読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

無口な神と雄弁な神  「人類学=物語的 想像力の ‟不自由な” 跳躍」感想




「忘れるなよ。たとえ、この世の外側は全き玉だとしても、我々が生きている内側には混沌があるのだ、ということを。その混沌の野をひとつひとつ掘り返して見て、考えて、はじめて、新たな一歩を踏み出せるのだ。
 司祭医は人が病で死ぬことを、はなからあきらめてしまっている。清心教が持ち出す神の道理というのは、そのあきらめを、患者と身内に納得させ、自らの無力を納得するために生み出した究極の理屈だ」

  上橋菜穂子 『鹿の王』







 現代思想の3月臨時増刊号「人類学のゆくえ」を私も読んでいる途中なのですが、巻頭の中沢新一氏と上橋菜穂子氏の討議記事「人類学=物語的 想像力の ‟不自由な” 跳躍」は大変興味深く読ませていただきました。

 内容はまだ読んでいらっしゃらない方も多いかと思うのであまり突っ込まないことにして、この記事を読んで私が感じたのは「無口な神と雄弁な神」のことについてです。
 お二人の学生時代の研究の話題からシャーマンについて語られることも多かったのですが、それではシャーマンに囁く、そして私たちに囁く神は無口なのだろうか、それとも雄弁なのだろうかということがとても気になりました。
 言葉の不自由は私たちに縛りとともに安心を届けます。しかしそれは私たちに近づくために本物としての何かをそぎ落としてやってくるわかりやすさです。雄弁な神は私たちに安心と理解をもたらすでしょう。一方、無口な神は私たちの理解の及ばぬところで私たちを包み影響します。語りかけるのとは別のやり方で私たちに何かを伝える、その方法は私たちの奥深くで感じることしかできない不可解で奇妙な、しかし、私たちが考え及ぶ範囲を大きく超えた、この世にあるありとあらゆるものに通じる何かなのです。しかしそれはおおよそ人知の理解を超えているため、信じることしかできないのです。

 「恐ろしさ」について、私たちはもっと深く自覚するべきなのかもしれないと思います。

 人に及ぼされる様々な恐ろしさから神が救い上げてくれること。それは宗教ではとても大切な部分です。死や病やその他にも、人が生きていくため立ち向かわなければならない苦難は多すぎます。それを凌いでも生きていくために、神は多くのものを私たちに与えることができる存在です。

 しかし、人の究極の恐怖のもとである死は、もともと人だけではなく生きとし生けるものすべてに与えられているものです。そしてそれを与えているのは万物を作り出したあるもの≪神≫であり、人はこのことをすでによく知っています。

 それならば、神は人に受け入れることを諭す装置なのでしょうか?
 だったら、神の声を聴くシャーマンなど必要なくなるのではないでしょうか。
 「あなたはもうじき死にます。それがあなたに与えられた宿命です。」
 「今年は不作です。それがあなたたちに与えられた宿命です。」

 そういうことに抗うために存在していた(本物らしからぬ)神の声を、私たちは本物でないと言ってしまっていいのでしょうか。

 そうして私たちは科学という神に対抗する神を作り出したのだろうなぁと感じるのです。

 だからこそ、シャーマンの聴いていた声が気になるのです。
 神は私たちにどんなふうに何を伝えていたのだろうか。

 ある日大きな竜が天井を泳いでいくのをぼんやりと眺めていると、しばらくして大きな大きな地震がやってきました。
 さて、竜はいったい何しに現れたのだろう。


現代思想 2016年3月臨時増刊号 総特集◎人類学のゆくえ

現代思想 2016年3月臨時増刊号 総特集◎人類学のゆくえ