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恋愛と結婚の愛について   ― リルケと「君の名は。」と「逃げ恋」と ―

あれは私の窓。私は今ちょうど

うっとりと目がさめたところだ。

なんだか漂っているみたいだった。

どこまでがこのわたしの生身で、

どこからが夜なのだろう。

 

まわりのものはまだみんな

私自身みたいな気がする。

水晶の奥深くのように透明で、

ほの暗く、しんとしている。

 

私はあの星すらも私自身の内部に

抱きしめることができそうだ、私の心が

そんなに大きなものに思える。この心は

よろこんであの人を手放すことだってできそう、

 

たぶん私が愛しはじめ、

たぶん私が引きとめはじめているあの人を。

言いようもなく馴染みない目つきで

私の運命がじっと私を見つめている。

 

こんな限りもなくひろがったものの下に

私はどうして置かれているのだろう、

草原のように匂いながら、

あちらへこちらへ揺られながら、

 

呼びながら、それでもやはり

だれかが聞きつけるのを恐れながら、

そうしてだれか他の人の中に

自分自身を失ってしまうように定められて。

 

リルケ 「恋する少女」 高安国世訳

 

恋愛についての考察

このリルケの詩は、恋をする少女について、非常に繊細に、それでいて的確に美しく現していると私は思っています。

 恋を自分でコントロールしてできる人などこの世にはいないはずです。それは、ある日突然知らない人とだったり、昔馴染みといつの間にかだったりしますが、恋を自分で作りだしたものと感じる人はいないでしょう。

 もし、そういう人があるとすれば、その恋はまがい物であると私は思います。

 

 上の詩の中で、少女は自分自身の心について、どのような形でどのような大きさだか感じてみようとしますが、その努力は無駄に終わります。その上、そのような状況に彼女を置いている恋や恋人でさえ、馴染みない目つきの中であいまいに見つめる運命に身を任せるしかないことを悟らされているのです。

 恋は残酷です。

 

呼びながら、それでもやはり

だれかが聞きつけるのを恐れながら、

そうしてだれか他の人の中に

自分自身を失ってしまうように定められて。

 

この部分は恋というものについて、リルケが少女を題材に一番言いたかった部分だと私は思います。恋とはだれか他の人の中に自分自身を失ってしまう定めの、始まりであるのです。

無邪気な少女はやがて恋をして運命を知り、自分自身を他者に埋没させていく。それこそが、恋愛と結婚という、人間の愛についての原初であり、少女ばかりでなく少年だって同じように体験していくのです。

ここまでは『君の名は。』にすっぽりと当てはまります。新海監督は恋についての原初の部分を美しく書き上げて作品に仕上げられました。少女と少年は入れ替わりながらお互いを少しずつ相手に吹き込み、最終的には瀧君は口噛み酒を飲んだことで彼女の半分を自分に受け入れます。そして再会が叶うのです。

 

 自分自身を他人に埋没させることが苦痛であるか否かは、自分というものについてどう考えているか、そして、愛というものについてどう考えるかで違ってきます。

 自己愛は決して無意味なものではありませんが、それだけで生きていけるほど世界は優しくできていません。私はここで生殖という部分で精しく考えることを避けさせていただきますが、それは人にとって避けられない欲望の根本でありますし、その欲求は当たり前にすべての人に与えられた乗り越えられるべき壁でもあります。

 私はここでは、生殖というよりは、家族愛について考えたいと思います。生殖を乗り越えたその先にあるのは、人間の本来守るべきである子孫です。子孫を残すことは人にとってだけでなく、すべての生物にとってあるべき姿です。そう書くと、子供のできない人に失礼だろうと言われる方があるかもしれませんが、子供を残すことは未来を繋ぐことです。そのことに異論のある方はいらっしゃらないでしょう。

 ここまで来て、やっと『逃げるは恥だが役に立つ』の話ができるようになります。

『逃げ恋』は、とにかく恋愛ベタな平匡と超現実的でありながらどこかへ飛んでいってしまうみくりのラブコメディですが、雇用契約としての結婚を契機に、恋愛と結婚について、そして結婚と生活について切り込んでいくところがおもしろい構成になっています。恋愛関係が進展すれば契約結婚などというものは霞んでいって、本当に得たいものが見えてくるのですが、契約結婚から入ったことで、生活が自分にとってどのように重要で、そのために結婚がどのように必要か、逆説的に説明する構成になっています。リルケでいうと、自分自身を失いたくない人が自分自身を失うということをいかに受け入れるかを、始めに恋愛ありきから生活ありきにして物語っているということになります。恋はどこへいってしまうのだろうと不安にさせながら、生活をきっちり守っていくみくりにはまった人も、自分には恋はできないと思いながらもみくりに恋していく平匡にはまった人もいらっしゃるとは思いますが、私は、二人が全く違う価値観を持ちながら話し合いで解決していく様がおもしろかったです。平匡は最後までみくりのようにはなれないと言いますが、実はいろいろな場面で妄想の中に取り込まれて完全にみくりのようでしたし、みくりは自立の意味を知って個人事業主になろうとします。最終的には未来や将来の話になって子供が出てきてほっとしました。

 

 この二つの物語が流行った背景を考えると、人はみなリルケの詩のような感覚を持ち続けていて、今はまさに現実とのギャップに悩み続けているのだということがわかります。「逃げ恋」のような境遇にあうこともないと思いますが、私はもっと素直に、自分自身を失うことへの不安を持ちながら溶け合う気持ちを知り、苦しんだり、楽しんだりしながら愛を育むことを恐れないでいくことが大切だと思います。そんなこと言っても相手が見つからないという人も多いでしょうが、恋は自分で作れるものではなくて、あちらから勝手にやってくるもので、そのことに敏感になれなくなっていることや拒絶していることが問題なのかもしれない。そのことについては、今日のツイッターの写真を見ていただけた方はお気づきかと思いますが、ちゃんと考えているところです。

 

 ここまでの説明を読んでいただくと、星野源の「恋」の歌詞も少し違って見えるかもしれません。

 

胸の中にあるもの

いつかは見えなくなるもの

それは側にいること

いつも思い出して

君の中にあるもの

距離の中にある鼓動

恋をしたの貴方の

指の混ざり 頬の香り

夫婦を超えてゆけ