恐怖の増幅器としての私と恐怖を忘却する私

  恐怖は危険から回避するために備わったとても原始的でかつ貴重な感情です。しかし、人間は見通しを立てて生きるという、一見安全を確保するための最良の方法を選択しているようでいて、その実常に恐怖と向かい合わなくてはならないという危険を自らの内に抱えて生きる、生存に適しているのかいないのか非常にわかりづらい生き方を脳に強いられているのではないかと思ったりしています。

 人間は、恩恵なしには消しがたい、生来の誤謬に満ちた存在でしかない。何ものも彼の真理を示さない。すべてが彼を欺く。真理の二つの原理である理性と感覚とは、それぞれが誠実性を欠く上に、相互に欺き合っている。感覚は偽の外観でもって理性を欺く。感覚が理性に持ってくるこのまやかしは、それと同じものを今度は感覚が理性から受け取るのである。理性が仕返しするのだ。霊魂の感情が感覚を乱し、偽りの印象を与える。彼らは競って嘘をつき、だまし合っている。

 パスカル『パンセⅠ』前田洋一 由木康訳 中央公論新社 p71

 

   とても幼い時から悪夢に悩ませ続けられ、なぜ自分だけがそんな目に会うのだろうかと思いながら起きる朝が続いていた頃、一方で私は怖い話を見聞きするのが大好きでした。それはたぶん恐怖というものに対して、恐ろしさ以上に興味関心が勝っていたためで、この恐ろしさ(の正体)はなんだろうという気持ちに対して目の前に現れる他人の恐怖が自分の感情に上書きされる度にある種の満足を与えられてしまって、「ああ怖かった。今回のは今までの中で一番怖さが心に残った。」とか「今回は気持ちが悪いだけだった。」とか「人の恨みは恐ろしいなぁ。」といった感想を持ちながら、自ら体験することはほぼない、というより現実的にはあり得ないような事象に取りつかれたようにのめり込んだものでした。今となってはそのうちに自分の見る悪夢が大したことのない経験だと思い込むことができると信じていたからかもしれないと思っていますが、悪夢が収まったのは引っ越しをして環境が変わってからでした。ちょうど多感な時期だったからかもしれませんが、今思い出せるものでももう二度と夢として見たくないなぁと思います。悪夢独特の空気がねっとりと絡み付く感じや、自分ではない自分が自分である感覚。その時の私の持った体験は特殊なものだとしても、多くの場合自分と関わりのない恐怖を欲する事は、私は自分と関わりのない場の恐怖によって自分の恐怖を克服しようとする心の動きではないかと思っています。

 パスカルが神の恩恵なしではどうしようもなく仕方がない存在として示した人間の有様。それは生きていく過酷さが他の動物以上に精神的苦痛として生命を食いつぶしていくことからどう逃れるかという切迫した危機感から自然に生まれた行いだと私は思うのですが、この私の行動一つを見てもその愚かしさは明確です。

 根本的な解決のためには恐らく恐怖の元凶であった何かを発見して取り除かなければならなかったのですが、私はその元凶から逃れるために別の恐怖を欲することにしました。そしていつの間にか、その元凶であった恐怖のことには触れなくなってしまっていたのです。この忘却された私にとって触れることのできなかった(untouchableな)恐怖とはいったい何だったのでしょうか。

 冒頭にも書かせていただいた通り、実はそのことは今までもたくさんの人が考えてきた、生きていることによって増幅する恐怖への恐怖であると私は思います。その恐怖からいかに逃げられるかも今まで多くの人たちに考え尽くされてきました。パスカルのように自分で何もかも処理できると考えてしまう人間に対して警告を与えた人もあったし、それは恐怖ではなく畏怖だと考える人も、それは科学的な反応でしかないと考える人もいました。そのすべては合理的であるような気もするし、不合理な気もします。しかし、根本的な解決になるためにはやはり個々の相当な努力と忘却の力が必要なのです。

 宗教のようにシステムとして組み上がった恐怖から逃れ強さを維持する方法も、それが強さである以上確立すればするほど他のシステムと対立し、その対立は恐怖の大きさに比例して深く、大きな溝を作り出してしまう。争いは無論恐怖の排除を試みるために行われるものですが、争いを避けるために構築されたシステムの中でさえ力があれば争いを産んでしまいます。ことことは過去の歴史を顧みてもおそらく避けられないことなのでしょう。なぜなら、それが他者のものであっても、自分の物であっても、力こそが恐怖の想像に繋がってしまうからです。

 

 とてつもない恐怖に晒されると記憶を無くしてしまう話を聞いたことがあります。体験による恐怖に関する記憶は個人のものとして蓄積し、増殖を重ね人を蝕んでいく。私は実際記憶を失うまでの方にお会いしたことはありませんが、きっと増幅しつづける恐怖を脳では処理しきれないと判断されるほどになってしまったに違いないと思います。おそらくそこまで身体的に変化してしまうようなことはごく稀で、普通の体験においては自己防衛のためにその恐怖を記憶から排除しようと試みることが一般的だと思われますが、そのことには罪の意識が伴うことがとても多いものです。そしてその苦痛が人を歪めてしまうこともしばしばです。それが人間の悍ましさと感じるか人間らしさと感じるかは人それぞれです。ただし、歪められてしまった自分をどうするかということに直面した時に人はまた恐怖しなくてはならなくなります。知らないでいた自分に戻ることはできないので、知ってしまった自分とどう向き合うかという対応を迫られるのです。

 私はここできちんと向き合って結論さえ出せていれば、そのあとはもとの恐怖の記憶は、忘れても忘れなくても、もどちらでもいいのではないかと思っています。もちろんそんなに簡単に忘れられるものが恐怖の記憶になるはずがないので、忘れられないけれど記憶の片隅に追いやるという事ですが、そのくらいの行為が許されないようなら人はどうやっても生き延びられないように思うからです。

 都合よく記憶を書き換えることで乗り越えようとする人も中にはいますが、それはきっと歪められた自分を直視できずに情報に救いを求めた人たちなのかもしれないと思っています。そういう人たちは歪められた自分のまま、誰の目から見ても最も醜く、最後まで本当の自分との再会は果たせない人たちでしょう。個人的に自分の中だけで解決できればその人だけの問題になりますが、それを誰かに吹き込むことはあってはならないことだと思っています。厄介なのは都合よく書き換えられてしまった恐怖は、本当のことをいとも簡単に塗りつぶせるという事です。そういう人たちに対して、本当のことを尋ねるのはもはや無駄で、こういう忘却は生きるためのものというよりは、美しく死ぬためのものなのかもしれないと考えたこともあります。美しく死ぬことに対する欲望というものも恐らく人間特有のものだと思うのですが、それは死という究極の恐怖から逃れる手段です。将来やってくるであろう自らの死を美しく飾ることでその先の恐怖から逃れようとするのはとてもおもしろい行為だと思います。しかし、罪から逃れるためのそのような行為は時として人を好ましくない行動へと導きます。生きることから離れてしまった考え方である以上、それが未来への思考に通じないからです。未来への思考に通じなければ、よりよいことからは離れていきます。こうして手段に手段が重なってしまった時に過ちが犯されやすいことはいつでも同じで、結局は経験が影響する変化が何も与えられないまま、返って後退するようなことになってしまうのです。本来恐怖によって変えられるべきなのはよりよい生存への道筋なのですが、そうもいかないのはこうした理由があるためだと思われます。

 ただ、怨恨の類でこうなってしまうのはどうしようもないのかもしれないとも思っています。恨みを持った人が怖ろしく醜く映るのはそのせいで、何も悪いことをしていないのに一方的にとてつもない脅威に晒された場合も、悪いことをしているのに書き換えを行っている人の場合も、歪められた自分を乗り越えられないままという現実が変わらない以上、人から見た目は同じようになってしまう。それならば、いっそのこと忘れてしまうことで醜くならないで済むようにいようというのも悪くないように思うのですが、なかなかそれも難しいようです。怨恨という感情についてはまた深く考えていきたいです。

 少し本題から外れましたが、恐怖の増幅器としての自分があって、忘却する自分があることを私は忘れずにいたいと思います。そうすることで、いくらかでも自分らしくいられるような気がするからです。それを自由と呼ぶのは悲しい気もしますが、自由ということを考えるために必要な手段であるように思います。恐怖から少しでも自由であろうとすることが人間にとって大切なことは明らかです。そして、人間にとっては他者の恐怖を取り除くことが、結局は自分の恐怖からも遠ざける手段であることについて考えを深めていけたらいいと思います。

 

 独りよがりな感じになってしまって申し訳ないです。夏なので少し恐怖とは何だろうと考えてみたくなった次第です。夏はなぜだか恐怖に関する話題が多くなります。それは日本ではお盆という年中行事が死者を向かい入れるためのものであるからかもしれませんが、私は四季を通じて夏が一番生命力の強さを感じさせるからだと思っています。春の生まれ成長する生命力とは違って、夏の生命力は増殖や繁殖に繋がっていく。そしてそのことは逆に死を連想させます。死に対する恐怖が人のイメージに与える影響はとても大きくて計り知れませんが、夏には特に考えたくなります。私にとってはそんな感じなのですが、冬に感じる死のイメージというのも確かにありますね。それはまた冬に考えてみてもいいかもしれない。

 

 いつもブログを覗いていただいてありがとうございます。更新が遅れてしまって申し訳ないです。今いろいろと勉強中ですので、またそんなことも書いていけたらいいなと思っています。

 これからもよろしくお願いします!