オタク試考

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きょうもいちにち
たのしかった・・・・

あずまきよひこよつばと!』13巻末尾









 オタクの定義というのはかなり難しいと私は思っているのですが、今やマクドナルドと同じ「世界の言葉」になってしまっているがゆえに、世界中の人々が何らかの形で知り、各々の解釈でオタクという語を使っているのだろうなぁと思うと、逆にワクワクします。
 言葉というものは何より有用性が高ければ高いほど、自在にありようを変えていくものですから、日本語のあいまいさも手伝って、広がりと変化に適応できる、まるでパンケーキみたいな素敵なものになっているような気がします。
 明治時代に作られた造語たちのような、何やら分けのわからぬ理屈を付けられてがんじがらめになっている語(例えば宗教とか!)に比べて、その響きをそのまま世界中に広められる語(「かわいい」とか「もったいない」とか)の特徴は、直接感情にすんなり入ってくる気安さと、それでいて納得の使い心地が得られる安心感で、それはそれは素晴らしいと思います。
(ほら、パンケーキでしょう!)

 〈(一般的な)自分たちとは違うもの〉というオタクという言葉に根付いている差別的な感情は、未だにチェックシャツから連想されるもの的な意味で残されてはいるけれど、ダサさとかっこよさの境界というやつは、例えば女子高生の評価くらいな意味でしか通用しなくなってきたような気がしているのは私だけでしょうか。暗い場所から引きずり出された負の感情は、引きずり出された時点でもう負とは違い方向に飛び散っていくように思うのです。
 さらに、専門に特化した趣味という意味で使用されるオタクという語には、もはやゲーム好きやアニメ好き写真好きといったジャンルから、サッカー好き、ラグビー好き、映画好きといったありとあらゆるジャンルで使用されているのでオタク=文系男子という枠は取っ払われていると考えるのが自然であろうかと思います。

 一方、閉鎖的な場でのオタクという語には、例えばミニコミ誌の性描写のような、人の欲求と切り離せないが公に晒されるにはタブーである部分が多く含まれます。
 そういう部分はオタク文化にとっては大変重要なのですが、開かれた場に出て行ってしまった以上、批判の対象になってしまうのは仕方のないことです。


 これらを鑑みただけでも、オタクという語の示すもの自体が相当複雑で、自らがオタクだと自負している人の多さと多様さを考えるだけで頭を抱えてしまいます。〈狭義のオタク〉とか〈広義のオタク〉とか、そんな風に表現されるのかもしれないなぁとも思いますが、それこそ、文化にとって何が狭義かという部分を規定する勝手さを感じざるを得ません。

 強いて言えば、私たちの日常は思いのほか辛く長く、平坦で面白味のないものですが、そこに色付けをする何かを持っていれば毎日を少しはましに過ごせるかもしれない。その部分を自分の楽しみの方に寄せている人がオタクだと私は思っています。その部分を社会への貢献や政治的な活動に費やしている人たちももちろんいらっしゃっるし、子育てや仕事で手一杯という人もいらっしゃる。ただこういった活動が経済活動にどんどん組み込まれていっている反動で、オタク文化は独自に発展を遂げているのではないかと感じます。
 難しいかもしれないけれど、経済活動と生活時間の変化とオタクに関する研究なんていうのも家政学的には楽しいかもしれないと思ったりします。




 ところで、親愛なる日本女子大学の近藤光博先生が企画なさっているエコノミメーシスR&D
 次回企画は「オタクにとって聖なるものとは何か」
 2月27日(土)13時30分~ 日本女子大学の目白キャンパスでワークショップが行われなます。

lizliz.tea-nifty.com


 時間が合えば参加させていただきたいと考えています。
 皆様もぜひぜひ!