心はどこへいくのか

 このところ何だか心に穴が開いてしまっているようだなぁと感じることがあります。感情がすぅーっとそこから漏れだして、自分の中に残るはずだった何かが遠くへ流れ出てしまっているような、そんな感じです。

 ここにあるたくさんのものに囲まれて生活する私は、決して不幸せではないのだけれど、常にどこかに行ってしまった私を不安げに探し回っているような感覚に捕らわれることが近頃は多いように思います。何かに触れれば、必ず自分の中に何かが残ります。それを記憶とかいう脳の機能だという人が多いのだけれど、私はそんなふうにではなくて、体が一瞬何かに捕らわれの身になって、解放される代わりに置いて行かれるものなのじゃないかと思います。捕らわれの身になる体は、他のものから隔離されて、そのものの牢に閉じ込められた後、短い尋問を受けて解放されます。その尋問の証が私の心に刻まれた小さな傷になって残る。あるいは小さな塊になって残る。その小さな傷や塊が私の心に満ちているとき、私は幸福であるとか不幸であるとか考えることが出来るのではないでしょうか。

 さて、心に穴が開いている状態の私は、自分が幸福であるのか、不幸であるのか、よくわからなくなっているのです。そしてそこには不安が残るのです。確かに、捕らわれの身になり尋問を受ける際、不自由さには出会います。不自由さは時にはうっとうしさや怒りになって、私を不快にさせることもあります。ほとんどは一瞬の出来事ですが、時にはどこまでこの尋問が続くのだろうと叫びだしたくなる時もあります。けれどもそこには確かな生があり、自分自身を認識することもできるのです。

 そうして、この世界でたった一人きりだと思わないための方法は、それ以外ないだろうと私は思っています。でも、そう思うために自分から他者に働きかけるためには作法が必要です。その作法が、今はなんだか混乱してしまっているのではないかと思うのです。作法が違えば、尋問を受けずに何かを得ることが可能なのかもしれませんが、そのかわり傷も塊も残らない穴の開いた心が私になります。

 だから、かろうじて覚えている作法で自ら尋問を受けていこうと思っています。自由主義者からどんな目で見られようと、古いやり方だとなじられようと、心が空っぽになっていくのを放っておくわけにはいきません。頭のいい人なら、もっとうまくやれるのかもしれません。でも、私にはほかの方法が思い浮かびません。

 私の時間は有限で、それはとても無駄に見えるかもしれません。でも何かに触れてその檻に入れられたとき、しめたと思う瞬間がまた好きなのかもしれません。

 やられっぱなしじゃないからね!