『翻訳と日本の近代』 未来の思考の足掛かりとして

 前の記事の最後に丸山眞男加藤周一著『翻訳と日本の近代』を足掛かりに翻訳について書いていきますと書いたのはいいものの、この本は実は非常に考えさせる箇所が多くて、どこを引用したらよいかもテーマによってだいぶ変わってきてしまうように思えるので、今回は簡単だと思っていた自分を今は殴り飛ばしたい気分でいっぱいです。

 

 私が学生の頃はこの本は大学一年生の教科書として使用されたりしたのですが、今はどうなのでしょうか。とにかく、近代に莫大な数翻訳された様々な著作は、現代日本の根幹として今も生きているし、その時どういう意図をもって翻訳されたかを考え直すことで、今私たちが置かれている状況について改めて考え直すことのできる良書だということは間違いありません。明治・大正期に〈哲学〉だとか〈教育〉だとか〈宗教〉という語がどんどん造語として作られ、あるいは漢文からの転用で西洋的な語や現代的な語としての変換をきたしながら、現代の用語として機能しているみたいな勉強をこれからしていく人たちにとって、この本を全部読んでみようと挑戦することはとても意味があることです。

 

 さて、前置きはこのくらいにしておいて、今回私はこの本をまずは近代の翻訳と日本での受容の姿勢について考え、次にそれを将来に生かすために私たちがどう考えたらいいだろうというスタンスで読んでいきたいと思います。古来中国から輸入された著作の翻訳も、実は各派によって翻訳の仕方が検討され議論されていたことなども大変興味深く面白く読めるのですが、その部分は省かせていただきます。

 

 

丸山 さて、さっきの矢野文雄の『訳書読法』にまた返るけども、あのなかで本の分類が非常に大事だといっていて、東洋の分類は粗(疎)であるというんだ。西洋の図書館の分類のように、もっと密でなければいけない。それでいろいろ図書を分類しているんですが、粗(疎)である証拠として、おもしろいことに、「仁・義・礼・智・信」があげられているのですよ。「仁・義・礼・智・信」というが、「仁・義・礼・信」は人間交際の関係であり、ルールだ。ところが、「智」というのは、物事を処理するために必要なんで、性質が違うという。それをいっしょにしてしまうのは、東洋の分類がいかに粗雑であるかという例である、といっている。

加藤 これはどの程度に普遍的かしらね。翻訳の影響という問題もあるし、翻訳の問題に固有な論点に関わってくるのですが、論点の一つは、まさにそういうことなのです。

 一つは原因論的な関係ね。因果律、たとえば、翻訳の文章では、「何故に」「何故ならば」とかいうのが増えてきていると思うのです。だいたい日本では、少なくとも明治前の文章では、そうやたらにbecauseにあたるものが出てこない。ところが、ヨーロッパ語ではのべつまくなしに出てくる。そこをどう訳したか。

 二つ目は、いまの「分類」だと思うのです、どういう分類をするのか。日本では、歌を分類しても詩を分類しても、大昔から、並列された分類の項目の内容が重なっていた。つまり❝mutually exclusive❞ではない。そういう分類の仕方は西洋人の嫌いなことで、アリストテレス以来の分類からみるとおかしい。中国でもそうだと思うのですが、日本の分類法は重なりを避けない。だから、「仁・義・礼・智・信」のうち「智」だけが性質がちがうじゃないか、という指摘はとてもおもしろいのです。そういう、厳密な分類の原則に反するものがどういうふうに処理されているか、という問題があります。

 三番目は、ジェネラリゼーションです。あるいは数のあらわし方。「すべての」と「若干の」「ひとつの」「任意のひとつの」ということについて、英語ではかなりの程度まで、冠詞を使って表し、それからallとかsomeとかいう言葉でも表すでしょう。それは日本語ではふつう言わない。「江戸時代の幾人かの侍が……」とか、「すべての侍は……」とは言わない。ただ「侍は……」と言う。冠詞がないのですから、わからないですね。これを、訳でどういうふうにしているか、というのはとてもおもしろいことだと思うのです。

丸山 いや、訳だけではなくて……。自分のことを言ってはおかしいけれど、大学紛争のときに、全共闘の学生が「学生は……」というから、「あんたの言う学生とは、誰のことですか」と聞いた。安田城に籠もっている人たちなのか、別の学部に籠もっている反対派なのか、それとも参加していないノンポリなのか、と。ちょっと意地の悪い挑発だけどさ、一般的にはそういうことですよ。

 それがさっきの「すべての」にも関係するんです。「日本国民の総意」という日本国憲法第一条の政府原案にも関係する。この言葉で、日本人民が自由に表明した意思が象徴天皇制の根源だ、という「原文」の趣旨を表したのは非常な狡知です。悪い意味で意識的操作だけどね。非常に強い言葉でしょう。なぜなら、ふつう言わないから。満場一致で賛成するというときだけ「総意により」とはいいますが、ぼくは「総意」を入れたのは「一億一心」思想の連続であって、新憲法の原則からすればインチキだと思うんだ。ただ❝the sovereign will of the people❞に天皇の象徴的地位は基づいているとあるのを、「主権の存する日本国民の総意に基づく」と訳したのは、意識的に日本語の盲点を突いたと思うのです。もし、読者が敏感なら、なんで「総意」というのかと突き返すと思うのです。そのところをあまり突かなかったのね、「一人か」「大勢か」「すべてか」という……

  中略

丸山 石田雄君が論文を書いています。中村正直の『自由之理』をJ・S・ミルのOn Liberty の原文とくらべた。「J・S・ミル『自由論』と中村敬宇および厳復」というタイトルで、その後「日本近代思想史における法と政治」に入ったけれども。そこにぼくの記憶ではたしか、「人民の総体」とあるのは、もとは「総体」という言葉がなく、訳で「総体」とくっつけたとか、「人民」と書いて、「人民」すなわち「政府」のことなり、とある例だとか、つまり「人民」と「政府」との混同など、いろいろなことを指摘しています。……

  中略

丸山 複数と単数の区別がない、ということで思い出したのは民権のことです。「自由民権運動」は日本ではふつうの言葉だけれども、西洋人は訳すのに苦労する。いまでは、freedom and people’s rights movementという訳語が定着してしまったけれども、最初は非常におかしく感じるらしい。つまり、people’s rightsというのはないんだね。rightはあくまで個人の権利で、民権という意味にはならない。

 そこに気がついたのは、またしても福沢なのです。民権とはいうけれど、人権と参政権とを混同している、と福沢はいうんだ。人権は個人の権利であって人民の権利ではない、だから国家権力が人権つまり個人の権利を侵してはいけない、人民が参政権を持つべきだということを民権というとき、そこには個人と一般人民の区別がない、と福沢は言った。その感覚はすごいね。集合概念としての人民の権利と、個々人のindividualな権利。

 翻訳の問題で困るのは、フランス民法を訳したとき、箕作麟祥だったかな、droit civil を民権と訳した。しかしそれは、財産権とかの民法上の私権のことなのです。自由民権論とは違う。同じdroit civil が、一方では、厳密な意味での人権と訳され、他方では、一般に通用するというのですべて民権にしてしまう。それも複数と単数の区別が日本語にないから。

加藤 人権というのは定着しないのでしょうね。

丸山 福沢は、民権論で国権論と妥協したというので、左翼から評判が悪いんだ。人民の権利については彼はややプラグマティックで、けっしてラディカルじゃないけれども、人権については晩年まで言い続けたのです、その言葉を使って。明治維新の初めから、こうした区別をしていた例は非常にすくない。

 むしろ、有名な明治十年代の「よしやシビルはまだ不自由でも、ポリチカルさえ自由なら」という流行り歌などは居直っている。civil rightはどうでもいい、politicalとは参政権のことですよ。こうなると、翼賛まで一歩なんだな。

加藤 民権は、参政権というものに束になってかかるというか、そんな感じでしょう。これは平等は排除しないんじゃないかな。

丸山 もちろん。しかし自由と民権をつなげるときには問題があるんです。ぼくらの学生時代には、消極的自由、つまり「からの自由」と、積極的自由、すなわち「への自由」とがあった。ヨーロッパでは社会保障などで「からの自由」が強かったから、だんだん「への自由」が強調されてきた。そしてワイマール憲法ができると、「財産権は義務をともなう」という有名な条文があったわけです。あれがフランス革命以来の私有財産絶対に対して、明白に保留をつけた最初の憲法の条文なのです。それがナチの共同体思想の主張と合った。……

  中略

加藤 ヨーロッパ政治思想においては、人権があるのだからだれでも自由で平等である、とつながっているのだけれど、日本では切れたんだね。人権のほうが自由につながって、民権のほうが平等につながったと。いわば自由から切り離された平等と、人権から切り離された民権ができたわけですね。しかし一種の平等主義は前からあった。

丸山 一君万民というね。主君だけは別だけれど、あとは万民平等なんだ、貴族であろうと平民であろうと。中国の古典でいうと普天率土、あれが平等なのです。「普天の下、王土に非ざる莫く、率土の浜、王臣に非ざる莫し」(『詩経』)。あれは一君万民です。翼賛会時代には天皇と人民の間に介在して妨げるものを幕府的存在というのが流行ったけど、天皇さえ除けば平等思想は非常にあった。

加藤 現在の憲法で人権と平等を強調していても、定着の度合いの強いのは平等で、伝統からいってもそうなんですね。アメリカが押し付けたのでなくても人権のほうははじめからないから(笑)。翼賛会運動の民主主義な装いといえば、ナチはまさにそうです。個人的自由はゼロに等しい。自由主義と民主主義のコンフリクトを劇的に示した。

 

丸山眞男加藤周一 『翻訳と日本の近代』岩波新書 pp84~93

 

 また、非常に長い引用になってしまいましたが、一番初めの加藤の示した3つの論点のうちの2番目と3番目、東洋人の分類の重なりに対する問題と日本人にとっての数的感覚と翻訳の問題について書かれた部分です。

 

 

 3番目の日本人にとっての数的感覚と翻訳の問題についてこれを読むと、私たちが普段なにげなく使用している数的表現が、いかに私たちの根源から表象したものであり、その感覚がどのように私たちに影響しているかよくわかります。この部分を現在の私たちに当てることは全くやぶさかではなくて、個人の権利としての自由を受け入れていない、いや受け入れることにどことなく後ろめたさを感じて、何か(誰か)に不自由にされることに対する違和感が薄くなっている感覚を自らが持っている不思議に合致して驚きます。

 そのうえ、平等に対する考えも一致してしまう。私たちはあらゆる人が平等であるにもかかわらず、自分が受ける不平等さに関して、それは仕方のないことだと思ったり、平等であるはずなのに理不尽だと思うことはあっても、これを権利がはく奪されていると思ったりはしない。そのことが及ぼす自らへの影響について、考えが及ばないところがあります。過労死の問題やヘイトの問題など、様々な場面に照らして考えてみると、平等とは個々の権利だという事への関心の低さが及ぼしている問題ではないかと思えます。このことだけが問題であるかと言えば、そうではないですが、ひとつ私たちに突き付けられている問題であると言えると思います。

 

 2番目の問題は、この前の部分にも詳しく書かれているのですが、日本人としてよりも東洋人としてあること、日本の大陸(中国)からの影響について書かれています。当たり前といえば当たり前で、西洋からの知識が入ってくる前は大陸から輸入した知識を基に儒学や歴史が学ばれた。そのことが私たちに与えた影響は計り知れなくて、あいまいさは日本人の専売特許のように言われていますが、東洋的だと指摘されればなるほどと思います。

 ただ、後の部分で西洋の思想が入り込んできたときの中国の対応と日本の対応の違いが書かれた箇所があります。

 

丸山 ぼくはむしろ、日本には世界観がなかったと思う。中国と対比するとわかります。中国の厳復以降の進化論の影響は、決定的かつ革命的です。ハックスレーの『進化と倫理』Evolution and Ethicsを『天演論』と訳したでしょう。天が動くというのは驚くべきことなのです。中国の天の信仰といったら、昔からすごいからね。神様と同じで、永遠不動であって絶対の実存でしょう。それが動く以上、万物のすべては相対的である。厳復自身は易で説明しているのですが、朱子学以降は「太極」とか、「理」とかの究極実在―アリストテレスの純粋形相みたいなやつが「理」ですね―、万物の基で、動くものの背景に絶対不動の動かないものを置く。だから、「すべてが動くのだ」という厳復の紹介は、中国の知識人にとって、何千年の中国古典哲学を揺るがす事件なのです。日本は、日本儒教自身が「理」の契機が弱くて「気」の哲学になるし、万物流転のほうの考えも昔からあるので、永遠の実在にそうこだわらない。

加藤 そうそう、口だけね。

丸山 日本では、自然科学は何かのイデオロギーの補強の役割を演じた。実際、進化論は社会有機体説と結びついて、国体論の基礎づけになる。明治社会主義者も進化論だけれども、伝統的な考え方を革命するインパクトはなかったのではないか。

 ぼくは昔、「福沢に於ける「実学」の転回」という論文で書いたのですが、福沢は数学的物理学、つまりニュートンの力学体系を絶対に東洋になくて西洋にあるものとみて、これを西洋の学問の基礎にすえた。彼は「数理学」と言っています。いわゆる「実学」というのは江戸時代はたくさんあった。しかし、抽象的な数学的物理学の上に立った「実学」ではなく、日常生活の役に立つという意味での「実学」を出なかった。もっとも抽象的な「理」の上にヨーロッパ文明は築かれている、そういう実学概念を彼は最後まで展開している。だから幕末でいえば、いわゆる「物理」と「道理」の区別を重視した。伝統学問にはない社会や人間関係の客観的探究という考え方は数学的物理学からきているけど、ちっとも根づいていない。やっぱり道理の優越、修身の優越です。彼があんなに儒教を嫌がったのはそこなのですね。

加藤 存在の法則と道理とを混同したわけだ。

丸山 そう、東洋哲学は全部そう。「道」という言葉が全部そうだしね。「道」には両方混ざっている。「行くべき道」という「当為」と、客観的「法則」という意味と、両方ありますから。だから、福沢がさかんに「実学」を説いているといっても、抽象的思考の重要性もつねに説いているということです。

加藤 抽象的思考の役割を、福沢はどこで強調しているのですか。

丸山 初期から最後の『福翁百話』まで、日用から離れた「空理空論」の意味も強調している点は一貫して変わらないですね。それと卑俗な実用主義との区別です。ともかく、17世紀以来の自然科学の方法が西洋文明の秘密だということを見抜いた。

加藤 大変な明察ですね。

丸山 だけど、一般にはさっき言ったとおり、むしろ進化論についていうならば、少なくとも知識人に限っても、世界観的に思想の革命を起こしたのは中国だと思うな。

 

 同上 pp156~159

 

 これはあくまでも哲学的なインパクトの問題で、この後の物理学での日本人の活躍などを見ても学問への影響という点においては当てはまらない部分も多いと思いますが、湯川秀樹と梅棹忠雄の『人間にとって科学とは何か』などを読んでみると、日本人として科学的思考に入り込む楽さと難しさが書かれていて、比較すると面白いと思います。(機会があれば後程また別の記事で比較の文章を載せたいと思います。)

  中国でどのような思想的変化が起こったかは歴史に聞けば明らかですが、厳復の『天演論』が一世を風靡したほどの変化を受け止める土壌があったこと、それからいろいろな状況によってそれを受け止めきれずに現れた現実に学ぶことは多いと思います。

 

 

 翻訳文化は必ずしも独創を排除しない。徳川時代の文化の独創性は、「読み下し漢文」に依るところ少い浄瑠璃俳諧ばかりでなく、漢文の概念を駆使しての、儒者の思想的な仕事にもある。日本の学者は必ずしも同時代の中国の学者の後を追ったのではなかった。明治以降の文化についても、少なくともある程度までは、同じことが言えるであろう。

 翻訳文化はまたその国の文化的自立を脅かすものではない。むしろ逆に文化的自立を強化する面を含む。翻訳は外国の概念や思想の単なる受容ではなく、幸いにして、また不幸にして、常に外来文化の自国の伝統による変容だからである。外来の思想は、必ずしも知識層と大衆との間の溝を、長期にわたって拡げるようには作用しない。そのことを明治初期の翻訳者たちは―少なくともその一部は―あきらかに意識していた。もし文化的創造や改革的な思想が、知識人と大衆との深い接触を通じて成り立つものとすれば、翻訳文化は創造力を刺戟しても抑えはしないはずである。

 しかし外国語から日本語への翻訳は、その外国が中国であっても、西洋諸国であっても、常に文化の「一方通行」の手段であった。異文化間の接触が「両面通行」であり得るためには、日本語から外国語への逆翻訳が同時に行われるか、複数の文化に共通の言語、lingua franca がなければならない。逆翻訳は、江戸時代においても、明治以降近代においても、きわめて稀な例外でしかなかった。lingua franca(または国際語)は、中世のヨーロッパには存在したが、十九世紀から二〇世紀の前半にかけての世界には存在しなかった。かくして文化的「一方通行」は、鎖国の日本ばかりでなく、近代日本をも特徴づけることになったのである。

 文化の「一方通行」は、国際社会における孤立を意味する。その孤立を破り、国際社会において自己を主張するために、近代日本が採った手段は、まず軍事力であり、軍事力による自己主張の失敗の後には、経済力であった。しかし円滑なコンミュニケイションを伴わない経済力による自己主張には限界があり、円滑なコンミュニケイションは、文化的孤立の条件のもとでは成り立たない。

 現在の状況は、もちろん明治初期のそれとは大いに異なる。今ここでその詳細に立ち入ることはできないが、その一つは国際語としての英語の圧倒的な力である。二つの地域語としての英語と日本語の関係と、国際語=英語と地域語=日本語との関係はちがう。今日の日本は、明治初期の日本が解こうとした問題―翻訳と文化的自立、翻訳文化の「一方通行」と国際コンミュニケイションの要請というような問題を、異なる条件のもとで説かざるをえない、ということになろう。

 明治の翻訳主義の検討は、今日の視点からこそ殊に大きな意味をもつだろうと思われる。

 

  同上 加藤周一によるあとがき pp187~188

 

 このあとがきの部分を読まれて思うところがない方はおそらくいないと思います。1998年に書かれたこの文章は、現在置かれている日本の状況を言い当て私たちをおののかせる力があります。

 私は先日、海外の日本研究の場がどんどんと縮小されている話題を読んだばかりです。それは、日本という国に魅力がなくなったというよりは、日本の文化が「一方通行」の域を出なかった結果ではないでしょうか。今はこの文章が書かれた当時よりもはるかに英語を理解できる人が増えたと言えるだろうし、SNSの発達などによりコミュニケーション手段も格段に進歩しているはずです。

 それでもなお、文化の「一方通行」が私たちをむしばむ気配がするのは、私たちが閉鎖的であっても大丈夫という意識をどこかで持ち続けていて、そのことに別段問題意識を感じていないからではないかという気がします。この閉鎖的というのは、文化を輸出することに懐疑的だというのではなくて、私たちの心情として「両面通行」を受け入れない何かがあるのだろうということです。

 しかし、このことが問題として表象しているのは日本だけではなくて、いまや世界に広がっていることに不安を隠せません。世界的な文化の「一方通行」を押しとどめる方法を早急に見つけ出すことが、日本にとっても世界にとってもとても重要なことに思えます。

 

 この文章の刊行に間に合わずに亡くなった丸山眞男氏や、一人で世に出すことになった加藤周一氏の思いと功績に感謝して、ここにこの文書を載せたことで少しでも二人の思いが誰かに通じるきっかけになれたらうれしいです。

 

 

 

 

 

 

アーレント『人間の条件』と『活動的生』について

Das Wort „öffentlich“ bezeichnet zwei eng miteinander verbundene, aber doch keineswegs identische Phänomene:

Es bedeutet erstens, daß alles, was vor der Allgemeinheit erscheint, für jedermann sichtbar und hörbar ist, wodurch ihm die größtmögliche Öffentlichkeit zukommt. Daß etwas erscheint und von anderen genau wie von uns selbst als solches wahrgennommen werden kann, bedeutet innerhalb der Menschwelt, daß ihm Wirklichkeit zukommt. 

 

Vita Activa 2章7節冒頭 ドイツ語原文

 

先日、レートー・タトさんのアーレント『活動的生』試訳②7節(改稿)

https://note.mu/leethoo/n/n57a0e4c2f9fa

の、実際翻訳を検討する作業を観させ(聞かせ)て頂くことができました。

 

 この7節冒頭の箇所の読み方の難しさと、アーレントの(哲学的歴史の中で)考えたことを思って翻訳する、あるいは現象学全体を見渡して翻訳する、もしくは、自分のアーレントに対する思考を整理し翻訳をするというような様々な場面を検討する作業中に遭遇することができて、とても有意義な時間を過ごさせていただきました。

 

 一般的にこの部分がよく読まれているのは、ちくま学芸文庫の『人間の条件』によってなります。

 

「公的」という用語は、密接に関連してはいるが完全に同じではないある二つの現象を意味している。

第1にそれは、公に現れるものはすべて、万人によって見られ、聞かれ、可能な限り最も広く公示されるということを意味する。私たちにとっては、現われ(アピアランス)がリアリティを形成する。この現われというのは、他人によっても私たちによっても、見られ、聞かれるなにものかである。見られ、聞かれるものから生まれるリアリティにくらべると、内奥の生活の最も大きな力、たとえば、魂の情熱、精神の思想、感覚の喜びのようなものでさえ、それらが、いわば公的な現われに適合するように一つの形に転形され、非私人化(デプリヴァタイズ)され、非個人化(デインディヴィデュアライズ)されない限りは、不確かで、影のような類いの存在にすぎない。

 

『人間の条件』ハンナ・アレント著 志水速雄訳 ちくま学芸文庫p75(「第2章 公的領域と私的領域 7公的領域―共通なるもの」)

 

「公的」という語が表示するのは、密に互いに結びついているが、決して同一ではないという、二つの現象である。

「公的」とは、第一に、何であれ衆の前に現れる全てのもの[=現れ]が、誰にでも見て取れ、聞き取れるということである。そのことによって、できる限り最も広範囲な公示性が、その当のもの[=現れ]に属性としてあるのである。あるもの[=現れ]が現れ、そしてそのあるもの[=現れ]を我々自身と全く同様に他者によってもそのようなものとして知覚できるということ、それが人間世界の内部で意味するのは、現実性がそのあるもの[=現れ]に属性としてあるということである。聞かれ、見られることで構成される(sich konstitiert)そのようなその現実性と比べて、我々の内的生活の最も強力な力でさえ――心の激情であれ、精神の思想内容であれ、官能の快楽であれ――、定かでない影のような生活を営むのである。

 

レートー・タトさんのアーレント『活動的生』試訳②7節(改稿)

 『人間の条件』はアーレントが1958年にThe Human Conditionとして英語によって世に出したものです。その後ドイツ語版は1960年に『活動的生』(Vita Activa)として出版されましたが、その際英語版の翻訳本としてではなく、他者による訳を基にアーレントによって大幅に加筆・修正されました。志水訳は英語版の訳になるので、正確に言うとレートーさんの訳したものとは異なります。ただし、志水氏はアーレントとの対談等によってアーレントの言わんとすることを把握し、最大限翻訳に生かすことに努めていらっしゃるので、このことを考慮しても、英語版を軽んじたりこの訳を軽んじることはできないことが分かります。(そのことについては訳者解説に詳しくお書きになっています。)

 ただし、アーレントの母国語はドイツ語であり、彼女はドイツの文化を深く愛した人であること、そしてその言語によって表現できる言葉の広がりや意味が違うことを考慮に入れると、『活動的生』を読む意味はぐっと深まります。別に『活動的生』として森一郎訳が出ている意味も十分にあるのです。違う本だととらえた方が良いという考え方もあるようです。

 

※私は『人間の条件』しか読んでいないので、そちらについての解釈になってしまいます。そこのところは大変申し訳ありません。後程、また勉強できたら修正させていただくかもしれませんので、よろしくお願いいたします。

 

 

 『人間の条件』について一言で言うことはとても難しいし、先の話し合いであったのですが、私はこの本を形而上学的に読むことの意味について考えながら読んだことがなかったので(政治的・社会的な意味と関心を持って読んでいました)、翻訳の在り方とうよりももっと初歩的な、本の読み方の違いも思い知りました。

 人間の生き方の問題としてアーレントが解きたかったのは、政治的な人間であること(社会化)が人に及ぼす影響と、その影響から逃れる、というよりも自由でいられるためには、その前にあるべき段階を踏むことが重要であり、例えば〈私の存在意義=社会的な信用・価値〉というような考えに急速に及ぶようなあり方は、人をたやすく集団化して、私という私を殺してしまうというようなことであろうと私は捉えていたのですが、普遍的な意味合いでの人間の生としてそれを捉えるとなると、人間の生についてどう分類したらいいのかというところで既に手詰まりになってしまう気がしています。象徴的な意味合いを持たせるとなると、逆に『人間の条件』ではかなりアーレントが死んでしまうのではないかと思うのです。

 むしろ、彼女はもっと現実的な意味合いにおいて、実践的な生の有様を説いているのであって、それこそ彼女がそれまで受けた数々の経験がそうさせているのだろうと思います。

 

 現象学的な意味合いを持って読むのは、それは素敵だと思いました。

 

 本書の分析が示したのは〈「間文化経験という根本現象」を通り抜けることによって、《諸世界》という現象はどのように開かれるのか〉ということであった。《諸文化》は、その背景に遡ることのできない《世界性格》を露わにするときはじめて、現実的な《文化》としてのその自己理解を手に入れる。このことは、諸文化が《世界性格を伴って(welthaft)》行われる対話から生じてくるものとして理解されることによって、可能になる。このような意味において、《間文化性》は《間世界性(Intermundaneität)》へと移行することになる。間世界性は、間文化性よりも射程の広い、そして哲学的にはるかに精確な概念である。文化という概念はたしかに、人間存在の関わる文化的あるいは人類学的な事柄を明確に表すが、しかし《世界》の意味をつかむことはできない。根本現象としての《世界》は、単に文化の支配しているところで働いているのではなく、あらゆるところで働いている。だから、どの個人も―たとえ当人にはただ萌芽的に、あるいは予感という仕方で知られているだけだとしても―すでに一つの《世界》である。それでもやはり、《世界》にとって決定的に重要な根本動向の全範囲が、この文化的な事柄において、おそらくは最も印象深い仕方で、露出するかぎり、まさに《世界》というトポスは、とりわけ文化的な事柄を扱うのに向いている。

 

現代思想2010年5月号 特集‐現象学の最前線‐間文化性という視座 「間文化性と間世界性 要約と展望」ゲオルク・シュテンガー 神田大輔訳 

 

 今はマルクス・ガブリエルなどの形而上学的な展開を見せる現象学が注目されていますが(私見です。間違っていたらご指摘ください。)私はこちら側からの視座に立った現象学に面白味を持つ方なので、その点でいえばアーレントは実は先端を行っていたのかもしれないと思いました。間文化性では説明ができなかった間世界性の視点に立った私という存在について、アーレントを引用して説明することはとても意味のあることだと感じます。(先行研究、先行事例についての調査はしていません。すいません。)

 実際にこのシュテンガーの文章を読んでいただければ、その共通項について明確にご理解いただけることと思います。

 

 今後もレートーさんは『人間的生』についての翻訳は続けてくださると思うので、興味のある方はチェックしてみてください。注などもとても勉強になります。

 

 ここまでが長くなってしまったので、翻訳については、次回大学の1年生の授業で使用されることも多い(現在もかは不明w)丸山真男加藤周一の『翻訳と日本の近代』等を引用して、書かせて頂こうと思います。今だからこそ読む意味があるなぁと改めて思わされました。

 ガブリエルも岡本裕一郎先生のご本などを参考に絶賛勉強中です(はぁ~)。

 

 今後ともよろしくお願いいたします。

「彼らが本気で編むときは、」感想文 ― トランスジェンダーと母性 ―

「追い出して」と、サラはアブラハムに近づきながら声をはりあげた、「あの奴隷と子どもを追い出してください」

 アブラハムは妻のほうをむいた。

 彼女は夫の返事も待たず、しゃべりつづけながらやってきた。「あのエジプト人の荒々しいけもののような子が、イサクといっしょに遊んでいるのをみたのです。イサクをうやまおうともしないで。まったく。これでは将来が心配です、アブラハム、わたしはゆるせない。あの女奴隷の子は、わたしの子のイサクと同じように跡取りにしてはいけないのです」

 アブラハムは言った、「あの子もわたしの息子なのだ」

 サラはじっと立ったままアブラハムをみつめた。かすかな風が彼女の白髪をなびかせていた。サラが話すときの声はしゃがれていた。彼女は自分のやさしさと気づかいを言葉にこめた。「どちらの息子を主なる神はわたしたちに約束されたのでしょう。そしてどちらの息子を主なる神はおあたえになったのでしょうか」

 

ウォルター・ワンゲリン著 中村明子訳 『小説「聖書」旧約編』 徳間書店 p22

 

トランスジェンダーについて

 「彼らが本気で編むときは、」は気になっていながら、もたもたしていたらもうすぐ上映が終わってしまうということで、慌てて映画館に見に行ってきました。何が気になっていたかと言うと、「かもめ食堂」等の萩上直子監督作品であり、主演のトランスジェンダーの女性を生田斗真が演じ、その相手役が桐谷健太という、人気が出そうな要素が多いわりにそれほど注目されていないことでした。理由としては、ちょうど上映時期が重なってしまった「ラ・ラ・ランド」の影響が大きそうだし、それでもすごくいい映画だろうという直感が私にはありました。

 

 いざ映画館に行ってみると、9割がた女性客の映画館の客席では、序盤からずっとすすり泣きの声が止みませんでした。なぜなら、映画は終始切なさでいっぱいだったからです。

 

 トランスジェンダーで性転換手術を受けているヒロイン、リンコ役の生田斗真さんの演じるリンコは、何もかも一度受け入れてから自分の中で噛みしめて殺すタイプの女性で、緩慢な動きのなかにも優しさが溢れていて、とにかく性格がいいのです。それなのに、トランスジェンダーだということで理不尽な目に何度も何度も遭わなくてはならない。その理不尽さや、自分は本来の性に逆らうという罪を背負っているのではないかというそこはかとない後ろめたさを、ただただ編むことによって供養し、消化させる姿に、本当に心を打たれます。

 もちろん、そんな風に過ごしていられるのは、本人の性格の強さに加え、そのすべてを受け入れ守ってきた彼女の母親の溺愛と言えるほどの愛の支えや、桐谷健太さんの演じる恋人がいてくれるからです。

 

 それでも、世間から見れば(ただの女装した男性としての)異質の存在で、それは彼女がどんなに努力しても世間が変わらなければ変えられないことです。トランスジェンダーの方たちにとっては皆に当てはまるであろうその根本的な差別という問題を、残酷と思わせずに悲しいと思わる雰囲気がずっと作品の根底に流れています。

 

 そういう表現はおそらくそう簡単にできるものではないのですが、その悲しさを私たちに伝えられる力を持った作品に仕上がっていて、それゆえに、見せられる側はずっと泣かざるを得なくなるのです。

 幸せなはずなのにどこか悲しい。楽しいはずなのにどこか悲しい。優しいはずなのにどこか悲しい。つらいはずなのに悲しい。本当につらいはずなのに悲しい。

 

 切なくて悲しくて、こういう作品は初恋と同じでどこか愛おしくなる。脚本もご自分で手掛けた荻上監督の、トランスジェンダーを表現するのにこういった作風にできる実力にも、その難しい演技を見事に演じ切って作品に仕上げることにできた俳優陣の演技力にも、心を持っていかれたように思います。

 

母親について

 映画のパンフレットがすごくよくできていて、それだけで言いたいことのほとんどは語り尽くされている感じがしました。なので、私が言いたかったことを少しだけ。

 

 今回は作品を今までの作風のように癒し系にさせないために、監督が意図して作中に込めていること。それは母と子の親子間の壮絶な関係性を描くことです。母性はあるがままにしておけば子を縛り付け自由を奪いますし、母性が足りなければ愛情を欠くことになります。それに母親自身は人間なので、その時々の自らの置かれた環境によって、行動を制約できたりできなかったりします。

 

 作中に出てくる母親たちは、それぞれそれらの事柄に翻弄され、自らの不安定な立ち位置に戸惑いながら、常に何かを決定しながら生きています。その決定事項に子どもはもろに影響されてしまうのだからたまったものではありません。とくにこの作中では父親の影をわざと薄くしているので、余計にそういう構造になっています。

 

 主人公のトモの母親はシングルマザーで、仕事の忙しさもあって家事が行き届かず、コンビニのおにぎりを食べさせて子どもを育てています。そのうえ、家出をしてはあからさまなネグレクトを行使してしまいます。そんな親の元で育っていても、頼ることのできる大人である叔父の存在があるので、彼女は自身を何とか保つことができています。今回は叔父のもとに身を寄せるとそこにリンコが同棲していたために、リンコを通じて違う母性に出会うことになります。

 

 リンコはこの作中では、おそらく一番女性らしい母性を持ち合わせていながら女性の体を持つことができなかった、完成された不完全な母性の持ち主です。しかも、彼女は子どもを生むことはできません。トモを育てることになってその不条理を思い知ることになったリンコの母性も、また美しいようで歪んでいます。

 

 トモはそんな母親たちの母性の間を揺れながら、現実を受け止める子供です。大人が子育てについて夢見がちなのに、子供が現実的なんて不思議ですが、実際子どもを持った途端女性の母性は夢見がちになるかもしれないと経験から私も思います。そして、現実を見られなくなった母親にとって、子どもは子供になってしまう。

 

 そのことについても、トモに現実を生きさせながら、その母性の夢の残酷さを、これは現実的な痛みとして、また同じような悲しみとして表現しているのですが、その悲しみが子どもの柔軟性と第三者の与えてくれる喜びによって消化されていく様も美しく描かれています。子どもならではの抗い方も、トモの人間性を魅力的に見せてくれます。

 

 振返ると、扱っている内容が内容なので、難しくないようで難しい作品だったと思います。でも、映画のいいところは、それを難解にせずに私たちの中に残る形で見せてくれることができるところなので、改めて映画鑑賞の素晴らしさを感じることができる作品でした。

 

 映画館で見られるのもあとわずかみたいなので、ご興味があれば是非足を運ばれるといいと思います。その際はハンカチとティッシュをお忘れなく。

『騎士団長殺し』の考察 ― 二重思考と二重メタファーについての考察 追加 ―

人生は意図せずに始められてしまった実験旅行である。

 

フェルナンド・ペソア 『断章』107

 

 

 二重思考と二重メタファーについて、先の文章では少し誤魔化していた部分があるので、ここで追加させていただきます。それは、二重メタファーは自身の中にあるものであり、二重思考は組織によって無理やり強制されていたものであるという違いです。

 

 つまり、ビッグ・ブラザーは初めから党の本部が洗脳のために存在させていた一個の個体(客体)であり、そのビッグ・ブラザーの存在を許さなかったために苦悩に合うことになったウィンストン(主体)とのビッグ・ブラザーの関係性と、始めから関係しているかどうかわからないまま、主人公の空想の中で主人公の行為を〈知っている〉あるいは〈そうさせた〉と思わせた白いスバル・フォレスターの男との関係性は、似て非なるものであるということです。

 端的に言えば、二重思考と二重メタファーでは、それに対峙する人間の立ち位置が内か外かで全く逆であるということができるのです。その説明がとても難しいので、先日のブログアップ時には意識的に省いてしまったのですが、そこはやはりきちんとさせておきたいと思い、追加させていただくことにしました。

 

 『1984年』の中でのビッグ・ブラザーは当初からウィンストンの外の人でした。であるからこそ、ウィンストンは彼を受け入れるため二重思考を作り出し、それを飲み込もうとしました。その苦悩が『1984年』のテーマであり、最終的に彼のすべてを受け入れてしまったウィンストンにとってそれは中の人になってしまったのです。

 それに対して『騎士団長殺し』の白いスバル・フォレスターの男は、その存在こそ実在しているものの、実在する人は全く主人公に関与しているはずのない人であり、ただ主人公の内でのみ主人公のあらゆる可能性を否定し悪事を働かせる人として存在し、それは絵に描かれることで表象して目に見えるようになった内の人であるのです。

 

 このことは、実は非常に重要で、なぜ村上春樹が二重思考でなく二重メタファーという語をわざわざ使用したかに深く関連します。

 

 『1984年』でウィンストンにとってビッグ・ブラザーが二重思考をさせる悪人であるうちは、ウィンストンは人間性を保っていられた。しかし、ウィンストンが彼のすべてを受け入れ、彼の髭の下の微笑まで見てしまったときに、二重思考は二重メタファーになって内に入り込みウィンストンを飲み込んでいった。その『1984年』の出来事を踏まえ、なぜ『騎士団長殺し』の白いスバル・フォレスターの男は全てを描かれることがなかったのかを考えてみます。するとそれは、白いスバル・フォレスターの男が『騎士団長殺し』の主人公の内でのビッグ・ブラザーになりきっていなかったからだということができます。白いスバル・フォレスターの男の拒絶はつまり、主人公自らの拒絶であった。こう考えるとすごく整理しやすくなります。

 

 さて、ここまで凝ったことをなぜ村上春樹が行ったのかと言えば、村上春樹がこの小説の中で救いたかったのは、雨田具彦氏だけでなく、ウィンストンの魂もだったのかもしれないと私は思います。『1984年』を読んだ方なら誰しも、ウィンストンが未来に託したものの重要性に心を打たれたと思います。しかし、同時に人にはオブライエンの持つ権力への信仰や他者よりも強いことへの憧れがあり、これは拭いされるものではありません。そういったものを乗り越える人の力とは何かを追求したら、普通の人が二重メタファーというものに打ち勝つ姿が浮かんできたに違いないと思います。

 

 ここまででいったん『騎士団長殺し』の考察としての二重思考と二重メタファーの違いについてを終わらせていただきます。

 

 しかし一方で、〈心の外にある何か〉が〈心の内にある何か〉に変化することとはどういうことか、〈心の中で二重メタファーにつかまる〉というのはどういうことかという疑問が残ります。前回のブログの最後でほのめかし、ツイッターで少しつぶやかせていただいたこの〔心についての課題〕は、また後程、別の仕立て方で書かせていただきたいと思います。

 

フェルナンド・ペソアの引用について

ここで使用させていただいているペソアの引用は

澤田直訳 『不穏の書、断章』2013年 平凡社ライブラリー

を使用させていただいています。

『騎士団長殺し』の考察 ― 3. 二重メタファーと本当の悪である男のこと ―

詩人はふりをするものだ

そのふりは完璧すぎて

ほんとうに感じている

苦痛のふりまでしてしまう

 

フェルナンド・ペソア  『断章』 1

 

 

二重メタファーについて

 

…心 が〈 二重 思考〉 の 迷宮 へと さまよい こん で いく。 知っ て い て、 かつ 知ら ない で いる こと ─ ─ 入念 に 組み立て られ た 嘘 を 告げ ながら、 どこ までも 真実 で ある と 認める こと ─ ─ 打ち消し 合う 二つ の 意見 を 同時に 奉じ、 その 二つ が 矛盾 する こと を 知り ながら、 両方 とも 正しい と 信ずる こと ─ ─ 論理 に 反する 論理 を 用いる ─ ─ 道徳性 を 否認 する 一方 で、 自分 には 道徳性 が ある と 主張 する こと ─ ─ 民主主義 は 存在 し 得 ない と 信じ つつ、 党 は 民主主義 の 守護 者 で ある と 信ずる こと ─ ─ 忘れ なけれ ば いけ ない こと は 何 で あれ 忘れ、 そのうえで 必要 に なれ ば それ を 記憶 に 引き戻し、 そして また 直ちに それ を 忘れる こと、 とりわけ この 忘却・想起・忘却 という プロセス を この プロセス 自体 に 適用 する こと( これ こそ 究極 の 曰く 言い がたい デリケート な 操作)─ ─ 意識的 に 無意識 状態 になり、 それから、 自ら 行なっ た ばかりの その 催眠 行為 を 意識 し なく なる こと。〈 二重 思考〉 という 用語 を 理解 する のにさえ、〈 二重 思考〉 が 必要 だっ た。

 

ジョージ・オーウェル著 高橋 和久訳  『一九八四年 』(ハヤカワepi文庫)  早川書房 Kindle 版 (Kindle の位置No.982-993).

 

 これはオーウェルの『1984年』の中の二重思考(Doublethink)について詳しく記載されている部分です。これと『騎士団長殺し』の二重メタファーとの類似性についてずっと考えていたのですが、メタファー通路で捕まってしまうと危険だとメタファーから告げられた二重メタファーとは、この文章の最後の部分〈意識的 に 無意識 状態 になり、 それから、 自ら 行なっ た ばかりの その 催眠 行為 を 意識 し なく なる こと〉をそのまま応用して〈意識的に暗喩に変換し、自ら行ったその暗喩したものの本体について、さらに暗喩して別の物として本体自身のことを自身でも解らなくしようとすること〉と定義することができるように思います。そして、『1984年』でビッグ・ブラザーと呼ばれている(架空の、そして至高だと信じられている)指導者は、『騎士団長殺し』では、「あなたの中にありながら、あなたにとっての正しい思いをつかまえて、次々に貪り食べてしまうもの、そのようにして肥え太っていくもの。それが二重メタファー。それはあなたの内側にある深い暗闇に、昔からじっと住まっているものなの」と言われる白いスバル・フォレスターの男なのです。

 

 さて、『騎士団長殺し』の主人公はメタファー通路の無を行き、無と有の間の狭間(川)を渡り、行動の関連性の道を通り抜け二重メタファーとの対決の時を迎えます。彼を二重メタファーから解き放った鍵は、理性を捨て去り、〈その場所のすべては関連性の産物だ。絶対的なものなど何もない、すべては相対的なものなのだと信じる〉ことでした。

 

正義について

 

「分かり ませ ん ─ ─ どう でも いい ん です。 でも どうやら あなた 方 は 失敗 し そう です。 何 かが あなた 方 を 打ち破る。 人生 が あなた 方 を 打ち破る でしょ う」 「われわれ が 人生 を すべて の レベル で コントロール し て いる の だ よ、 ウィンストン。 君 は 人間性 と 呼ば れる よう な 何 かが 存在 し、 それ が われわれ の やる こと に 憤慨 し て、 われわれ に 敵対 する だろ う と 思っ て いる。 だ が われわれ が 人間性 を 作っ て いる の だ。 人間 という のは 金属 と 同じ で、 打て ば ありとあらゆる かたち に 変形 できる。 いや ひょっと する と、 プロレタリア か 奴隷 が いつ の 日 か 蜂起 し て、 われわれ を 打ち倒す など という 以前 の 考え に 逆戻り し た のかね。 そんな 考え は 捨て去る こと だ。 かれ ら は 無力 だ、 動物 と 同じ。 人類 が 党 なの だ。 他 は 除けもの に し て いい ─ ─ 関係 が ない の だ」 「構い やし ませ ん。 最後 に はかれ ら が あなた 方 を 打ちのめす。 遅かれ 早かれ、 かれ ら は あなた 方 の 真 の 姿 を 知っ て、 ずたずた に 引き裂い て しまう でしょ う」 「そんな こと が 起こり そう な 証拠 でも どこ かに ある のかね?   あるいは そう なる という 必然的 な 理由 でも?」 「いいえ。 わたし が 信じ て いる だけ です。 あなた 方 が 失敗 する と 分かっ て いる ん です。 宇宙 には 何 か ─ ─ わたし には 分かり ませ ん が、 精神 とか 原理 といった よう な もの で ─ ─ あなた 方 が 絶対 に 打ち勝つ こと の 出来 ない もの が ある ん です」 「神 の 存在 を 信じ て いる のかね、 ウィンストン?」「いいえ」 「それなら われわれ を 打ち破る という その 原理 とは、 いったい 何 なの だ?」 「分かり ませ ん。『 人間』 の 精神 です」 「それで、 君 は 自分 の こと を 一人 の 人間 だ と 思っ て いる のかね?」 「はい」 「君 が 人間 だ と し たら、 最後 の 人間 に なる、 ウィンストン。 君 の よう な 人間 は 絶滅種 なの だ。 後継者 が われわれ だ。 自分 は 独り だけ だ という こと が 分から ない かね?   君 は 歴史 の 外 に いる、 君 は 非存在 なの だ」 彼 の 態度 が 一変 し、 それ まで 以上 に 荒々しい 口調 で 言っ た ─ ─「 君 は われわれ よりも 道徳的 に 優越 し て いる と 思っ て いる の だろ う?   われわれの よう に 嘘 は つか ない、 われわれ の よう に 残酷 では ない と?」 「はい、 自分 の 方 が 優れ て いる と 思っ て い ます」

 

ジョージ・オーウェル著 高橋 和久訳  『一九八四年 』(ハヤカワepi文庫)  早川書房 Kindle 版 (Kindle の位置No.7966-7994)

 

 結局自らはビッグ・ブラザーの手に落ちてしまった哀れなウィンストン。彼がオブライエンとの洗脳の戦いの最中口にする言葉です。ウィンストンのいる環境は過酷で逃れる術はなかった。なぜなら、ウィンストンこそが英雄の器だったからです。たった一人の少女を救う闘いと、国を救う闘いとでは相手が違って当然ですが、この物語でウィンストンが目指した勝利を『騎士団長殺し』の主人公が勝ち取ることは、村上春樹が意図したことであっただろうと想像できます。

 『1984年』をじっくり読み解くことは結構な苦痛を強いますが、やはりきちんと読んでおくことをお勧めします。『騎士団長殺し』で表現されている雨田具彦氏に起きた事実や洗脳について、『騎士団長殺し』の中でも酷いことであったと想像はできますが、より具体的にどれほどの傷を負わせられるものなのか、その時人は何を思うのかを考えさせられます。

 

「ひとりひとりの人間がもっているそのような〔真理を知るための〕機能と各人がそれによって学び知るところの器官とは、はじめから魂のなかに内存しているのであって、ただそれを―あたかも目を暗闇から光明へ転向させるには、身体の全体といっしょに転向させるのでなければ不可能であったように―魂の全体といっしょに生成流転する世界から一転させて、実存および実存のうち最も光り輝くものを観ることに堪えうるようになるまで、導いて行かなければならないのだ。そして、その最も光り輝くものというのは、われわれの主張では、〈善〉にほかならぬ。そうではないかね?」

「そうです」

「それならば」とぼくは言った、「教育とは、まさにその器官を転向させることがどうすればいちばんやさしく、いちばん効果的に達成されるかを考える、向け変えの技術にほかならないということになるだろう。それは、その器官のなかに視力を外から植えつける技術ではなくて、視力ははじめからもっているけれども、ただその向きが正しくなくて、見なければならぬ方向を見ていないから、その点を直すように工夫する技術なのだ」

「ええ、そのように思われます」

「そうすると、魂の徳とふつう呼ばれているものがいろいろとあるけれども、ほかのものはみなおそらく、事実上は身体の徳のほうに近いかもしれない。なぜなら、それらの徳はじっさいに、以前にはなかったが後になってから、習慣と訓練によって内に形成されるものだからね。けれども、知の徳だけは、何にもまして、もっと何か神的なものに所属しているように思われる。その神的な器官〔知性〕は、自分の力をいついかなるときもけっして失うことはないけれども、ただ向け変えのいかんによって、有用・有益なものともなるし、逆に無益・有害なものともなるのだ。それとも君は、こういうことにまだ気づいたことがないかね―世には、『悪いやつだが知恵はある』と言われる人々がいるものだが、そういう連中の魂らしきものが、いかに鋭い視力をはたらかせて、その視力が向けられている事物を鋭敏に見とおすものかということに?この事実は、その持って生まれた視力がけっして劣等なものではないこと、しかしそれが悪に奉仕しなければならないようになっているために、鋭敏に見れば見るほど、それだけいっそう悪事をはたらくようになるのだ、ということを示している」

「まったくそのとおりです」と彼は答えた。

「しかしながら」とぼくは言った、「そのような素質をもった魂のこの器官が、もし子供のときから早くもその周囲を叩かれて、生成界と同族である鉛の錘のようなものを叩きおとされるならば、―この鉛の錘のようなものは、食べ物への耽溺とか、それと同類のものの与える快楽や意地きたなさなどのために、この魂の器官に固着してその一部となり、魂の視線を下のほうへと向けさせるものなのだが―、もしそういったものから解放されて、真実在のほうへと向きを変えさせられるとしたならば、同じ人間のこの同じ器官は、いまその視力が向けられている事物を見るのとまったく同じように、かの真実在をも最も鋭敏にみてとることであろう」

 

プラトン著 藤沢令夫訳 『国家(下)』岩波書店 pp115~117

 

  『1984年』でウィンストンが考えた「人間の持つ何か」と彼の夢見た国家とその指導者について、この先の部分にも多くのヒントが隠されているのですが、いかんせん人の世とは、ソクラテスが考えるような、本来は誰もが持ち合わせている正義について、方向を定めさせてくれないものなのだなぁとつくづく感じます。

 

 二重メタファーの脅威を抜けて、まっすぐ光を見て生きられる世の中にいられることになった『騎士団長殺し』の主人公は、奇跡の娘を得て幸福に暮らします。最後の東日本大震災の映像を彼女に見せなかった時の「何かを理解することと、何かを見ることは別なのだ」だとか、「どこかに私を導いてくれるものがいると、私は率直に信じることができる」と自分を考えることのできる主人公は、この物語を読むと、ある意味英雄なのかもしれないと思ってしまったりもするのです。この時代の英雄は一人の指導者ではなくて、自分自身と戦える人なのかもしれないと。

 

「心は記憶の中にあって、イメージを滋養にして生きているのよ」

 

村上春樹著 『騎士団長殺し 第2部 遷ろうメタファー編』 p376

 

イメージは私の大好物。心について考えるのも難しいけれど楽しいですね。

 

 

おしまい

内省するサイコパスと夢の儚さについて

霜草蒼蒼蟲切切

村南村北行人絶

独出門前望野田

月明蕎麦花如雪

 

村夜 白居易

 

サイコパスと内省するサイコパス

  自分はサイコパスという人の話を今日は二度聞きました。

 

  私はふーんと考えながら、サイコパスには夢があるんだなぁと思っていました。

 

  国会はまさに自分の言うことこそ真実だと疑わないサイコパス達の巣窟で、昨日言ったこととは反対のことを言っているのに、その真実性を滔々と訴えていました。アメリカではそれを大統領補佐官によって〈オルタナティブ・ファクト〉と定義されたらしい。穴埋めする事実で私たちは本当のことを目隠しされようとしている。意識は理論に遠ざけられて真実は捻じ曲げられていく。もちろんアメリカではそんなことは許されない。日本では?

 

   そもそも真実の穴埋めは歴史によってなされていました。それが正しいか正しくないかが書き換えられることなど、どの時代にもあったことで、我が国を神の国だとする『古事記』がその代表格だといえます。私たちが遠い大陸から渡り着いた何種類もの人種による混血の集団であるという事実と、神の作りたもうた国の神の子だという〈オルタナティブ・ファクト〉は、私たちの血に既に両立する真実として刻印されていて、日の丸を見るたびに固有民族の固有国家というイメージを私たちに印象付けます。

  私は、そのこと自体に嫌悪感を持つほどの正義感は持ち合わせてはいませんが、事実と〈オルタナティブ・ファクト〉の両方を受け入れている自分は感じます。そして、そのことに対して別段危険は感じません。なぜならそれは、日本という国家に積み重ねられた歴史上の真実だと認識できるからです。そして、真実などというものは個人の思い込みで、事実とは異なるということを知っているからです。

 

  このことが皆に把握されている限り、そう危険はないはずだというのは私の思い込みで、実は〈オルタナティブ・ファクト〉だけが真実だと説く独裁者が現れ、そしてそれが一度皆の心理に受け入れられれば、生命の危険を回避できない経験を繰り返すという罪。その罪に自国が突進していくとは、よもや起こるまいと思っていたので最近の出来事は思いもよらぬことでした。まさに光の矢が自分に降ってきた感じも否めません。

 そしてそういうことこそが、サイコパスの罪だと私は思います。

 

 ヒットラーが自分の犯した罪について深く恐怖を抱いていたか知ることは、自害して果てた彼に聞くことはできないので無理ですが、いま日本でその事実を目にする限り、そんな恐怖を抱く者はいないように思います。むしろ恐怖を抱いているのは、戦争という体験を通して死を間近に感じた人達であろうかと思いますが、愛国心とは恐ろしいもので、人殺しをしても恐怖しない人を作ってしまう。そんな人達もサイコパスなのだろうなぁと思います。

 

 この人たちに内省する行動を強いることはできません。なぜならサイコパスだから。

 私が今日話を聞いた二人のサイコパスと自称するサイコパスは内省するタイプのサイコパスで、なるほどサイコパスには、というよりサイコパスという語には、夢があるのだなぁと感じました。

 

内省するサイコパスの儚い夢

  私の今日出会った内省するサイコパスには、共通の夢がありました。それは、「自分は異常者だから正常には成れない」という夢です。これのなにが夢かとお思いになる方もいらっしゃるかと思いますが、〈常に正常であること〉は通常かなり難しく、ふつうこの境地に達したいと思うなら出家するしかないよねというのが私の考えです。出家とは私の認識だと、この世から縁を切るということです。この世と縁を切るというのは、死ぬということでは決してなくて、世俗を離れるということです。

 

 人が世俗で正常であり続けるためには、普通は日常で受けた傷を癒す場が必要であり、それが家庭であるのが一般的とされてきたので、何かのサークルであったり、SNS内の別人格であったり、ゲーム内の別人格であったりすることで少し混乱は起きている気はしますが、人はその(まあ異常が許される)場をもってやっと正常が保たれるのです。だから、「自分は異常者だから正常には成れない」夢は夢であって、異常者になって夢が叶うならそれもありかなぁと思わせました。 

 

 私はこんな性格なのでサイコパスになる夢は持てなくて、今は隠遁の身でありますが、それでも家庭の私であったり、ツイッターの私であったり、勉強する私であったり、ブログを書く私であったりして私をやっと保っていけていて、そのために家族や私に手を貸してくださる方がいる世界と、たった一人ぼっちの私である世界の二つの必要性は感じています。

 

 内省するサイコパスたちもそのことは重々承知しているようで、それじゃあどこが異常なんだよということになると、まあ、サイコパスに夢を持つ異常なんだよってことですよね。それがいいのか悪いのかは人によって判断されにくいと思いますが、それが病的だと言えばそうだし、いや、今は一般論として普及しているのじゃないかという人もあるかもしれません。私はどんな夢でも夢を持つのは悪いことじゃないし、それで本人が救われてたり落ち込んでたりするのを楽しく拝見させていただいている方の性格異常者ですw

 

 ということで、あー今日も遅くまでこんなことをしてしまった。でもブログ読んでねって思っていますw(ちなみに4時だぁ)

 

 冒頭の白居易の詩はお気に入りなので載せただけで別段内容とは関係はございません。ツイッターにも載せましたが、今日ふと口に出て、本当に韻の美しさって偉大だなぁと思ったので載せました。読み仮名は振ってないのですが、興味のある方はぜひググって読んでみてください。秋の詩で季節外れですが、グッときますよ!

そうそうそうそう、むしせつせつ(うわ、ブルル)

『騎士団長殺し』の考察 ― 2.メタファーについて(2)芸術と存在 ―

いまの私は、まちがった私で、なるべき私にならなかったのだ。

まとった衣装がまちがっていたのだ。

別人とまちがわれたのに、否定しなかったので、自分を見失ったのだ。

後になって仮面をはずそうとしたが、そのときにはもう顔にはりついていた。

 

フェルナンド・ペソア 『断章』55

 

メタファーが住み着いた絵

意識は、ある経験の契機の人為性を強化する武器である。それは最初の〈実存〉の重要性との関係にしたがって、最終的〈現象〉の重要性を昻める。こうして、意識のうちで明晰判明なのは、〈現象〉であり、そして意識内でほとんど区別されえない諸細部を伴って漠として背景に横たわっているのは、〈実在〉である。意識の注意のうちに飛び込んでくるのは、〈実在〉そのものの直観というよりも、むしろ〈実在〉に関する一塊りの前提である。誤りに陥りがちなことが起こってくるのは、まさしくここである。明晰判明な意識の引き渡しは、経験内での明晰でも判明でもない要素に照会することによる批判を必要とする。これらの要素は、逆に、漠然としており、重厚で、そして重要なものである。これらの要素は、芸術に、色調のあの最終的背景を提供するものであり、それを度外視すれば、芸術の効果は薄れてしまう。人間の芸術が探し求めるタイプの〈真理〉は、明晰な意識に現示される客体につきまとうこの背景を引き出すところにある。

 

ホワイトヘッド著作集第12巻『概念の冒険』 山本誠作・菱木政晴訳 松籟社 p372

 

 私がこの引用で何が言いたかったかといえば、あの雨田具彦画伯の絵にはなぜメタファー(顔なが)が描かれていたかということです。もちろん、メタファーであるところの〈顔なが〉は雨田具彦が描いた時には、この「絵には隠された秘密がある」ということの隠喩の部分を表現するために描かれたということは想像できます。しかし、その部分は一般的には描かれるようなものではないはずです。

 上述のホワイトヘッドの引用にもあるように、「人間の芸術が探し求めるタイプの〈真理〉は、明晰な意識に現示される客体につきまとうこの背景を引き出すところにある」のですから、「漠然としており、重厚で、そして重要なもの」として鑑賞側に読み取られなくてはならないものです。そこを、敢えて描くことによって表象したのは、無論雨田画伯の思いの強さが引き起こした衝動からであり、あの絵が他者に触れることなく客間の屋根裏に隠されていた理由でしょう。それだけ雨田具彦のあの絵に込めた思いは強く、重く、そしてメタファーによって深い深い闇の中に隠蔽されていたのです。

メタファーが繋ぐもの

 見者が自閉的に自らの幻視に淫したり、秘教知への解釈の鍵を欠いていたりすると、理性にして、かくて非理性と、あざとく踝を接するのである。プラトンにとって、そして特に後期の幻覚好きなネオプラトニストにとって、知は内観であり、判別知の高められた何かであった。個をそれに先行するものから峻別すべき分離分別などない。何かが真と言えるのは、個別の中小真理が不十分に反映しうるのみの大真理イデアあればこそである。一者がその表現形態のうちの何かと同一ということはありえないが、それらはそれぞれのやり方で同じ現実に参加している。探究者と探究対象の間の類似が見抜けないでは親和力(affinities)の発見も何もあったものではない、とプラトンは言っていた。しかるに、繋ぎとめる営みがアレゴリー化されるにつけ、とはつまり、精神に観念として現れる世界を、思惟の外側に存する世界から唐突に分けてしまう分断を、主体がほとんど超自然的に意識するにつれて―関係付け(making connections)はどんどん恣意的なものになっていった。

 美の瞑想の中で自意識を失っていくことが、我々がその対象に対して持つ空間的、時間的、そして因果の関係を意識することを止めるということを、ショーペンハウアーにとって意味したとすれば、ヘーゲルにとってそれは贖いとなる総合の最終的な復活と言うべきものを意味した。思想や存在のあらゆる差を奇跡のように「止揚」し、それらの欠除をより完全な第三項に総合するヘーゲルの〈理性(Vernunft)〉の超絶‐円環は弁証法的同一性にいたる。ヘーゲルの理想主義哲学は、社会がつくりだした二元論カテゴリーを解体しようと腐心した一昔前の象徴狂いを後から体系的になぞったという体のものである。鋭い知覚力を持った主体には、二重化するイメージ、表にあらわれる照応関係の発見と創造を介して、具体化を待つ受動的現実の上に出て、これを変容させる力が具わっている。互いに違うところもあるが、ヘーゲルショーペンハウアーともに、その瞑想された対象は、我々の意思を脱し、あるいはミメーシスを超えて、非表題的(nonprogrammatic)な音楽を最高の受肉形態とするところの非表象的(nonrepresentational)な知と化していく。

 

バーバラ・M・スタフォード著 高山宏訳『ヴィジュアル・アナロジー つなぐ技術としての人間意識』 2006 産業図書 p97

 

 スタフォードの引用は難しいけれどいろいろ考えさせられるところが大きいと思います。理解を深めるため長文の引用をしましたが、私がここで使用したかったのは最後の部分です。「その瞑想された対象は、我々の意思を脱し、あるいはミメーシスを超えて、非表題的(nonprogrammatic)なもの(音楽)を最高の受肉形態とするところの非表象的(nonrepresentational)な知と化していく」

 

 主人公は絵の中の主人公に成り代わってイデアを殺しました。

深く深くメタファーの中に沈められていた思いを表象させ世界に再現させたことは、歴史を変えたことに等しくそこには責任が伴う。それは、非表題的なものをメタファー通路を通ることにより非表象的な知として返し、芸術として昇華させることによって初めて可能となるのです。

 

 主人公がなぜメタファー通路を通る試練を受けなければならないのか。それは秋川まりえを救うためなのですが、まりえが受ける受難と「騎士団長殺し」の再現により歴史を変えることが繋がっていることをイデアは予め知っていて、そのためにまりえの前にも現れたと考えると、それまでの間イデアがまりえを救うために奔走していたことと辻褄が合います。

 

 そうして、無事試練を超えて主人公が穴に戻り、免色に救われたと同時に、歴史が元に戻ってまりえはまりえの歴史を生きることが可能になった。実は免色も免色の正しい歴史を生きることも可能になった。

 

この部分の私の読み方はこのような感じになりました。ここは読み手によって読み方が異なることもあるかもしれません。しかし、このように読むことが自然であるように思います。

 

次回は二重メタファーとイデアに本当の悪と呼ばれた男のことをオーウェルの『1984年』の引用を使って読み解きたいと思います。