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恋愛を語るあれこれ


 

 そうだ。わたしたちがまた会ったとしても、同じことだろう。会わなかったとしたって。使いものにならない、身のほどをわきまえた愛(本物じゃないと言う人もいるだろう、くびり殺されたり、悪い冗談になってしまったり、哀れにも摩滅してしまう危険を、決して冒さないのだから)。危険はひとつも冒さないけれど、それでも甘い滴りとして、地下資源として生き続ける。その上に、この新たな沈黙の重みを乗せて。この封印を。


アリス・マンロー作 小竹由美子訳 『イラクサ』より


 





 
 「恋愛を語るのに哲学を出してくるのは、あまりにも人の生き方を型にはめすぎてやしませんか?」って思います。

それは、まったく哲学を馬鹿にしているわけではなくて、恋愛感情があまりにも個人的で、自分でもコントロール不可能な不可解な現象であると思っているからです。

理性や個性の枠だけではなく、野生や遺伝の継承と言った生物学的なことと感情が相まって、人としても一番扱いに困る、それでいて私自身のうちに確固として君臨する何かを、抽象的な表現を取り除いて現すことの困難を深く感じるからです。

 例えば『イラクサ』の主人公の恋愛はまったく褒められたものじゃないし、夫や子供たちを犠牲にしてまで欲しがったわりには、本当に欲しがっていたものかよくわからない。そんな主人公にとって残しておきたいと願う一つの思い。

 大人になれば誰だって、ラブストーリーの結末が幸せじゃないかもしれないことは知っている。ただそれをどう受け入れるかがその人の恋愛の価値であろうと思うのです。
 表面は紳士的・淑女的になれても熱情に浮かされる心のうちを打ち消すことは困難で、でもそれがただ肉欲に左右されるものなのか否かは自分ではよくわかっていて、はてそれならこの気持ちはいったいどこから生まれているのかと戸惑ったり、そういう恋愛が人に及ぼすあれこれは、とても一筋縄で理解できるものではないでしょう。

 マンローでさえそこのところはどうのこうのと断言せずに、汚らしい部分は一切否定せず、それでもなお純粋にいとおしくなる部分のために、主人公を最高に貶めながらも表現しているのですから。

 恋愛を語るあれこれは一筋縄ではいかないのです。