番外編 エンデ『AだからBという関係性を超えて』ブログの向こう側 ―いぶりぃさんに質問!―(1)

 先日アップさせていただきましたエンデの著作を通じてエンデを知ろうとする試みですが、ブログにも書かせていただいた通り、元はいぶりぃさん(@iwri)の読書会でのお話からヒントを得、その後もいぶりぃさんにお話を伺ったり質問させて頂いたりして文章を書けている状態となっております。

 その際、文章をやり取りさせていただいたものを私だけが独占しているのはもったいないと感じましたので、ブログに掲載する許可を頂きました。それをここに掲載させていただきます。

 なお、やり取りはどんどん継続しておりますので、まとまり次第随時アップさせて頂きます。

 

いぶりぃさん①

原稿拝読させていただきました。 一点疑問点があります。共感と愛をイコールで結んでいいのかという点です。エンデが言 う、創造的力の最高の形式としての愛、というところで言えば、愛はもちろん共感ではある わけですが、共感より狭い、こう言ってよければ、高次のものだという気がします。先日も 少し引用しましたが、エンデは書簡の中で、人の嫌なところがまず目につくわけだが、その 背後に愛すべき点を見つけるのには創造的とも言える努力が必要だと言っていますが、そう いう意味では、反感/共感図式で言えば、反感を乗り越えた共感と言えるかもしれません。 ぼく自身は以前、最高度の共感と表現した記憶があります。 補足を含めて付け足しなのですが、「はてしない物語」に即して言えば、愛することへの道 は段階的だと読むことができます。初めに、イスカールナリたちの和合、自他の区別のない 融和があります。第二にアイゥォーラの母性的な愛、血縁に基づいた愛があります。第三に 愛の前提になる愛の対象の発見、同時にミンロウドでの自己自身への沈潜(ここの部分は議 論が複雑なので無視していただいて構いません)です。単に子どもの共感といったとき、お そらくイスカールナリやアイゥォーラ的なものも含むのではないかと思います。 ここからは付け足しですが、エンデは子安先生との対談(エンデと語る)で希望信仰愛を超 自然的な徳、「にもかかわらず」の徳だと言っていたのを、記事をよませていただいて思い 出しました。お読みになられたことがあるかわかりませんが、この点については『自由の牢 獄』所収「夢世界の旅人マックス・ムトの手記」が示唆的かもしれません。ご参考までに。

 

Ponkichi①

 ご意見ありがとうございます。

 共感を愛に持って行った部分は自分でも多少強引かとは思っていました。この部分には何か一つ書き加えたいと思います。そこの問題点は、私が必然性の鎖から解放される創造性についての文章を見つけられなかったからで、何かいいものがあったらご提示頂けると助かります。

いぶさんのご意見のとおり、バスチアンは物語の中で、イスカールナリたちのような並列的な存在ではなく特別な愛を受けた特別の存在になりたいと願う事、アイゥオーラによる無償の愛を授かることによって起こる誰かを愛したいという気持ちを持つこと、そしてヨルの採掘場で暗闇と沈黙の中で愛するものを見つける行為をすることという段階を経て、自らを取り戻していきます。

ミンロウドで自らの中に入る愛については、暗闇と沈黙の大切さを表したいい文章だと思います。人は自らの深みに入らなければ大切なものを得られないときもありますが、一人きりで深層心理に入り込むというのは精神的にも肉体的にも大変な苦痛を強いるし、それこそ帰って来られなくなる可能性がある。しかし、彼は採掘士見習いであり、ヨルという師匠を得て入っていますから、その辺りは導くとは何かという問題に繋がっていくように思います。

ただ、一番大切なことは、アトレーユという、孤児でありながら、皆の息子として部族の皆が大切に育てた、すべての愛を持った人が常に側にいたということだと思うのです。そして、アトレーユはバスチアンが作り上げた希望的な私、自らが欲していても手に入らないと思っていたすべてを持つ私の中の私です。彼は常にバスチアンの傍らにいて、バスチアンにすべての愛を注ぎます。それは、前述された過程を経て実は何者になりたいのかという答えを示している。つまり、愛せる人です。バスチアンはアトレーユを拒絶して一人になった時に試練を受けられるようになりますが、これこそが、作中でエンデが言いたかった最大のこと、自らの中にある愛せる人を、ある時は愛し、ある時は助け、ある時は裏切り、拒絶し、自分自身を構築しなさいという示唆であると思うのです。これは、自分自身に対する感情のコントロールを意味しています。いぶさんが指名してくださった他者から受ける感情と、自分自身の感情。この二つの感情に対して同じように体験しなければ得られなかったものがバスチアンには必要だったのだと思います。アトレーユがすべてを持った人なので、私は敢えていぶさんのおっしゃったことに対して段階的な愛などと言うものは無くて、愛というものは全てにおいて愛なのだというお答えをしたいと思います。例えば子どもであっても深い愛は十分に持ち合わせているように思います。

「夢世界の旅人マックス・ムトの手記」読み直しました。私は自分をさ迷えるリドルマスターと位置付けているので(笑)彼の気持ちは非常によくわかります。しかし、彼は誰かのために働き、それを自分の生きる糧にしているのだから仕事論のようにも読めて切ないですね。哲学や科学を超えたところにある人間自身の徳について、深く考えていきたいです。

 

いぶりぃさん②

お返事ありがとうございます。

まず、ご質問の方ですが、先日引用させて頂いた愛は創造力の最高の形式であるとのエンデのメモは、ロマン・ホッケによる『はてしない物語辞典』の中で引用されている未公開遺稿からのものです。ぼくは原書しか持っていないので邦訳は確認していませんが、ご参考にはなるかと思います。なお、本の内容自体はエンデの未公開遺稿がかなり引用されているという意味で貴重ではありますが、基本的にはロマン・ホッケの見解によるところが大きいので、あくまでホッケの見解、あるいは二次創作と見たほうが良いかと思います。それ以外に、明確にこの点を示唆しているテキストは、ちょっと思いつきません。あえて言えば、こちらも先日引用させていただきましたが、遺稿集『だれでもない庭』に収録されているNさんへの手紙の中で少し触れられています。作品で言えば戯曲『サーカス物語』かなとも思いますが、作品の場合、それ自体が語られているわけではないので少しどうかなと思います。

さて、最初に少しぼくの書き方が悪かったようなので、一点訂正させていただきたいと思います。ぼくはイスカールナリから生命の水までの道のりを「愛することの段階」とは考えていません。「愛する」とは生命の水を飲むことで初めて可能になることであり、そこまでの段階はあくまで「準備段階」のようなものであり、ここまでの文脈に即してあえて言うならば「共感の段階」と言ったところです。ぼく自身のこの点に関する見解を厳密に言うとまた少し違ってくるのですが、これは話を簡略にするためにあえてあまり触れなかった第三の論点と係わるので、この点は後述させて頂きます。

アトレーユの存在をどう捉えるかについては、おそらく作品解釈を大きく分ける点だと思いますが、ぼく自身の考えで言えば、解釈そのものについては個々人に委ねられるべきだと思うので、その点についてはポンさんが納得の行く解釈をされれば良いのではないかと思います。かわりにと言ってはなんですが、作品内における事実的な点については一つ指摘させて頂きたいと思います。ポンさんの書き方ですと、アトレーユはそもそも「皆の息子」として愛することを知っている存在であるという風に読めますが、この点については、アイゥォーラのファンタージエンの生き物は愛することができないという言及について検討が必要かと思います。生命の水を飲むことが出来た少数のものだけが愛することができる、とアイゥォーラは語ります。アトレーユ自身、生命の水の場面で僕は前にここに来たことがあると言う趣旨のことをいいます。つまり、アトレーユが愛することができるのは生命の水を飲んだからなわけで、これはもともとアトレーユが愛することができる存在ではなかったことを示唆しています。この点については、ぜひご一考頂ければと思います。

もう一点、補足的な指摘をさせていただきたいのですが、ミンロウド、あるいはファンタージエンそのものの問題です。ぼくが読んだことがある多くの『はてしない物語』論ではあの世界をバスチアンの内面世界、深層心理的な世界と解釈しています。しかし、エンデ自身もどこかで指摘していたと記憶していますが、ファンタージエンは単にバスチアンの内面世界ではありません。これは作中で様々に示唆されています。例えば、三人の騎士が荒野で歌う歌はシェイクスピアリア王の道化の歌(だったと思いますが)であり、シェクスピアーとかなんとかいう旅人(邦訳だと少し分かりにくい言い方になっています)という言い方がされていたと思いますが、かつてシェイクスピアファンタージエンを旅したかのように書かれています。また、ミンロウドの絵についても、明確にダリの絵画や父エトガーの絵画を指していると見える描写があります。ヨル自身もそれは人間の忘れられた夢の層だと言っています。ノヴァーリスの有名な断章を引いて言うなら「内部へと神秘に満ちた道が通じる」わけです。いずれにしても、あの世界、単にバスチアンの内面世界・深層心理と考えるのは、少し単純化しているように、個人的には感じています。余談ですが、ミンロウドはとても興味深い舞台です。鉱山はドイツ・ロマン派の主要なモチーフの一つでした。ノヴァーリスはもちろん、ティークやホフマンらも鉱山を描いています。ロマン派においては、鉱山は神秘的で、魔術的(あるいは魔的)な、ある種の別世界のように描かれます。エンデがこのようなロマン派的伝統に対して、意識していなかったとはとても思えないところです。

最後に、少しだけ愛・創造力に係わる第三の軸について触れさせて頂きます。エンデは愛は創造力の最高の形式であり、それはカバラのセフィロトにおけるケテル(王冠)のセフィラだと書いています。重松禅師との対談の内容と合わせて考えると、ここでエンデはいわゆる高次の自我について触れていると考えられます。その意味で言うと、最初に書いたことに戻りますが、ぼく自身の解釈を厳密に言うならば、イスカールナリたちのところから、生命の水までの道のりは自我発展の道のりであり、自我の段階的発展の道のりだ、ということになります。ぼくの解釈が少しわかりづらくなっているかと思い書きましたが、今までの議論の流れで言いますと、この点についてまで話を広げると、少し広げ過ぎだという気がするので、この点については無視して頂いて構いません。

もう一点補足で、言葉が足りなかったのですが、マックス・ムトの物語で注目して頂きたかったのは、彼がA→B→C…という~だから~する(しなければならない)という振る舞いから、自らC→B→Aというルールを作り出す(創造する)という振る舞いへと転換した点でした。彼が旅を続けるのは旅をしたいから(原文を直訳すると私は好んで旅をするという感じになります)です。この自らルールを設定することで因果論的関係(~だから~する)を超えるという点は、エンデの遊戯論の重要なポイントで、『サーカス物語』で愛と自由と遊びという三つが並列され、この三重のものは結局一つのものなのだと言われることとも関わってきます。ですが、これもまた少し話を広げすぎたかもしれません。エンデの愛ということを深く考えようとすると、実際、かなり幅広いエンデの議論を抑えないといけないということと理解して頂ければと思います…。

 

Ponkichi②

丁寧にお答えいただいてありがとうございます。

 付け加える部分は「Nさんへ」をまるまる引用しました。多少分かりやすくなったかと思いますが、いぶさんのご指摘のとおりエンデの文章は多様性があるように思うので、これがすべてかというとやはり自信はありません。この前お話しさせていただきましたが、少し続けようという意思が生まれたので、芸術論と遊びのお話にして続けたいと思います。

 今回はここまで。ブログ掲載前の文書までです。

 本文より内容も濃く、きっとお楽しみいただけたのではないかと思います。

 次回もお楽しみに!