ブレードランナーとホライゾン❷  ― 科学と精神の分離について ―

 ホライゾン ゼロ・ドーンは狩場クエストクリアを諦めたので、その他のクエストは二月の頭には終了することができました。後半のストーリー展開はいよいよアーロイの出生の秘密に迫るものでしたし、様々な冒険を続け心ならずも英雄となってしまったアーロイの心中を思うと、仲間を得て心強くなったものの常になにか痛みを抱えているようで、前半程のびのびとプレイできない感じを持ちました。物語の終盤が見えてくるころによく訪れるこのカタルシスが作品の価値を引き上げるということを知っていても、なかなかそれを楽しめるほどに成長しない自分は困りものだとも思います。

 映画である「ブレードランナー2049」とゲームの「ホライゾン ゼロ・ドーン」を比較して、SFに出てくる近未来と人間のことを考えてみようと思ってこのブログを書き始めたのですが、思いのほかホライゾンが多くの情報量をゲームに盛り込んでいたので、何を書いたらよいかとても悩みました。最近のゲームのストーリーというのは、フィールドが広がって自由度が増した分、様々な地域でサブキャラクターとの関係性を築くとそちらのお話も広がっていってまた別の物語が様々な地域で展開されるというような多様さがより増しています。そのお話がメインストーリにも反映されていく展開は「分岐」には違いないのですが、一つ一つのストーリーが緻密になっているので、まるでメインキャラクターの人格形成がその経緯によって変化しているように体感してしまうようなところがありました。

 映画はもう完成された一つのストーリーを追いながら主人公の体験を遠くから眺めて考えてみたり、自らに重ねてみたりするものですから、そのあたりのギャップが更に広がっているように思います。「動かす」ことによる感情の移入度が、ゲームのフィールドの緻密さに関係してこうした感覚が深まっているのかもしれません。そのために、別段なにか表現されている場でなくとも「アーロイがこうなってきている」と身近に感じてしまうのだと思います。私はよく観劇している時にそういう感覚を持つことが多いのですが、このところそういった感覚をゲームをプレイすることによって得られることが増えているように感じます。身体がある〈場に触れる〉ことにより生じる仮想世界へ入り込みの問題はVRの発達によりより深く考察されるようになっています。空間と身体の関係性を変化させる状態がどの時点から起こっているのか、そしてそれは何によってどう変化するのかは本当に興味深い問題です。

さて前置きはこの辺りにして…

 

コード化と精神の苛立ち

 コード化が行う客観化は、一貫性というものの論理的統制の可能性、つまり形式化の可能性を導入します。それによって、明示的規範性の確立、つまり文法なり法なりの確立が可能になるわけです。言語とはコードであるとよく言われますが、それがいかなる意味においてであるかが、明確に述べられることは滅多にありません。実は厳密に言えば、言語自体がコードであるわけではないのです。言語は、情報図式体系のほとんど法的なコード化に他ならない文法によって、コードとなるにすぎないのです。言語がコードであるなどと述べるのは、この上ない〈詭弁〉fallacyつまり、研究対象たる人びとがしていることを理解するためにこちらが意識しておかなければならないものを、当のその人びとの意識の中に据えつけてしまうという詭弁を犯すことになります。外国語を理解するには文法を習得せねばならないという口実で、まるで当のその言語を母国語として話している人びとが文法に従っているかのように、とらえてしまうわけです。コード化とは、性質の転換、存在的分身の転換であり、それは、実践的状態で使いこなされている言語的図式から、法的な作業に他ならないコード化の作業によって、コードに、文法に移行する際に行われている転換なのです。このコード化の作業というもの、これは、法学者たちがコードを作成する際に、現実の中で何が起こるかを知るために分析する必要があるものですが、それと同時に、実践についての科学を行なう際に、人が知らず知らず、自動的に何をしてしまうかを知るためにも、分析する必要があるものです。

 

ピエール・ブルデュー 石崎晴巳訳 『ブルデュー自身によるブルデュー 構造と実践』 藤原書店 PP129~130

 ブルデューが語った言語のコード化とは何かというこの文章は、分類のためにコード化された言語は言語そのものではないということを私たちに教えてくれます。

 Kはコード化された情報を組み込まれたAIに過ぎないのに、そのKが記憶と自身の生い立ちについて苦慮する様を見せられる時、私はどこか引っ掛かって違和感に捕らえられてしまいます。それは知り得た情報を適切に処理するだけの器官にとって、エラーはエラーとだけ判断されるべきで、それ以上でもそれ以下でもあり得ないのではないかという素朴な疑問によるものです。それなのにAIのKが危険を冒してまで任務から逸脱して自己の調査に乗り出していくのはなぜでしょうか。

 はじめに推測できるのは、すでにある情報に様々な外的情報が組み込まれるうちに、そこに不足しているものへの探究心が深まるからではないかということです。上書きされた外的情報はコードではなくて身体に触れる世界と言葉自体です。そこにはブルデューのいう通りコード化できない部分の情報も含まれています。一方、自己の内にある情報と外から来た情報のギャップを埋めることへの欲求は、誰もが持ち経験する生存のためのプロセスと言えるでしょう。生きるために経験によって得られた情報を上書きするという生存のためのプロセスに生物がその行動のほとんどを費やすことを考えればそれは自然な行動なのかもしれません。

  しかし私たちは人であるがゆえに、そこで「生存とは何か」という問題に行きついてしまいます。生存するとは無論生命を維持することです。ただ、生命を維持するために必要だと思われる物事に対する考えは人間の場合は個人によって異なります。食事や睡眠などの生理的な欲求に応えることは生命を維持するために最低限必要なことですが、それを押してまで他の欲求に応答し行動するような経験を多くの人が持っています。

 

 「何かを成し遂げよう」とするこの欲求に対応し、成功することと失敗することを繰り返して書き換え可能なコードに変換していく作業は、ブルデューのいう社会の形式化のためのコード化とは別のものです。自分のために自分向きの自然を探し出してコード化するこの作業を通じて私たちは幸福感を得ることができます。(※1)この幸福感を求める行為を生存の価値と考える場合も多いように思います。

 

  レプリカントを生み出した人間は、フォークト=カンプフ法という質問を多用する方法を用いてその被験者が感情移入できなないことが認識できれば、その被験者はレプリカントであると識別できるとしていました。また、彼らにはレプリカントが感情移入できるようになった時こそ人類に危機が訪れるであろうという危機感もありました。それでも彼らはAIがそこを乗り越えるには相当の壁があって多くの個体は乗り越え不可能であろうと信じていたように思います。

 しかし、実際にはレプリカントたちは感情移入の壁を乗り越え、自らの生存の意味を各々考えるようになっていました。受胎できる個体の発生とレプリカント同士での繁殖の可能性、そして初めての子孫の誕生を知った時にそれを神聖視すること。あるいは、優越性が主人の愛情の対象となり主人の特別でいられると認識すること。これらは生存そのものというより生存の意味を問うものです。そしてこれらの生存の意味は他者の行動から呼び起こされ感情移入によって拡大するものです。

 

 

自然であること/科学であること

 17世紀の哲学者たちがガリレオの成功から引き出すべきであった教訓は、ヒューウェールやクーン的なものでなければならなかった。すなわち、科学の進歩を、いろいろある仮設のうちのどれが真であるかを決めるということに関わる問題としてではなく、そもそもそうした仮説を作るのに用いられる正しいジャーゴンを見つけるという問題として考えるということだった。だが、すでに述べたように、彼らが実際にそこから引き出したのは、その新しいボキャブラリーは自然が常々それで記述されることを望んでいたものである、という教訓であった。わたしの考えでは、これには二つの理由があった。第一に、彼らは、ガリレオボキャブラリーが形而上学的な慰めに欠け、道徳的な含意や人間的な興味に乏しいという事実を、それがうまくいった理由のひとつだと考えたのである。彼らは、ガリレオ派の科学者があれほど成功を収めたのは、彼が果てしない宇宙の恐ろしい深淵に面と向かうことができたからだと漠然と考え、彼が常識や宗教的感情から距離を置いていること―つまり、人がいかに生きるべきかに関する決断から距離を置いていること―を彼の成功の秘密の一部だとみなした。こうして、われわれのボキャブラリーが形而上学的慰めに欠け、道徳的に無意味であればあるだけ、われわれが「実在に触れ」、「科学的」であり、実在をそれが記述されることを望んでいる通りに記述し、それによって実在を支配する見込みも大きくなる、と彼らは言うのである。第二に、彼らは、「主観的」な概念―われわれのボキャブラリーでは表現できるが、自然のボキャブラリーでは表現できない観念―を取り除く唯一の仕方は、ガリレオニュートンボキャブラリーにある用語、つまり「第一性質」を述べた用語に定義よって結びつけられない用語は使わないことだと考えた。

 この相互に密接した関連の誤り―つまり、ある用語は、道徳的に無意味であり、かつ予測に役立つ真なる一般化のなかで使われるものである場合に、「実在的なものを指示する」見込みが大きいという考え―が(バーナード・ウィリアムスの言う)「絶対的実在像」を求めるものとしての「科学的方法」という観念に内実を与えている。この「絶対的実在像」とは、われわれの表象であるのみならず実在自身の表象でもあるような表象によって表された実在、実在が実在自身にとってそう見えるはずの実在、もし実在が自分自身を記述できるとすればそう記述するはずの実在だと考えられている。ウィリアムズやデカルト主義に立つその他の論者は、この考えを筋の通ったものと考えているだけでなく、それを知識の本性に関するわれわれの直感のひとつとみなしている。だが、わたしに言わせれば、それはたかだか哲学的であるとはどういうことかに関する直感のひとつにすぎないのである。それは―はじめプラトンによって紡ぎ出された―古い哲学的空想のデカルト的な形態である。その空想とは、あらゆる記述や表象をくぐり抜けて、ありえないことなのだが、いまだ分節されていない直接的出会いと言語的定式化双方の最良の特徴を兼ね備えた意識状態へと到達することであった。〈自然自身のボキャブラリー〉を発見する、そして発見したということがどうにかしてわかるという空想は、ガリレオニュートンが「冷たい」「人間味のない」数学用語で書かれた、予測に役立つひとまとまりの普遍的一般化を定式化したとき、一歩具体化したように思われた。そして当時から今日にいたるまで、「合理性」、「方法」、「科学」といった観念はそうした一般化の追求に結びつかられてきたのである。

 

リチャード・ローティ著 室井尚ほか訳 『プラグマティズムの帰結』 ちくま学芸文庫 pp515∼518

 少し長い引用になりましたが、ローティが(認識論的に)今まで考えられてきた実在と科学の関係について述べた部分になります。ここで私が認識しておくべきと思ったのは、われわれが本物の実在に触れるためには理想や根本的原理といった証明不可能と思われる事柄から隔離されなければならないということが、「科学的である」という名の正しさと結びつけられて考えられてきたということです。その理論で言えば、私たちが科学的に理解可能な実存する存在であるためには幸福や希望からは遠く離れる必要があるのです。ばかばかしく聞こえるかもしれませんが、そういった考え方は今でも私たちの心理に根強く遍在しています。たとえば数値や統計に基づかない理想や理念を科学的でない絵空事として軽視するような状況は現代社会の中では多く見られます。そしてこの考え方がディストピアの根本になっているように思います。

 科学の粋を尽くして創生された新型レプリカントが不幸な存在であるのは、幸福と結びつく一切の物から隔離されているからであり、同じように制作した人間自身も幸福にはなれないのです。ただし、幸福を得るためにレプリカントは彼らにとってあり得ないかもしれない世界を夢見て行動を起こそうとしています。

 それはまさに、科学と精神という人間の創造を二分して真理に近づこうとした弊害に病んでいる世界への呼掛けであるように思います。

 

 ホライゾン ゼロ・ドーンは、自律型完全自動兵器スワームの暴走であるファロの災禍によって地球が破壊し尽くされ生物が絶滅する危機に対して、スワームの破壊から地球の再生までを人類亡き後AIであるガイアに託すゼロ・ドーン計画が実行された後の世界での出来事になります。ガイア構築に当たり、責任者のエリザベト・ソベックはなるべくガイアに人の感情を移入することを試みます。それがこの計画にとって不可欠なことを知っていたからです。

 実際に世界の構築に失敗し危機的な状況が発生した場合に発動するはずだったハデスの逆行プログラムが発動しようとしたときガイアが取った行動は、未来をソベック博士のクローンに託し身を隠すことでした。

 これがゲームの背景になります。

 

 プレーヤーはアーロイの正体は知らずに、養父ロストに育成を託された子どものころのアーロイからプレイし始めるのですが、父母のいないアーロイは異端の者として周囲に忌み嫌われています。その子どもがあるとき機械とアクセスできるフォーカスを手に入れた時から世界が変わっていくという設定です。

 

 この内容からも少しお分かりいただけると思いますが、ホライゾンの世界観は科学と宗教や思想、芸術との関係を並列させて成り立たせようとするものです。そして、前回も書かせていただきましたが、分岐の選択肢は常に3種類あって、それぞれ力、知恵、心というふうになっています。経験の内に習得するものを選択する際、アーロイは常に力と知恵と心のいずれの選択かを問われます。

 私にはこの工夫がとてもすごいことのように思えました。

 

 アーロイは次々と過去最先端であった科学について学び、そして周囲では人間や社会について学びとっていきます。育ての親であるロストを失ってからはほぼ一人きりでそれをこなしていかなくてはなりません。そんなときに彼女の脳裏に浮かぶ選択肢は常に三種類あり、そのことに悩まされます。そんなアーロイの姿は、今ある私たちの姿として自然で健全なことであろうとゲームをプレイしていくうちに気づかされていきます。

 

 他方、孤独なレプリカントは選択に対して常に無力で従うしかない存在として描かれていたように思います。たとえ選択したように思えたとしても、夢や希望には到底届かないものです。そのことは、科学と精神を分離した私たちの功罪ではないかと思えて仕方がありません。やっとの思いでKが託した希望が実りあるものになるかどうかわからないまま物語は終焉を迎えます。

 ブレイドランナー2049という物語がレプリカントに預けたのは科学と精神の両立という課題でした。そしてそこにいる人間は、生まれさせておきながらそのことを妨げる存在でしかないのです。

 

 このことは二つの作品を通じて一番大きく感じられたことになります。その他にも書きたいことはたくさんあるのですが、とりあえずこのトピックスはいったんここで終了させていただきまして、次回はまた別の話題にて書かせていただきます。

 

(※1)の個人による自然のコード化と存在についてもただいま試行錯誤中

 

 いつもご拝読いただきましてありがとうございます。ブログがなかなか更新できずに失礼をいたしました。実はここに至るまでの道のりが大変遠かったので、それらも含めまた少しずつ書かせて頂けたらいいなと思っています。

 

 今後ともよろしくお願いいたします。