小沢健二の新曲と新聞広告の幸福感について

小沢健二世代

小沢健二といえば、私の世代の人たちは大好きで、東大でバブリーで、ポップで、この上なく愛し愛された人というイメージで、時代の移り変わりにうんざりして、作詞もしなくなって、そうして日本を飛び出してしまったという感覚だったが、このたびの新曲や新聞広告は、今の日本の現状に耐え切れなくなってやってきた聖人君子になって帰ってきたのかしらと思わせた。もちろん歌も広告も概ね受けはよくて、引っ提げてやってきた歌「流動体について」ではもちろん、間違いに気づいて遠くに行っていた僕が、宇宙の中で良いことを決意する。

 

そして意思は言葉を変え

言葉は都市を変えていく

 

カルピスを飲みながら、問いかけられた現状に自らの下した結論を確かめながら、

 

無限の海は広く深く

でもそれほどの怖さはない

 

 

僕らの世代は中途半端だ。実はバブルも弾ける寸前なのに、おじさんたちはその気配にはうわの空で世界を我が物顔で謳歌していた。やりたい放題やられた後に、ほんの少しの残像を残してまだ浮かれている人たちを横目に見て、家族を守る幸福を得るためにあえて馬鹿な人たちを放りだしておいて、できることをした。というより、できるだけフォローしてしまった気がする。それが現状なのだから、将来に向かっては悪いことをしていたのだなぁという感覚がヒリヒリと残っている。結局、馬鹿にしながら苦笑するのではなく、罵倒してでも世界を打破するべきだったのか。

いやでも、いい子ちゃんに育てられた我らには、フォローが精いっぱいだっただろうなぁと今でも思う。

 

そして、その感覚をきっと持っている小沢健二は、今その(逃げていったことへの)反省を基に、世界を変えに戻ってくる決意をしたのだと思った。もちろん、子どもたちのために。

そう、もうフォローしてやる必要もない。彼らは好き放題して去って行った後でさえ、まだこの世界に傷を残そうと画策しているように思えてならないのだ。それは自分たちの子どもたちへの傷になっていることにさえ気づかず、更に私たちの子どもたちへの傷にさえなろうとしているのだ。

時は熟してしまった。

 

報復と言葉と世界を美しく語ること

 小沢健二朝日新聞に出した広告は、甘く甘美なものだった。食パンの柔らかさ、イチゴの甘酸っぱさ。ショッカーの残していった剣術士たちの殺戮の方法まで。甘くなったトマトを食べたら何というだろうと思った。

それは、ハイレゾという言葉で表現されているものの、ある意味自然に逆らっても快楽を選択する日本人の甘い夢の結晶だ。彼の決意は日本人にもう一度その決意を促し、世界を明るく照らす人工照明にすることだ。そのことにためらいなく足を踏み入れたかといえば、カルピスを飲みながらそれなりに考えた結果なのだよと語りかける。そうでもしなければ、日本は日本であることを放棄しかねない。その危機感は私にもある。現に、世界中から非難を浴びるアメリカ大統領に擦り寄る首相の支持率が伸びることなど国を放棄したのも同然であって、メディアはそのようなことには無関心で、もはや自分たちの力ではどうにもならない経済を、どうにかしてくださいと神頼みしているようなものなのだから。

それはもう、賭けに出る決意をさせるには十分すぎる理由であり、甘美すぎる言葉でもって現実逃避させてでも、古来から続く日本を守る唯一の方法だと思わせる何かが、遠い国からはよく見えていたのだろう。

君よ、君であれ。

君よ、我であれ。

そんな言葉が私には聞こえてきた。

 

言葉とは残酷なのだ。

 

一方で、「神秘的」では宗教の詩を引き合いに出して、それは現実に繋がっているのだよということを説明する。

自然は偉大な創世主であり、神の詩はそれを私たちに告げるハイレゾなのだ。そしてそれ以上のハイレゾなど存在しないのだ。それは知ってるのさ、わかってやってるのさ。

でもね、わかってはいてもそれをすることで子どもたちの未来が繋がるのなら、僕らはそれをしなくてはならない。

長い沈黙の後で、父親になって帰ってきた小沢健二は、人間的で優しさを持った残酷な大人になっていて、私たちはそこを汲んで、乗ってあげるべきなのかもしれないと少し思った。

とにかく、言葉を聞いてあげよう。そして、そういう世界になってしまった責任について、彼だけに押し付けるのではなくきちんと考えよう。

 

ハイレゾを受け入れるか、受け入れないかは個人の自由で、そこは自然の中でもっと生き物の一員らしい生活を求めるもよし、それで世界が守れるのなら、ほんとうはそれが一番良いのだけれど、彼の二つの曲が都市の自分と田舎の自分を持つように、二人の自分を器用に持てなければ、私たちは多分消えてしまうだろう。精神的に。

 

世界で言葉を紡ぐことは、残酷で、無責任で、滑稽な一方、優しく、心強く、支えになれるのだ。それを理解して深みに嵌る覚悟をした彼の素顔を支えるのは、家族なのだろうなぁとしみじみ感じた。