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実験1 (2)

 

論理哲学論考 (岩波文庫)

論理哲学論考 (岩波文庫)

5・11  いくつかの命題に共通な真理根拠のすべてが、ある一つの命題の真理根拠にもなっているとき、後者の命題が真であることは前者の諸命題が真であることから帰結すると言われる。
5・12  特に、命題「q」の真理根拠のすべてが命題「p」の真理根拠である場合、「p」が真であることは「q」が真であることから帰結する。
5・121 「pがqから帰結する」とは、一方の真理根拠が他方の真理根拠に含まれているということにほかならない。
5・122  pがqから帰結するならば、「p」の意味は「q」の意味に含まれている。
5・123  神がある命題を真とする世界を創造するならば、同時に神はまた、その命題から帰結するすべての命題が真となる世界をも創造するのである。同様に、命題「p」が真となる世界を創造しておきながら、命題「p」に関わる諸対象の全体を創造しないなどということもありえない。
5・124  命題は、そこから帰結するすべての命題を肯定する。
5・1241 「p.q」は、「p」を肯定する命題の一つであり、同時に「q」を肯定する命題の一つでもある。
        二つの命題は、双方を肯定する有意味な命題が存在しないとき、互いに対立の関係にある。
        ある命題と両立不可能な命題はすべて、その命題を否定する。
5・13  ある命題の真理性が他の諸命題の真理性から帰結することは、それらの命題の構造から見てとられる。
5・131 ある命題の真理性が他の諸問題の真理性から帰結するとき、そのことはそれら諸命題の形式相互の関係によって表現される。すなわち、その関係を規定するのに、それらの諸命題の相互関係をあらためて一つの命題のうちに表す必要はない。この関係は内的であり、関係する諸命題が立てられれば、それと同時に、そしてそれによって、関係は成立しているのである。
5・1311 われわれがpVqと〜pからqを推論するとき、「pVq」と「〜p」の命題形式の関係は、ここではその表現方法によって隠されてしまっている。他方、われわれがたとえば、「pVq」の代わりに「p|q.|.p|q」と書き(「p|q」は「pでもqでもない」に等しい)、「〜p」の代わりに「p|p」と書いていたとすれば、そのとき内的関係は明らかになっていただろう。
    (人は(x).fxからfaを推論しうる。この事実が「(x).fx」というシンボルに一般性が存していることを示している。)
5・132 pがqから帰結する、そのとき私はqからpを推論することができる。―「pがqから導出される」とは、つまりそういうことである。
     推論の仕方はただ二つの命題〔pとq〕からのみ、見てとられる。〔それに加えて「pがqから導出される」のような命題を立てる必要はない。〕
     それら二つの命題、それ自身だけが、推論を正当化しうるのである。
    「推論法則」、すなわち―フレーゲとラッセルがそうしたように―推論を正当化するものとして立てられた命題は、無意味であり、立てたところで余計なものでしかない。
5・133 すべての導出はア・プリオリに成立している。
5・134 ある要素命題から他の要素命題が導出されることはない。
5・135 ある状況が生起していることから、それとまったく別の状態の生起を推論することは、いかなる仕方も不可能である。
5・136 そのような推論を正当化する因果連鎖など、存在しない。
5・1361 現在のできごとから未来のできごとへと推論することは不可能なのである。
      因果連鎖を信じること、これこそ迷信にほかならない。
5・1362 未来の行為をいま知ることはできない。ここに意思の自由がある。因果性が、論理的推論の必然性のごとき内的必然性であったとすれば、その場合にのみ、われわれは未来の行為を現在知りうることになる。―実際に何ごとかを知っていることと、その何ごとかが事実であることは、論理的に必然的な関係にある。〔それゆえ、未来の行為を知りえたならば、その行為は実際に起こるのでなければならない。〕
    (〔他方、〕「Aはpが成立していることを知っている」は、pがトートロジーのときには、無意味となる。)
5・1363 ある命題がわれわれに明らかに真であるように思われようと、そのことからその命題が真であることは帰結しない以上、この明らかさもまた、真理性に対するわれわれの信念を正当化してはくれない。
5・14  ある命題が他の命題から帰結するならば、後者は前者よりも多くのことを語り、前者は後者よりも少ないことを語っている。
5・141 pがqから帰結し、qがpから帰結するとき、両者は同一の命題である。
5・142 トートロジーはあらゆる命題から帰結する。つまり、トートロジーは何も語らない。
5・143 矛盾が諸命題と共有するものは、どんな命題も他の命題と共有していないものである。他方、トートロジーは、互いに共有するものをもたないすべての命題に共有される。
     矛盾はいわば全命題の外側に消え去り、トートロジーは全命題の内側に消え去る。
     矛盾は諸命題の外側の限界であり、トートロジーはその空虚な中心点である。

 このところ『多様化』とはなにかということを考えさせられることが多く、そんな時にヴィトゲンシュタインをよく思い出します。

 原子命題は帰結の帰納法では到達できない。
 否定の連続で本物が見えてくる世界。
 自己同一などありえない。なぜなら、自己こそが見えない底と見えすぎる遠景にある世界なのだから。

 このことを思うとき、多様化する世界は本当によい世界なのかという疑問に追いつかれます。
 
 私の中心は虚無であるのか原子命題そのものであるのか。
 はたまた原子命題が虚無なのか。
 そんなことを考えると、結局は何もないところからは生まれることのできなかった私と
 何もないところから生まれたであろう私の中の私を重ね合わせてふっと翳してみたくなります。

 結局はそれらが私の肉体と魂と定義されるものであり
 それを繋ぐ無数の言葉の線と
 言葉の線では補うことのできない部分を結ぶその他のものを
 繕うことで人は生きているのではないか。
 
 繕う材料が多いほうがいいのか少ないほうがいいのか。
 それを人はもっと深く考える時期なのではないかと思うのです。

 能率を求めて少ない材料で深く大きく結ぶこと
 効率よりも多数の材料で細かく繊細に結ぶこと

 それはただ能率を求めてひた走ってきた人が到達した山なのかもしれないし
 それでいいのかという心からの問いなのかもしれない

 いずれにせよ、自分が自分でいられるために
 虚無なのか原子命題なのかではなく
 私を繋ぐ私を求めなくてはならないのだろうなと思うのです。

 そうです
 結局のところ私が思うに
 私は私を繋ぐ無数の関数の私であり
 関数の私が関数である限り
 私は死なないのです

 関数の私は関数であるがゆえに無機質なので
 無機質でなくなるための条件が
 ことばであり
 うたであり
 おどりであり
 いのりであり
 感情という生き物を飼っておくために
 無機質の私はがんばっているのです
 (無機質なのにがんばってるなんておかしいですが)