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『騎士団長殺し』の考察 ― 1.イデアについて ―

イデアとは何だったのか

『騎士団長殺し』の一番難解なところは、騎士団長であるところのイデアとはいったい何者なのかということに尽きると私は思っています。「私は(私の)イデアだ」というときのイデアだったとしたら、「私は私たらしめるもの自身だ」という意味で捕らえられることですが、騎士団長はイデアそのものであり、その場合のイデアとは個々の存在を存在たらしめる役割を担うものということになります。しかし、騎士団長はいつの間にか私はイデアになっていたと言っている。

完全にネタバレになってしまうのでここには詳しくは書きませんが、騎士団長が騎士団長でなければならなかったのは、一連のものごとを開始させるためであり、一連のものごとの必然の帰結でもあると、後に騎士団長の口から語られます。

そうなると、村上春樹のいうイデアとは、ものごとの始まりと終わりを司るメッセンジャーということになります。しかし、私たちの存在は、自己を取り囲む事象の変化に基づいて自然に変化することが一般的で、イデアとはその変化に適応した自分であることを保証する存在ではないかと私は思っていました。私が人であること。私が女であること。わたしがポンキチであること。それらをこの世界につなぎ留めておくことのできる何かがイデアであるのではないかと思うのです。そして、イデアは私たちや私たち以外の事物の根源を世界(自然)に存在させるために不可欠な存在であるはずです。

なぜ村上春樹イデアにそのような役割を担わせることになったのか。その答えは、本当はあるべきであった事象が起きていないとイデア自身が動き出さなければならないような事件が起きてしまったからです。そして、それは雨田具彦が直面した戦時中の事実と彼への破壊によって生み出された〈騎士団長殺し〉という絵画の存在です。雨田具彦は口では語らなかった物事を、成し遂げられなかった出来事を、寓意として絵の形にし、それは絵の中で実現したものであるにも関わらず、起こるべきであった出来事としてイデアに読み取られてしまった。そのような事件をこの物語の本質として設定することにより、雨田具彦のみならず、あの戦争によって殺害された多くの人たちの存在を、語られなかった存在としてイデアに認めさせること。それがあの戦争を体験して死んでいくものや死んでいったものへの村上春樹の鎮魂的なメッセージとしてあるということを、読み手は読みとるべきではないかと私は感じます。

一つの不思議があります。雨田具彦の騎士団長殺しの絵の中になぜ〈顔なが〉が存在したかということです。作中で語られる通り〈顔なが〉はメタファーです。〈顔なが〉は確かに〈騎士団長殺し〉の中に描かれていましたが、そのためには雨田具彦が〈顔なが〉の存在を知らなければならない。しかし、逆に言えば、雨田具彦がこの絵の中には真実が秘密裏に隠蔽されているということを表すために描いた何かが、今度はメタファーの形を取って現れたと言えます。ここに書いていてやっと自分でも納得できました。

そうなると〈メタファー通路〉を雨田具彦は知っていたのだろうか?気になりますよね。

 

 

次回に続く

 

追記

 

 人間の本性にかんする問題、つまりアウグスチヌスのいう「私自らを対象とした問題」quaestio mihi factus sum は、個人の心理学的意味においても、一般的な哲学的意味においても、回答不可能なように思える。自分以外のことなら、まわりにあるすべての物の自然的本質を知り、決定し、定義づけることのできる私たちが、自分自身についても同じことをなしうるというのは、あまりありそうにないことである。それは自分の影を跳び越えようとするのに似ている。その上、人間が他の物と同じような意味で、本性とか本質をもっていると考えられる根拠はなにもない。いいかえると、かりに私たちが本性とか本質を持っているとしても、それを知り定義づけられるのは、明らかに神だけである。神がそれをよくなしうるのは、なによりもまず、神は“who”について、それがあたかも“what”であるかのように語ることができるからであろう。厄介なことに、「自然的」特質をもつ物―人間とは有機的生命の最も高度に発展した種の一例にすぎないと限定してしまえば、ここに人間自身を含めてもよい―には適用できる人間の認定方式も、「われわれは何者であるか?」(who are we?)という問いを提出できる場合には通用しない。これこそ、人間の本性を定義づけようとする企てが、必ず、ある神の創造に終わり、結局、哲学者たちが最後には神を創造せざるをえない理由なのである。プラトン以来、この神はよく調べてみると、一種のプラトン的人間のイデアとして現れている。だから、もちろん、このような神の哲学的概念は、実のところ人間の能力と特質の概念化にすぎないと暴露することはできる。しかし、そうしてみたところで、別に神の非存在が証明されるわけでもないし、神の非存在を主張することにもならない。しかし、こうはいえる。つまり、人間の本性を定義づけようとすると、「超人」としかいいようがない、したがって神といってもいい一個の概念に必ずゆきつくという事実は、ほかならぬ「人間の本性」という概念そのものに疑いを投げかけるものであると。

 他方、人間存在の諸条件―生命それ自体、出生と可死性、世界性、多数性、地球―は「われわれは何者であるか?」という問いにも答えることができない。それはこれらの条件が私たちを絶対的に条件づけていないという単純な理由によってである。このように説明してきたのは常に哲学であって、人類学、心理学、生物学など、やはり人間自体に係わっている科学はそうはいわなかった。たしかに、人間は今も、おそらくは将来も、地球の条件下に生きるであろう。しかし、今日にいたって、人間は、単に地球に拘束されたままの被造物ではないということが、科学的にも立証されたといってもよいのではないだろうか。近代の自然科学は大きな勝利を収めてきたが、それは、地球に拘束された自然を完全に宇宙の視点から眺め、取り扱うことができたからである。そして、この宇宙の視点というのは、わざと地球の外部にはっきりと設定されたアルキメデスの立場にほかならない。

 

 

ハンナ・アレント 清水速雄訳『人間の条件』ちくま学芸文庫 pp23~25

 

 

 

 プラトンイデアの正体について、私の知識の不足を補うためにアレントの引用をさせていただきました。「われわれは何者であるか」を知るためには「超人」としかいいようがない何かを設定する必要があること。そして、それは普通〈神〉と呼ばれるものであることが、この引用で理解しやすくなると思います。

 なぜ村上春樹が〈神〉ではなく〈イデア〉を召喚したのかはまた後程考えていきたいと思っています。

 アウグスチヌスやアクィナスが不勉強で引いてこられないことは全く私の不勉強のせいなので、ここのところはもう少しちゃんと理解を深めていきたいと思っています。アレントに感謝!