墨東紀行 夜桜編

いつの世も、美しいものは恋人たちの夢の中に存在します
私と同じにのぞき見の人も

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夜船のにぎやかさが、かえって桜の妖艶さを増すような
川面に映る明かりさえ、春には違って見えるものです

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すっかり舗装された桜の並木道は
古いものの時間と新しいものの時間の
違いを語っているようです

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精霊の守り人の神話考3

1     人は救われることができるのか

 今回ブログのアップが遅くなったのは、久しぶりに本格的に体調を崩したせいでもあるのですが、それよりなにより、ドラマの悪口はやめたかったのに、絶対に嫌だという場面にぶち当たってしまったからです。

 私にとって、「精霊の守り人」の冬ごもりのシーンは好きなシーンの中の一つです。冬穴に籠って過ごす日々によってチャグムはバルサの人生を知って大きく成長し、それとともに、バルサは昔の自分やジグロと向かい合うことができるという大切なシーンだからです。だから、ここで起きたことは後の物語にとって大きな起点になる部分なのです。

 バルサはドラマの中でジグロの臨終の時のことを回想します。

 「ジグロが殺してしまった8人の仲間たちを弔うために8人を助ける。だからジグロは安心して天国に行ってほしい。」とバルサが言うと、ジグロは「人を救うのは殺すよりもずっと難しい。自分はバルサを救ったとは思っていない。」といいます。そこまでは、ジグロらしいなぁと思って聞いていたのですが、そのあとジグロは「バルサとの生活は楽しかった。バルサの成長を見るのがうれしかった。自分はバルサと旅ができて幸せだった。」と言ってしまうのです。

 ジグロは、物語の中でも、アニメでも、決して幸せを口にしません。それは、たとえバルサを救うためだったとしても、自らの信念で人を殺す自分は幸せになる資格がないと思っているからです。

 しかも、ジグロは友との殺し合いをしている最中にも、心躍る自分を押しとどめることができないことも自覚しています。

 人を殺めることを楽しんでしまう自分の本性を一番よく知っているのは本人です。だからこそ、どんなときにもジグロは笑わないのです。心の底から笑うことができないようになってしまう怖さは、ドラマの2話中でバルサはのちに自らが手をかけて殺してしまうことになる用心棒の男から聞かされています。「人を殺すとその時から人生が変わってしまうのだ。」と。

 だから、死に際であっても、ジグロは自分の幸せは決して口にしないはずです。いくらバルサのこれからの人生のためだとしてもです。そんな理由で私は受け入れられませんでした。

 そう思って本を読んでみると、『夢の守り人』の最後の最後で、バルサはタンダにこういうのです。

「あれほどの思いをかけてくれたことを、わたしは信じられぬほどのしあわせだと思って生きるべきだったんだ。・・・・・好きな者をまもって生きることには、よろこびもあるんだから。あんな人生だったけどけれど、ジグロにも、そんなよろこびがあったと思いたい。

 チャグムをまもっていたとき、わたしはしあわせだった。他人のチャグムのために、死ぬかもしれない危険な闘いをしたけれど、それでも・・・・・・しあわせだったんだよ。」

 12話完結のドラマだと『夢の守り人』は省かれてしまうかもしれないと感じながら、『闇の守り人』でのジグロとの本当の別れを終えて、帰ったとたんに起こる奇怪な事件とチャグムとの再会を通じ、バルサが人生のしあわせを取り戻していく自分を自覚するこの場面は、私はとても重要であると思うのです。ジグロはしあわせだったとは言わなかったけれど、ジグロは自分と同じようにしあわせだったに違いないとバルサが悟ることができた。そのことで、バルサもジグロもどれだけ救われることか。

 「人は人を救うことができるんだ、しかも人を救うときにこそ自分が救われるんだ」というテーマは、精霊の守り人シリーズ全体に流れる血液のように感じます。

 

2     人間らしさとは何か

 精霊の守り人のドラマ作中で描かれる人物は、その中でも特に宮中の人々は、自らの欲に忠実で、しかもその欲望のために行動を起こすことにはまったく戸惑いを見せない、時にはコミカルといっていいほどわかりやすい人物像になっているように思います。実際私たちはけっして欲がないわけではありませんが、その行動を押しとどめる何者かの力によって、強欲と言われるほどの行動は抑制されます。

 一般的に、神は私たちのそんな愚かさを知り、たしなめ、時には罰する存在として君臨するものです。その神が王であるという国を作ってしまったことが、宮中の無秩序を呼び起こし、破滅を生むのだというのは、それもとてもわかりやすいように思います。

 一方、精霊の守り人における新ヨゴ国は、ナユグとサグという二つの世界の境界が怪しくなり、崩壊の道を歩んでいるということが物語を追うにつれ深い影になっていきます。こちらの滅びの影は天のなせる技のようなものなので、宮中の人々にも、それこそ無欲な市井の人々にも関係なく襲ってきます。

 そのうえ、この後国家間の争いも激しくなり、チャグムは否応なく巻き込まれていきます。

 普通のファンタジーの世界では、人を取り巻く環境がこれほど複雑に表現されることはないと思います。前回も触れましたが、複雑なネットワークの中で生きる人がどう生きるかは、どこと深くかかわるかでだいぶ違ってきます。しかし、宮中の人々は宮中という狭い世界にいるから狂っていっている、チャグムはそんな宮中から抜け出して外の世界に触れたから正気でいられるというのはいささか簡潔に考えすぎです。何かに触れ、感じ、心に描き、表現する。人が繰り返すこの無限の行動が人を作り上げていくのです。相手が人であれ、人以外のものであれ、何かに触れる限り人は繰り返す。それは自らを取り巻く環境に適応するため与えられた動物的な行動であるのかもしれない。しかし、私たちは肥大に膨れ上がった脳によって得られたあらゆる可能性を持っているのです。

 ドラマではあっけなく殺害されそうなサグム王子ですが、私はアニメのサグム王子が大好きでした。狭い宮中にあって、心を遠くに持てる人でした。

 人のそういう可能性を人間らしさというのは間違っているでしょうか?

 王の苦悩は自らが確固たる王として存続するためのものだけではないでしょう。伝統を重んじる重要性と孤独に耐えなければならない重圧、家臣の忠義を受けるためにあらねばならぬ人物像と自分とのギャップ、ましてや、人ではなく神であるという自分と神とはなにかという葛藤も。

 御簾の中でうなだれるアニメの中の王と、水晶玉を持って暴れまわるドラマの王。

 二人の王のどちらがらしいのかと考えたら、頭が痛くなりました。

 このらしさは人間らしさのらしさではなく、この物語の王らしさということです。

 そもそも人間らしさは何によって決められるのだろう。

 ひょっとしたら、そこには人間に対する期待度が大きく影響しているのかもしれない。期待度が薄ければたいしたことのない欲におぼれた人が人間らしく、期待度が高ければ清廉潔白な徳の高い人が人間らしく。そんな風に思えました。

 次回で第1部も終わりになります。

 いよいよチャグムの精霊の守り人としての最終試練の時が来ますね。ちょっとCGが心配でもありますが、楽しみにすることにします。

今年の桜はよい桜~♬

 3月30日に桜を撮りに横浜に行ってきました。

 お天気予報は晴天だったのにまたまた曇り。写真を真剣に撮るようになったら、曇り=明るい(明るすぎる!)っていう考え方に変わってしまいました。

 

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関帝廟狛犬さんはとってもユニーク

 

 

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まだ2,3分咲きだったのに風が強くて、咲きたての花たちに少し意地悪すぎないかって思いました。つぼみのピンク色がかわいらしくて、うまく撮れるといいなぁと思っていたんですが。

ついでに、花がよく揺れたから、私にもそうとう意地悪なお天気でした。

 

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大きなヤマザクラの木は子どもたちに大人気

たくさん子どもたちがかくれんぼしていたのですが、この子らは隠れていないでしょ!

 

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実は金網に張り付いて撮った写真です。

 

 

タイトルは、「今年のボタンはよいボタン~」にかけたんですが、元歌知ってる人いるかな?

 

精霊の守り人の神話考 2

1     3種類の人々

  「お前の王や神はもうどこにもいない。王や神だというものを信ずるな。」

 カンバルを出て新ヨゴ国に入るときに、ジグロはバルサにこう言い聞かせます。それはジグロにとっても同じこと。二人は神を捨てて自分たちだけの力で生き抜く覚悟で新ヨゴ国の土を踏みます。ドラマの中では、王子を救ったことで新ヨゴ国に捕らえられたバルサが、拷問の途中気を失っている間に新ヨゴ国に初めて足を踏み入れた時のことを回想しているシーンになっています。

 この場面は、物語冒頭にバルサという人物像を王が神である新ヨゴ国という国とともに紹介する、やや皮肉が込められた情景になっています。物語の『精霊の守り人』の中ではバルサが拿捕されるシーンはないので、特にドラマ用に作られたものであるようです。

 

 文化の古代的レベルにおいて、宗教は超人間世界、価値論的価値の世界への「入口」を維持する。これらの価値は、神もしくは神話の祖先によって啓示されたと考えているという意味あいで、「超絶的」である。それゆえ、それらは絶対的価値、すなわち全人間行動の範例を構成する。すでに明らかなように、これらの模範は神話によってもたらされる。神話は神の世界であれ、先祖の世界であれ、他界、彼岸を意識させ、それを保持するのにもっとも一般的で有効な手段である。この「他界」は超人間的、「超絶的」次元、すなわち、絶対的実相の次元である。聖なるものの経験―すなわち超人間的実相とのふれあい―こそ、なにかが真に存在し、そこで人間を導き、その存在に意味を与えることのできる絶対的価値があるという考えを芽生えさせるのである。そこで、実相、真理、意味の理念が初めて現れ、後に形而上学的思索によって仕上げられ、体系化されるのは、聖なるものの経験を通じてなのである。

 神話の明白で疑う余地のない価値は、周期的に儀礼を通じて再確認される。原初のできごとの回想と再現は、「未開」人が真なるものを判別、固持するのを助ける。模範的行為の絶え間のない反復の力によって、何かが宇宙の流れの中で動かず、永続的にみえる。かの時のできごととこの周期的反復は、なにかが絶対的に存在することを間違いなく確実なことにする。この「なにか」は「聖なるもの」、すなわち超人間的、超世俗的ではあるが、人間が体験できるものである。「実相」が顕われ、「超絶的」次元から構成されるままになるが、この「超絶性」は儀礼によって体験され、人間生活の主要部分をしめるにいたる。

エリアーデ著作集第7巻『神話と現実』 ミルチャ・エリアーデ せりか書房 1992年 pp158~159

新ヨゴ国の建国神話については前回も触れましたが、それは前述のアリアーデのいうように、国民を導きます。国民は祭りによって再現される神話を大勢で「聖なるもの」の体験として受け入れます。

*アリアーデのこの記述はこの後の展開もおもしろいので、あとで触れる機会があれば触れたいと思います。

 

 一方、原住民であるヨゴ人の宗教は自然とともにある、原始宗教的といえるものです。村長は存在するものの、支配・被支配関係がない生活の中で、宗教は生活の知恵として息づいています。このような場で伝承される物語が神話といっていいものなのか少し不安ですが、ここで人々の生活を支えていることには間違いないのです。

 問題は『精霊の守り人』という物語は、ナユグとサグという二つの世界にまたがった世界が描かれているため、超越世界が実世界に現実として干渉するので、ヨゴ人が言い伝えていることは事実で創造されたものではないということです。物語上も実際このことに直截触れることができる人間は限られているのですが、それは日本における八百万代の神々との世界観と同じなのかはわかりません。

 しかし、前述のアリアーデの世界観とは別だなというのはお分かりいただけると思います。おそらく、政治と宗教の関わり方の違いがそれらを大きく隔てているのだということも理解しやすいと思います。

 そして、その二つの宗教(観)とともに、神も王も持たないバルサという人の在り方も重要になってくるのです。

 

2     政治・宗教・そこに生きること

 人がそこに集団で生きていくということによって、自然発生的に政治は生まれます。その集団がどんな生活の仕方をしようと、集団のルールと秩序は必要になるからです。

 ふつうのファンタジーでは、王の政治理念が大きく取り上げられることが多いのですが、上橋作品中では各個人の政治理念を問うことが多く、それが彼女の作品の特徴であるといえると思います。王の政治理念、あるいは王に近い人々によって成り立つ政治理念によってある出来事が起こり、それが個人レベルに達するときに、各々がそれにどう対処するか。その対処によって物事がどう変わるか。王の命に背く人や物を撃退し人々に幸福をもたらす英雄譚でも、悪い王を排斥して新しい王として立つ勧善懲悪譚でもなく、そこで、その政治下で、生き抜くために人がどうするかということを丁寧に描いていくのです。そこに存在するのが個人の持つ政治倫理や宗教観になります。それは、その人の人生観になり、やがてはその人の生き方になります。そういう過程を丁寧に描くことにより、世界はよりリアルに近づいていきます。

 私たちが生きている世界は、それほど単純にできているのではありません。たくさんのクモの巣上に張ったネットワークの中に私たちは存在しています。その一本一本に関係していながら、私たちが直接的に関わるものはほんの一握りに過ぎません。大切なのは、そういう状況下にあって、常に自分である続けるということです。

 『精霊の守り人』をはじめ、この中に出てくる人たちは誰もがそれを自覚し、その中でも自分であるべくもがき苦しんでいます。その代表がバルサでありジグロであり、チャグムなのです。

 ドラマ2話で、バルサがチャグムにいうセリフに「生きてることを恐れるな。それが一番恐ろしい魔物だ。」というのがあります。そこに、この苦悩に苛まされるバルサという人間の心の声を私たちは聞きとらなければならないのです。運命に打ちひしがれるチャグムに、同じように運命に打ちひしがれて生きてきたバルサがはくセリフの重みと、それをジグロと生き抜いた強さを、このドラマは強調しています。

 そのことにことさらこだわる真意はどこにあるのか。次回はきっとそのあたりにも触れられると思うので、また来週を楽しみにすることにします。

 

写真についてくる物語たち

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写真を撮るときはついいろいろなところに入り込んで怪しいものを探してしまうんですが
街灯の裏手に見つからないように張ってあるシールがめっちゃかっこよくて
しかも、赤いインクの、指紋かな?付いちゃってるのはなんでだろう
それにしても、この字体、ぎょっとするほどおしゃれですよね




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シャワーオイルのボトルも色とりどりに並んでいるときれいだなぁって思って撮ったんですが
なんだか魔法の薬でも入っているように見えませんか?
実はいろいろな星の光を中に閉じ込めた
恋する女の子のためのキラキラ処方…だったりして




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ウィンドウの中のキッチンの生活感と
ウィンドウに映り込んだ通りを歩く人たちと
お店の中が
混在した感じが撮りたくて
結構粘って撮影しました

私は今一体どこにいるのでしょう?
って、考えたくなる一枚になっていませんか

カメラ持ってる私はさらに異界の人です




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大好きなシスレーの洪水の画みたいに撮れたので
お気に入りになりました
ホワイトモードを電球モードにすると
いつもの写真がぐっとおしゃれになるということを
教えてもらった一枚です




撮影場所は自由が丘界隈です
そんなオサレな街にはあまり行かないので
撮影がとても楽しかったです


このブログは
主にこんな感じでいけたらなぁと思っています
ご感想など、お気軽にいただけたらうれしいです

ポンキチ02

精霊の守り人の神話考1

1     複数のコードの存在と読み取り可能な領域について

 先日鳴り物入りで一回目の放送が始まったばかりのNHKのドラマ「精霊の守り人」ですが、原作に忠実というよりは、原作によって読み取れるものを、より現代日本という国で翻訳し直したような脚本になっていて、判断は人によると思いますが、私は、それはそれでおもしろいかもと思いました。

 今回のドラマがどのような過程で作られたにせよ、上記のような理由で、原作読者の中では原作とは少し違うなという違和感を持たれた方が多かっただろうと感じます。私自身は、物語の世界を忠実に描いた世界観が素晴らしいアニメ擁護派ですが、ドラマだけを見る人にとってはよりすんなりと理解しやすかったかもしれません。それは、この物語の現場となる新ヨゴ国を、現代日本的に読み替えたことによる成果であり、その作業が、精霊の守り人というファンタジー小説の神話性のコードを変換するという作業を経て成り立っていることに、私はとても興味深く感じました。

  脚本に起こすという行為は、単純に言えば書き物を語りに変換させる、つまり文学(文字)を演劇(口語)に変化させるということなのですから、文学の内容が神話に類似するようなものだった場合、当然そういうことは起こりえます。さらに、今回の脚本化にあたって、脚本家の大森氏は、インタビューの中で伊勢神宮へ行って‟日本の神様“を感じてきたと書かれていますので(NHK 「精霊の守り人」ホームページ内)その感じがそのままこのドラマに表れていることは不思議ではありません。ただ、どうしてこのドラマ中で宗教性のコード変換が表象することになったのかといえば、そこには、原作で描かれた精霊の守り人における新ヨゴ国の宗教性では、視聴者にドラマとして訴えかける何かが欠けてしまう、あるいは受け入れがたい何かが残ってしまうのではないかという発想があったのではないかと思われます。

神話が口語での伝承の際様々な変化を経て広がっていくということは過去の研究によって広く知られていることですが、新たな神話が生まれるような環境にはない現在において、このような事例を見られることはほぼないであろうと思っていました。しかし、ファンタジー小説のドラマ化という舞台で、原作に忠実な形で現代の人々に受け入れられやすいものを作るという名のもとに行われた疑似神話体系でそのことを発見できたことに、意外性と日本という土壌の不思議さを改めて感じました。

  例えば、宗教色の強いファンタジーの実写化には、過去に「ナルニア国物語」や「ロード オブ ザ リング」などがあります。これらの制作にあたって監督は原作になるべく忠実に、衣装や小道具に至るまで挿絵に近い形に再現しています。しかし、「精霊の守り人」の原作の世界観とドラマの世界観とはそのような神経質ともとれるような再現性は見られません。「精霊の守り人」という新ヨゴ国建国神話を中心に描かれる物語が、物語の中で読み取り可能な神話のコードを用いて、場所や登場人物ごと変化していくような様子を、私としては興味深く見ていますし、そこには原作者の上橋氏の原作出版20年という節目での挑戦の意思すら感じずにはいられません。

 

2     レヴィ=ストロースのコード

「あらゆる神話は、ひとつの問題を提起し、それが他の問題と類似していることを示して処理する。あるいは、複数の問題が互いに類似していることを示して、同時に処理する。映し出された像がまた他の像へと送り返されるという、この鏡の戯れが、現実の対象に照応することはけっしてない。より正確にいえば神話的思考が複数の言表を並べることによって浮彫りにされる不変の特性が、対象に実態を与える。たいへん単純化していえば、神話とは「それは、・・・・・と同様」「それは・・・・・・のようである」という手法によって定義される論理演算システムなのだ。常軌をこえたもの、矛盾、不祥事は、思考や感情にとってよりなじみやすい、ある秩序の明らさまな構造が現実の他の相において顕在化したものとして描き出される。それによって、特定の問題の解決にもならないひとつの解決が、知的な不安、さらには生きていることの苦悩をしずめる。

神話的思考はしたがって、複数のコードを用いて操作するというその点にその独自性がある。それぞれのコードが、経験のひとつの領域から潜在的な特性をとり出し、こうしてその領域と他の領域との比較が可能となる。ひとことでいえば、それぞれの領域を相互に翻訳することが可能となる。ひとつの言語のみではほとんど理解不可能なテクストが、同時に複数の言語に訳されると、おのおのの異文から読みとられる、部分的で歪められた意味以上に豊かで深い意味が、複数の異文から浮き上がってくることがありうるのと同じように。

 だからといって、ひとつの神話が、可能なすべてのコード、その神話の属する神話群から抽き出しうるすべてのコードを用いているということにはならない。神話は、連立方程式のようにも見える。ただその未知数は、けっして明晰に解かれることなく、伏在する方程式が解けるかもしれないという幻想を与えるように選ばれた具体的な値を用いて、近似されるだけである。その選択は、無意識の合目的性によって導かれているとはいえ、選択の対象になるのは恣意的かつ偶然的な歴史の遺産のみであり、そのため出発点において何が選ばれるのかということは、ひとつの言語を構成する音素がどう選ばれるかということと同様、説明不可能である。そればかりでなく、環境、歴史、文化の提示する諸コードから何が選ばれるかは、ある神話もしくは、ある特定の神話群がみずから解こうとする設問との関わりのなかで決まる。どのようなコードでも、いかなる場所でもかまわず用いられると思ってはならない。」

クロード・レヴィ=ストロース 『やきもち焼きの土器つくり』 みすず書房1997年新装第1版pp241~242

 

今回の「精霊の守り人」における神話コードの読み直しを考えるにあたって、参考にしたのは上記のようなレヴィ=ストロースの考え方です。神話の連立方程式の解として望むものXやYについて、現在日本に住む私たちの共通経験における共通理解上にあるという条件を置けば、作り上げることのできる公式はそれほど難しいものにはなりえません。

また今回の私の試みは、解であるX,Yを求めるのではなく、変化の解として現れたX,Yを用いて方程式(らしきもの)を導き出すことです。それはファンタジー小説という疑似神話体系だからこそできる技法ですが、そのことから方程式を見つけ出すことは、神話を無くした私たちにとっての神話とは何かを考える大きなヒントになるはずです。

 さて、「精霊の守り人」という物語の読者たちは、この物語は新ヨゴ国の創世神話に纏わる読み直しとやり直しの物語であるということを知っています。創世神話は国王の神性と絶対性を高めるため書き換えられ伝承されている一方、消えかけた原住民における神話の継承の中には本当のことが記されています。物語は、国を大干ばつから救うために、この二つの神話を巡って真実と事実の間を右往左往することになります。

 今回、私が扱うのはこの二つの神話の変遷についてではありません。その創世神話が、書き換えられた新たな神話になる、つまり、チャグムが無事に精霊の守り人としてニュンガ・ロ・イムの卵をラルンガから守り抜き、孵化させることで干ばつから国を救う新たな神話に書き換えたこの物語全体を、さらに、ドラマとして書き換える過程において用いられた方程式を求めることを目的としています。

 変化していく神話の物語を語ったファンタジー小説の中の神話性、という大変複雑な作りにはなってしまいますが、要は物語全体の変化とその理由を巡る理論ということになります。

 ここまで大変長くなりましたが、ここに至る理由としては上記の通りです。

 

3      変化したものたち

 ドラマを見た人ならだれもが感じたのこと。それは王室の誰もが人間的であるということだと思います。アニメでは、王をはじめ、お妃、星読み博士、誰もが人間離れすることを義務付けられ、人としてではなく神や神に近いものとしての生活を義務付けられた王室というイメージでした。しかし、ドラマの中では人間味のある設定に変更されているように思いました。

王族の目を見ると下賤のものは目がつぶれるという設定の下、王族が謁見の時に着けていたアイマスクのような覆いも無くなっていました。二の妃は星読み博士のガカイに対してまるで愛人のような女性の態度をとり、ガカイもまた妃に馴れ馴れしい態度で接します。

中でも一番違和感があったのは、王の二の妃がトロガイ氏と接点を持ったことに対して怒りを露わにするシーンです。王が水晶玉のようなものを持って二の妃を苦しめる姿は、神に近い王というよりも呪術師のようでした。自らは手を下さないと言いながら、二の妃の側近を目の前で突き落とさせる場面では、もはや人間以外の何物にも見えない怒りが全身を覆い、かえってそのことで、王が怒りの化身にでもなったかのように見えました。

トーヤが夏至祭りでの王が神のようであったと表現するシーンでは、王はまるで演じるかのように高楼に立って風を呼び、その姿を人々に見せつけることによって威厳を誇示するようでした。ところが、一切はチャグム(の中の精霊)がしていることだった。この時の王のチャグムを見る目は今後の王とチャグムの関係を示唆しています。

 さて、このように王室を神から人に近づけた意図は何だったのか。

 それは、神という存在の設定自体が、「遠い・清い・白い・超自然的な」というイメージから「近い・混濁した・人間的な・自然な」というイメージに近づけることによる変化であるように思います。この変化をどのようにとらえたらいいのか。

 さらに、その変化に及んだ人間的な王室の人々の中にあっても、原作と変わらずに貫かれている宗教性とはどんなものなのか。

精霊の守り人という物語は、ヤクーという原住民の自然の神とともにある自然宗教的な生活と、ヨゴ人の王を神とまつる神道的な生活の二重性も重要な肝になっているように思います。神道的な神とその神の体系によって支配を受けることを人が嫌うという判断であるならば、今回のような変化も頷けます。ただし、それは物語的にはヤクーの宗教との対比にどれだけ耐えられるかにかかっているように思えます。

 次回はおそらくヤクーの宗教性に強くコミットする回になると思われますので、そちらの変化も見ながら、もう少し深く考えていければと思います。