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『騎士団長殺し』の考察 ― 2.メタファーについて(2)芸術と存在 ―

いまの私は、まちがった私で、なるべき私にならなかったのだ。

まとった衣装がまちがっていたのだ。

別人とまちがわれたのに、否定しなかったので、自分を見失ったのだ。

後になって仮面をはずそうとしたが、そのときにはもう顔にはりついていた。

 

フェルナンド・ペソア 『断章』55

 

メタファーが住み着いた絵

意識は、ある経験の契機の人為性を強化する武器である。それは最初の〈実存〉の重要性との関係にしたがって、最終的〈現象〉の重要性を昻める。こうして、意識のうちで明晰判明なのは、〈現象〉であり、そして意識内でほとんど区別されえない諸細部を伴って漠として背景に横たわっているのは、〈実在〉である。意識の注意のうちに飛び込んでくるのは、〈実在〉そのものの直観というよりも、むしろ〈実在〉に関する一塊りの前提である。誤りに陥りがちなことが起こってくるのは、まさしくここである。明晰判明な意識の引き渡しは、経験内での明晰でも判明でもない要素に照会することによる批判を必要とする。これらの要素は、逆に、漠然としており、重厚で、そして重要なものである。これらの要素は、芸術に、色調のあの最終的背景を提供するものであり、それを度外視すれば、芸術の効果は薄れてしまう。人間の芸術が探し求めるタイプの〈真理〉は、明晰な意識に現示される客体につきまとうこの背景を引き出すところにある。

 

ホワイトヘッド著作集第12巻『概念の冒険』 山本誠作・菱木政晴訳 松籟社 p372

 

 私がこの引用で何が言いたかったかといえば、あの雨田具彦画伯の絵にはなぜメタファー(顔なが)が描かれていたかということです。もちろん、メタファーであるところの〈顔なが〉は雨田具彦が描いた時には、この「絵には隠された秘密がある」ということの隠喩の部分を表現するために描かれたということは想像できます。しかし、その部分は一般的には描かれるようなものではないはずです。

 上述のホワイトヘッドの引用にもあるように、「人間の芸術が探し求めるタイプの〈真理〉は、明晰な意識に現示される客体につきまとうこの背景を引き出すところにある」のですから、「漠然としており、重厚で、そして重要なもの」として鑑賞側に読み取られなくてはならないものです。そこを、敢えて描くことによって表象したのは、無論雨田画伯の思いの強さが引き起こした衝動からであり、あの絵が他者に触れることなく客間の屋根裏に隠されていた理由でしょう。それだけ雨田具彦のあの絵に込めた思いは強く、重く、そしてメタファーによって深い深い闇の中に隠蔽されていたのです。

メタファーが繋ぐもの

 見者が自閉的に自らの幻視に淫したり、秘教知への解釈の鍵を欠いていたりすると、理性にして、かくて非理性と、あざとく踝を接するのである。プラトンにとって、そして特に後期の幻覚好きなネオプラトニストにとって、知は内観であり、判別知の高められた何かであった。個をそれに先行するものから峻別すべき分離分別などない。何かが真と言えるのは、個別の中小真理が不十分に反映しうるのみの大真理イデアあればこそである。一者がその表現形態のうちの何かと同一ということはありえないが、それらはそれぞれのやり方で同じ現実に参加している。探究者と探究対象の間の類似が見抜けないでは親和力(affinities)の発見も何もあったものではない、とプラトンは言っていた。しかるに、繋ぎとめる営みがアレゴリー化されるにつけ、とはつまり、精神に観念として現れる世界を、思惟の外側に存する世界から唐突に分けてしまう分断を、主体がほとんど超自然的に意識するにつれて―関係付け(making connections)はどんどん恣意的なものになっていった。

 美の瞑想の中で自意識を失っていくことが、我々がその対象に対して持つ空間的、時間的、そして因果の関係を意識することを止めるということを、ショーペンハウアーにとって意味したとすれば、ヘーゲルにとってそれは贖いとなる総合の最終的な復活と言うべきものを意味した。思想や存在のあらゆる差を奇跡のように「止揚」し、それらの欠除をより完全な第三項に総合するヘーゲルの〈理性(Vernunft)〉の超絶‐円環は弁証法的同一性にいたる。ヘーゲルの理想主義哲学は、社会がつくりだした二元論カテゴリーを解体しようと腐心した一昔前の象徴狂いを後から体系的になぞったという体のものである。鋭い知覚力を持った主体には、二重化するイメージ、表にあらわれる照応関係の発見と創造を介して、具体化を待つ受動的現実の上に出て、これを変容させる力が具わっている。互いに違うところもあるが、ヘーゲルショーペンハウアーともに、その瞑想された対象は、我々の意思を脱し、あるいはミメーシスを超えて、非表題的(nonprogrammatic)な音楽を最高の受肉形態とするところの非表象的(nonrepresentational)な知と化していく。

 

バーバラ・M・スタフォード著 高山宏訳『ヴィジュアル・アナロジー つなぐ技術としての人間意識』 2006 産業図書 p97

 

 スタフォードの引用は難しいけれどいろいろ考えさせられるところが大きいと思います。理解を深めるため長文の引用をしましたが、私がここで使用したかったのは最後の部分です。「その瞑想された対象は、我々の意思を脱し、あるいはミメーシスを超えて、非表題的(nonprogrammatic)なもの(音楽)を最高の受肉形態とするところの非表象的(nonrepresentational)な知と化していく」

 

 主人公は絵の中の主人公に成り代わってイデアを殺しました。

深く深くメタファーの中に沈められていた思いを表象させ世界に再現させたことは、歴史を変えたことに等しくそこには責任が伴う。それは、非表題的なものをメタファー通路を通ることにより非表象的な知として返し、芸術として昇華させることによって初めて可能となるのです。

 

 主人公がなぜメタファー通路を通る試練を受けなければならないのか。それは秋川まりえを救うためなのですが、まりえが受ける受難と「騎士団長殺し」の再現により歴史を変えることが繋がっていることをイデアは予め知っていて、そのためにまりえの前にも現れたと考えると、それまでの間イデアがまりえを救うために奔走していたことと辻褄が合います。

 

 そうして、無事試練を超えて主人公が穴に戻り、免色に救われたと同時に、歴史が元に戻ってまりえはまりえの歴史を生きることが可能になった。実は免色も免色の正しい歴史を生きることも可能になった。

 

この部分の私の読み方はこのような感じになりました。ここは読み手によって読み方が異なることもあるかもしれません。しかし、このように読むことが自然であるように思います。

 

次回は二重メタファーとイデアに本当の悪と呼ばれた男のことをオーウェルの『1984年』の引用を使って読み解きたいと思います。