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精霊の守り人の神話考3

1     人は救われることができるのか

 今回ブログのアップが遅くなったのは、久しぶりに本格的に体調を崩したせいでもあるのですが、それよりなにより、ドラマの悪口はやめたかったのに、絶対に嫌だという場面にぶち当たってしまったからです。

 私にとって、「精霊の守り人」の冬ごもりのシーンは好きなシーンの中の一つです。冬穴に籠って過ごす日々によってチャグムはバルサの人生を知って大きく成長し、それとともに、バルサは昔の自分やジグロと向かい合うことができるという大切なシーンだからです。だから、ここで起きたことは後の物語にとって大きな起点になる部分なのです。

 バルサはドラマの中でジグロの臨終の時のことを回想します。

 「ジグロが殺してしまった8人の仲間たちを弔うために8人を助ける。だからジグロは安心して天国に行ってほしい。」とバルサが言うと、ジグロは「人を救うのは殺すよりもずっと難しい。自分はバルサを救ったとは思っていない。」といいます。そこまでは、ジグロらしいなぁと思って聞いていたのですが、そのあとジグロは「バルサとの生活は楽しかった。バルサの成長を見るのがうれしかった。自分はバルサと旅ができて幸せだった。」と言ってしまうのです。

 ジグロは、物語の中でも、アニメでも、決して幸せを口にしません。それは、たとえバルサを救うためだったとしても、自らの信念で人を殺す自分は幸せになる資格がないと思っているからです。

 しかも、ジグロは友との殺し合いをしている最中にも、心躍る自分を押しとどめることができないことも自覚しています。

 人を殺めることを楽しんでしまう自分の本性を一番よく知っているのは本人です。だからこそ、どんなときにもジグロは笑わないのです。心の底から笑うことができないようになってしまう怖さは、ドラマの2話中でバルサはのちに自らが手をかけて殺してしまうことになる用心棒の男から聞かされています。「人を殺すとその時から人生が変わってしまうのだ。」と。

 だから、死に際であっても、ジグロは自分の幸せは決して口にしないはずです。いくらバルサのこれからの人生のためだとしてもです。そんな理由で私は受け入れられませんでした。

 そう思って本を読んでみると、『夢の守り人』の最後の最後で、バルサはタンダにこういうのです。

「あれほどの思いをかけてくれたことを、わたしは信じられぬほどのしあわせだと思って生きるべきだったんだ。・・・・・好きな者をまもって生きることには、よろこびもあるんだから。あんな人生だったけどけれど、ジグロにも、そんなよろこびがあったと思いたい。

 チャグムをまもっていたとき、わたしはしあわせだった。他人のチャグムのために、死ぬかもしれない危険な闘いをしたけれど、それでも・・・・・・しあわせだったんだよ。」

 12話完結のドラマだと『夢の守り人』は省かれてしまうかもしれないと感じながら、『闇の守り人』でのジグロとの本当の別れを終えて、帰ったとたんに起こる奇怪な事件とチャグムとの再会を通じ、バルサが人生のしあわせを取り戻していく自分を自覚するこの場面は、私はとても重要であると思うのです。ジグロはしあわせだったとは言わなかったけれど、ジグロは自分と同じようにしあわせだったに違いないとバルサが悟ることができた。そのことで、バルサもジグロもどれだけ救われることか。

 「人は人を救うことができるんだ、しかも人を救うときにこそ自分が救われるんだ」というテーマは、精霊の守り人シリーズ全体に流れる血液のように感じます。

 

2     人間らしさとは何か

 精霊の守り人のドラマ作中で描かれる人物は、その中でも特に宮中の人々は、自らの欲に忠実で、しかもその欲望のために行動を起こすことにはまったく戸惑いを見せない、時にはコミカルといっていいほどわかりやすい人物像になっているように思います。実際私たちはけっして欲がないわけではありませんが、その行動を押しとどめる何者かの力によって、強欲と言われるほどの行動は抑制されます。

 一般的に、神は私たちのそんな愚かさを知り、たしなめ、時には罰する存在として君臨するものです。その神が王であるという国を作ってしまったことが、宮中の無秩序を呼び起こし、破滅を生むのだというのは、それもとてもわかりやすいように思います。

 一方、精霊の守り人における新ヨゴ国は、ナユグとサグという二つの世界の境界が怪しくなり、崩壊の道を歩んでいるということが物語を追うにつれ深い影になっていきます。こちらの滅びの影は天のなせる技のようなものなので、宮中の人々にも、それこそ無欲な市井の人々にも関係なく襲ってきます。

 そのうえ、この後国家間の争いも激しくなり、チャグムは否応なく巻き込まれていきます。

 普通のファンタジーの世界では、人を取り巻く環境がこれほど複雑に表現されることはないと思います。前回も触れましたが、複雑なネットワークの中で生きる人がどう生きるかは、どこと深くかかわるかでだいぶ違ってきます。しかし、宮中の人々は宮中という狭い世界にいるから狂っていっている、チャグムはそんな宮中から抜け出して外の世界に触れたから正気でいられるというのはいささか簡潔に考えすぎです。何かに触れ、感じ、心に描き、表現する。人が繰り返すこの無限の行動が人を作り上げていくのです。相手が人であれ、人以外のものであれ、何かに触れる限り人は繰り返す。それは自らを取り巻く環境に適応するため与えられた動物的な行動であるのかもしれない。しかし、私たちは肥大に膨れ上がった脳によって得られたあらゆる可能性を持っているのです。

 ドラマではあっけなく殺害されそうなサグム王子ですが、私はアニメのサグム王子が大好きでした。狭い宮中にあって、心を遠くに持てる人でした。

 人のそういう可能性を人間らしさというのは間違っているでしょうか?

 王の苦悩は自らが確固たる王として存続するためのものだけではないでしょう。伝統を重んじる重要性と孤独に耐えなければならない重圧、家臣の忠義を受けるためにあらねばならぬ人物像と自分とのギャップ、ましてや、人ではなく神であるという自分と神とはなにかという葛藤も。

 御簾の中でうなだれるアニメの中の王と、水晶玉を持って暴れまわるドラマの王。

 二人の王のどちらがらしいのかと考えたら、頭が痛くなりました。

 このらしさは人間らしさのらしさではなく、この物語の王らしさということです。

 そもそも人間らしさは何によって決められるのだろう。

 ひょっとしたら、そこには人間に対する期待度が大きく影響しているのかもしれない。期待度が薄ければたいしたことのない欲におぼれた人が人間らしく、期待度が高ければ清廉潔白な徳の高い人が人間らしく。そんな風に思えました。

 次回で第1部も終わりになります。

 いよいよチャグムの精霊の守り人としての最終試練の時が来ますね。ちょっとCGが心配でもありますが、楽しみにすることにします。