『鏡のなかの鏡』 ―生存の意味と存在について―

 先日ブログで読みますとご紹介したエンデの『鏡のなかの鏡』、3回読んで最終的には30あるお話の一つ一つの要約やキーワードを書き出して、やっと自分なりに自分のものにできたかもしれないと感じています。

 まず、私はここではこの本をエンデが自身の中にある人物やものたちに物語を与え、その人物やものたちが自分の中にどう配置しているかを示しているのではないかという視点で読み、そのことに対して自分が受け取ったものの内で私がここで一番言いたいと思ったことを書かせていただいています。おそらくこの物語を読まれたことのある方なら誰しも様々な感想をあちこちのお話の断片から、そしていくつかの物語の共通項から持たれていることと思いますが、私もこのほかにもいくつも考えさせられる場面を持ちましたし、そういう風に万華鏡のように見える配置もこの物語の魅力であると思います。

 さて、それぞれの人物やものたちは、私たちにとってはエンデの著作の中で見かけたことがあるものや初めて出会うものであったりしますが、エンデにとってはどれもが古くからの顔馴染みのように思えます。それらがそれらであるところの自己の内の世界では、時間や空間は一定した規則性を持たないので、人やものは夢や幻のようにひょっこり現れてはまた消えていきます。しかしそれらの存在は私という存在のなかの存在であり、存在の外の存在ではあり得ない。ただし現実世界と同じように、同じ時間と空間に存在しそこで継続してあり続けているものだけが同じものであって、同一の形や名を持つなにかであったとしても同じ空間と時間にいなければ違う存在になります。そしてある物語の核心は違う物語では外縁へと遠のき、確定したと思われる出来事は実は別の物語への序章に過ぎず、今ここで初めて出会ったと思われたものはいつか知っていたものに過ぎないというような複雑な形で関係しあうようになります。

 まるで混乱し錯乱した世界のようですが、私たちの今生きるこの世界でも確定していることなど一つもなく、自分の目にしている世界はおおよそ自分の頭の中で工作され可視化された世界だという事実を思えば、そのことを受け入れられないと拒絶できる余地は少しもありません。

 そして、そのいくつかの物語の中では子どもが重要な役割を果たしています。なぜなら、子ども(と自分のなかの子ども)はあるものを新しいものとして見ることができ、それを受け入れ、そして変えていくことができるからです。これは「知らない」という事だけが既成の出来事から自分を解放できるということに繋がっていきます。「知らない」ことは「見ない」ことではなく、「知らないことに忠実な私」=「子どものように物事を見ることができる私」ということであり、知ることを楽しむことで自分の世界を作っていくことのできる私であるわけです。子どもにとっての遊びとは、何かを受け止め、変形させ、自分の感情に届くものにして自己を満足させる行為のことです。その行為は、時には喜びとして、時には恐怖として、時には悲しみとして自分の中に残り心の中に蓄積していきます。そしてそれこそが人生を豊かにし、人生の救いになっていくのです。

 ところで子どもはいつか大人になります。自分の中の子どもも、もちろんひとしきり遊んで周囲に自分の世界を作った後、少年になり、外の世界を知らなければならならなくなります。そうしなければ世界はいつか現実とかけ離れ、そのことによって自身もろとも崩壊してしまう危険があるからです。そのために少年を外の世界に連れ出し少しずつ何かを教える者の存在が必要なのですが、エンデはいくつかの物語の中にその手助けするものを登場させています。父、兄弟、魔術師、ジンなどです。それらは少年への手助けをすることを運命づけられているようです。そしてその助けによって少年は外の世界に行く準備をします。大人へのステップを踏むこと、それは今まで作り上げた世界から飛び出し全く未知の世界(奈落)に落ちる行為であり、また思い切って空を飛ぶような行為でもあります。外への恐怖を和らげ、飛び立つための材料を持ち、そのために捨て去るべきものも知って、青年になった子どもは世界へと飛び出していくのです。

 無事に外へ飛び出したとしても、その先に青年を待ち受けるものは様々な誘惑と困惑に満ちた大人の世界です。そこで青年は挫折を知り、時には汚れていきます。そうした果てにやってくる感情が郷愁です。故郷へ戻るためにもたくさんの試練があり、その試練を乗り越えやってきた故郷も時には変わり果てています。しかしそこで何かを得ることでしか、彼は本当の目的を思い出すことができないのです。

 様々な場所を訪れクエストを完了したとしても、本当の自分を見つけ出すことなどできはしない。そう思って悲観に暮れた時、目の前に現れたものをどう捉えるか。チャンスを掴むために今までに培った経験を生かすことができるかどうかは、本人がまだ子どもの心を持てているかにかかっています。お話の中のいくつかの場面ではそれは母なるものを愛せるかということに繫っていきます。愛せなければ彼は決してその先に進むことはできません。けれども、彼女はすでにあなたの母親ではなく、あなたの目の前にいる一個の女性であり、彼女には彼女の過去があったり、彼女と言う存在のよい部分も悪い部分も含めてすべてを受け入れる勇気が必要だったりします。

 さて、これだけ書くとエンデは勇敢な冒険談を書いているの?と思われる方がいらっしゃるかもしれませんが、この物語で描かれているのはほぼ失敗した人たちのお話です。それぞれの物語中では、登場人物の置かれている状況も行動の段階もまちまちで、主人公たちの人格も立場も状況も違っていて、物語の終わりにどうなっていくのかも違っています。敗北者たちは絶望を突き付けられ傷つき暗く、酷い目にあったり殺されたりする場合もあります。それなのにそれぞれの物語には微妙に繋がりのあるアイテムが仕込んであり、これらがただ一つ一つの独立した物語としてあるのではないという示唆がなされています。つまりは私のなかには成功者ばかりでなく、実はそれ以上の不幸な敗北者がたくさん積み重なっているのだということが語られているのだと思います。

 私の読み方ではこれらのお話は、ある時点で私の中に生まれ、何かを体験し、結果私を形成していく私のなかの子供たちの物語で、つまり私が私であるために発生し私の中にある何人もの人たちの物語であり、私にとっての生存の物語であると同時にその子供たち一人一人の物語でもあります。そしてこの物語はそれら敗北者たちを含めた子供たちの存在を忘れないでいるための慰霊の物語ではないかと感じられました。本当の自分自身を発見するということなど所詮は実現不可能なことであり、生きるという事は変化する自分に戸惑いながら何でもないものとしての自分を生き続けるということなのだけれど、救いや希望を自身の中に発見し歩み続けることはできる。ただしそのために必要なものは数々あって、その発見と使用のためには自分のなかの子供たちに様々な体験をさせ、経験を促し、時には死んでしまうことも事も受け入れなければならない。そうしてそのことだけが、私たちが今ここにあるということの証明になるのだからということが語られているように思えました。

 そこにいるのは、まさに供物としての子ども、子供なのだなぁと思いました。

 ここまでが30の物語を通じて私が持った感想のうち一番言いたかったことになります。ただ、この文章はそれぞれに多くの示唆が含まれており、通じて読むことの重要性がどこまで望まれるものなのかは不明です。例えば展覧会の絵のように、1枚1枚をじっくり見て鑑賞することの方がこの展覧会を企画したキュレーターの目的を考えることより重要な時もあります。ただ、物語を真摯に自分なりに受け止め読み解こうとする姿勢で読んでいかなければ、この物語はただの悪夢の集まりになってしまいかねません。また、目眩を起こさせるような感覚を受けたり、打消しの効果で何も見えなくなったり、幾通りもの物語として見ることができるなど、独特な構造を作ることによってかなり凝った形式になっているので、どう捉えるかで読み方も読者によってだいぶ変わってくるのだろうとも思います。しかし実は読み解くために自分の原点に返ることを余儀なくされることによって、物語のその向こうに見えるのは、独特な郷愁(懐かしさと物悲しさ)さえ含んだなにかを私たちに見せてくれる世界です。これは読書体験ではよく語られる内容ですが、より内へ内へと入り込んでいくことによって、自分の中で忘れ去られていったなにかにぐっと近づいていく感覚を得られているように思います。

 迷うことを苦しく思うのも楽しく思うのも本人次第で、私が何とか楽しく読めるようになったのは、この物語を読むという事は自分のなかの子どもを駆使して彼に語らせ、大人の自分が聞くことで何とか聞こえる声を聞き取る作業なのかもしれないと思えるようになったからかなと思います。そしてそれは、なんのことはないファンタジーを読むときの私の本の読み方で、ここでもほらエンデに試されているのかと思わず笑ってしまったというのが私のなかのオチになります。

 『はてしない物語』や『モモ』を読むこととはかなり違った読書体験ができるということは受け合います。何かに迷っている時に読むのもいいかもしれません。ただし、そこに解決を見出そうという感覚で読もうとすることはお勧めできない本になります。私はいい挑戦ができたと思っています。(このくらいのことしか言うことができなくて申し訳ないです)

 

 

〈脱線します!〉

  先日BUMP OF CHICKENの「記念撮影」という曲を聴いたときに、この文章を考えている最中でもあり、時間の流れと自分の関係についてとても考えさせられました。『鏡のなかの鏡』は自分の内側から見た世界ですが、現実の世界で自分の過去と現在と未来に翻弄されることについて〈記念撮影〉という語を使ってうまく作られた曲だなぁと感心しました。曲の中に目眩が起きるような感覚も持つことができます。

 一方で小沢健二の「流動体について」の、「もしも間違いに気がつくことがなかったのなら 並行する世界の僕はどこらへんにいたのかな」と考えられるようになった自分もおもしろい。「神の手の中にあるのなら その時々にできることは 宇宙の中で良いことをする決意くらいだろう」といったあと、「無限の海は広く深く でもそれほどの怖さはない 宇宙の中で良いことを決意するときに」といえる辺り、この人はいったい何人の子供を殺して得ることのできた感覚なのかなぁと思わせてくれます。そのような考えを起こさせるに至る辺りがこの読書体験の成果なのだなぁと思います。

 この歌の歌詞には「だけど意思は言葉を変え 言葉は都市を変えていく」というくだりもありますね。実は『鏡のなかの鏡』で文字に関する示唆もたくさん受けているのですが、そのあたりはまたこんど違う機会にでも書かせていただけたらいいなって思っています。