死者に手向ける花の話 (ブレードランナーとホライゾン 番外編)

  1. 手向けられた花

 

 ホライゾン・ゼロドーンにはいくつかの収集アイテムがあるのですが、その中の一つに〈鉄の花〉というのがあります。鉄の花は機械が異常行動をし始めた頃から各所に見られるようになった文字通り鉄でできた一輪の大きな美しい花です。なぜか三角形の形に植えられた(本物の花の)花壇のぽっかりと開けられた中心部分にあって近づくとぱっと咲きます。そして採集するとその一輪一輪にそれぞれ別の詩のデータが入っているのです。

 

 最後までプレイすることでこのお話の要であるAIガイアの生みの親であるエリザベト・ソベックの墓らしきものがやはり三角形の花囲いの中にあることがわかるので、これはおそらくガイアがソベック博士の死を悼んで手向けのために作ったのではないかと推測できます。アーロイの世界では鉄の花はその美しさゆえにお金持ちに人気のコレクションアイテムになっているようで、アーロイはその辺境に点在する花の収集を商人に依頼されるのです。

 

 さて、花を手向けることで印象的なシーンはブレードランナー2049の中にもありました。Kがサッパー・モートンの農場の死んだ木の根元に一輪の小さな花を見つけたときのことです。おそらくその花はモートンがレイチェルの墓に手向けたもので、花を不審に思ったKはその土の下にレイチェルの死体の入った謎のコンテナを発見します。くしくも花が見つかったことがレイチェルの死の尊厳を奪うことにはなるのですが、「希望を持ったことがあるか」というKへの問いかけや写真、ピアノに隠された子供用の靴下などから、花を手向けていたモートンの心情について、死者への愛情や尊敬、あるいは崇拝等々いろいろと想像できます。

 

 生きているうちに近しい関係にあれば亡き者への愛着があるのは当たり前ですし、家庭にある仏壇に花が生けられている風景が原風景になっているようなこの国以外でも、墓に花を手向ける様子は万国共通に見られるように思います。しかし、当たり前となったこの行動がいったいどこから来るのかについては無意識の中に入り込んで、本当のところなぜ花を供えているのかということについては案外考えなしに行われているのではないでしょうか。

 

 ではなぜ死者に花を手向けることがどうしてこんなにも特別に扱われるのでしょう。

 

 ご存知の方も多いと思いますが、発掘されたネアンデルタール人の死体のそばにあった大量の花粉から、その花こそ人が死者に手向けた最初の花ではないかといわれています。これには否定的な見方もあるようですが、太古の人類が死者に花を手向ける光景を思い浮かべるとき、手向けた古代人の死者への愛情に思いを馳せないではいられません。

 死者への情愛が花を手向けさせる唯一の理由ならば、花は手向ける側の人間の愛の形であると言えます。愛の形として花をプレゼントすることは日常的に、もちろん生きている人相手にでもよく見られる行為です。ただし、墓前に花を手向ける行為はプレゼントするのとは意味を異にします。それは「手向ける」という語を使用している点においても指摘できるように思います。

 「手向け」とは供物を供えるという事です。生活の場から宗教への場に移行していくのはどの状態からかというのはとても難しい問題ですが、相手が死者になると明らかに宗教的な意味合いを感じられるようになります。それはたぶん、実在しないものの存在を見つめて行われる行為だからです。それでは、宗教的に花を手向けるということはいったいどんなことなのでしょう。

 

 1、供犠の材料。 供犠を動物的な獻物と植物的な獻物とに分つことは獻物―衣服武器宝物などのような奉納供進とは別個の―の主要物が食べられるものから、そして実際人間の食物の中心を形づくっている種類のものからとられることを意味している。これはレビ記の法律に於て正確にそうなっている。

 

W.R.スミス著 永橋卓介訳『セム族の宗教 後編』p13 岩波文庫

 

 

 いろいろと調べてみたのですが、古代の宗教において供犠に使用された花に対する記述を見つけることが出来ませんでした。調べられた限りでは神への貢物として相応しいものは自らの血肉あるいは血肉になり得るものということになっており、そこには神に対する絶対的な忠誠を感じさせられます。そして、上記の記述を見ると献花は奉納献進の一部であって神聖さにおいては一段下がるように思わされます。

 一方で、日本大百科全書の供花の頁に「仏あるいは死者に供える花のこと。供華とも書き、「くうげ」ともいう。仏教は発生当初から花と深くかかわっていて、教典にもその功徳が説かれ、花は仏の供養の第一とされた。」とあります。

 なぜセム族が神々にとって花は血肉に劣るとし、なぜ仏教がそうしなかったのかは詳しく調べればもっとおもしろくなりそうなのですが、少なくとも仏教においては、血肉にならない花に血肉になるものと同等の価値を明確に与えていたという事になります。

 ではそこにある花の価値とはいったいなんでしょうか。

 

  1. 花の価値

 二.自然

 人間が、感覚の把えるさまざまの対象をまとめてある共通の名称で呼び、それを自分と対置してみようと考え及ぶまでには長い年月がかかったことであろう。訓練すれば発達はめざましい。そして、およそ発達をとげていく場合には、ちょうど光線の屈折に比較できるような、分割と分岐とが生じる。そのようにわれわれの内面も徐徐に分岐を重ね、かくてこのように多様な力が生じてきたわけで、さらに不断の訓練を怠らなければ、この分岐もますます進んでいくだろう。もし後世の人々が、精神のこのように錯乱した色彩を再び混ぜ合わせて、随意にもとの単一な自然状態を復元したり、あるいは、これらの色彩の間に新しい種々の結合を作り出したりする能力を失っているとすれば、それはひとえに、彼らの資質が病的になってしまったためかもしれない。そうした結合が鞏固であればあるほど、あらゆる自然物やあらゆる現象はいよいよ渾然と、いよいよ完璧に、いよいよ個性的に、その結合の中へ滔々と流れ込む―けだし、印象のありようとは五感のありように呼応するものだからだ。これ故に、かの昔日の人々には、万物が人間的で馴染み深く、親しいものに思えたはずだし、彼らの目には最も鮮やかな特性がそのままに映じたに違いなく、彼らの表現はことごとく真の自然の息吹であり、彼らの表象は周囲の世界と一致し、その世界そのものの忠実な表現になっていたに違いない。従って、外界の事物についてのわれわれの父祖の思考とはすなわち、当時の地上の自然状態の必然的な産物、あるいは、その自画像だとみなすこともできるし、またとりわけ、万有を観察するために最もふさわしい道具としてのこのような思考を見ると、その万有の主たる関係、すなわち当時の人々に対する関係、また、人々の万有に対する当時の関係がはっきりと判るのである。

われわれの知るところによれば、まさしくこの最も崇高な問いに当時の人々の注意が真っ先に向けられ、彼らはこの驚異に満ちた建物の鍵を、あるときはあれこれの現実の事物の中に求め、あるときは未知なる感覚がつくり出した対象の中に探した。ここで注目すべきは、そろいもそろって、その鍵は流体とか気体とか無形のものの中にあると彼らが予感したという事実である。おそらくは、固体の不活潑さと無器用さが、それが従属的で一段低いものだという考えをひき起こす誘因になったのだろうとしても、あながち意味のないことではなかろう。だが、たちまち、一人の考究型の人間が、こうした形なき力や海から、形あるものを如何に説明するかという難問にぶつかった。彼はこの難点を一種の集合という考えによって説こうとした。つまり、最初の始まりを形ある個体の微粒子だとし、しかも想像を絶するほどの小さいものと想定して、こうした微粒子の海からこの壮大な建物が築き上げられうると考えたのである―とはいえ勿論、これらと共に作用するさまざまの思考的存在、すなわち、惹き寄せまた突き放す諸々の力の助けが無かったわけではない。

 さらに時代を遡ると、科学的な説明のかわりに、共同の職匠としての人間や、神々、動物などといった不思議な比喩的な姿に満ちたメルヘンや詩が存在して、そこではきわめて自然に世界の生成の歴史が述べられているのがうかがえた。少なくとも、世界が偶然に道具によって発生したのは確かだと聞いているが、想像力の産み出す放恣な産物を軽蔑する人にとっても、この観念は十分意味のあるものである。世界の歴史を人間の歴史とみなし、何処を向いてもただ人間にかかわる事象や状態しか見ないという態度は、さまざまな時代に繰り返し新しい装いで現われる不滅の観念となって、驚くほどの影響力をもち、容易に人を納得させ、常に優秀であったようである。それに、自然の偶然性ということも、言わばおのずから、人間の個性という観念に結びつき、また、その個性たるものは人間の本質なりと、ごく単純に理解されてもいるらしい。このことからしても、詩が真に自然を愛する人の最も好個の道具になりもし、詩の中にこそ自然の霊は最もあからさまに顕現するのでもあろう。真の詩を読んだり聞いたりすると、そこに自然の内的知識が蠢き、あたかもそれが天使のように自然の只中にも自然の上にも漂っているのが感じられる。自然研究者と詩人は「一つの言語」を用いることによっていつも「一つの族」であるかのようにふるまってきた。前者が全体的に蒐集し、大まかな整然たるまとまりのうちに示したものを、後者は人間の心を養うための日々の糧や必需品に変成し、あの広大無辺の自然を細分して、さまざまの小さな好ましい自然へと造形した。詩人たちが果敢なく流れゆくものを心軽やかに追い求めていったのに対し、自然研究者たちは鋭利なメスで自然を部分に切り分け、その内部構造や関係性を探ろうと試みた。彼らの手にかかるとあの親しげな自然は死んでしまい、そこにはただぴくぴくと痙攣する屍しか残らなかった。これに対し詩人の手になると、まるで芳醇な葡萄酒を飲んだときのように、自然は一段と生気を帯び、いとも神々しく晴朗な思いつきを聞かせてくれ、日常的な生活圏を越えて、天まで翔っては舞い踊り、予言を語って、いかなる客人をも愛想よく迎え、喜ばし気にその財宝をばらまくのだった。こうして自然は詩人と一緒に天国のようなひとときを楽しむが、自然研究者を招じ入れるのは、病気になり従順になったときだけである。こういう場合には、自然は彼らのどんな質問にも答えてやり、この生まじめで厳格な人を尊重するのにやぶさかではなかった。だから、自然の心情を本当に知ろうと欲する者は、詩人たちの中にそれを尋ねなければならない。そこでは自然は身を開き、玄妙なるその心を吐露してくれるのである。だが、自然を心底愛することなく、もっぱら自然にあれこれの点を見つけては驚き、これをただ見聞しょうとのみ努める人は、自然の病室や納骨堂を小まめに訪れなければならない。

 

ノヴァーリス著 今泉文子訳 「ザイスの弟子たち」

『ドイツロマン派全集第二巻 ノヴァーリス』pp256~258 国書刊行会

 

 

 ここでノヴァーリスを長く引用させていただいたのは、花を手向けることは自らにある複雑な胸の内を花という自然の作り出した集約された美に重ねて献上するということであり、そこには自然が集約することができる美に対する人の敬虔さも現れていて、それはちょうどノヴァーリスが自然と語り合うことで自然の声を聞き、その声を分断することなくある種の統合性を選んで表現することは可能であるし、それができるのは詩の言葉であろうというのに似ていると感じたからです。

 鉄の花に俳句や詩が入力されていたことは単なる偶然ではなくて、ガイアが手向ける花に思いを込めるのにそれらがふさわしいと考えたからでしょう。ノヴァーリスが示した自然へのあるべき態度と人間の複雑さを簡単に包み込んでしまう自然とそれを表現できる詩という芸術への理解をガイアというAIにさせようとした意味の奥深さについて考えずにはいられませんでした。鉄の花が美しい風景が見える高台に花を設置されていたのも偶然ではありません。それが花のある場所にふさわしいと考えられたからです。

 

 鉄の花を作っていた時のガイアのことを考えると、おそらく孤独な中で困難にも見舞われ、ソベック博士の死にも順応しきれなかったのかもしれません。逃避の直前、自らの存在の危機を感じながら、「もう一度あなたの声が聞きたかった」と言って消えたホロスコープもとても印象深かったです。

 そういった状況に晒された時に何が心の支えになるのかというスタッフの思いで鉄の花は作られたのだろうかと思うと更に考えさせられました。

 

 先日、今はAIの作成にあたってフレーム理論からオントロジーに移行している話を聞いてなるほどなぁと思いました。統合する精神というものはどうあるべきかという課題について、きちんと向き合わなければならない時代なのだと思います。

 

 美と自然についてはもう一つヘーゲルを読まなくてはと思っているので、また何か書けるといいなと思っています。

 あと、自然と芸術については実はシェリングも参考にしたかったのですが完全に勉強不足なのでもう少し勉強して書き足せたらと思っています。

 

 またとりあえずで申し訳ありません!

 とりあえずおしまい