番外編 エンデ『AだからBという関係性を超えて』ブログの向こう側 ―いぶりぃさんに質問!―(2)

前回の続きになります。

 

Ponkichi②続き

 さて、いぶさんのご指摘のあったアトレーユが命の水を飲むことで愛を知ったことについてですが、アトレーユとフッフールは眠っている間に泉に連れて来られた。冒険を続けてもバスチアンがファンタージエンに来ないかもしれないと虚無の事実を知ったアトレーユが絶望を感じ、そのことを幼ごころのきみに話した後、とうとう幼ごころの君がさすらいの山の古老をお尋ねになった時です。そして、命の水は誰かの心の中から湧き出るものですね。私が知りたいのは、幼ごころのきみがアトレーユに与えた命の水は誰から沸いたものかという事です。私自身は既に幼ごころの君に名を与え物語を読み進めているバスチアンのものであろうと思っているのですが、いぶさんのご指摘から想像すると、それまでにファンタージエンを訪れた人々が残してった僅かな残りだと考えることもできそうです。いぶさんはどのようにお考えでしょうか?

 それと、この部分からもう一つ。グモルクのことです。ファンタージエンのことにも現実世界のことにも精通した破壊者であるグモルクはいったい何者であって、グモルクの依頼主は誰なのかという問題です。事典には依頼主は灰色の紳士かその親戚とありますが、グモルク自身は独立した誰の想像にもよらないものなのか、それとも敵役として狭間に住むものとして想像された生物なのかということです。それは、悪に対するエンデの立場も表明される部分であるとは思うのですが、エンデが物語の中には善も悪も両方とも必要だということから、物語からはみ出している分該当しないところが生まれてしまいます。しかし、灰色の紳士ほどの全体悪の象徴と言うのとも違うように思うのです。罠にかかる人の好さやアトレーユとのやり取りを見ても、人狼は本当の悪からは一歩引いた存在であるように思います。エンデはなぜそのような悪をアトレーユの敵にしたのか、いぶさんのお考えをお聞かせいただけたらと思います。

 愛の段階について、いぶさんのご説明でエンデの立場についての理解を深めることができました。ありがとうございます。ここはいぶさんから頂いた文章をもう少し深く読んで、エンデの考えと自分の考えの相違を把握し、混同しないようにできたらと思っています。また疑問点が生まれた時には質問させてください。

 マックス・ムトの物語、私もずいぶん端折って書いてしまったのでご迷惑をおかけしました。いぶさんのおっしゃられていること、最後に旅を続けるのに疲れたムトが考え及ぶところですね、そこは私もなるほどと思いました。ムトがそう思って旅を続けるところで終わりますが、実は私には悶々としたものが残りました。それは、ムトがどう思ったところで周囲の反応によってその道筋が変えられてしまう可能性について、何も払拭できないところで終わったからです。このままでいけば、ムトはずっと悩み続けながら旅をしていくことになるでしょう。そういうことすべてを含めて仕事論のように見えると言わせていただきました。創造的な仕事をしているつもりで、使役されているような場面は、仕事をしていれば日常的に私たちに起こる出来事のように思います。ここのところは、私が穿った見方をしているのかもしれません。

 先日お伺いしたお話を自分なりにまとめて、エンデの本を読み解くヒントにしながら更にまとめていけたらと思っています。またよろしくお願いします。

 

いぶりぃさん③

ご質問を頂いたことを含め、3点書かせて頂きます。

まず、生命の水についてです。ぼく個人の見解ということですが、ぼく自身はまずポンさんの前提そのものに疑義があります。「命の水は誰かの心の中から湧き出るものですね。」とのことですが、このことを指し示す箇所はあったでしょうか?一応、該当しそうな箇所を少し探して見ましたが、見つかりませんでした。もし、ぼくの見落とし等であれば、ご指摘頂きたいと思います。

さて、上記の箇所をお示し頂ければ再検討致しますが、ご質問についての今のところのぼくの見解を書かせて頂きます。まず、生命の水とは誰か特定個人に属するものではないと思います。もし、バスチアンが飲んだ生命の水がバスチアン自身の内面から湧き出るものであれば、またもやバスチアンは自身の内面世界を旅し、自身の内面の深みから生命の水を汲み出すことになってしまうでしょう。前回のお返事にも書きましたように、それは宇宙的な力、コスモス的な力であり、超越的な人間外的な力です。だからこそ、生命の水は幼心の君の力の源泉足りうるのだと思います。補足的なお話になりますし、あまり他作を引き合いにだすべきではないかもしれませんが、比較のために『モモ』の時間の花の描写と比べて見てください。特に、純粋な金(モモ)あるいは金色の光(はてしない物語)でできた丸天井Kuppelという描写は注目に値します。このような描写はエンデ作品においてはしばしば超越的な、彼岸的な場所に用いられています。一方で、『モモ』ではモモは外的な道を通って、自身の内的なもの(時間の花)に触れます。バスチアンは逆に内的な道を通って、外的なもの(生命の水)に触れているのだとぼくには思えます。エンデは子安先生との対談で、シュタイナーを引用しながら、自己を認識したければ自身の外、世界に目を向けなさい、世界を認識したければ、あなた自身に目を向けなさいということを言っていることを付言しておきたいと思います。

2つ目の問題に移りたいと思います。グモルクのことです。実に興味深いご指摘だと感じました。グモルク自身が言うように、グモルクはファンタージエンの存在でも人間でもない、デモーニッシュな存在だと思います。彼が仕える力が灰色の男たちかその親戚だというホッケの解釈はよくわかるものです。というのは、彼らの目的は人間がファンタージエンを存在しないと思わせることであり、それは結局のところ、エンデ的な言い方をするならば、計算・計測・計量できるものだけが現実だと思わせること-唯物主義-だからです。そして、灰色の男たちというのはまさにそういう存在として描かれています。とはいえ、グモルク自身は灰色の男たちと同じ存在ではないことも確かなように思えます。グモルク自身の発言からそう解釈できます。では、グモルク自身がどういう存在なのか、これについてはグモルクについての描写が余りに少ないためにほとんど推測できないと言わざるをえないように思います。

悪について、もう少し付け加えたいと思います。まず、グモルクは「アトレーユの敵」と言っていいのかについて、ぼく自身は疑問に思えます。確かに、グモルクの標的はアトレーユかも知れませんが、グモルクはファンタージエン全体の、人間の、幼心の君の敵対者(の手先)だと言ったほうが適切ではないかと思います。ポンさんがおっしゃるような「本当の悪」とはおそらく「灰色の男たち」のような悪のことを指していると思うのですが、彼らとグモルクの違いは上述したようにグモルクと彼の仕える力が同一ではないということが一つの理由であるように思います。エンデ作品で言えば、『魔法のカクテル』のマーデ氏、『サーカス物語』のアングラマインなどがポンさんの言うような「本当の悪」、冷酷で非人間的で計算合理的な灰色の男たちのような存在だと言えそうです。一方で、『魔法のカクテル』で言えばマーデ氏に仕えるイルヴィッツァーやティラニヤはどこか人間的でユーモラスです。あるいは、『ジム・ボタン』の海賊たちもそうかもしれません。この違いは、前者は人間を唯物的なものに導く力であり、後者は間違ったところに置かれた善であるというところにあるかもしれません。『魔法のカクテル』では永遠の相の下で見れば、悪も善にとって必要であると言われています。いずれにしても、『はてしない物語』内の描写だけでは、グモルク自身について明確に何かをいうことはできないように思いますので、ご参考までに他作品との比較を通して、一つの見通しを示唆するだけに留めさせていただきたいと思います。

最後に、マックス・ムトについて少し触れさせて頂きます。まず、補助線として先日お話させて頂いた『有限ゲームと無限ゲーム』に触れたいと思います。Carseは(かなり端折った言い方をすれば)この二つのゲームのタイプを有限ゲームは勝利条件に合意するゲーム、無限ゲームはゲームを続けるためにルールを変えることに合意するゲームと特徴づけています。ムトにとって、それまでの旅はゲーム(=旅)を終わらせるためのもので、Carse的に言えば有限ゲームでした。ムトの転換は有限ゲームを無限ゲームへと変えること、つまり旅を続ける(ゲームを続ける)こと自体を目的としたゲームへと変化させたという点にあります。彼の倦怠は目的を達成すること、つまり旅を終わらせることへの絶望感にあります。ですが、彼は旅の終わりを前にして、自身がそれを望んでいないことに気づきます。そこが彼の転換点であり、ゲームそのものを変化させる転換点です。ポンさんはムトが「旅を続けることに疲れた」と書いておられますが、ムトが旅を続けることに疲れたのであれば、彼は旅を終わらせることができました。ポンさんが書かれたことを読む限りでは、ポンさんはムトが単に考え方を変えたのだと見ているようですが、実際は彼の行為の本質がそもそも変化しているのだというのがぼくの考えです。

以上、あまり問題を複雑化しないように、あえて触れていないところも多々あるので、言葉足らずな部分も多いかもしれませんが、よろしくお願いします。

 

Ponkichi③

 ありがとうございます。実はいぶさんにご指摘を受けてから自分がなぜ生命の水が人の内面から湧き出すものと思っていたのか考えていたのですが、やはり、バスチアンが来ることでしかファンタージエンが虚無を逃れる方法がなかったからであろうかと思います。もしも生命の水が何もかもの源泉(=愛を与えられるもの)であり得るならば、当然ファンタージエンは今ある人間の想像力が死んだところで未来のために維持されるべきですし、そうであれば生命の泉が枯れることがなければ、幼ごころの君は死ぬことなどないと思えるからです。ファンタージエンが虚無で侵されることが、人間界にも影響をもって、人間が目に見える真実(比べられる事実)しか信用できなくなる相互関係を持つならば、余計にファンタージエンは聖なるものとして保護されるべきです。でも、バスチアンがいなければファンタージエンのすべてが虚無に飲み込まれてしまい無くなってしまうということを目の当たりにすると、ファンタージエンそのものは人の想像力によって作られるものであり、その源泉である生命の水自身がその源である想像力の結晶であるであろうと考えたのです。だからこそ、現実世界に戻るためにファンタージエン創造のために使い果たした現実より持ち込みし想像力(=記憶)を飲み込んで記憶が戻ったというのが私の考えです。

 でも、いぶさんのお話を伺って、なるほど命の水自身は永遠のものであり、命の泉は永遠なるものから引き込まれていると考えることが妥当なのかもしれないという気もしてきます。確かにバスチアンがファンタージエンにやってきたとき、モンデンキントがバスチアンに渡した砂の正体がなんであるか、砂の正体はファンタージエンのわずかに残った一粒の砂なのですが、大切なのはその砂を想像力によって目に見えるものに変える働きをする何かですね。それが〈魔法の力〉、人間界とファンタージエンを結ぶ世界の架け橋、そして『はてしない物語』で常に皆を縛る決まり事です。この力こそ聖なるものの正体であり、それは生命の水であるという考えは合理的であるように思えます。

 ただ一つ納得いかないのは、そこに介在する人間の想像力自体は何の具現化もされていないのかということで、目に見えないものとして強調されているのかもしれないとも思われますが、魔法を叶える唯一の方法でありながらぼやけている感じが私はしてしまうのです。本という媒体を通じて行くときには簡単に行けました。しかし、帰りは水を飲まなければ帰れません。それは帰れる要素がないからです、というのはあまりにおかしく感じてしまうのです。だから単純に、失ったものを返してもらって帰ることができたという判断をしたのだと思います。

 しかし、ファンタージエン(=想像世界が具現化したもの)と現実世界を行き来できる水の存在があって、さらにそれを飲むことによって行き来が可能になるというのは、村上春樹も『騎士団長殺し』の中でメタファー通路から帰る方法としての川の水という形で採用していたりもするし、ファンタージエンを彼岸にするというような考え方にするのなら、そちらの方が正しいような気もします。

 要するに、本という媒介を使用したことが私の混乱を招いているのだと思います。そう感じて『モモ』についても再読してみました。

 『モモ』の中には池が出てきますね。美しい花が次々と生まれては消えていく場所としての池です。その池は、モモの心の中心にあります。そこには光の柱がまっすぐに降りてきていて、水面のすぐ近いところに振り子がある。まさに、この表現にあるように、水はモモの心の奥底で湧き出ているもの(=想像力)であり、そこに刺す光の作用(永遠なるもの・聖なるもの)によって自分自身の身の内に時間である花が誕生し、振り子(星々の声)の作用によって時間を得て成長し時間の経過によって枯れていき、また繰り返し咲いては枯れていく。灰色の男たちによって人々から盗まれた時間は花として保管されていましたが、本当の目的は、花を得て自分たちの命を長らえながら、自分たちの世界に変えるために人間から想像力を奪い、致死的退屈症に至らしめることです。あんなにマイスター・ホラに執着したのは、花を直接的に手に入れたかったからとホラは言いますが、同時に人間の池の水が枯れたら、いくら光と振り子があっても花を作り出す装置としての人間がいなくなるからではないかと考えられます。私にはマイスター・ホラがどのような方法で時間の花を作り、人々に分け与えていたかは、私には分かりませんでした。でも、それはきっと彼が永遠の泉だからできることかもしれません。時間の管理者だからとなるともう作れるからということになりますが。

 『はてしない物語』に引き続き、『モモ』の私の読み方はこうなりました。

 

 グモルクの話題、ご意見ありがとうございます。グモルクを敵としたのは、『「はてしない物語」事典』のグモルクの項目に、アトレイユの唯一のかたき役とあったからなのですが、確かに敵はおかしな表現だったと思います。私も敵とは思っていなくて、ただ、どうしてそこまで律義に悪者に忠誠を誓っているのか不思議に思うのです。それはひょっとしたら、事典にある「2つの世界どちらの世界にも属していないので、どちらの世界も愛せない」というところによるものなのかもしれません。でも、キャラクターの中でも私にとってはすごく重要なものになりました。

 

マックス・ムトについて、私が言いたかったのは、ゲームは一人で行われているわけではないので、他者の納得のいくルールに従わなくてはならないのではないかという事だったのですが、いぶさんのおっしゃられた通り、よく考えてみるとムトは自分のために無限のゲームをすることに決めたのなら、有限のゲームの理屈は通らないなということが分かりました。この部分は現実的に考えるのはやはり物語を台無しにするだけだとも思います。

 それと話題が逸れますが、先日『BLAME!』を鑑賞したのですが、育ち続ける都市の構図が全くムトと同じだったのでびっくりしました。増大し続けるムトの都市は人をそのまま飲み込みましたが、増大し続けるブラムの都市はその自衛機能によって人を殺害し続けていました。そのどちらが現実的かを考えるのもおもしろいなと思います。もう人はとっくに飲み込まれていて、次に予測されるのは殺されることかとも思います。

 

 愛の段階については、私は他者的な段階についてはいぶさんに同意しますが、それを経ての自己的な段階ではなく、同列的に行われ、永遠的な何かは段階を経て初めて得られるものではなく、常に降り注いでいるものであろうと思います。

この点、いぶさんのお考えをきちんと理解していない可能性もあるので、ご指摘があればよろしくお願いします。

 

 いかがでしたでしょうか?

 毎回丁寧にお答え頂けるので、どんどん考えることが増えてしまっています。

さて、次回の転回はいかに!