2018年の抱負  ― ルールとディシプリン ―

 あけましておめでとうございます。

 いつもきていただいてありがとうございます。昨年は実はインプットを多めにしたせいで考え込んでしまうことも多くなってしまい、なかなかブログ更新できない中、こんな内容のブログなのにたくさんの方に見に来ていただけてとてもうれしかったです。

 

 このところ(年のせいかもしれませんがw)独りよがりな考えが多い事にも自分なりに葛藤があって、今年は少し外へ出ていろいろな方とお話が出来たらいいなぁと思っています。昨年から毎週お世話になっているお三方とももう少しちゃんとお話をしたい…。

 

 さて、去年の始まりのごあいさつに危機感については散々書かせていただいたのですが、政治的には騒ぎがあっても変化はなく、バブルが来たらしいといってバブルを懐かしむという変わった光景にもびっくりすることもなく、戦争の気配さえ感じられる日があったりして、今年は昨年より明るい道がさらに遠ざかっているように思えます。薄暗さや不安に反発するために社会全体が無理やり別の方向をみようとしているようにも見えないでもありません。そんな中「不感症なのに過敏」という、それは生理的には違うのでは…と思える病気がそこいらじゅうに蔓延してしまっているように感じます。人間は同じ病気ならば多感なのに鈍感であったほうがはるかに生きやすいはずで、私が育った下町などは昔はそんな人たちの集まりでした。しょっちゅう誰かの何かに対して心配したり喜んだり怒ったりしながら、でも多少触られてもなに?っているような、残酷ではあるけれどとにかく触れることはできていたので、そこではまだ感情の範囲で処理できる人間関係であったように思います。

 

 不感症なのに過敏である人間関係は、まずは触れられない。そして触ったとしても理解できない。残酷ではないのかもしれないけれど、そこに何も生まれない荒涼な世界が広がっているようです。そういう世界が出来てしまった背景には、おそらくいろいろなことに疲れてしまって残酷さに耐えられる余裕がなくなってしまったことが大きく影響しているのだろうと思います。平和に、穏便に生活することで安らぎを得ることはとても大切なことです。だからそうなろうとすることが悪いことであるはずがありません。でも、普通の人は生きることはそれでは済まされないこともよくわかっている。しかも周囲に敏感にならなければ自らに危険が及ぶかもしれないと察知させられるような環境がある。だから不感症なのに敏感になるのです。結果、誰かに対して理解ができなくなって不安の種ばかりが大きくなる。そういうディレンマに晒されなければならなくなってしまうほど疲れてしまったのはなぜなのだろうと悲しくなり、そして自分なりに相手を思いながらできる対処法を考えることにしました。

 

 まずは疲れないようにする。これは私が言うと怒る人がいるのであまり声を大にして言えないのですが、手を抜けるところは手を抜こう。

 

 そしてもう一つは、自分ルールは作る。でも自分ディシプリンは作らない。要するに、ある物事に対する適切な対処法についての判断はルール、つまり場合においてするものにして、規範、つまり自己支配してしまうような範疇の規則性から除外するということです。ルールがディシプリンからできることもあるので明確な使い分けは難しいのですが、とにかくその場その場できちんとルールは作っていこう。そして、そのルールが適応できない場においては、そこでまた考えていこうという方法です。

 実を言うと社会性とか精神性とか一貫性とかいう問題が次々出てくることが予測されますし、一方通行で相手方に迷惑がかかる場合も大いに考えられます。そこについてはもう一度自分の中で立て直していきたいという気持ちが大きいのです。ルールを作っていくうえできっと思いがけないことを発見することも、自分の嫌な面を直視する場面も出てくるように思います。それがねらいでもあります。

 

 今更何をと言われても仕方がないのですが、一年の初めですからバカみたいでも少し大き目な目標を立ててもいいかという気持ちになりました。

 

 さて、最初の今年のルールは本を整理して目録を3か月以内に作るにします。

 これはその、去年の課題の続きなので書いておいて自分を追い詰めるやつです…。

 

 

 こんな私ですが、本年もよろしくお願いいたします。

 また是非ブログに立ち寄って、できれば楽しんでいってください(^^)/