『静寂 ―ある殺人者の記録』感想文 死と円環する生について 【ネタバレ注意】

【はじめに】

 今回のブログ記事は、トーマス・ラープ著/酒寄進一訳『静寂 ―ある殺人者の記録』の読者モニターとしてゲラを読ませて頂き、東京創元社様に提出した原稿を一部変更したものを掲載させていただきます。

 多大なネタバレ要素を含みますので、これからお読みになろうとしている方はご注意ください。

 

【本文】

 人はいったい何を求めて生きているのか。

 カール・ハイデマンは生まれつき人並外れた聴力を持ってしまったために、生まれる以前から音に対する極度な過敏によるストレスに苛まれていた。生まれた日から寝ているとき以外泣き止もうとしない息子の異常な聴力に気づき、彼のために地下室を生活の場へと移すことに決めた父の配慮によって、彼は人の生きる場ではなく、一人ぼっちで過ごすことのできる地下の部屋の中から生きる人々の暮らしを思うこととなった。彼の聴覚をもってすれば村人の生活は音によって赤裸々にされ、それは彼が理解する限り、醜く排他的で歪んでいた。

 母親は彼のあまりに奇怪な行動を理解できずに、心を病んで入水した。その時に母親に連れられて一部始終を見届けることになり、さらに母親に対して言葉を発しなかったカールが、必死で掛けた最後の一言によって入水を助長してしまうことになった。

「行け」

 それは彼にとっては父親との懐かしい思い出の中の一言であった。喜んでもらえるはず、そうであったはずなのに、幼な子の彼に詳細を説明できるわけもなく、また、そのことを母が知るはずもなく、彼女はその言葉に従い湖の奥に進み死んでいった。

 母親が水から上げられ、彼が母親の死体に見たものは、それまでの苦痛に満ちた生から解放することのできる安らかな死の美しさであった。そうして、カールの心の中に死への崇拝が巣食うことになる。

 物語前半のカールの殺人は、生の苦渋の足枷から人々を開放するために執り行われる儀式であり、白い殺人だ。なるべく痛みを伴わない方法で安らかに死を与えることが人々の上に幸福を与えることだと信じて執行されていく。白くぶよぶよした肉体の醜いカールが美しい白い殺人鬼であること。この醜さと内面の純真無垢さとの対比が実に印象的で、その無邪気さからつい大量殺人鬼である彼に優しい感情移入をしてしまう。そしてこの物語の中では、殺人事件の担当刑事でありながら、その殺人者に魅せられ、大人として救いの手を差し伸べ、逆に救われることになるホルストシューベルト刑事もまた魅力的な存在として描かれている。カールが彼を信頼していることは後々大きな形で現れる。この二人の関係性は、この物語をただの殺人鬼の話で終わらせない大きなターニングポイントになっているように思う。

 物語中盤、カールは最愛の人マリー・ポクロフスキと出会い恋に落ちる。全盲で無垢で美しい心の持ち主のマリーは、出会ってすぐにカールと意気投合する。しかしながら、マリーを守りたい一心でカールが行った行動が招いた不幸により、カールは許しがたい理不尽な仕打ちを受けることになり、死への信頼を失い黒い殺人鬼になってしまう。世間で悪党と呼ばれる人々に恐怖の鉄槌を食らわせるためだけの殺人。反抗期の怒りをぶつけるかのように殺人を犯し、痩せ衰えていく心と体。ついには逃避行の旅に出ることになる。

 逃避行の末にたどり着いた場所。そこは異国の小さな修道院であった。神聖な神の場でカールは再び変身をする。悲しいことにもちろん殺人鬼として。神の使いの美しい白い死神。そこでもカールは人々を苦しみから解放するために殺人を繰り返す。そして命の恩人であり、カールを死神と知りながら最後には自らの死を彼に欲し、最愛の人の元に旅立つようアドバイスした修道士パオーロ・モローダもまた、物語の中での重要人物だ。彼なしでは最後のカールは望めなかっただろう。

 最愛の人の元にたどり着いたカールは、思いを遂げ、また思いをかみ殺して最後の決断をする。

 

 この物語の主人公カール・ハイデマンは、いったい何人の人を殺し、何匹の動物を殺したかわからないくらいの殺害を繰り返す。しかし、彼の行為を薄気味悪い精神異常者の行動として見ることはできない。なぜなら、作中で彼が望むものは他者の幸福であり、自らに人々に苦痛を与えるものとしてではなく喜びを与えるものとしての役目を課し、そのことを徹底して執り行うからである。だから私たちは彼を無慈悲な殺人者としてではなく、時に迷える若者として受け入れ、時に美しい聖人のようにも思い、彼の殺人を肯定さえしてしまいそうになるのである。しかし、それこそが著者トーマス・ラープのこの作品に仕掛けた大掛かりなトリックであり、倫理観と正しいことの隙間を上手にすり抜けて、「彼(のやり方)は嫌い?」と読み手を混乱させる手法なのである。その技に私たちは翻弄され続けることになる。

 一方で、彼は暴力を嫌いながら自らが行使している暴力についてあまりに無自覚である。彼自身が命の重みを生ではなく死に寄せ過ぎているために、彼にとって死は暴力以上の美を持って迎え入れられる。しかし、死をもたらされた人々にとって、彼らに与えられた死は無尽蔵な暴力の果てに送り付けられた結果でしかなく、その事実は変えることができない。

 後半の要になる修道院での生活は、彼に彼の意志によって殺人を止めさせることのできる最後のチャンスであったが、彼はそこに死ねない人たちの苦しみに寄り添う殺人者としての道を切りひらいてしまう。彼はパオーロやほかの修道士たちに救われた自らの命について、なぜ救われたのか最後の最後まで理解できずにいたように思う。宗教の場で、彼が取りつかれた死への崇拝から救い出されることなく殺人者として再び生まれ変わることは、命の尊さを説く宗教の敗北を意味する。ここでも読者は試される。「彼のしていることは正しいことでしょう?」しかし、脱出する際に行われる行為によって、私たちは彼の本質に触れ正気に戻されることになる。彼にとって命の重みとは、死の安らぎを得るためにあるもの以外のなにものでもないのだ。

 最後に彼は愛を回復して、相手の命の尊さを思うことにより、初めて死よりも重い命について直視しなくてはならなくなる。この物語のクライマックスだ。そこで彼が何を得て何を失ったかを考えることは、私たち各々が持つ愛と命についての思いを振り返らせる。

 カールは不幸だったのか。カールに殺された人々は不幸だったのか。それとも幸福だったのか。人にとって死とは永遠の幸福なのか、断絶の不幸なのか。

 このような問いに対する答えは一昔前ならば簡単に与えられていた気がする。しかし、善と悪についてこうも複雑になってしまった世の中にあっては簡単に答えが出せない。

 厳しい現実を見逃すことによってなんとか生きようとする私たちにとって、この物語は問題を直視できる場に緩やかに運んでいく船である。むごたらしい殺害による恐怖の中にではなく、美しいセンシティブな物語の中にある殺人に対して畏怖ともいえる感情を私たちに植えつけ、静けさの中にある二つの眼を見つめさせる。そして、その眼はもはやカールのものではなくなって、私自身のものなのかもしれないと気が付いた時に、改めて受けることになる衝撃は少なくない。死に対する私たちの感覚・感情は、間違っているのか、いないのか。死への恐怖が引き起こす誤った行為や生への執着が引き起こす他者への暴力的な態度が、彼のしていることとどれほどの違いがあるのだろうか。

 生き生きと生きることへの困難が引き起こす社会病理の中では、カールは常に私たちの心にあって私たちを死に誘う天使であり得るのだ。

 しかしながら、私たちがマリーやシューベルト刑事やパオーロ修道士といった人々との接触によって受ける感情は、カールのそれとは異なっていることもこの物語は教えてくれる。私たちは人の中で生まれ育ったのだ。たとえそれが混沌として美しいものでなかったとしても、そのことだけが私たちの感情に明かりを差し伸べ行く手を照らしてくれる術になる。それが私たちとカールとの確かな違いだ。

 カールは愛を受け、母親の愛を思い出し、死んでいく。初めから破滅への道であったとしても、そのことが私たちをどこか人間らしさへと回避させてくれる。そして物語の終わりは始まりに還っていくのだが、そういった手法も、新しい命を迎え、この物語の中にあっては特別のもののように思える。

 終わる命と始まる命。循環する生命。

 命を互いに支え合わせ繋ぐことのできる〈愛〉の存在こそが人の生きる意味なのだと。

 

【おわりに】

 いかがでしたでしょうか。なるべく作品の魅力をお伝えできるように書かせていただいたつもりですが、引用がないため本文の美しい文体がお知らせできていない旨はご容赦ください。しんしんと降り積もる雪のように穏やかに美しく、そしてそれゆえに私たちの心に消えない跡を残していくような文章です。原作者のトーマス・ラープ氏の才能と、それを見事に日本語に翻訳された訳者の酒寄進一氏のお仕事は素晴らしいものでした。

 6月13日に発売されて、すでに書店には出回っています。ご興味を持たれた方はぜひお読みになってみてください。

 

 

静寂 (ある殺人者の記録)

静寂 (ある殺人者の記録)