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「彼らが本気で編むときは、」感想文 ― トランスジェンダーと母性 ―

「追い出して」と、サラはアブラハムに近づきながら声をはりあげた、「あの奴隷と子どもを追い出してください」

 アブラハムは妻のほうをむいた。

 彼女は夫の返事も待たず、しゃべりつづけながらやってきた。「あのエジプト人の荒々しいけもののような子が、イサクといっしょに遊んでいるのをみたのです。イサクをうやまおうともしないで。まったく。これでは将来が心配です、アブラハム、わたしはゆるせない。あの女奴隷の子は、わたしの子のイサクと同じように跡取りにしてはいけないのです」

 アブラハムは言った、「あの子もわたしの息子なのだ」

 サラはじっと立ったままアブラハムをみつめた。かすかな風が彼女の白髪をなびかせていた。サラが話すときの声はしゃがれていた。彼女は自分のやさしさと気づかいを言葉にこめた。「どちらの息子を主なる神はわたしたちに約束されたのでしょう。そしてどちらの息子を主なる神はおあたえになったのでしょうか」

 

ウォルター・ワンゲリン著 中村明子訳 『小説「聖書」旧約編』 徳間書店 p22

 

トランスジェンダーについて

 「彼らが本気で編むときは、」は気になっていながら、もたもたしていたらもうすぐ上映が終わってしまうということで、慌てて映画館に見に行ってきました。何が気になっていたかと言うと、「かもめ食堂」等の萩上直子監督作品であり、主演のトランスジェンダーの女性を生田斗真が演じ、その相手役が桐谷健太という、人気が出そうな要素が多いわりにそれほど注目されていないことでした。理由としては、ちょうど上映時期が重なってしまった「ラ・ラ・ランド」の影響が大きそうだし、それでもすごくいい映画だろうという直感が私にはありました。

 

 いざ映画館に行ってみると、9割がた女性客の映画館の客席では、序盤からずっとすすり泣きの声が止みませんでした。なぜなら、映画は終始切なさでいっぱいだったからです。

 

 トランスジェンダーで性転換手術を受けているヒロイン、リンコ役の生田斗真さんの演じるリンコは、何もかも一度受け入れてから自分の中で噛みしめて殺すタイプの女性で、緩慢な動きのなかにも優しさが溢れていて、とにかく性格がいいのです。それなのに、トランスジェンダーだということで理不尽な目に何度も何度も遭わなくてはならない。その理不尽さや、自分は本来の性に逆らうという罪を背負っているのではないかというそこはかとない後ろめたさを、ただただ編むことによって供養し、消化させる姿に、本当に心を打たれます。

 もちろん、そんな風に過ごしていられるのは、本人の性格の強さに加え、そのすべてを受け入れ守ってきた彼女の母親の溺愛と言えるほどの愛の支えや、桐谷健太さんの演じる恋人がいてくれるからです。

 

 それでも、世間から見れば(ただの女装した男性としての)異質の存在で、それは彼女がどんなに努力しても世間が変わらなければ変えられないことです。トランスジェンダーの方たちにとっては皆に当てはまるであろうその根本的な差別という問題を、残酷と思わせずに悲しいと思わる雰囲気がずっと作品の根底に流れています。

 

 そういう表現はおそらくそう簡単にできるものではないのですが、その悲しさを私たちに伝えられる力を持った作品に仕上がっていて、それゆえに、見せられる側はずっと泣かざるを得なくなるのです。

 幸せなはずなのにどこか悲しい。楽しいはずなのにどこか悲しい。優しいはずなのにどこか悲しい。つらいはずなのに悲しい。本当につらいはずなのに悲しい。

 

 切なくて悲しくて、こういう作品は初恋と同じでどこか愛おしくなる。脚本もご自分で手掛けた荻上監督の、トランスジェンダーを表現するのにこういった作風にできる実力にも、その難しい演技を見事に演じ切って作品に仕上げることにできた俳優陣の演技力にも、心を持っていかれたように思います。

 

母親について

 映画のパンフレットがすごくよくできていて、それだけで言いたいことのほとんどは語り尽くされている感じがしました。なので、私が言いたかったことを少しだけ。

 

 今回は作品を今までの作風のように癒し系にさせないために、監督が意図して作中に込めていること。それは母と子の親子間の壮絶な関係性を描くことです。母性はあるがままにしておけば子を縛り付け自由を奪いますし、母性が足りなければ愛情を欠くことになります。それに母親自身は人間なので、その時々の自らの置かれた環境によって、行動を制約できたりできなかったりします。

 

 作中に出てくる母親たちは、それぞれそれらの事柄に翻弄され、自らの不安定な立ち位置に戸惑いながら、常に何かを決定しながら生きています。その決定事項に子どもはもろに影響されてしまうのだからたまったものではありません。とくにこの作中では父親の影をわざと薄くしているので、余計にそういう構造になっています。

 

 主人公のトモの母親はシングルマザーで、仕事の忙しさもあって家事が行き届かず、コンビニのおにぎりを食べさせて子どもを育てています。そのうえ、家出をしてはあからさまなネグレクトを行使してしまいます。そんな親の元で育っていても、頼ることのできる大人である叔父の存在があるので、彼女は自身を何とか保つことができています。今回は叔父のもとに身を寄せるとそこにリンコが同棲していたために、リンコを通じて違う母性に出会うことになります。

 

 リンコはこの作中では、おそらく一番女性らしい母性を持ち合わせていながら女性の体を持つことができなかった、完成された不完全な母性の持ち主です。しかも、彼女は子どもを生むことはできません。トモを育てることになってその不条理を思い知ることになったリンコの母性も、また美しいようで歪んでいます。

 

 トモはそんな母親たちの母性の間を揺れながら、現実を受け止める子供です。大人が子育てについて夢見がちなのに、子供が現実的なんて不思議ですが、実際子どもを持った途端女性の母性は夢見がちになるかもしれないと経験から私も思います。そして、現実を見られなくなった母親にとって、子どもは子供になってしまう。

 

 そのことについても、トモに現実を生きさせながら、その母性の夢の残酷さを、これは現実的な痛みとして、また同じような悲しみとして表現しているのですが、その悲しみが子どもの柔軟性と第三者の与えてくれる喜びによって消化されていく様も美しく描かれています。子どもならではの抗い方も、トモの人間性を魅力的に見せてくれます。

 

 振返ると、扱っている内容が内容なので、難しくないようで難しい作品だったと思います。でも、映画のいいところは、それを難解にせずに私たちの中に残る形で見せてくれることができるところなので、改めて映画鑑賞の素晴らしさを感じることができる作品でした。

 

 映画館で見られるのもあとわずかみたいなので、ご興味があれば是非足を運ばれるといいと思います。その際はハンカチとティッシュをお忘れなく。