精霊の守り人の神話考1

1     複数のコードの存在と読み取り可能な領域について

 先日鳴り物入りで一回目の放送が始まったばかりのNHKのドラマ「精霊の守り人」ですが、原作に忠実というよりは、原作によって読み取れるものを、より現代日本という国で翻訳し直したような脚本になっていて、判断は人によると思いますが、私は、それはそれでおもしろいかもと思いました。

 今回のドラマがどのような過程で作られたにせよ、上記のような理由で、原作読者の中では原作とは少し違うなという違和感を持たれた方が多かっただろうと感じます。私自身は、物語の世界を忠実に描いた世界観が素晴らしいアニメ擁護派ですが、ドラマだけを見る人にとってはよりすんなりと理解しやすかったかもしれません。それは、この物語の現場となる新ヨゴ国を、現代日本的に読み替えたことによる成果であり、その作業が、精霊の守り人というファンタジー小説の神話性のコードを変換するという作業を経て成り立っていることに、私はとても興味深く感じました。

  脚本に起こすという行為は、単純に言えば書き物を語りに変換させる、つまり文学(文字)を演劇(口語)に変化させるということなのですから、文学の内容が神話に類似するようなものだった場合、当然そういうことは起こりえます。さらに、今回の脚本化にあたって、脚本家の大森氏は、インタビューの中で伊勢神宮へ行って‟日本の神様“を感じてきたと書かれていますので(NHK 「精霊の守り人」ホームページ内)その感じがそのままこのドラマに表れていることは不思議ではありません。ただ、どうしてこのドラマ中で宗教性のコード変換が表象することになったのかといえば、そこには、原作で描かれた精霊の守り人における新ヨゴ国の宗教性では、視聴者にドラマとして訴えかける何かが欠けてしまう、あるいは受け入れがたい何かが残ってしまうのではないかという発想があったのではないかと思われます。

神話が口語での伝承の際様々な変化を経て広がっていくということは過去の研究によって広く知られていることですが、新たな神話が生まれるような環境にはない現在において、このような事例を見られることはほぼないであろうと思っていました。しかし、ファンタジー小説のドラマ化という舞台で、原作に忠実な形で現代の人々に受け入れられやすいものを作るという名のもとに行われた疑似神話体系でそのことを発見できたことに、意外性と日本という土壌の不思議さを改めて感じました。

  例えば、宗教色の強いファンタジーの実写化には、過去に「ナルニア国物語」や「ロード オブ ザ リング」などがあります。これらの制作にあたって監督は原作になるべく忠実に、衣装や小道具に至るまで挿絵に近い形に再現しています。しかし、「精霊の守り人」の原作の世界観とドラマの世界観とはそのような神経質ともとれるような再現性は見られません。「精霊の守り人」という新ヨゴ国建国神話を中心に描かれる物語が、物語の中で読み取り可能な神話のコードを用いて、場所や登場人物ごと変化していくような様子を、私としては興味深く見ていますし、そこには原作者の上橋氏の原作出版20年という節目での挑戦の意思すら感じずにはいられません。

 

2     レヴィ=ストロースのコード

「あらゆる神話は、ひとつの問題を提起し、それが他の問題と類似していることを示して処理する。あるいは、複数の問題が互いに類似していることを示して、同時に処理する。映し出された像がまた他の像へと送り返されるという、この鏡の戯れが、現実の対象に照応することはけっしてない。より正確にいえば神話的思考が複数の言表を並べることによって浮彫りにされる不変の特性が、対象に実態を与える。たいへん単純化していえば、神話とは「それは、・・・・・と同様」「それは・・・・・・のようである」という手法によって定義される論理演算システムなのだ。常軌をこえたもの、矛盾、不祥事は、思考や感情にとってよりなじみやすい、ある秩序の明らさまな構造が現実の他の相において顕在化したものとして描き出される。それによって、特定の問題の解決にもならないひとつの解決が、知的な不安、さらには生きていることの苦悩をしずめる。

神話的思考はしたがって、複数のコードを用いて操作するというその点にその独自性がある。それぞれのコードが、経験のひとつの領域から潜在的な特性をとり出し、こうしてその領域と他の領域との比較が可能となる。ひとことでいえば、それぞれの領域を相互に翻訳することが可能となる。ひとつの言語のみではほとんど理解不可能なテクストが、同時に複数の言語に訳されると、おのおのの異文から読みとられる、部分的で歪められた意味以上に豊かで深い意味が、複数の異文から浮き上がってくることがありうるのと同じように。

 だからといって、ひとつの神話が、可能なすべてのコード、その神話の属する神話群から抽き出しうるすべてのコードを用いているということにはならない。神話は、連立方程式のようにも見える。ただその未知数は、けっして明晰に解かれることなく、伏在する方程式が解けるかもしれないという幻想を与えるように選ばれた具体的な値を用いて、近似されるだけである。その選択は、無意識の合目的性によって導かれているとはいえ、選択の対象になるのは恣意的かつ偶然的な歴史の遺産のみであり、そのため出発点において何が選ばれるのかということは、ひとつの言語を構成する音素がどう選ばれるかということと同様、説明不可能である。そればかりでなく、環境、歴史、文化の提示する諸コードから何が選ばれるかは、ある神話もしくは、ある特定の神話群がみずから解こうとする設問との関わりのなかで決まる。どのようなコードでも、いかなる場所でもかまわず用いられると思ってはならない。」

クロード・レヴィ=ストロース 『やきもち焼きの土器つくり』 みすず書房1997年新装第1版pp241~242

 

今回の「精霊の守り人」における神話コードの読み直しを考えるにあたって、参考にしたのは上記のようなレヴィ=ストロースの考え方です。神話の連立方程式の解として望むものXやYについて、現在日本に住む私たちの共通経験における共通理解上にあるという条件を置けば、作り上げることのできる公式はそれほど難しいものにはなりえません。

また今回の私の試みは、解であるX,Yを求めるのではなく、変化の解として現れたX,Yを用いて方程式(らしきもの)を導き出すことです。それはファンタジー小説という疑似神話体系だからこそできる技法ですが、そのことから方程式を見つけ出すことは、神話を無くした私たちにとっての神話とは何かを考える大きなヒントになるはずです。

 さて、「精霊の守り人」という物語の読者たちは、この物語は新ヨゴ国の創世神話に纏わる読み直しとやり直しの物語であるということを知っています。創世神話は国王の神性と絶対性を高めるため書き換えられ伝承されている一方、消えかけた原住民における神話の継承の中には本当のことが記されています。物語は、国を大干ばつから救うために、この二つの神話を巡って真実と事実の間を右往左往することになります。

 今回、私が扱うのはこの二つの神話の変遷についてではありません。その創世神話が、書き換えられた新たな神話になる、つまり、チャグムが無事に精霊の守り人としてニュンガ・ロ・イムの卵をラルンガから守り抜き、孵化させることで干ばつから国を救う新たな神話に書き換えたこの物語全体を、さらに、ドラマとして書き換える過程において用いられた方程式を求めることを目的としています。

 変化していく神話の物語を語ったファンタジー小説の中の神話性、という大変複雑な作りにはなってしまいますが、要は物語全体の変化とその理由を巡る理論ということになります。

 ここまで大変長くなりましたが、ここに至る理由としては上記の通りです。

 

3      変化したものたち

 ドラマを見た人ならだれもが感じたのこと。それは王室の誰もが人間的であるということだと思います。アニメでは、王をはじめ、お妃、星読み博士、誰もが人間離れすることを義務付けられ、人としてではなく神や神に近いものとしての生活を義務付けられた王室というイメージでした。しかし、ドラマの中では人間味のある設定に変更されているように思いました。

王族の目を見ると下賤のものは目がつぶれるという設定の下、王族が謁見の時に着けていたアイマスクのような覆いも無くなっていました。二の妃は星読み博士のガカイに対してまるで愛人のような女性の態度をとり、ガカイもまた妃に馴れ馴れしい態度で接します。

中でも一番違和感があったのは、王の二の妃がトロガイ氏と接点を持ったことに対して怒りを露わにするシーンです。王が水晶玉のようなものを持って二の妃を苦しめる姿は、神に近い王というよりも呪術師のようでした。自らは手を下さないと言いながら、二の妃の側近を目の前で突き落とさせる場面では、もはや人間以外の何物にも見えない怒りが全身を覆い、かえってそのことで、王が怒りの化身にでもなったかのように見えました。

トーヤが夏至祭りでの王が神のようであったと表現するシーンでは、王はまるで演じるかのように高楼に立って風を呼び、その姿を人々に見せつけることによって威厳を誇示するようでした。ところが、一切はチャグム(の中の精霊)がしていることだった。この時の王のチャグムを見る目は今後の王とチャグムの関係を示唆しています。

 さて、このように王室を神から人に近づけた意図は何だったのか。

 それは、神という存在の設定自体が、「遠い・清い・白い・超自然的な」というイメージから「近い・混濁した・人間的な・自然な」というイメージに近づけることによる変化であるように思います。この変化をどのようにとらえたらいいのか。

 さらに、その変化に及んだ人間的な王室の人々の中にあっても、原作と変わらずに貫かれている宗教性とはどんなものなのか。

精霊の守り人という物語は、ヤクーという原住民の自然の神とともにある自然宗教的な生活と、ヨゴ人の王を神とまつる神道的な生活の二重性も重要な肝になっているように思います。神道的な神とその神の体系によって支配を受けることを人が嫌うという判断であるならば、今回のような変化も頷けます。ただし、それは物語的にはヤクーの宗教との対比にどれだけ耐えられるかにかかっているように思えます。

 次回はおそらくヤクーの宗教性に強くコミットする回になると思われますので、そちらの変化も見ながら、もう少し深く考えていければと思います。