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『騎士団長殺し』の考察 ― 二重思考と二重メタファーについての考察 追加 ―

人生は意図せずに始められてしまった実験旅行である。

 

フェルナンド・ペソア 『断章』107

 

 

 二重思考と二重メタファーについて、先の文章では少し誤魔化していた部分があるので、ここで追加させていただきます。それは、二重メタファーは自身の中にあるものであり、二重思考は組織によって無理やり強制されていたものであるという違いです。

 

 つまり、ビッグ・ブラザーは初めから党の本部が洗脳のために存在させていた一個の個体(客体)であり、そのビッグ・ブラザーの存在を許さなかったために苦悩に合うことになったウィンストン(主体)とのビッグ・ブラザーの関係性と、始めから関係しているかどうかわからないまま、主人公の空想の中で主人公の行為を〈知っている〉あるいは〈そうさせた〉と思わせた白いスバル・フォレスターの男との関係性は、似て非なるものであるということです。

 端的に言えば、二重思考と二重メタファーでは、それに対峙する人間の立ち位置が内か外かで全く逆であるということができるのです。その説明がとても難しいので、先日のブログアップ時には意識的に省いてしまったのですが、そこはやはりきちんとさせておきたいと思い、追加させていただくことにしました。

 

 『1984年』の中でのビッグ・ブラザーは当初からウィンストンの外の人でした。であるからこそ、ウィンストンは彼を受け入れるため二重思考を作り出し、それを飲み込もうとしました。その苦悩が『1984年』のテーマであり、最終的に彼のすべてを受け入れてしまったウィンストンにとってそれは中の人になってしまったのです。

 それに対して『騎士団長殺し』の白いスバル・フォレスターの男は、その存在こそ実在しているものの、実在する人は全く主人公に関与しているはずのない人であり、ただ主人公の内でのみ主人公のあらゆる可能性を否定し悪事を働かせる人として存在し、それは絵に描かれることで表象して目に見えるようになった内の人であるのです。

 

 このことは、実は非常に重要で、なぜ村上春樹が二重思考でなく二重メタファーという語をわざわざ使用したかに深く関連します。

 

 『1984年』でウィンストンにとってビッグ・ブラザーが二重思考をさせる悪人であるうちは、ウィンストンは人間性を保っていられた。しかし、ウィンストンが彼のすべてを受け入れ、彼の髭の下の微笑まで見てしまったときに、二重思考は二重メタファーになって内に入り込みウィンストンを飲み込んでいった。その『1984年』の出来事を踏まえ、なぜ『騎士団長殺し』の白いスバル・フォレスターの男は全てを描かれることがなかったのかを考えてみます。するとそれは、白いスバル・フォレスターの男が『騎士団長殺し』の主人公の内でのビッグ・ブラザーになりきっていなかったからだということができます。白いスバル・フォレスターの男の拒絶はつまり、主人公自らの拒絶であった。こう考えるとすごく整理しやすくなります。

 

 さて、ここまで凝ったことをなぜ村上春樹が行ったのかと言えば、村上春樹がこの小説の中で救いたかったのは、雨田具彦氏だけでなく、ウィンストンの魂もだったのかもしれないと私は思います。『1984年』を読んだ方なら誰しも、ウィンストンが未来に託したものの重要性に心を打たれたと思います。しかし、同時に人にはオブライエンの持つ権力への信仰や他者よりも強いことへの憧れがあり、これは拭いされるものではありません。そういったものを乗り越える人の力とは何かを追求したら、普通の人が二重メタファーというものに打ち勝つ姿が浮かんできたに違いないと思います。

 

 ここまででいったん『騎士団長殺し』の考察としての二重思考と二重メタファーの違いについてを終わらせていただきます。

 

 しかし一方で、〈心の外にある何か〉が〈心の内にある何か〉に変化することとはどういうことか、〈心の中で二重メタファーにつかまる〉というのはどういうことかという疑問が残ります。前回のブログの最後でほのめかし、ツイッターで少しつぶやかせていただいたこの〔心についての課題〕は、また後程、別の仕立て方で書かせていただきたいと思います。

 

フェルナンド・ペソアの引用について

ここで使用させていただいているペソアの引用は

澤田直訳 『不穏の書、断章』2013年 平凡社ライブラリー

を使用させていただいています。