『人間にとって科学とはなにか』

 湯川秀樹梅棹忠夫の1967年にされた対談をまとめたもので、もう一つのブログの方に上げるつもりで読んでいたのですが、対談って言うのはそこに重要事項が飛ばし飛ばし置いてあるもので、しかもそのひとつひとつを理解するためにまた読むべき本が増えてしまったりして、とても簡単には書けないなぁとため息が出たところで、こちらにちょっとだけ書いてみることにしました。

 

J-46 人間にとって科学とはなにか (中公クラシックス)

J-46 人間にとって科学とはなにか (中公クラシックス)

 どうしてこの本に手を出したかというと、私が科学を簡単に信じられる仕組みが知りたかったからです。新しい宗教はいろいろと怪しそうだと思う割に、新しい科学はそんなに抵抗なく自分に入っていく。それはなんか変じゃないかしら?

梅棹 その面からみると、科学は宗教に近いものだというように私は考えてきているんです。基本的性質としてよく似た点がある。というのは、科学もやはり、初めから好ききらいなく、だれでもわかるものと違うんです。それぞれの時代に固有の、ある種の観念の訓練の結果わかるものなんです。科学というものは教育しなければ納得できない。さっきは教育さえすればだれにもでも納得できるということでしたけれども、ひっくり返したら、教育しなければ納得できんようなたちのものです。科学には学ぶのに大変しんどい点がたくさんあって、一定の枠を決めて、あらかじめ受け手の方のネットワークをつくっておかなければ、そこへものを放りこんでもうまくはまらない。科学はそういうたちのシステムですね。そのかわり、行ったん受け手のネットワークをしっかり組み立てておけば、相当のものを投げこんでも受けとめられる。
 その点に関する限りは宗教でも同じなんです。高等宗教というものは、やはり一種の観念のネットワークを人間の心の中にきちんと組み立ててきたものです。そのネットワークをつねに強化するために、釣り返し繰り返し教義問答みたいなことをやって、心の中にきちんとした枠組みを確立していった。そこにいろいろなものを投げこんでも、すべては神の恩寵として非常に上手にはまる。あるいは仏の慈悲としての非常に納得がゆくんです。そういう体系をうまく組み立てたのが大宗教というものなんだと思うのです。だからその意味で、科学は宗教とたいへんよく似たものだというのです。納得の体系としてですね。それがどこかで歴史的に、宗教と科学との交代があるんです。神の恩寵、仏の慈悲という枠ではどうも受けとめられんぞということを考え出した。歴史的にはたしかにそういう交代があったと思うのです。しかし、ほんとに科学という枠組みの方がうまくゆくのかどうか。受け手の方の納得のための体系という方から考えてみたら、なお疑問があるように思います。
 湯川 宗教の話が出ましたが、ある意味では物理学でも似たようなことがある。物理学という学問を素朴に考えますと、これはあまり訓練を受けたり学んだりせんでも、自分でそう思うてしまう、各人がある年齢になったらそう思うてしまうという性格を持っているんです。というのは、ものがいろいろあって、それが三次元の世界―ユークリッド的な世界にうまいこと配置されているということはだれでもすぐにわかるわけですよね。これは人が教えないでもそうなるでしょう。
 数学は非常に普遍性を持っているというけれども、しかしその点では、かえって数学の方が物理学より、思考を間違いなく行うための意識的な訓練を要する。ところが、われわれが自分の周囲の世界をざっと眺めわたしてつくるイメージ―それは三次元の世界の中のものだけれども―これは何も意識していない。努力してつくったものではない。このことは非常にいちじるしいことであって、あたりまえのことなので、かえって気がつかないでなんとも思わないけれども、唯物論が素朴な意味でまずそこで成り立つ。素朴実在論です。
 それから先いろいろ研究してみるとむつかしいことが出てくる。前にいった二重構造、理論と事実が二重になっていて、両方はなかなかしっくりいかんぞというようなことが出てくるけれども、そのうち事実の世界というようなものは、実際だれでもわりあいたやすく納得できるようになっている。ニュートン力学はむつかしいようでも、微分方程式を使ったりせんで、少しあらっぽくいえば、これは納得しすい考え方です。動物がどこまでそういう知識を持っているかしらんけれども、おそらく高等動物は、もっとあらいけれども一種の素朴存在論みたいなものを持っているのではないでしょうか。
 梅棹 素朴実在論は動物にもあるでしょう。
 湯川 ところが人間は宗教というステージをいっぺんは通るわけでしょう。たいていの民族は通るわけですね。
 梅棹 大なり小なりかならず通ります。
 湯川 そういうことを考えれば、科学というのも一つのステージだとも考えられる。もちろん、われわれがいま問題にしている近代科学に到達するには、ある特殊のルートを通ってきているわけですけれども……。宗教の方は、どの民族からも自然発生的に出てくるわけですね。
 梅棹 その意味ではしかし、科学もみなそうですね。どの民族にも素朴実在論的な認識はもちろんあります。それからさらにもう少し観念化され、体系化したシンボル体系としての科学も、たいていの民族はもっていると思います。…
 どの民族も、素朴実在論から出発して、世界というものについての何ほどかの認識、あるいはシンボル体系をつくり出すようになります。これはやはり、広い意味で「科学」といってよいと思うんです。ところが、その科学のつくり方は、いろいろある。人類の頭脳の構造はどの民族においても同じわけですが、だからといって、同じ科学ができあがったりはしない。やはりそれぞれの文化的伝統の中で、固有のものができあがってゆく。その意味では科学というものも、非常に文化的なものだというのです。つまり、伝承の上に成立する。

 『人間にとって科学とはなにか』湯川秀樹梅棹忠夫 pp55〜59

 これでいうと、宗教と科学は大変似通っているのに私が科学を信用するのは、私が科学的な教育を受けているからということになる。そして、逆に宗教的な教育を受けていないから。
 そういわれれば、アメリカで進化論を受け入れられない人が多いのは、そういうアメリカ人が進化論的な科学よりも、宗教的な教育を受けているからという納得の答えが得られます。
 しかし一方で、私たち日本人がどんな高等宗教を持っている(持っていた)のかという疑問が残ります。私たちは仏教を信じている一方で、神道の伝統もある。それは生活にとても根ざしたものだったけれども、何か一つの価値体系のようなものを私たちに根づかしていたのだろうか。むしろそういったものを基本に置きながら、私たちの信じていたものは、そこらじゅうにいて私たちを見ているなにか。空間の中に見え隠れする、大勢の何者かの声だったのではないかと思うのです。
 むろんそのような声は私たちひとりひとりの中のものであり、個人個人で違うものなのかもしれない。でもそこは、私たちが知っている、父や母や祖父や祖母から聞いた物語の中に息づいているものによって細い糸で一つに繋がっている。
 そんなふうに思うのです。

 私が新しい宗教について違和感を覚えるのは、そんな何かとの繋がりを感じないからでしょう。そしてそれが、日本人の無宗教の最大の原因であるように思うのです。
 そのように考えると、確かに私たちは科学の教育を受けているけれども、これほどまでにすんなりと私たちに受け入れられてしまうのはそれだけではなくて、私たちの持つ宗教観のどこかの部分と科学とが合致しているのではないか。梅棹先生の言う伝承の上に成立するものなのではないかと思ったりしたのです。