自家中毒と甘い飴    ― 星野源考 ―

夜の歩み         リルケ
比較できるものは何もなく!それ自身で完全でないものがあろうか、
また、口に出して言えるものがあるだろうか。
われわれは何物の名も呼ばず、ただ耐えになうことができるだけだ。
そしてここかしこで、ひとつの光輝、ひとつの視線が
われわれをかすめたとき、そこにこそ
われわれの生命と呼ぶべきものが生きられたのかもしれぬと
悟るだけでいいのだ。逆らう者は
世界を得ない。そしてあまりに多くを理解する者のかたわらを
永遠なるものは素通りしてしまう。時として
このような偉大な夜、われわれは危険のそとにあるかのよう。
ひとしくかろやかな群れに分けられ、星々に
分配されて。満ちみちた夜空の星に。

Nächtlicher Gang
Nichts ist vergleichbar. Denn was ist nicht ganz
mit sich allein und was je auszusagen;
wir nennen nichts, wir dürfen nur ertragen
und uns verständigen, daß da ein Glanz
und dort ein Blick vielleicht uns so gestreift
als wäre grade das darin gelebt
was unser Leben ist. Wer widerstrebt
dem wird nicht Welt. Und wer zuviel begreift
dem geht das Ewige vorbei. Zuweilen
in solchen großen Nächten sind wir wie
außer Gefahr, in gleichen leichten Teilen
den Sternen ausgeteilt. Wie drängen sie.


 星野源の詩には、どんな自分であっても曖昧な自分や世界や他者を受け入れようという覚悟が見える傍ら、どんな自分や他者に対しても否定的な、〈外れている自分〉を感じることができます。
 それが歌に合わせて語られる時、私たちはどこか安心し、そうだよなと思う反面、孤独だよなと感じてしまう。
 ポップな音楽とは裏腹に、人の不安の根底にある〈私は独り〉を浮き彫りにする歌詞が、妄想でだって乗りきれればいいじゃないでさらっと解決したような強さで締めくくられるのは爽快さを感じる半面、何も解決できていない夜がまたやってくる恐れを打ち消せない、勝てない自分を露呈しています。アルバムStrangerの曲は病室で死に向き合った後の作品なのですから一層重くのしかかる。

 しかし私には、それは飲みこんだ毒に勝とうとして身の内にさらに毒をため込んでは苦しげに吐き出す自家中毒の産物のような、そんな感じに思えてしまうのです。

 リルケは詩の中で、不完全なものなどなく、そのもの自体の名を呼ぶことは叶わず、一瞬だけ他者の光を浴びた時、生きられるかもと悟るだけでいいと書いています。そして、逆らうものは世界を得ないと。

 星野源は「くせのうた」で「知りたいと思うには 全部違うと知ることだ」と書いている。ここはリルケに通じるものがあると思います。ただ、同じ歌の中で「知りたいと思うこと 謎を解くのだ夜明けまで」とも言っている。知り得ない欲求は一晩中でも続くのに、知ることなどできない自己矛盾をぐるぐると抱え続ける。しかしリルケに言わせれば、その状態では世界は見えません。ここが自家中毒的だと。そして、〈君にある日常〉を飴にして乗り切ろうとしている。

 同じ夜に二人の詩人は永遠の闇と永遠の光を見ているように思います。

 一瞬の他者の視線に自らの生(精)を見ることでなければ悟れない〈世界〉
 
 君にある日常を見るのではなく、僕を見る君を見よう。

 それを理解した詩人と理解しない詩人のどちらが人間らしいかはさておき、悟りは知識ではないという理解は、生きやすさには必要かしらと。
 寂しいと叫ぶことに遠慮なんかいらない。

*1

 

*1: もう長いことツイッターでお世話になっている松浦達さんが、MUSIC MAGAZINEという雑誌の星野源特集でライターの一人として「もとより、ばらばらのみんなの意味を取り戻すために 星野源、再考―未分化の主体の濃密さ」という記事を書かれています。



そのレヴューを読ませていただいて刺激を受けた頭でこの文章を書かせていただきました。

ちょっとだけ怖い話

 この前の明け方、足の指を触られている感じがして目が覚めました。

 誰も足の指なんか触る人なんかいないし、しかも遠慮がちにそっと触っている感じ。それも目が覚めるとすぐになくなっていました。

 沖縄には幽霊の話はすごくたくさんあります。近くの公園には日本兵のお化けが歩いているので有名だし、たくさんの人が戦争で無念の死をなさっているので当たり前。私が小さい頃には、東京大空襲で亡くなった人の幽霊話なんかたぁくさんあって、そういうの好きな母から聞きたくないのにその場所場所で「ここはね・・・。」と聞かされたものです。

 最近はどこもぜんぜん違う場所になってしまったのでむこうではトンと聞かなくなりました。むしろ、変わらない話があってすごいなぁと思います。

 でも、この部屋に幽霊がいるとは思えないなぁと感じているところへ、向こうから答えがやって来ました。なんとはなしに覗いていた名嘉睦稔さんの『風のゆくへ』という画文集を見ているときに。

 干瀬の潮鳴りが静かになった。
 先程から、左足の親指を抓んでは離す者が居る。
 佐武留(サンルー)は、その感触からして、
 おおかた宿借(アーマン)であろうと、
 夢うつつの内に考えていたが、
 俄かにその爪の大きさに気付き、
 これは宿借のものではないと思い、飛び起きた。
 慌てて足を引いたものだから砂が目にかかり、
 一時目が良く見えなかった。急いで目を瞬き、
 口の中の砂を舌で集めながら、
 その赤い者の姿を認めて、佐武留は驚いた。
 大口が開いて驚いた。

 佐武留の指を抓んでいるのは、大変だ、
 あのアカカナジャーなのだ。
 口は耳元までは裂けていないものの、
 つり上がっているから微笑んでいるように見える。
 雨も吹き込む程の吊鼻と言われるが、そうでもない。
 山羊のように長いのだという耳も、
 確かに尖ってはいる。赤い髪は縮れて
 体を覆うかのようだと言うが、それはその通りで、
 蓑を被っているようだった。

 大方、謂われている通りであったが、
 ひとつだけ聞いた事のないものがあった。
 それは、アカカナジャーの瞳だった。
 輝く萌黄色をしているのだ。
 目蓋に包まれて、開き際に鮮やかな光線を放って、
 花のように際立ち美しかった。全体が赤い色の中で、
 そこだけ若葉のようにして精気立つのだった。
 ・・・

 名嘉睦稔『風のゆくへ −ボクネン画文集−』p19「アカカナジャー」より


 このお話は友達になりにサザエを持って来たアカカナジャーと友達になった気がするところで終わっています。
 版画で描かれたアカカナジャーはとてもかわいらしく、あ、会いたい!

 佐武留は会いたくて夢に見るくらいだったようで、それがアカカナジャーと仲良くなると漁師には大漁が約束されるからなのか、それとも単に会いたいと思っていたのか。この文からはわかりませんが、そんな下心は一切なしで私は一目会いたいと夢見るのでした。

 また出てきてね!

 私の引用した本がなかったので、こちらをご紹介させていただきます。

ボクネン―大自然の伝言(イアイ)を彫る

ボクネン―大自然の伝言(イアイ)を彫る

 作者の名嘉睦稔さんについては新潮文庫『オキナワなんでも事典』(池澤夏樹編)から。

 「1953年、伊是名島生まれ。版画家、造形作家、詩人。三絃(さんしん)の名手にして、琉球空手の達人。海とともに生き、その美しさも怖さも神秘も知りつくした海人でもある。かと思えば、沖縄で最も有名なデザイン会社の経営者という顔も持つ。実に多才な人だ。
 肩書きはさておき、名嘉睦稔は何より「見る人、感じる人」である。自然の美があふれる沖縄はもちろん、どんなにごみごみした都会の雑踏からも、何かしら美しいものを見つけてくる名人だ。ふと立ち止まって宙を見つめているときは、風の伝言(いやい)に耳を傾けているか、中空(なかべ)の神さまと話をしている最中。都会人、特にオキナワにはまっているナイチャーなどは、自然は旅に出なくちゃ見つからないと思っている。この人といると、そんな思いこみはウソだということがよくわかる。どこにいたって自然はあるし、いたるところに美しいものがある。まず、自分の足の下を見つめること。そんな当たり前のことを改めて考えさせてくれる人なのだ。(以下略)」

エウレカセブンAOと今のゆくえ

 エウレカセブンAOも少しずつ物語が進んでいっていろいろ感じてくるところも多くなってきました。

 とにかく神話の世界からお話をぐっと現在に引き付けて、今の問題に食い込ませていったところに賛否両論出てくると思います。とりあえず、エウレカセブンでの敵は未来少年コナンでいうところのインダストリアのような国家で、支配という明確な目的を持って存在していたこと。対してAOの場合は国家=権力という形に反旗を掲げたものの、中国と日本という国家=(軍事)力に挟まれ、連合軍と言う名のアメリカからの圧力をかけられ、トラパー輸出という産業しか持てないオキナワの自由と精神とはという、何だか初めからすごく難しいテーマを持って、敵の見えない戦いから始まっているところが今を象徴しているように思います。

 そして、〈自然〉=力の象徴であるコーラリアンエウレカセブンのどこかユーモラスな異生物の群衆であるコーラリアンと巨大で一つの兵器のようなコーラリアン。この二つの違いはとても大きいように思います。〈自然〉=力の脅威を表現しようとするときに、生物的であり私たちに接触しながら私たちを侵すものから、機械的であり私たちに触れもせずにただ破壊するのものに代わったこと。これには震災、そして原発事故の影響を考えずにはいられません。
 そしてコーラリアンとの戦うニルヴァーシュもまた私には兵器にしか見えず、それを操るアオもまた少年兵に見えてしまうのです。

 今を象徴すること。ここには芸術の大切な役割があります。そういう意味で、ここまでのエウレカセブンAOは現代芸術的な様相を呈していると感じますし、その点では成功しているように思います。
 さて、エウレカセブンの評価されるべきは、どうやって自然の持つ神秘性や私たちに必要な精神的な統一性を物語に持ってこられるかです。
 人型コーラリアンであるアオが、人間と自然との懸け橋としてどうやって活躍できるのか。それはひとえにそこにかかっていると思います。そして、その時ナルはどうするのか。レントンとナルの違うところは、ナルが女性であり、より自然と近しい関係にあるところです。悩むよりも信じる。しかし同時にナルは死に近い存在に設定してあります。自然に近い=死に近いというのもよくできた設定であると私は評価しているところです。ひとつ越してしまえばそこには死がある。そういう環境でこそ人は自然に人として生きることができるのだろうと思うからです。

 まだまだ5回。これからが楽しみです!

 
 
 

『人間にとって科学とはなにか』

 湯川秀樹梅棹忠夫の1967年にされた対談をまとめたもので、もう一つのブログの方に上げるつもりで読んでいたのですが、対談って言うのはそこに重要事項が飛ばし飛ばし置いてあるもので、しかもそのひとつひとつを理解するためにまた読むべき本が増えてしまったりして、とても簡単には書けないなぁとため息が出たところで、こちらにちょっとだけ書いてみることにしました。

 

J-46 人間にとって科学とはなにか (中公クラシックス)

J-46 人間にとって科学とはなにか (中公クラシックス)

 どうしてこの本に手を出したかというと、私が科学を簡単に信じられる仕組みが知りたかったからです。新しい宗教はいろいろと怪しそうだと思う割に、新しい科学はそんなに抵抗なく自分に入っていく。それはなんか変じゃないかしら?

梅棹 その面からみると、科学は宗教に近いものだというように私は考えてきているんです。基本的性質としてよく似た点がある。というのは、科学もやはり、初めから好ききらいなく、だれでもわかるものと違うんです。それぞれの時代に固有の、ある種の観念の訓練の結果わかるものなんです。科学というものは教育しなければ納得できない。さっきは教育さえすればだれにもでも納得できるということでしたけれども、ひっくり返したら、教育しなければ納得できんようなたちのものです。科学には学ぶのに大変しんどい点がたくさんあって、一定の枠を決めて、あらかじめ受け手の方のネットワークをつくっておかなければ、そこへものを放りこんでもうまくはまらない。科学はそういうたちのシステムですね。そのかわり、行ったん受け手のネットワークをしっかり組み立てておけば、相当のものを投げこんでも受けとめられる。
 その点に関する限りは宗教でも同じなんです。高等宗教というものは、やはり一種の観念のネットワークを人間の心の中にきちんと組み立ててきたものです。そのネットワークをつねに強化するために、釣り返し繰り返し教義問答みたいなことをやって、心の中にきちんとした枠組みを確立していった。そこにいろいろなものを投げこんでも、すべては神の恩寵として非常に上手にはまる。あるいは仏の慈悲としての非常に納得がゆくんです。そういう体系をうまく組み立てたのが大宗教というものなんだと思うのです。だからその意味で、科学は宗教とたいへんよく似たものだというのです。納得の体系としてですね。それがどこかで歴史的に、宗教と科学との交代があるんです。神の恩寵、仏の慈悲という枠ではどうも受けとめられんぞということを考え出した。歴史的にはたしかにそういう交代があったと思うのです。しかし、ほんとに科学という枠組みの方がうまくゆくのかどうか。受け手の方の納得のための体系という方から考えてみたら、なお疑問があるように思います。
 湯川 宗教の話が出ましたが、ある意味では物理学でも似たようなことがある。物理学という学問を素朴に考えますと、これはあまり訓練を受けたり学んだりせんでも、自分でそう思うてしまう、各人がある年齢になったらそう思うてしまうという性格を持っているんです。というのは、ものがいろいろあって、それが三次元の世界―ユークリッド的な世界にうまいこと配置されているということはだれでもすぐにわかるわけですよね。これは人が教えないでもそうなるでしょう。
 数学は非常に普遍性を持っているというけれども、しかしその点では、かえって数学の方が物理学より、思考を間違いなく行うための意識的な訓練を要する。ところが、われわれが自分の周囲の世界をざっと眺めわたしてつくるイメージ―それは三次元の世界の中のものだけれども―これは何も意識していない。努力してつくったものではない。このことは非常にいちじるしいことであって、あたりまえのことなので、かえって気がつかないでなんとも思わないけれども、唯物論が素朴な意味でまずそこで成り立つ。素朴実在論です。
 それから先いろいろ研究してみるとむつかしいことが出てくる。前にいった二重構造、理論と事実が二重になっていて、両方はなかなかしっくりいかんぞというようなことが出てくるけれども、そのうち事実の世界というようなものは、実際だれでもわりあいたやすく納得できるようになっている。ニュートン力学はむつかしいようでも、微分方程式を使ったりせんで、少しあらっぽくいえば、これは納得しすい考え方です。動物がどこまでそういう知識を持っているかしらんけれども、おそらく高等動物は、もっとあらいけれども一種の素朴存在論みたいなものを持っているのではないでしょうか。
 梅棹 素朴実在論は動物にもあるでしょう。
 湯川 ところが人間は宗教というステージをいっぺんは通るわけでしょう。たいていの民族は通るわけですね。
 梅棹 大なり小なりかならず通ります。
 湯川 そういうことを考えれば、科学というのも一つのステージだとも考えられる。もちろん、われわれがいま問題にしている近代科学に到達するには、ある特殊のルートを通ってきているわけですけれども……。宗教の方は、どの民族からも自然発生的に出てくるわけですね。
 梅棹 その意味ではしかし、科学もみなそうですね。どの民族にも素朴実在論的な認識はもちろんあります。それからさらにもう少し観念化され、体系化したシンボル体系としての科学も、たいていの民族はもっていると思います。…
 どの民族も、素朴実在論から出発して、世界というものについての何ほどかの認識、あるいはシンボル体系をつくり出すようになります。これはやはり、広い意味で「科学」といってよいと思うんです。ところが、その科学のつくり方は、いろいろある。人類の頭脳の構造はどの民族においても同じわけですが、だからといって、同じ科学ができあがったりはしない。やはりそれぞれの文化的伝統の中で、固有のものができあがってゆく。その意味では科学というものも、非常に文化的なものだというのです。つまり、伝承の上に成立する。

 『人間にとって科学とはなにか』湯川秀樹梅棹忠夫 pp55〜59

 これでいうと、宗教と科学は大変似通っているのに私が科学を信用するのは、私が科学的な教育を受けているからということになる。そして、逆に宗教的な教育を受けていないから。
 そういわれれば、アメリカで進化論を受け入れられない人が多いのは、そういうアメリカ人が進化論的な科学よりも、宗教的な教育を受けているからという納得の答えが得られます。
 しかし一方で、私たち日本人がどんな高等宗教を持っている(持っていた)のかという疑問が残ります。私たちは仏教を信じている一方で、神道の伝統もある。それは生活にとても根ざしたものだったけれども、何か一つの価値体系のようなものを私たちに根づかしていたのだろうか。むしろそういったものを基本に置きながら、私たちの信じていたものは、そこらじゅうにいて私たちを見ているなにか。空間の中に見え隠れする、大勢の何者かの声だったのではないかと思うのです。
 むろんそのような声は私たちひとりひとりの中のものであり、個人個人で違うものなのかもしれない。でもそこは、私たちが知っている、父や母や祖父や祖母から聞いた物語の中に息づいているものによって細い糸で一つに繋がっている。
 そんなふうに思うのです。

 私が新しい宗教について違和感を覚えるのは、そんな何かとの繋がりを感じないからでしょう。そしてそれが、日本人の無宗教の最大の原因であるように思うのです。
 そのように考えると、確かに私たちは科学の教育を受けているけれども、これほどまでにすんなりと私たちに受け入れられてしまうのはそれだけではなくて、私たちの持つ宗教観のどこかの部分と科学とが合致しているのではないか。梅棹先生の言う伝承の上に成立するものなのではないかと思ったりしたのです。

 

Perfume 3rd Tour 「JPN」に行ってきました!

 昨日 Perfume 3rd Tour 「JPN」 に行ってまいりました!

 http://www.perfume-web.jp/cam/JPN/

 極寒のさいたまスーパーアリーナではありましたが、「スタジアムモード」なる最強座席数も満席。中の雰囲気は熱い熱い!

 個人的にじんときたのは、MC2でのあーちゃんの音楽への思い。ネタバレになっちゃうのであまり言えませんが、去年は音楽活動していた人たちみんなが抱えてきた思いを、どうしようもない気持ちを、いつものようにまとまりなく、ごめんなさいと言いながら話す彼女をかわいらしいなと思いながら、今年はいい年に成りますようにといっしょにお祈りするのでした。

 レーザーとディスコ感は昨年の東京ドームに負けない迫力。

 全員参加型のあれももちろん!

 MCでいつも感じるのですが、あーちゃんのかわいらしさ、かしゆかのやさしさにのっちの強さって感じで、コンサートに行くとのっち強いなって印象が強くなりますが、のっち役回り乙!って、君がまとめてるんだよねって、思いましたよ。

 うちでは家族の年中行事に成りつつありますが、家族で楽しんでいる方も周りにたくさんいらっしゃいました。
 しかもみんなで踊りまくり!

 ツアーもこれからどんどん地方に行かれますし、沖縄の野外も武道館も、きっときらきらの笑顔でいっぱいになると思います。
 
 みなさん楽しんできて下さいね!

 Perfumeもがんばれ!

 

 
 

きのう、怖かったこと

 きのう、久しぶりに怖い目にあった。

 地下鉄の改札で別れたので、ひとりきりで帰路についた。私の前にはひとりの少女が歩いていた。
 紫色のロングコートにポニーテール。淡い紫のタイツにビーズの刺しゅう入りの黒いバレエシューズ。ずいぶんと大人っぽい恰好をしている小学生だなっと思った。そう思ったのは140センチくらいの華奢な体とポニーテールを結うゴムにラメ入りの透明なプラスチックの飾りがついていたから。

 変だなと思ったのは、自分と同じ方向を行く彼女の動きが子どもらしくないと気づいた時だ。どことなくぎこちない動きながらも、小学生のそれとは違い重い感じがした。ちらりと見えた横顔にしわのようなもの。
 私の中で疑念がどんどん膨らんでいく。

 彼女に続いてエスカレーターで地上に出る。出る直前、すごく冷たい空気に押され、寒っといって思わずダウンジャケットの襟を立てた。

 外に出ると、そんなに寒いことはなかった。むしろ冬にしては穏やかな宵で、私の心は一瞬で緩んだ。

 私鉄の踏切が閉まっていたので彼女のうしろで開くのを待つ。キキララの少しくたびれているがかわいらしい紙袋。やっぱり、老けて見える小学生なのかな。
 急に何が入っているのか気になった。

 覗き込む隙があったのだ。

 中には大きな紙コップと四角い包み。そして、紙コップの中にはどすっとした茶色い液体が固まったようなものが、底に、周囲に、こびりついていた。
 私には糞に見えた。

 いや、人糞だった。

 ああ、やばい。

 きっと私は青ざめていたのだろう。
 踏切を越えて自宅に向かう道はあまり人が来ないほうなので、彼女が大通りに行ってくれることを願ったが、彼女は私と同じ方向に曲がった。仕方がないので私は彼女の横を急ぎ足で通り過ぎる。
 彼女は贔屓目に見ても20代後半だった。

 何も考えずに家に向かってひたすら早足で歩く。
 途中、狭い道を双子用のベビーカーを押してゆっくり歩く親子が前を歩いていた。
 なんということ。ここで止まれない。
 私はこの幸せな家族を追い抜いて一目散に逃げ帰らなければ・・・。

 親切そうな父親が「邪魔だよ〜。」といって避けてくれた。

 帰る。帰る。

 あっという間に玄関のオートロック。ひとつ、ふたつ。
 エレベーター。
 部屋のロック。

 部屋に入ってやっと一息つく。


 別に彼女が私に危害を与えるはずがない。
 でも、私は知っているのだ。
 大人であって大人でない体の人たち。
 糞を持ち歩く人たち。

 昼間差別のない国に住む私の夜の恐怖。

 私は私の想像に恐怖したのかもしれない。
 でも、久しぶりに怖い目にあった。

 

 

男の子と女の子

 私の職場には小さいお子さん連れの方も多いので、お子さんが飽きないようにおもちゃが置いてあります。5分以上かかりそうなお客様で、お子さんが3〜4歳の方の場合に、私はたいてい一つが7、8センチくらいの木でできた動物の形の色も付いた積み木をお勧めしています。(ちなみに年齢がそれ以上の方の場合は紙と筆記用具を出して「こちらにご記入ください」というし、それ以下の方でしたらぬいぐるみやブロックを用意させていただきます。)

 最近はこの積み木の使い方の男女差がすごく面白くて、仕事をしながらお子様の行動に目が行ってしまうことがしばしばあります。

 もちろん、どのような使い方をしていらしても、おとなしくなさっていればこちらは一向に構いませんし、親御さんは手続きのほうに忙しいので、干渉する大人は一人もいない環境で、お子さんはそれぞれに楽しんでいらっしゃいます。

 女の子はふつうウサギとかゾウとか言いながらお母さんに見せたり、ご自分でごっこ遊びをしています。お気に入りの動物をずっと眺めたり動かしたりしながら、アクティブな方でも両手で動かしながら鳴きまねをしたりするくらいです。
 男の子も、小さい方はそんな感じです。でも4歳くらいを境に、男の子は圧倒的にこの動物の形をした積み木を高く積み上げ始めるのです!
 初めてこの光景を目にしたとき、正直私は驚きました。動物の形をしているのですから、積み上げにくいと思います。それを器用に大きさ順に足のほう下にしてどんどん積み上げます。そうして一番上に二本足のサルを積んで満足げに眺めるのです。

 しかし、ここに書こうと思ったのは、昨日家族で来られたお客様で、お母さんが書類の処理をなさっている間に、お父さんがまさにそのようにしてお子さんを遊ばせるように先導しているのを発見した時です。

 私が今まで目にしていた「男の子だからこうなんだ」は、ひょっとしたら男の子がお父さんと遊ぶうちに身についたのか、お父さんも男の子だからそうなのか。
 とにかく、動物の形をした積み木を「これは動物」という意識で見るのか、「これは積み木」という意識で見るのかという点において、男女差はあるのです。
 そしてこの発見は案外重要だぞ、って私は思ってしまうのです。