番外編 エンデ『AだからBという関係性を超えて』ブログの向こう側 ―いぶりぃさんに質問!―(3)

 いつもブログを見に来ていただいてありがとうございます。

 前々回の続きを掲載させていただきます。

 

いぶりぃさん④

 お返事ありがとうございます。

 バスチアンが読んでいる『はてしない物語』のファンタージエンが虚無に飲まれたとしても、ファンタージエンが保持されるべきとの解釈は興味深く読ませていただきました。一つ考えていただきたいと思う点は、ならばなぜファンタージエンの住人が虚無に飲まれると虚偽になるのか、という点です。ポンさんの解釈ですと、この虚偽はバスチアンにとってだけの虚偽ということになるのではないでしょうか。もっとも、一人ひとりの人間が自分のファンタージエンを壊すことで、虚偽を世界にまき散らしているという解釈もそれはそれで面白いかもしれませんけれども。また、水=失われた記憶を飲むという解釈も興味深いと思います。一方で、こう解釈した場合、アウリンは力をふるうと同時に自身の中に記憶をいわば貯蔵する装置のように解釈されるように思えます。そうすると、アウリンを身につけた時、バスチアンとアトレーユで異なる働きをしたことに対して、どう一貫した理解をするのかという点が問題になってきそうに思います。

 想像力の具現化ということですが、確かにモノとしての具現化はされていないと言えるかもしれませんが、この人間であることとファンタージエンの住人であることの差異は最も特徴的な仕方で示されているように思います。それが「名付け」、あるいは「新しい物語を語る」という行為です。これは生命の水を飲んだあとのアトレーユが、バスチアンに対して唯一驚異を示した能力でもあります。その意味で言えば、アマルガント図書館はある種の具体化と言えなくもないですが。

 もう一点、媒体の問題について一つ指摘させて頂きますが、ファンタージエンに行く媒体は本であるとは限らないと思います。事実、コレアンダー氏は最後の場面でのバスチアンとの会話の中でこういいます。「本だけではなく、ファンタージエンに行って帰ってくるほかの可能性も存在する。」また、ポンさんは簡単に行けるとおっしゃいましたが、ぼくにはそうは思えません。確かに、後半の大冒険に比べれば地味かもしれませんが、前半のバスチアンもある種のクエスト(冒険)を体験していると言えるように思います。そして、最後の最後の瞬間、エンデが言うようにバスチアンは無の中に飛び込むわけで、これを簡単に行けるというのはかなり疑問です。

 『モモ』についても一点指摘させて頂きます。ホラは時間を作ってはいません。あなたが時間を作っているの?というモモの問いにホラ自身「わたしのつとめは、人間のひとりひとりに、その人のぶんとして定められた時間をくばることなのだよ。」と語っています。

申し訳ありませんが、自己的・他者的な段階ということで、どういうことをおっしゃっているのかよくわからなかったので、よろしければもう少しご説明願えればと思います。永遠なものは常に降り注いでいる、とのご指摘には同意します。エンデも、もう一つの別の世界とは啓示のようにときに現れるものではなく、常にそこにあるものだといいます。問題は、常に降り注いでいるものを受け取るためには準備がいるということです。いわば、器を作るということであり、Bildungビルドゥング(教養/形成)ですね。エンデ自身、古典的な教養小説だと言っていますが、『はてしない物語』で言えば、バスチアンのファンタージエンを旅するクエストというのは、自己形成の道であって、それは必要な旅なわけです。単に、永遠なものは常に降り注いでいるというだけでは、あれらの旅はそれ自体不必要なものであるということになりはしないでしょうか。

 以上になります、説明不足な点等あればまたご指摘頂ければと思います。よろしくおねがいします。

 

Ponkichi④

 いつも鋭いご指摘ありがとうございます。とても勉強になります。

 いぶりぃさんの初めのご指摘ですが、なぜファンタージエンの住人が虚無に飲まれると(現実世界の)虚偽になるのかというのかということについて私なりのご説明をさせていただきますと、ファンタージエン自体は今まで蓄積された誰かの想像力によって維持されてきた世界であり、その世界の次なる創造主として入ることになったのがバスチアンだと思っています。そして、ファンタージエンが虚無に飲まれている理由は、ファンタージエンのような想像の世界に入り込んで、その世界で遊ぶような人間がいなくなってしまったという事になります。ただし、ファンタージエンという世界自体は〈はてしない物語〉という本を媒体として入り込めるもので、本は選ばれた人間の手に渡るようになっているのだろうと考えていました。しかし、今までのいぶりぃさんとのお話を通じて、ファンタージエンへの道筋は本を通してだけとは限らないかもしれないとは思いました。ただし、このお話の中心に幼ごころのきみがいて、彼女が王国の創造主を選択して働きかけていると考えると、やはりそれは限定されたものにならざるを得ない気もします。例えばこのお話ではファンタージエンの世界だけれども、このような世界が複数あって想像世界と人間世界を繋ぎ、お互い支え合うようにできていると考えていることもできそうですし、ファンタージエンがすべての想像世界の核であると考えるとすると、もっと複数の人が協力してこの世界を支えるお話にするほうが説得力もある気もしています。もうお分かりかもしれないと思いますが、私はファンタージエンはバスチアンの国でありバスチアンが完結しなければ終わらない世界だけれど、いろいろな想像主の国同士は想像の世界で繋がっており干渉しあっていると考えます。そして、この部分においてはモモの世界とは完全に解釈が違っています。なぜなら、モモの世界の表現では、モモの行き来が多大に現実に関りを持つ部分や、他者が影響を受けている部分を垣間見ることができるからです。バスチアンの世界で変わったのはバスチアン自身であり、父が変化することも、本やの主人が変化することもありませんでした。ただ、バスチアンが変化することで彼らの対応も変わったというお話になっています。現実世界から見ると、はてしない物語は英雄が世界を救う物語ではなく、バスチアンが自分自身を救う物語であるので、はてしない物語とモモの二つの物語はその意味合いにおいては別のものです。ただし、ファンタージエンの世界でバスチアンがファンタージエンを虚無から救ったこと自体は、想像世界同士が繋がりを持って広く現実世界と関りを持つとすれば、バスチアンの想像世界も現実世界に影響を持つのは当然ですから、そう考えることで私はバスチアンの行動は現実世界においても重要であったと考えています。

 そうご説明させていただければ、いぶりぃさんのご質問にはだいぶお答えできると思います。アトレーユは前にも言わせていただいた通り私の考えではバスチアンが自分の理想の人として設定した人物ですから、同じアウリンをかけたとしてもバスチアンの理想の人としての行動をするはずです。

 さて、なぜ私が泉の水を想像力と考えるのか、そのことについて詳しくお話させていただきます。以前頂いたいぶりぃさんの論文からノヴァリースの一文を引かせていただくと「自己形成〔教養〕の最高の課題は、先験的〔超越論的〕自己を我がものとし、同時に自己形成の主体たる自我の自我となることである。」と言う部分の、並列性によって成り立つ自己というのに自分なりに拘っているからだと思います。〈先験的自己〉という場合、それはカントでいえば認識論的立場であり現象ですね。現象としての自己。この部分において聖なるものの存在はとても重要で、私という現象を正しい道に導いてくれる道しるべです。しかし、この部分だけでは現象としての自己で収まってしまいます。現象としての自己が私としての存在を確定的にするには、別にどうしてもそれを実行できる経験の中の私が必要になります。それが〈自己形成の主体たる自我の自我〉になり得る自己であるように思うのです。つまり、先験的自己と経験的自己との両立がなければ、実体的な自己は存在しえないという考え方です。その考えが私の中心にあってエンデの物語を読んでしまうので、いぶりぃさんとは意見が異なる部分が多くなってしまうのだろうなと感じています。そういう読み方で行くと、あの場所に成長できる私がいるためには、聖なるものと目に見えない〈現象的な私〉と目に見える〈経験的な私〉が必要になってしまいます。この部分は私の私見によるところが大きいので、エンデの正しい読み方から外れてしまっているかもしれません。もしそうならば、是非ご指摘をお願いいたします。

 モモの時間のお話も、まず自分がいなければ時間もないというところで、マイスター・ホラが時間を作れない理由はすごく納得していますし、個人の時間を個人に与えるとはそういうことなんだなぁと改めて考えました。

 自己的・他者的という表現は適切でなかったと反省しています。この部分はまだ自分で考えが纏まっていなかったので申し訳なかったです。おそらく自己的=現象的、他者的=経験的という説明がしたかったのだと思います。

 また分かりづらいかもしれませんが、ご指摘よろしくお願いします。

 

いぶりぃさん⑤

 お返事遅くなってすいません。Skypeでお話したことの繰り返しになると思いますがご了承ください。

 ファンタージエンの多世界説というのは、確かに興味深い解釈であるように思います。また無理のない解釈にすることも可能なような気が致します。しかし、現状のポンさんのご説明だと多少無理があると思える点がいくつかあるように思います。まず、前回の虚偽についての質問と関係するのですが、「バスチアンのファンタージエン」という独立した世界で生まれた虚偽が、(場合によってはバスチアンと無関係な)他者に影響を及ぼすということをどう説明するのか、という点です。また、これも以前指摘したことですが、作中でバスチアンが旅するファンタージエンに、はるか昔シェイクスピアが旅をしていたことが暗示されているということです(バスチアンはおそらくシェイクスピアを読んだことはなかったのではないでしょうか)。要するに、ポンさんがいうところの「バスチアンのファンタージエン」が、バスチアン以外の人間とのかなり明確な繋がりを感じさせる箇所を、各ファンタージエンの独立という発想とどう折り合わせるかがポンさんの解釈の難点であるように思います。

もう一点、挙げるとすれば幼心の君の存在です。ファンタージエンとは、幼心の君によって/通して存在し、幼心の君とはファンタージエンそのものですらあると作中では語られていたと思います。さて、多世界的なファンタージエンにおいて幼心の君は一人なのでしょうか、複数いるのでしょうか。一人だとするならば、彼女の王国とは一体なんなんのでしょうか。貫世界的な存在として幼心の君が存在すると言えそうな気もしますが、そうすると病に蝕まれる幼心の君とはなんなのかという疑問も同時に出てくるようにも思えます。もう一つ付け加えると、ポンさんはバスチアンを創造主とお書きになっていますが、ファンタージエンの創造主は幼心の君であることが明確に書かれています。その点で、改めてバスチアンというより、人間の子どもの力(名付けの力)と彼らの望み/意志をファンタージエンの中で実現する幼心の君の力とを区別したほうが良いように思います。

 アトレーユとバスチアンの二人にとって、アウリンの作用が異なるという点ですが、もしアトレーユがバスチアンの理想像であるがゆえに、アトレーユがあのように行為できるというのであれば、アウリンの有無は何か意味がある違いになるのでしょうか。例えば、化け物の国ではアトレーユはアウリンを持っていませんでした。しかし、グモルクと対峙したときも、アトレーユはやはり―ポンさんの言い方でいいますと―バスチアンの理想像であるように振舞っていたのではないでしょうか。単に、バスチアンの理想像であるからということでは、この作用の違いを説明できないように思います。

 ノヴァーリスの断章の解釈については置いておきますが(ちなみに、その断章は「であるからには、他者に対する感性や理解が十全でないのも、異とするにはあたらない。完全な自己理解がなければ、他者を真に理解することはできないであろう。」と続きます。)、ぼくがポンさんのお考えをきちんと理解できているかわかりませんが、Skypeで伺ったお話と今回のお返事を合わせて考えたとき、こう言えるのではないかなということを書かせて頂きます。ポンさんがおっしゃるような「現象的な自己」は「鏡の中の鏡にはなにが映るか?」という古老の問いにおける鏡ではないでしょうか。この自己を追いかけて行くと、合わせ鏡のプロセスの中で無へと解消されてしまうようなものとしての鏡です。しかし、エンデにとってはこのプロセスの中、この無の中に飛び込むこと、この無の中にこそ真に人間の本来的な力があるわけです。その意味では、エンデ自身の考えとの比較という意味においては、ぼくの見解では「現象的自己/経験的自己」というだけでは、道具が足りないかなという印象です。

 以上、繰り返しになるので簡単ではありますが、お返事させていただきます。

 

 いかがでしたでしょうか。私の考えは少し飛び超えすぎていているかしらと思いつついぶりぃさんにご質問させていただいたのですが、さすがにすぐにエンデに話を戻して収集していただけたので助かりました。こういうところが長時間きちんと取り組まれている方との違いだと思います。実はいぶりぃさんのお話の通り、最後のお返事の前に2時間ほどお話しさせていただいてたくさんのお話を聞くことができたので、今はその流れで『鏡のなかの鏡』を読んでいるところです。もうお読みになっていらっしゃる方ならお分かりかもしれませんが、これがまたすごい曲者で、30篇の作品が鏡に映る鏡のような関係性を保ちながら連なっていくというものです。一篇一篇の意味を追いながら前後の関係や全体の関係を読み解くのはなかなか大変で苦戦しています。またお話を伺いながら少しでもエンデを理解できるといいなぁと思ってるところです。

 

いぶりぃさん(@iwri)のブログも更新されました!

http://d.hatena.ne.jp/iwri/20170611/1497194138

 

何かを理解するための道のりというのははてしないなぁと思います。