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『騎士団長殺し』の考察 ― 2.メタファーについて(1)『ねじまき鳥クロニクル』との比較―

人為的なもの、それは自然なものに近づくための道である。

 

フェルナンド・ペソア 『断章』16

 

 

村上春樹と暗くて深い穴について

村上春樹の本が好きなひとにとって『ねじまき鳥クロニクル』はおそらく特別な一冊になっていることと思います。私も、彼の本は勧められて数冊読みましたが、『海辺のカフカ』と『ねじまき鳥クロニクル』はファンタジーとして楽しく読めました。

さて、『ねじまき鳥クロニクル』と『騎士団長殺し』の類似点といえば、そこに暗くて深いけれど入らなければならない〈穴〉があることです。

ねじまき鳥クロニクル』では、その穴は別世界、あるのだけれどない世界、深層心理世界あるいは実世界への闇の通路のようなものとして登場してきます。主人公は妻を取り戻すために何度かそこに入り込むことになるのですが、それはあくまで義理兄の綿谷ノボルとの闘いを意味する、いわば、歪んだ世界を正常な世界に戻すための儀式に使用されたように私には思えました。『ねじまき鳥クロニクル』自体が神秘性に富んでいて、ちょっと神がかっている世界観に覆われた物語ですから、そこに登場するある人物は特殊能力を持っていて、その能力は実生活とは実は無縁の、縁があるとすれば、それはそれを必要とすると感じた人のみがその人と接触を持って受けなくてはならないような、そんな能力のある世界です。

現実にも、占い師とか祈祷師とかそういう人たちは存在していて、そういう人たちは私たちの想像を超えた深層への道を乗り越えて、そこから情報が得られるのだろうというような意識で書かれたのだろうと想像できます。

 

しかし、今回『騎士団長殺し』の中に出てきた穴は、イデアである騎士団長を開放し、メタファー通路の終着点として主人公が最後に到達した場所になりました。それは、人工物でありながら、私たちの世界により近しいものとして存在するなにかでした。そして、そこにまず存在したのはイデアであり、『ねじまき鳥クロニクル』の中にちらついていた宗教性を排除するような意思を私たちに思わせます。

 

ここはこの世界の一部ですと。

 

『騎士団長殺し』の中の一貫したテーマは、この「この世界とは何か」ということではないかと私は思うのです。

 

前章の「イデアとは何か」の中で、私は、〈イデアは私たちや私たち以外の事物の根源を世界(自然)に存在させるために不可欠な存在〉と書かせていただきました。私たちを私たち足らしめる存在ともいえます。

ねじまき鳥クロニクル』には、井戸の底で起こった出来事が実際の自分に影響している(例えば顔にアザができるとか)ことについて、本人の意識はまるで追いついていきません。それどころか、向こうの世界の影響を受けて、知らないうちに自分の顔にアザができていたという不気味さと不思議さに本人は翻弄されます。しかし、実際に自分の身に起きた事実について、そこまで意識が離れていることは、存在自体に何が関与したのかわからないという感覚を読者に植えつけます。それがこの物語のおもしろいところでもあるのですが、煙に巻かれたような、そういう意識を持たされる気分にもなります。ナツメグとの出会いや、ナツメグからあの家ごと井戸を買い取るためにしていた行為についても、ナツメグが商売にしていた行為についても謎のままです。ナツメグがしていた、ただ誰か(女性)の頭にある悪いものとの接触とそれを宥めることが、人の存在の何に触れ何をしたのか。

そして、ナツメグの過去とシナモンの書いた「ねじまき鳥クロニクル」になぜ井戸の中の世界での主人公の行動様式が深くかかわっていくのかも、〈ねじまき鳥の声を聴くものの繋がり〉としか連想することができません。

それらを全てひっくるめて、一連の出来事は、妻を助けると決めた主人公の上に降りかかった運命的な出来事として扱われているように思います。

 

『騎士団長殺し』を読んだ方で、まだ『ねじまき鳥クロニクル』を読まれていない方のため『ねじまき鳥クロニクル』についての記載はこのくらいにしておきますが、『騎士団長殺し』を深くお読みになりたい方には『ねじまき鳥クロニクル』をお読みになることをお勧めします。

(比較でなくても、時間と歴史の問題やファンタジー的な要素について考えるだけでもおもしろい作品です。)

 

『騎士団長殺し』では、雨田具彦の描いた絵画に描かれた真実を、事実ではない、けれど真実としてこの世界に存在させるために主人公は尽力することになります。

 

それは、主人公の妻が離婚を申し出た時から、あるいはそれ以前から、決められていた運命なのかもしれません。しかし、主人公のその後の行動は『ねじまき鳥クロニクル』とは全く違って、自らが家を出て東北を旅するというものでした。その旅の途中の出来事も、その後の彼の在り方に深く影響するのですが、ここで私が言いたかったのは、『ねじまき鳥クロニクル』の主人公は30歳で、『騎士団長殺し』の主人公は36歳。この差は実は大きいのではないかということです。『騎士団長殺し』の主人公は、この部分を含め、物ごとに対する対応が、すべて一貫性を求めて思考した結果であり、他の人々への配慮もされています。

もちろん、主人公の人格的な差異の問題なのかもしれません。しかし、『ねじまき鳥クロニクル』の主人公も決して思慮に欠けた人物ではありません。おそらく、経験の差が大きいのだろうと私は感じます。そしてこの経験の差は、人生においてそれだけ人を変化させているということも、村上春樹が言いたかったことなのかもしれないと思うのです。

 

話が少し横道に逸れましたが、この部分に触れておきたかったのは、『騎士団長殺し』の主人公は、自分のためにというよりも、自分が巻き込まれてしまった、けれども抗えない何かのために力を尽くすことに対して、既に抵抗よりもできる限りのことをすることを選択できるということです。もちろん、果敢に挑戦するほど勇敢な性格ではありません。ただ、むやみに抗わない。そしてそのことが、この物語を順序良く進めていくために重要なアイテムの役割を担います。

客間の天井裏にあった絵を発見しても、それについて製作者の意を汲んで秘密にできること。真夜中に聞こえる鈴の音。その場所を突き止めても無力だと知り、適切な協力者に協力を依頼できること。騎士団長の存在を受け入れること。そしてその願いを聞き入れること。女性問題もあるし、それらすべてをさせようと思ったら、少年でもなければ、私でも一番年少でも36歳くらいにするかなぁと思います。

そして何より、彼は芸術家であった。芸術家とは世界を具現化する術を持つトリックスターでもあるのです。

 

 

次回は芸術と世界の具現化について書かせて頂こうと思います。

こちらは少しいろいろな人の考察を引用させていただいたものを交えて、少し本格的に考えていけたらいいなぁと思います。

 

今回はあえて作品の引用は避けさせていただきました。村上春樹さんの作品は引用すると何だか急に色を失ったようになる気にさせます。それだけ構成に凝っているということなのか、はたまた全体で読ませる作りになっているのか。世の批評家の間では新しいものが書けなくなっているのではないかと言われていることもあるようですが、私はそうは思いませんでした。むしろ両方とも面白くしているように思います。

 

ひとつだけ、フェルナンド・ペソアの『断章』の部分は、これから先も冒頭に付けさせていただこうと思っています。

それは趣味ですw