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精霊の守り人の神話考 2

1     3種類の人々

  「お前の王や神はもうどこにもいない。王や神だというものを信ずるな。」

 カンバルを出て新ヨゴ国に入るときに、ジグロはバルサにこう言い聞かせます。それはジグロにとっても同じこと。二人は神を捨てて自分たちだけの力で生き抜く覚悟で新ヨゴ国の土を踏みます。ドラマの中では、王子を救ったことで新ヨゴ国に捕らえられたバルサが、拷問の途中気を失っている間に新ヨゴ国に初めて足を踏み入れた時のことを回想しているシーンになっています。

 この場面は、物語冒頭にバルサという人物像を王が神である新ヨゴ国という国とともに紹介する、やや皮肉が込められた情景になっています。物語の『精霊の守り人』の中ではバルサが拿捕されるシーンはないので、特にドラマ用に作られたものであるようです。

 

 文化の古代的レベルにおいて、宗教は超人間世界、価値論的価値の世界への「入口」を維持する。これらの価値は、神もしくは神話の祖先によって啓示されたと考えているという意味あいで、「超絶的」である。それゆえ、それらは絶対的価値、すなわち全人間行動の範例を構成する。すでに明らかなように、これらの模範は神話によってもたらされる。神話は神の世界であれ、先祖の世界であれ、他界、彼岸を意識させ、それを保持するのにもっとも一般的で有効な手段である。この「他界」は超人間的、「超絶的」次元、すなわち、絶対的実相の次元である。聖なるものの経験―すなわち超人間的実相とのふれあい―こそ、なにかが真に存在し、そこで人間を導き、その存在に意味を与えることのできる絶対的価値があるという考えを芽生えさせるのである。そこで、実相、真理、意味の理念が初めて現れ、後に形而上学的思索によって仕上げられ、体系化されるのは、聖なるものの経験を通じてなのである。

 神話の明白で疑う余地のない価値は、周期的に儀礼を通じて再確認される。原初のできごとの回想と再現は、「未開」人が真なるものを判別、固持するのを助ける。模範的行為の絶え間のない反復の力によって、何かが宇宙の流れの中で動かず、永続的にみえる。かの時のできごととこの周期的反復は、なにかが絶対的に存在することを間違いなく確実なことにする。この「なにか」は「聖なるもの」、すなわち超人間的、超世俗的ではあるが、人間が体験できるものである。「実相」が顕われ、「超絶的」次元から構成されるままになるが、この「超絶性」は儀礼によって体験され、人間生活の主要部分をしめるにいたる。

エリアーデ著作集第7巻『神話と現実』 ミルチャ・エリアーデ せりか書房 1992年 pp158~159

新ヨゴ国の建国神話については前回も触れましたが、それは前述のアリアーデのいうように、国民を導きます。国民は祭りによって再現される神話を大勢で「聖なるもの」の体験として受け入れます。

*アリアーデのこの記述はこの後の展開もおもしろいので、あとで触れる機会があれば触れたいと思います。

 

 一方、原住民であるヨゴ人の宗教は自然とともにある、原始宗教的といえるものです。村長は存在するものの、支配・被支配関係がない生活の中で、宗教は生活の知恵として息づいています。このような場で伝承される物語が神話といっていいものなのか少し不安ですが、ここで人々の生活を支えていることには間違いないのです。

 問題は『精霊の守り人』という物語は、ナユグとサグという二つの世界にまたがった世界が描かれているため、超越世界が実世界に現実として干渉するので、ヨゴ人が言い伝えていることは事実で創造されたものではないということです。物語上も実際このことに直截触れることができる人間は限られているのですが、それは日本における八百万代の神々との世界観と同じなのかはわかりません。

 しかし、前述のアリアーデの世界観とは別だなというのはお分かりいただけると思います。おそらく、政治と宗教の関わり方の違いがそれらを大きく隔てているのだということも理解しやすいと思います。

 そして、その二つの宗教(観)とともに、神も王も持たないバルサという人の在り方も重要になってくるのです。

 

2     政治・宗教・そこに生きること

 人がそこに集団で生きていくということによって、自然発生的に政治は生まれます。その集団がどんな生活の仕方をしようと、集団のルールと秩序は必要になるからです。

 ふつうのファンタジーでは、王の政治理念が大きく取り上げられることが多いのですが、上橋作品中では各個人の政治理念を問うことが多く、それが彼女の作品の特徴であるといえると思います。王の政治理念、あるいは王に近い人々によって成り立つ政治理念によってある出来事が起こり、それが個人レベルに達するときに、各々がそれにどう対処するか。その対処によって物事がどう変わるか。王の命に背く人や物を撃退し人々に幸福をもたらす英雄譚でも、悪い王を排斥して新しい王として立つ勧善懲悪譚でもなく、そこで、その政治下で、生き抜くために人がどうするかということを丁寧に描いていくのです。そこに存在するのが個人の持つ政治倫理や宗教観になります。それは、その人の人生観になり、やがてはその人の生き方になります。そういう過程を丁寧に描くことにより、世界はよりリアルに近づいていきます。

 私たちが生きている世界は、それほど単純にできているのではありません。たくさんのクモの巣上に張ったネットワークの中に私たちは存在しています。その一本一本に関係していながら、私たちが直接的に関わるものはほんの一握りに過ぎません。大切なのは、そういう状況下にあって、常に自分である続けるということです。

 『精霊の守り人』をはじめ、この中に出てくる人たちは誰もがそれを自覚し、その中でも自分であるべくもがき苦しんでいます。その代表がバルサでありジグロであり、チャグムなのです。

 ドラマ2話で、バルサがチャグムにいうセリフに「生きてることを恐れるな。それが一番恐ろしい魔物だ。」というのがあります。そこに、この苦悩に苛まされるバルサという人間の心の声を私たちは聞きとらなければならないのです。運命に打ちひしがれるチャグムに、同じように運命に打ちひしがれて生きてきたバルサがはくセリフの重みと、それをジグロと生き抜いた強さを、このドラマは強調しています。

 そのことにことさらこだわる真意はどこにあるのか。次回はきっとそのあたりにも触れられると思うので、また来週を楽しみにすることにします。