『フクロウの声が聞こえる』 いつかがいつか❷

 まだ『フクロウの声が聞こえる』を聞いていらっしゃらない方のためにあまり突っ込んだ書き方をしないほうがいいかなという思いもあったのですが、思いのほか読んでくださっている方が多くて、申し訳なかったです。

  前回書かせていただいたものが「感想を聞かせて」に対して「感想を述べました」というものだったので、わりと無根拠に思ったことを並べただけな感じになってしまっていて、ブログを読んでいただいた方には全く分からなかっただろうなぁと反省しております。ここにもう少し具体的に書かせていただきます。

 

(1)子どもと魔法の親和性、そして混沌について

 小沢さんはご自身の二番目のお子さんの誕生を迎え、セカオワのSaoriさんが妊娠されていることを公表されましたが、そのこととこの曲を作ることとの関連の不思議さもYouTubeのなかで少しおっしゃっていましたね。

 命が生まれるというのは、生物学的に言えばとてもシンプルで、種の保存の法則に乗っ取っているだけといえばそうなのですが、その命に意思があって生命が宿っていることについての不可思議さから人は逃れることはできません。そして子どもといると、その意思とは自然なものから始まっているのかもしれないと思われる瞬間があります。

 ともあれ、進化にせよ、思考にせよ、ストカスティックな過程の中では、新しいものはランダムに生じるものの中から引き抜かれてくるほかはない。そして新しいものが、ランダムな世界でたまたま姿を現したそのときに引き抜かれてくるためには、その新案が、以降も存続していくことを請合う何らかの選択構造が存在していなければならない。何か自然選択のようなものが、その自明の理とトートロジーをもって支配していなければならない。「新しいものが生き続けていくためには競争相手より強い耐久力をもっている必要がある」「ランダムな現象の波のなかにあって長く消えずに残るものは、より早く消えていくものより必ず長く生き続ける」―自然選択理論とは、凝縮していうならば、こんな理論なのである。

 マルクス主義歴史観は―ダーウィンが『種の起源』を書かなくとも、ほかの誰かが5年以内に同じ内容の本を書いていたはずだという主張につながるあの歴史観は―社会全体の変転過程が収束的であるという見解を、個々の人間が関わる出来事へ適応しようとした不幸の努力であったといえる。誤りはここでも理論階型の混同にある。

 

※ ストカスティック stochastic(語源であるギリシァ語のstochazeinは「的を目がけて弓を射る」、つまり、出来事をある程度ランダムにばらまいて、その中のいくつかが期待されている結果を生むことを狙う、の意。)出来事の連続がランダムな要素と選択的プロセスの両方を兼ね備え、ランダムに起こった結果の一部しか存続を許されない場合、それをストカスティックな連続と言う。

 

グレゴリー・ベイトソン著 佐藤良明訳『改訂版 精神と自然 生きた世界の認識論』新思索社 p58

 

  「個々の人間が関わる出来事は収束的ではない」ということについて、大人になるにつれ忘れてしまうのは、おそらく社会というものの中に生きる私たちに植えつけられる烙印みたいなものかもしれないと思ったりしています。子どもが自然の魔法の中で自由に生きられるように見えるのは、この烙印からまだ逃れられているからで、彼らが見る世界は、神と同じランダムな世界なのかもしれません。そしてその世界が見える人たちと自然の中に入っていくと、あたかも神が見るような混沌とした世界が広がって、その世界が本当の世界だと感じることができるでしょう。

 

渦を巻く 宇宙の力 深く僕らを愛し 少し秘密を見せてくれる

 

『フクロウの声が聞こえる』

 

 神が取捨選択する方法において、何がいいもので何が悪いものという判断は、人間のそれとはずいぶんと違う。それは大昔から分かりきっているので、自然の神々はみな少し箍が外れて見えます。その箍が外れた恐ろしさが魔法を魔法と呼ぶ理由だと私は思っています。そして無垢な子供は、その魔法を素直に身に受け怖ろしさの中に人知を超えた勇壮で偉大な心躍る何かを見出すことができるのです。

 

神々の手の中にあるのなら

その時々にできることは

宇宙の中で良いことを決意するくらいだろう

 

無限の海は広く深く

でもそれほどの怖さはない

宇宙の中で良いことを決意する時に

 

『流動体について』

 

   それを知っている私たちは、この世界でよりよく生きるためにできることは、宇宙の中で良いことを決意することだといっていたのが小沢さんが前回発表された『流動体について』でした。

 


小沢健二 - 「流動体について」MV

 

 

 

 まだ今の社会ではなく、自然の神と一緒に生活していたころ、人は混沌の中で生きる術を学んでいました。それは世界と繋がって生きていくことでした。しかし人はいつか自然の支配者として生きる方法を模索し、そのためにあらゆる努力をしてきました。そうするうちに人は自然とも神ともどんどんと遠い存在になっていきます。そんな中にあって混沌と生活することはとても難しいことです。そのことに気がついたときにできることとはいったい何でしょう。

 それは現状を見ればいろいろとわかることですが、収束的に生きてきた人はおそらく急に得策を思いついて回避できるほど器用ではなくて、間違いを起こして失敗しなければ分からないことが多いようです。

 

いつか混沌と秩序が一緒にある世界へ

 

いつか孤高と共働が一緒にある世界へ!

 

導くよ!宇宙の力 何も嘘はつかずに ありのままを与えてほしい

震えることなんかないから 泣いたらクマさんを持って寝るから

 

『フクロウの声が聞こえる』

 

 最後の一行の解釈は難しいところですが、 私はこの歌のコンセプトはいつか自然と社会とが一体になって生きられる方法が見つけられるはずだという小沢さんの思いと、子どもたちの未来への希望なのだろうと思います。

 

 それで私が、今をどう生きるべきか不安になったのは、クマさんがなんなのかを具体的に書けないのが芸術だからなのかもしれません。

 

 単調な価値とは、上昇または下降を続ける値を言う。その曲線にはこぶがない、つまり上昇から下降へ、下降から上昇へと転じることがない。生物が欲求する物質、物体、パターン、あるいは生物が何らかの意味で”いい”と感じる経験―食物、生活条件、温度、楽しみ、セックス等―に関しては、多ければ多いだけいいというようなことはけっしてあり得ない。つまり物質や経験の最も好ましい量というものが存在する。その量を越えてしまうと、毒性が生じ、その量から落ち込むと欠乏感が生じる。

 この生物的価値のもつ特性は金銭には当てはまらない。金銭の価値は常に単調な関数をなす。多ければ多いほどよいとされている。1001ドルのほうが1000ドルより常に好まれる。ところが生物学的にこのような価値は存在しない。カルシウムの量が多ければ多いほどいいということはない。各生物にとって、摂取すべきカルシウムの最適量というものが存在するのである。この量を越えると、カルシウムも毒性を持つようになる。同様に、われわれが呼吸する酸素の量も、食物およびその成分の量も、そしておそらく人間関係、生物関係のあらゆる構成要素についても、過ぎたるは”十分”に及ばない。精神療法の施し過ぎという場合さえ存在する。戦いのない関係は生気がなく、戦いが多すぎる関係は毒性を持つ。望ましいのは、戦闘性が最適値にある関係だ。金銭も、それ自体ではなく、それが所有者に及ぼす作用を考えるときは、やはりある限度を越えると毒性に転じるといえよう。いずれにせよ、金銭哲学―金は多ければ多いほどよいという答えをはじき出すような前提の集合―はまったくもって反生物的である。とはいえ、この哲学を生物が学習しうるということも、また事実ではある。

 

グレゴリー・ベイトソン著 佐藤良明訳『改訂版 精神と自然 生きた世界の認識論』新思索社 p70 

 

 とりあえず、もう間違えを侵さずに考えていこうよということが具体的に提案できるところまで示してくれるものを、私はクマさんにしたいのかなぁと思いますが、みなさんはいかがですか?

 

精神と自然―生きた世界の認識論

精神と自然―生きた世界の認識論

 

 

 この本はよく見ないと軽い本だと勘違いされやすい表紙だよなぁと常々思っているのですが、ベイトソンがその知識を具体的に分かりやすく示してくれたとても勉強になる本です。今見たら定価の倍以上の値段になっていて驚きました…。

 違う場面でもう少し詳しくご紹介できたらいいなと思います。

 

 ここまでで長くなってしまったので、神の音と神の声などのお話はまた今度。