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「秋の底が抜ける」ことについて ―私と物質と二種類の想像力―

1     大森荘蔵の自然感

 先日ツイッターで、今年は秋の話題をあまり聞かないという話をしたら、satoruさんがお知り合いの僧侶のかたが「秋の底が抜け始めましたなぁ」とお話しされていたという話題を教えてくださって、それはどういうことなのか考えたら、わりと面白くなってしまって、その時は「きっと同じ季節を語りあう人がいなくなれば、秋も通り過ぎられてしまうということかもしれない」と思い、そういうお答えをしたのですが、ひょっとしたら、もっとおもしろいことになっているのかもしれないぞと不謹慎ながら思ってしまいきちんと考えてみることにしました。

 活きている物と自然感

 物と自然は昔通りに活きている。ただ現代科学はそれを死物言語で描写する。だがわれわれは安んじてそれに日常語での活物描写を「重ね書き」すればよいのである。ここで大切なのは、その日常言語による活物描写は、「自然」そのものの活写であって、われわれの「内心」の描写ではない、ということである。陰うつな空とか、陽気な庭とかいうとき、陰うつや陽気は私の「心の状態」ではなく、空自身の、庭自身の性質なのである。無常非情の空や庭が私の内なる心に陰うつとか陽気な「感情」を引き起こす(これがデカルトの二元論の考えである)のではなく、空や庭そのものが陰うつさや陽気さをもっているのである。空の青さや庭の明るさが空や庭自身のものであるように。一言でいえば、空や庭は有情のものであり、誤解を恐れずにいえば、心的なものなのである。

 そのことは単に情緒や知覚についていえるだけではなく、記憶、想像、感情、意思、といった、いわゆる「心の働き」のすべてについていえると私には思われる。それをここで精しく述べる紙数がないのでそれを仮定する。つまり、「心の働き」といわれているものは実は「自然の働き」なのである。心ある自然、心的な自然が様々に(感情的、過去的、未来的、意思的、等々)立ち現われる、それが「私がここに生きている」ということそのことに他ならない、こう私はいいたいのである。

 かりにそういえるとすれば、私と自然の間に何の境界もない。ただ私の肉体とそれ以外のものに境界があるだけである。自然の様々な立ち現れ、それが従来の言葉で「私の心」といわれるものにほかならないのだから、その意味で私と自然は一心同体なのである。当然、〈主観と客観〉と従来いわれてきた分別もない。〈世界と意識〉という分別もない。これは禅的な意味や神秘的な意味での「主客合一」とか「主客未分」とかいうこととは全く別のことである。ごく当たり前の日常生活の構造そのものの中に主観と客観、世界と意識といった分別がない、ということだからである。ごく当たり前の日常生活の構造そのものの中に主観と客観、世界と意識といった分別がない、ということだからである。四六時中そうなのである。

 感性を取り戻すということ

 これがわれわれの祖先がもっていた感性に近いのではないかと私には思われる。そしてこの感性は、以上述べてきたように近代科学と少しも矛盾しない。矛盾しないどころか近代科学の進展に連れそうべきものなのである。それを迷わしたのがガリレイデカルトの水先案内だったのである。しかしわれわれ現代人は生まれてこの方、ずっとこの迷路の中にいる。骨の髄までこの迷路が入り込んでいる。それゆえわれわれの祖先がもっていた感性を取り戻すのは一朝一夕にできることではない。それは入信したり、改宗したり、棄信したりするのに似て、理屈の上のことではなく、理屈を含んで全生活を変えることだからである。自然観、人間観、政治観、文学観、芸術観、倫理観、人生観、等々のすべてを改変し、それを実生活の中で実践することだからである。当てずっぽうではあるが、現代文化が基本的に変化するとすればこの方向ではないかと私には信じられる。

 本書で試みたのは、この変化は可能であり、また近代科学の路線の本来あるべき道であるということを示すことであった。

大森荘蔵著  『知の構築とその呪縛』 ちくま学芸文庫 pp237~239

 

 引用に『物と心』を使わなかったのは少しずるいかなと思いながら、こちらを使わせていただきました。

 大森荘蔵のこの考え方は確かに最近の最新の哲学の中に生きていると思います。自然と私たちを隔てる壁を築き、人は自分の中の自分(偽装された自然)に住まうことを選択した。それを進歩と呼べばそうなのかもしれないし、後退と呼べばそうなのかもしれない。(欧米では特に)文化と呼ばれるものだったのかもしれない。そこのところをもう少し深く掘り下げて考えていきます。

2    物質と想像力

   私たちはこう言おう、他でもないこのしかたで事物が存在しなければならない理由が存在すると信じているあいだは、私たちはこの世界をひとつの神秘にするだろう、なぜならそうした理由が私たちに与えられることは決してないのだから、と。しかしながら私たちはそこから発して、今まさに私たちを支配している事柄にたどり着く―必然的な理由を要求することは、たんに、イデオロギーのまやかしや理論的な逃げの結果ではないのだ。というのも、実のところその要求は、事実論に対する一見したところ決定的な反論にもとづき、動機づけられた拒絶に由来するのだから。その反論は、もし私たちが思弁的な歩みに最小限の信頼性を保証したいのならば、明確にして正確に反駁しなければならないものだろう。

 その反駁というのは、次である—事物のみならず、自然法則までもが実存的に偶然的であると主張するのは、馬鹿げていると思われる。なぜなら、もしもそれが真だとするならば、自然法則は、いかなる理由もなしに、実際にいつも変化していることが可能なのだと認めねばならないであろうから。

カンタン・メイヤスー著 千葉雅也、大橋完太郎、星野太訳  『有限性の後で』 

人文書院pp138~139

 

 この本は、私など読みこむほど難しくなる感が大きいのですが、この部分で言われている、物事はすべて偶発性によってできているという理論は、現代哲学の根幹をなす新しい形(ある規則性によって事物がそこにあるという理由を探し求める永遠の体系=形而上学の呪縛からの脱出)を試みる挑戦として面白く読ませていただきました。

 ただ、偶然にあるものと偶然にいる自分との関係を思うとき、そこにある自然に、〈なにもない〉ではなく〈なにかが生まれる〉と思うとき、私たちの中に発生する感情や情景が(それが夢だとしても)自分自身を鮮やかに色づける化学変化を起こしていると私は思うのです。それが大森のいう「私の心」であるとすれば、そこで生まれる心の鮮やかさがこそが、私だけの私であるといえるのではないでしょうか。

 秋の底が抜けたのは、偶然性に〈なにもない〉を組み込ませすぎた現代人の病かもしれない。そこにある自然について自分の中に〈なにかを生ませる〉技術は、きっと私たちの中ごく普通に組み込まれている自然の一部なのだろうにと思ったりするのです。

 

 われわれの精神がもつ想像する能力は大いに異なった二本の軸に沿って展開する。

 一方の能力群は新しさからその飛翔力をとりだす。つまり絵画的なもの、多様な変化、思いがけない出来事から楽しみをとりだすのだ。この能力が刺激する想像力はいつでもひとつの春を描きだす。自然の中で、この能力はわれわれから遠く離れて、しかもすでに活発になっており、さまざまな花を生みだすのである。

 他方の想像する能力群は、存在の根底を掘り進む。それは存在の中に原始的なるものと永遠なるものを同時に見いだそうとするのだ。こちらの能力群は季節と歴史を支配している。それは自然の中に、われわれの中でも、またわれわれの外でも、さまざまの萌芽を作りだしている。その萌芽の形体はひとつの実体の中に埋め込まれており、その形態は内在的である。

 これをまず初めに哲学的にいうとすると、ひとは二種類の想像力を区別できるということになろう。ひとつは形相因を活気づかせる想像力であり、他のひとつは質料因を活発化する想像力である。あるいはもっと手短にいってしまえば、形態的想像力と物質的〔質料的〕想像力である。簡約したかたちで表現されたこの新しい概念は、詩的創造の完全な哲学的研究のためには、実際に不可欠であるとわれわれには思われるのだ。作品が多彩なことばと光の変幻する生命をもつためには、感情の動機、心情の動機が形相因にならなければならない。しかし、想像力の心理学者がじつに頻繁にもちだす形体のイマージュのほかに―われわれがこれから示すように―物質のイマージュ、物質の直接のイマージュが存在するのである。イマージュに名前をつけるのは視覚だとしても、イマージュを認識するのは手なのである。それらのイマージュにダイナミックな喜びが触れ、捏ね、軽くする。こうした物質のイマージュを、人々は実体的に、こころの底で夢想する、しかも形体、滅びやすい形式、むなしいイマージュ、表面での生成を遠ざけながら。物質のイマージュたちはひとつの重さをもっており、それらはひとつの芯をなしているのだ。

ガストン・バシュラール著 及川馥訳 『水と夢』 法政大学出版局 pp1~2

 

 

 バシュラールは想像力を二つに分類して、物質に対する直接的な想像力の存在をここで強く説いています。

 それらは、私たちの中で作り替えられ重さを持ち芯をなすということ。つまりは、私たちにとって、物質をただの物質から意味のある物質に変化させる大元であるといっていると私は思っています。そのことについて、私たちはあまりに無頓着であったのかもしれない。人工物に囲まれすぎて、その利便性や美しさへの干渉と制作は、ここでいうところの前者の想像力の産物であり、後者の想像力がたとえ生まれたとしても、捏ねたり、手に取ったりするようなことをしてみているだろうか。

 そう考えると「秋の底が抜ける」という意味に近づけるのではないかと思うのです。

 

3    これからの自然と物質について

 

 科学を愛さないとしても、あなたたちは多分、世界の諸事物を愛しているのではないだろうか?年代確定されたその詳細が、私の肉体と同じようにあなたたちの肉体を貫いているのだ。政治や、古い人文科学や、アカデミックな文化は、そのことをほとんど気にも留めていなかった。まるで私たちが、室内や人々のうちで、都市の公的な温室の中で、闘争の純粋なスペクタクル、スペクタクルの純粋な闘争のまえで自分たちだけが暮らしているかのように、われわれの狂った日々の実践によって、外的で、大量で、単一で、不明瞭なものになった一つの自然に無関心だったのである。こうした冷淡さに、自然はこの数十年のあいだ復讐をしているように見える。また他の何十年間かには、もっと致命的な復讐を仕掛けてくるだろう。

 ここにあるのは、愛すべき、人類の文化であり、それは逆に世界の事物から出発し、そしてそこへと帰還してゆくのだ。私たちとして(comme nous)。自然と文化の婚姻である。

ミシェル・セール著 清水隆志訳 『作家、学者、哲学者は世界を旅する』 水声社 p151

 

 

私は、バシュラールのお弟子さんであるセールの言葉としてこれを読むことにとてもふかい感慨を覚えます。自然の復讐とセールはいうけれど、私たちこそは自然の一部なのですから、バシュラールのいうような想像力を持って接する世の中に変わっていける。そして、「秋の底が抜ける」ような事象も眼と手を使って防ぐことが出来ると私は信じています。

二種類の想像力のバランスこそが世界を救う手立てになり、自然と離れた契約など始めからできることなどできない人間にとって、生きにくさから解放される唯一の手立てであろうかと強く思います。

 

※ 追加 

 われわれが物質のもつ美の概念について考察を始めたとき、すぐさま驚いたことは、美の哲学の中に物質〔質料〕因が欠如していることだった。なかでも物質の個別化する能力が低く評価されているように思われた。なぜ人々はつねに個体の概念を形式の概念と結びつけるのであろうか。物質を、その最小の分割部分においても、つねにひとつのまとまりとしておくような深い個別性は存在しないのであろうか。物質をその深さの遠近法に立って考察するならば、物質はまさしく形体から分離しうる成分となりうるのである。物質は形相活動のたんなる欠如態ではない。物質はあらゆる変形、あらゆる細分化にもかかわらず、それ自体としてあり続けるのだ。それどころか物質は二つの方向で価値定立化される。ひとつは深化の方向、そしてもうひとつは飛躍上昇の方向である。深化の方向をとると物質は、測りえないものとして、ひとつの神秘的なものとして現れる。飛躍の方向をとればひとつの奇跡のように、汲み尽くしえない力として現れる。いずれの場合も、ひとつの物質についての深い考察は、開かれた想像力を鍛えるのである。

ガストン・バシュラール著 及川馥訳 『水と夢』 法政大学出版局 pp3~4

  バシュラールのこの言葉の真意を私たちはもっと深く思うべきかもしれない。どうしても、人は人の思う通りに〈物質=自然〉を自由自在に変幻させられるという勘違いから抜けられなくなっているように思います。自分自身の中の自然を自分自身の壁の中に押し込めた病と、自然に対する想像力を偏らせてしまった功罪は軽くないようには思います。

 私が思い悩むのは、逃げないことをどうすれば皆が受け入れることができるだろうかということです。自分の中の自然から逃げないこと。あらゆる想像から逃げずに見つめること。そうでなければきっと自然は私たちへの浄化という名の復讐をやめないだろう。そういうことが可能なのだろうか。

 セールの予言はそのことへの諦めを示しているように思えてならないのです。