである。
     推論の仕方はただ二つの命題〔pとq〕からのみ、見てとられる。〔それに加えて「pがqから導出される」のような命題を立てる必要はない。〕
     それら二つの命題、それ自身だけが、推論を正当化しうるのである。
    「推論法則」、すなわち―フレーゲとラッセルがそうしたように―推論を正当化するものとして立てられた命題は、無意味であり、立てたところで余計なものでしかない。
5・133 すべての導出はア・プリオリに成立している。
5・134 ある要素命題から他の要素命題が導出されることはない。
5・135 ある状況が生起していることから、それとまったく別の状態の生起を推論することは、いかなる仕方も不可能である。
5・136 そのような推論を正当化する因果連鎖など、存在しない。
5・1361 現在のできごとから未来のできごとへと推論することは不可能なのである。
      因果連鎖を信じること、これこそ迷信にほかならない。
5・1362 未来の行為をいま知ることはできない。ここに意思の自由がある。因果性が、論理的推論の必然性のごとき内的必然性であったとすれば、その場合にのみ、われわれは未来の行為を現在知りうることになる。―実際に何ごとかを知っていることと、その何ごとかが事実であることは、論理的に必然的な関係にある。〔それゆえ、未来の行為を知りえたならば、その行為は実際に起こるのでなければならない。〕
    (〔他方、〕「Aはpが成立していることを知っている」は、pがトートロジーのときには、無意味となる。)
5・1363 ある命題がわれわれに明らかに真であるように思われようと、そのことからその命題が真であることは帰結しない以上、この明らかさもまた、真理性に対するわれわれの信念を正当化してはくれない。
5・14  ある命題が他の命題から帰結するならば、後者は前者よりも多くのことを語り、前者は後者よりも少ないことを語っている。
5・141 pがqから帰結し、qがpから帰結するとき、両者は同一の命題である。
5・142 トートロジーはあらゆる命題から帰結する。つまり、トートロジーは何も語らない。
5・143 矛盾が諸命題と共有するものは、どんな命題も他の命題と共有していないものである。他方、トートロジーは、互いに共有するものをもたないすべての命題に共有される。
     矛盾はいわば全命題の外側に消え去り、トートロジーは全命題の内側に消え去る。
     矛盾は諸命題の外側の限界であり、トートロジーはその空虚な中心点である。

 このところ『多様化』とはなにかということを考えさせられることが多く、そんな時にヴィトゲンシュタインをよく思い出します。

 原子命題は帰結の帰納法では到達できない。
 否定の連続で本物が見えてくる世界。
 自己同一などありえない。なぜなら、自己こそが見えない底と見えすぎる遠景にある世界なのだから。

 このことを思うとき、多様化する世界は本当によい世界なのかという疑問に追いつかれます。
 
 私の中心は虚無であるのか原子命題そのものであるのか。
 はたまた原子命題が虚無なのか。
 そんなことを考えると、結局は何もないところからは生まれることのできなかった私と
 何もないところから生まれたであろう私の中の私を重ね合わせてふっと翳してみたくなります。

 結局はそれらが私の肉体と魂と定義されるものであり
 それを繋ぐ無数の言葉の線と
 言葉の線では補うことのできない部分を結ぶその他のものを
 繕うことで人は生きているのではないか。
 
 繕う材料が多いほうがいいのか少ないほうがいいのか。
 それを人はもっと深く考える時期なのではないかと思うのです。

 能率を求めて少ない材料で深く大きく結ぶこと
 効率よりも多数の材料で細かく繊細に結ぶこと

 それはただ能率を求めてひた走ってきた人が到達した山なのかもしれないし
 それでいいのかという心からの問いなのかもしれない

 いずれにせよ、自分が自分でいられるために
 虚無なのか原子命題なのかではなく
 私を繋ぐ私を求めなくてはならないのだろうなと思うのです。

 そうです
 結局のところ私が思うに
 私は私を繋ぐ無数の関数の私であり
 関数の私が関数である限り
 私は死なないのです

 関数の私は関数であるがゆえに無機質なので
 無機質でなくなるための条件が
 ことばであり
 うたであり
 おどりであり
 いのりであり
 感情という生き物を飼っておくために
 無機質の私はがんばっているのです
 (無機質なのにがんばってるなんておかしいですが)

 

実験1 (1)

台湾、烏来(ウーライ)は昔首狩り族の原住民が住んでいた地域ですが、今は台北近郊の温泉地として有名で、台北市内から電車とタクシーで1時間以内で着く割には結構な山奥でした。
わざわざブログに写真を張ったのは、まるで正三角形のような山が面白くて、私は見飽きなかったからです。(この写真だと見にくいかも)

さて、こちらは実験用にちょっとだけメモしておきたいことを載せていきます。