アーレント『人間の条件』と『活動的生』について

Das Wort „öffentlich“ bezeichnet zwei eng miteinander verbundene, aber doch keineswegs identische Phänomene:

Es bedeutet erstens, daß alles, was vor der Allgemeinheit erscheint, für jedermann sichtbar und hörbar ist, wodurch ihm die größtmögliche Öffentlichkeit zukommt. Daß etwas erscheint und von anderen genau wie von uns selbst als solches wahrgennommen werden kann, bedeutet innerhalb der Menschwelt, daß ihm Wirklichkeit zukommt. 

 

Vita Activa 2章7節冒頭 ドイツ語原文

 

先日、レートー・タトさんのアーレント『活動的生』試訳②7節(改稿)

https://note.mu/leethoo/n/n57a0e4c2f9fa

の、実際翻訳を検討する作業を観させ(聞かせ)て頂くことができました。

 

 この7節冒頭の箇所の読み方の難しさと、アーレントの(哲学的歴史の中で)考えたことを思って翻訳する、あるいは現象学全体を見渡して翻訳する、もしくは、自分のアーレントに対する思考を整理し翻訳をするというような様々な場面を検討する作業中に遭遇することができて、とても有意義な時間を過ごさせていただきました。

 

 一般的にこの部分がよく読まれているのは、ちくま学芸文庫の『人間の条件』によってなります。

 

「公的」という用語は、密接に関連してはいるが完全に同じではないある二つの現象を意味している。

第1にそれは、公に現れるものはすべて、万人によって見られ、聞かれ、可能な限り最も広く公示されるということを意味する。私たちにとっては、現われ(アピアランス)がリアリティを形成する。この現われというのは、他人によっても私たちによっても、見られ、聞かれるなにものかである。見られ、聞かれるものから生まれるリアリティにくらべると、内奥の生活の最も大きな力、たとえば、魂の情熱、精神の思想、感覚の喜びのようなものでさえ、それらが、いわば公的な現われに適合するように一つの形に転形され、非私人化(デプリヴァタイズ)され、非個人化(デインディヴィデュアライズ)されない限りは、不確かで、影のような類いの存在にすぎない。

 

『人間の条件』ハンナ・アレント著 志水速雄訳 ちくま学芸文庫p75(「第2章 公的領域と私的領域 7公的領域―共通なるもの」)

 

「公的」という語が表示するのは、密に互いに結びついているが、決して同一ではないという、二つの現象である。

「公的」とは、第一に、何であれ衆の前に現れる全てのもの[=現れ]が、誰にでも見て取れ、聞き取れるということである。そのことによって、できる限り最も広範囲な公示性が、その当のもの[=現れ]に属性としてあるのである。あるもの[=現れ]が現れ、そしてそのあるもの[=現れ]を我々自身と全く同様に他者によってもそのようなものとして知覚できるということ、それが人間世界の内部で意味するのは、現実性がそのあるもの[=現れ]に属性としてあるということである。聞かれ、見られることで構成される(sich konstitiert)そのようなその現実性と比べて、我々の内的生活の最も強力な力でさえ――心の激情であれ、精神の思想内容であれ、官能の快楽であれ――、定かでない影のような生活を営むのである。

 

レートー・タトさんのアーレント『活動的生』試訳②7節(改稿)

 『人間の条件』はアーレントが1958年にThe Human Conditionとして英語によって世に出したものです。その後ドイツ語版は1960年に『活動的生』(Vita Activa)として出版されましたが、その際英語版の翻訳本としてではなく、他者による訳を基にアーレントによって大幅に加筆・修正されました。志水訳は英語版の訳になるので、正確に言うとレートーさんの訳したものとは異なります。ただし、志水氏はアーレントとの対談等によってアーレントの言わんとすることを把握し、最大限翻訳に生かすことに努めていらっしゃるので、このことを考慮しても、英語版を軽んじたりこの訳を軽んじることはできないことが分かります。(そのことについては訳者解説に詳しくお書きになっています。)

 ただし、アーレントの母国語はドイツ語であり、彼女はドイツの文化を深く愛した人であること、そしてその言語によって表現できる言葉の広がりや意味が違うことを考慮に入れると、『活動的生』を読む意味はぐっと深まります。別に『活動的生』として森一郎訳が出ている意味も十分にあるのです。違う本だととらえた方が良いという考え方もあるようです。

 

※私は『人間の条件』しか読んでいないので、そちらについての解釈になってしまいます。そこのところは大変申し訳ありません。後程、また勉強できたら修正させていただくかもしれませんので、よろしくお願いいたします。

 

 

 『人間の条件』について一言で言うことはとても難しいし、先の話し合いであったのですが、私はこの本を形而上学的に読むことの意味について考えながら読んだことがなかったので(政治的・社会的な意味と関心を持って読んでいました)、翻訳の在り方とうよりももっと初歩的な、本の読み方の違いも思い知りました。

 人間の生き方の問題としてアーレントが解きたかったのは、政治的な人間であること(社会化)が人に及ぼす影響と、その影響から逃れる、というよりも自由でいられるためには、その前にあるべき段階を踏むことが重要であり、例えば〈私の存在意義=社会的な信用・価値〉というような考えに急速に及ぶようなあり方は、人をたやすく集団化して、私という私を殺してしまうというようなことであろうと私は捉えていたのですが、普遍的な意味合いでの人間の生としてそれを捉えるとなると、人間の生についてどう分類したらいいのかというところで既に手詰まりになってしまう気がしています。象徴的な意味合いを持たせるとなると、逆に『人間の条件』ではかなりアーレントが死んでしまうのではないかと思うのです。

 むしろ、彼女はもっと現実的な意味合いにおいて、実践的な生の有様を説いているのであって、それこそ彼女がそれまで受けた数々の経験がそうさせているのだろうと思います。

 

 現象学的な意味合いを持って読むのは、それは素敵だと思いました。

 

 本書の分析が示したのは〈「間文化経験という根本現象」を通り抜けることによって、《諸世界》という現象はどのように開かれるのか〉ということであった。《諸文化》は、その背景に遡ることのできない《世界性格》を露わにするときはじめて、現実的な《文化》としてのその自己理解を手に入れる。このことは、諸文化が《世界性格を伴って(welthaft)》行われる対話から生じてくるものとして理解されることによって、可能になる。このような意味において、《間文化性》は《間世界性(Intermundaneität)》へと移行することになる。間世界性は、間文化性よりも射程の広い、そして哲学的にはるかに精確な概念である。文化という概念はたしかに、人間存在の関わる文化的あるいは人類学的な事柄を明確に表すが、しかし《世界》の意味をつかむことはできない。根本現象としての《世界》は、単に文化の支配しているところで働いているのではなく、あらゆるところで働いている。だから、どの個人も―たとえ当人にはただ萌芽的に、あるいは予感という仕方で知られているだけだとしても―すでに一つの《世界》である。それでもやはり、《世界》にとって決定的に重要な根本動向の全範囲が、この文化的な事柄において、おそらくは最も印象深い仕方で、露出するかぎり、まさに《世界》というトポスは、とりわけ文化的な事柄を扱うのに向いている。

 

現代思想2010年5月号 特集‐現象学の最前線‐間文化性という視座 「間文化性と間世界性 要約と展望」ゲオルク・シュテンガー 神田大輔訳 

 

 今はマルクス・ガブリエルなどの形而上学的な展開を見せる現象学が注目されていますが(私見です。間違っていたらご指摘ください。)私はこちら側からの視座に立った現象学に面白味を持つ方なので、その点でいえばアーレントは実は先端を行っていたのかもしれないと思いました。間文化性では説明ができなかった間世界性の視点に立った私という存在について、アーレントを引用して説明することはとても意味のあることだと感じます。(先行研究、先行事例についての調査はしていません。すいません。)

 実際にこのシュテンガーの文章を読んでいただければ、その共通項について明確にご理解いただけることと思います。

 

 今後もレートーさんは『人間的生』についての翻訳は続けてくださると思うので、興味のある方はチェックしてみてください。注などもとても勉強になります。

 

 ここまでが長くなってしまったので、翻訳については、次回大学の1年生の授業で使用されることも多い(現在もかは不明w)丸山真男加藤周一の『翻訳と日本の近代』等を引用して、書かせて頂こうと思います。今だからこそ読む意味があるなぁと改めて思わされました。

 ガブリエルも岡本裕一郎先生のご本などを参考に絶賛勉強中です(はぁ~)。

 

 今後ともよろしくお願いいたします。

「彼らが本気で編むときは、」感想文 ― トランスジェンダーと母性 ―

「追い出して」と、サラはアブラハムに近づきながら声をはりあげた、「あの奴隷と子どもを追い出してください」

 アブラハムは妻のほうをむいた。

 彼女は夫の返事も待たず、しゃべりつづけながらやってきた。「あのエジプト人の荒々しいけもののような子が、イサクといっしょに遊んでいるのをみたのです。イサクをうやまおうともしないで。まったく。これでは将来が心配です、アブラハム、わたしはゆるせない。あの女奴隷の子は、わたしの子のイサクと同じように跡取りにしてはいけないのです」

 アブラハムは言った、「あの子もわたしの息子なのだ」

 サラはじっと立ったままアブラハムをみつめた。かすかな風が彼女の白髪をなびかせていた。サラが話すときの声はしゃがれていた。彼女は自分のやさしさと気づかいを言葉にこめた。「どちらの息子を主なる神はわたしたちに約束されたのでしょう。そしてどちらの息子を主なる神はおあたえになったのでしょうか」

 

ウォルター・ワンゲリン著 中村明子訳 『小説「聖書」旧約編』 徳間書店 p22

 

トランスジェンダーについて

 「彼らが本気で編むときは、」は気になっていながら、もたもたしていたらもうすぐ上映が終わってしまうということで、慌てて映画館に見に行ってきました。何が気になっていたかと言うと、「かもめ食堂」等の萩上直子監督作品であり、主演のトランスジェンダーの女性を生田斗真が演じ、その相手役が桐谷健太という、人気が出そうな要素が多いわりにそれほど注目されていないことでした。理由としては、ちょうど上映時期が重なってしまった「ラ・ラ・ランド」の影響が大きそうだし、それでもすごくいい映画だろうという直感が私にはありました。

 

 いざ映画館に行ってみると、9割がた女性客の映画館の客席では、序盤からずっとすすり泣きの声が止みませんでした。なぜなら、映画は終始切なさでいっぱいだったからです。

 

 トランスジェンダーで性転換手術を受けているヒロイン、リンコ役の生田斗真さんの演じるリンコは、何もかも一度受け入れてから自分の中で噛みしめて殺すタイプの女性で、緩慢な動きのなかにも優しさが溢れていて、とにかく性格がいいのです。それなのに、トランスジェンダーだということで理不尽な目に何度も何度も遭わなくてはならない。その理不尽さや、自分は本来の性に逆らうという罪を背負っているのではないかというそこはかとない後ろめたさを、ただただ編むことによって供養し、消化させる姿に、本当に心を打たれます。

 もちろん、そんな風に過ごしていられるのは、本人の性格の強さに加え、そのすべてを受け入れ守ってきた彼女の母親の溺愛と言えるほどの愛の支えや、桐谷健太さんの演じる恋人がいてくれるからです。

 

 それでも、世間から見れば(ただの女装した男性としての)異質の存在で、それは彼女がどんなに努力しても世間が変わらなければ変えられないことです。トランスジェンダーの方たちにとっては皆に当てはまるであろうその根本的な差別という問題を、残酷と思わせずに悲しいと思わる雰囲気がずっと作品の根底に流れています。

 

 そういう表現はおそらくそう簡単にできるものではないのですが、その悲しさを私たちに伝えられる力を持った作品に仕上がっていて、それゆえに、見せられる側はずっと泣かざるを得なくなるのです。

 幸せなはずなのにどこか悲しい。楽しいはずなのにどこか悲しい。優しいはずなのにどこか悲しい。つらいはずなのに悲しい。本当につらいはずなのに悲しい。

 

 切なくて悲しくて、こういう作品は初恋と同じでどこか愛おしくなる。脚本もご自分で手掛けた荻上監督の、トランスジェンダーを表現するのにこういった作風にできる実力にも、その難しい演技を見事に演じ切って作品に仕上げることにできた俳優陣の演技力にも、心を持っていかれたように思います。

 

母親について

 映画のパンフレットがすごくよくできていて、それだけで言いたいことのほとんどは語り尽くされている感じがしました。なので、私が言いたかったことを少しだけ。

 

 今回は作品を今までの作風のように癒し系にさせないために、監督が意図して作中に込めていること。それは母と子の親子間の壮絶な関係性を描くことです。母性はあるがままにしておけば子を縛り付け自由を奪いますし、母性が足りなければ愛情を欠くことになります。それに母親自身は人間なので、その時々の自らの置かれた環境によって、行動を制約できたりできなかったりします。

 

 作中に出てくる母親たちは、それぞれそれらの事柄に翻弄され、自らの不安定な立ち位置に戸惑いながら、常に何かを決定しながら生きています。その決定事項に子どもはもろに影響されてしまうのだからたまったものではありません。とくにこの作中では父親の影をわざと薄くしているので、余計にそういう構造になっています。

 

 主人公のトモの母親はシングルマザーで、仕事の忙しさもあって家事が行き届かず、コンビニのおにぎりを食べさせて子どもを育てています。そのうえ、家出をしてはあからさまなネグレクトを行使してしまいます。そんな親の元で育っていても、頼ることのできる大人である叔父の存在があるので、彼女は自身を何とか保つことができています。今回は叔父のもとに身を寄せるとそこにリンコが同棲していたために、リンコを通じて違う母性に出会うことになります。

 

 リンコはこの作中では、おそらく一番女性らしい母性を持ち合わせていながら女性の体を持つことができなかった、完成された不完全な母性の持ち主です。しかも、彼女は子どもを生むことはできません。トモを育てることになってその不条理を思い知ることになったリンコの母性も、また美しいようで歪んでいます。

 

 トモはそんな母親たちの母性の間を揺れながら、現実を受け止める子供です。大人が子育てについて夢見がちなのに、子供が現実的なんて不思議ですが、実際子どもを持った途端女性の母性は夢見がちになるかもしれないと経験から私も思います。そして、現実を見られなくなった母親にとって、子どもは子供になってしまう。

 

 そのことについても、トモに現実を生きさせながら、その母性の夢の残酷さを、これは現実的な痛みとして、また同じような悲しみとして表現しているのですが、その悲しみが子どもの柔軟性と第三者の与えてくれる喜びによって消化されていく様も美しく描かれています。子どもならではの抗い方も、トモの人間性を魅力的に見せてくれます。

 

 振返ると、扱っている内容が内容なので、難しくないようで難しい作品だったと思います。でも、映画のいいところは、それを難解にせずに私たちの中に残る形で見せてくれることができるところなので、改めて映画鑑賞の素晴らしさを感じることができる作品でした。

 

 映画館で見られるのもあとわずかみたいなので、ご興味があれば是非足を運ばれるといいと思います。その際はハンカチとティッシュをお忘れなく。

『騎士団長殺し』の考察 ― 二重思考と二重メタファーについての考察 追加 ―

人生は意図せずに始められてしまった実験旅行である。

 

フェルナンド・ペソア 『断章』107

 

 

 二重思考と二重メタファーについて、先の文章では少し誤魔化していた部分があるので、ここで追加させていただきます。それは、二重メタファーは自身の中にあるものであり、二重思考は組織によって無理やり強制されていたものであるという違いです。

 

 つまり、ビッグ・ブラザーは初めから党の本部が洗脳のために存在させていた一個の個体(客体)であり、そのビッグ・ブラザーの存在を許さなかったために苦悩に合うことになったウィンストン(主体)とのビッグ・ブラザーの関係性と、始めから関係しているかどうかわからないまま、主人公の空想の中で主人公の行為を〈知っている〉あるいは〈そうさせた〉と思わせた白いスバル・フォレスターの男との関係性は、似て非なるものであるということです。

 端的に言えば、二重思考と二重メタファーでは、それに対峙する人間の立ち位置が内か外かで全く逆であるということができるのです。その説明がとても難しいので、先日のブログアップ時には意識的に省いてしまったのですが、そこはやはりきちんとさせておきたいと思い、追加させていただくことにしました。

 

 『1984年』の中でのビッグ・ブラザーは当初からウィンストンの外の人でした。であるからこそ、ウィンストンは彼を受け入れるため二重思考を作り出し、それを飲み込もうとしました。その苦悩が『1984年』のテーマであり、最終的に彼のすべてを受け入れてしまったウィンストンにとってそれは中の人になってしまったのです。

 それに対して『騎士団長殺し』の白いスバル・フォレスターの男は、その存在こそ実在しているものの、実在する人は全く主人公に関与しているはずのない人であり、ただ主人公の内でのみ主人公のあらゆる可能性を否定し悪事を働かせる人として存在し、それは絵に描かれることで表象して目に見えるようになった内の人であるのです。

 

 このことは、実は非常に重要で、なぜ村上春樹が二重思考でなく二重メタファーという語をわざわざ使用したかに深く関連します。

 

 『1984年』でウィンストンにとってビッグ・ブラザーが二重思考をさせる悪人であるうちは、ウィンストンは人間性を保っていられた。しかし、ウィンストンが彼のすべてを受け入れ、彼の髭の下の微笑まで見てしまったときに、二重思考は二重メタファーになって内に入り込みウィンストンを飲み込んでいった。その『1984年』の出来事を踏まえ、なぜ『騎士団長殺し』の白いスバル・フォレスターの男は全てを描かれることがなかったのかを考えてみます。するとそれは、白いスバル・フォレスターの男が『騎士団長殺し』の主人公の内でのビッグ・ブラザーになりきっていなかったからだということができます。白いスバル・フォレスターの男の拒絶はつまり、主人公自らの拒絶であった。こう考えるとすごく整理しやすくなります。

 

 さて、ここまで凝ったことをなぜ村上春樹が行ったのかと言えば、村上春樹がこの小説の中で救いたかったのは、雨田具彦氏だけでなく、ウィンストンの魂もだったのかもしれないと私は思います。『1984年』を読んだ方なら誰しも、ウィンストンが未来に託したものの重要性に心を打たれたと思います。しかし、同時に人にはオブライエンの持つ権力への信仰や他者よりも強いことへの憧れがあり、これは拭いされるものではありません。そういったものを乗り越える人の力とは何かを追求したら、普通の人が二重メタファーというものに打ち勝つ姿が浮かんできたに違いないと思います。

 

 ここまででいったん『騎士団長殺し』の考察としての二重思考と二重メタファーの違いについてを終わらせていただきます。

 

 しかし一方で、〈心の外にある何か〉が〈心の内にある何か〉に変化することとはどういうことか、〈心の中で二重メタファーにつかまる〉というのはどういうことかという疑問が残ります。前回のブログの最後でほのめかし、ツイッターで少しつぶやかせていただいたこの〔心についての課題〕は、また後程、別の仕立て方で書かせていただきたいと思います。

 

フェルナンド・ペソアの引用について

ここで使用させていただいているペソアの引用は

澤田直訳 『不穏の書、断章』2013年 平凡社ライブラリー

を使用させていただいています。

『騎士団長殺し』の考察 ― 3. 二重メタファーと本当の悪である男のこと ―

詩人はふりをするものだ

そのふりは完璧すぎて

ほんとうに感じている

苦痛のふりまでしてしまう

 

フェルナンド・ペソア  『断章』 1

 

 

二重メタファーについて

 

…心 が〈 二重 思考〉 の 迷宮 へと さまよい こん で いく。 知っ て い て、 かつ 知ら ない で いる こと ─ ─ 入念 に 組み立て られ た 嘘 を 告げ ながら、 どこ までも 真実 で ある と 認める こと ─ ─ 打ち消し 合う 二つ の 意見 を 同時に 奉じ、 その 二つ が 矛盾 する こと を 知り ながら、 両方 とも 正しい と 信ずる こと ─ ─ 論理 に 反する 論理 を 用いる ─ ─ 道徳性 を 否認 する 一方 で、 自分 には 道徳性 が ある と 主張 する こと ─ ─ 民主主義 は 存在 し 得 ない と 信じ つつ、 党 は 民主主義 の 守護 者 で ある と 信ずる こと ─ ─ 忘れ なけれ ば いけ ない こと は 何 で あれ 忘れ、 そのうえで 必要 に なれ ば それ を 記憶 に 引き戻し、 そして また 直ちに それ を 忘れる こと、 とりわけ この 忘却・想起・忘却 という プロセス を この プロセス 自体 に 適用 する こと( これ こそ 究極 の 曰く 言い がたい デリケート な 操作)─ ─ 意識的 に 無意識 状態 になり、 それから、 自ら 行なっ た ばかりの その 催眠 行為 を 意識 し なく なる こと。〈 二重 思考〉 という 用語 を 理解 する のにさえ、〈 二重 思考〉 が 必要 だっ た。

 

ジョージ・オーウェル著 高橋 和久訳  『一九八四年 』(ハヤカワepi文庫)  早川書房 Kindle 版 (Kindle の位置No.982-993).

 

 これはオーウェルの『1984年』の中の二重思考(Doublethink)について詳しく記載されている部分です。これと『騎士団長殺し』の二重メタファーとの類似性についてずっと考えていたのですが、メタファー通路で捕まってしまうと危険だとメタファーから告げられた二重メタファーとは、この文章の最後の部分〈意識的 に 無意識 状態 になり、 それから、 自ら 行なっ た ばかりの その 催眠 行為 を 意識 し なく なる こと〉をそのまま応用して〈意識的に暗喩に変換し、自ら行ったその暗喩したものの本体について、さらに暗喩して別の物として本体自身のことを自身でも解らなくしようとすること〉と定義することができるように思います。そして、『1984年』でビッグ・ブラザーと呼ばれている(架空の、そして至高だと信じられている)指導者は、『騎士団長殺し』では、「あなたの中にありながら、あなたにとっての正しい思いをつかまえて、次々に貪り食べてしまうもの、そのようにして肥え太っていくもの。それが二重メタファー。それはあなたの内側にある深い暗闇に、昔からじっと住まっているものなの」と言われる白いスバル・フォレスターの男なのです。

 

 さて、『騎士団長殺し』の主人公はメタファー通路の無を行き、無と有の間の狭間(川)を渡り、行動の関連性の道を通り抜け二重メタファーとの対決の時を迎えます。彼を二重メタファーから解き放った鍵は、理性を捨て去り、〈その場所のすべては関連性の産物だ。絶対的なものなど何もない、すべては相対的なものなのだと信じる〉ことでした。

 

正義について

 

「分かり ませ ん ─ ─ どう でも いい ん です。 でも どうやら あなた 方 は 失敗 し そう です。 何 かが あなた 方 を 打ち破る。 人生 が あなた 方 を 打ち破る でしょ う」 「われわれ が 人生 を すべて の レベル で コントロール し て いる の だ よ、 ウィンストン。 君 は 人間性 と 呼ば れる よう な 何 かが 存在 し、 それ が われわれ の やる こと に 憤慨 し て、 われわれ に 敵対 する だろ う と 思っ て いる。 だ が われわれ が 人間性 を 作っ て いる の だ。 人間 という のは 金属 と 同じ で、 打て ば ありとあらゆる かたち に 変形 できる。 いや ひょっと する と、 プロレタリア か 奴隷 が いつ の 日 か 蜂起 し て、 われわれ を 打ち倒す など という 以前 の 考え に 逆戻り し た のかね。 そんな 考え は 捨て去る こと だ。 かれ ら は 無力 だ、 動物 と 同じ。 人類 が 党 なの だ。 他 は 除けもの に し て いい ─ ─ 関係 が ない の だ」 「構い やし ませ ん。 最後 に はかれ ら が あなた 方 を 打ちのめす。 遅かれ 早かれ、 かれ ら は あなた 方 の 真 の 姿 を 知っ て、 ずたずた に 引き裂い て しまう でしょ う」 「そんな こと が 起こり そう な 証拠 でも どこ かに ある のかね?   あるいは そう なる という 必然的 な 理由 でも?」 「いいえ。 わたし が 信じ て いる だけ です。 あなた 方 が 失敗 する と 分かっ て いる ん です。 宇宙 には 何 か ─ ─ わたし には 分かり ませ ん が、 精神 とか 原理 といった よう な もの で ─ ─ あなた 方 が 絶対 に 打ち勝つ こと の 出来 ない もの が ある ん です」 「神 の 存在 を 信じ て いる のかね、 ウィンストン?」「いいえ」 「それなら われわれ を 打ち破る という その 原理 とは、 いったい 何 なの だ?」 「分かり ませ ん。『 人間』 の 精神 です」 「それで、 君 は 自分 の こと を 一人 の 人間 だ と 思っ て いる のかね?」 「はい」 「君 が 人間 だ と し たら、 最後 の 人間 に なる、 ウィンストン。 君 の よう な 人間 は 絶滅種 なの だ。 後継者 が われわれ だ。 自分 は 独り だけ だ という こと が 分から ない かね?   君 は 歴史 の 外 に いる、 君 は 非存在 なの だ」 彼 の 態度 が 一変 し、 それ まで 以上 に 荒々しい 口調 で 言っ た ─ ─「 君 は われわれ よりも 道徳的 に 優越 し て いる と 思っ て いる の だろ う?   われわれの よう に 嘘 は つか ない、 われわれ の よう に 残酷 では ない と?」 「はい、 自分 の 方 が 優れ て いる と 思っ て い ます」

 

ジョージ・オーウェル著 高橋 和久訳  『一九八四年 』(ハヤカワepi文庫)  早川書房 Kindle 版 (Kindle の位置No.7966-7994)

 

 結局自らはビッグ・ブラザーの手に落ちてしまった哀れなウィンストン。彼がオブライエンとの洗脳の戦いの最中口にする言葉です。ウィンストンのいる環境は過酷で逃れる術はなかった。なぜなら、ウィンストンこそが英雄の器だったからです。たった一人の少女を救う闘いと、国を救う闘いとでは相手が違って当然ですが、この物語でウィンストンが目指した勝利を『騎士団長殺し』の主人公が勝ち取ることは、村上春樹が意図したことであっただろうと想像できます。

 『1984年』をじっくり読み解くことは結構な苦痛を強いますが、やはりきちんと読んでおくことをお勧めします。『騎士団長殺し』で表現されている雨田具彦氏に起きた事実や洗脳について、『騎士団長殺し』の中でも酷いことであったと想像はできますが、より具体的にどれほどの傷を負わせられるものなのか、その時人は何を思うのかを考えさせられます。

 

「ひとりひとりの人間がもっているそのような〔真理を知るための〕機能と各人がそれによって学び知るところの器官とは、はじめから魂のなかに内存しているのであって、ただそれを―あたかも目を暗闇から光明へ転向させるには、身体の全体といっしょに転向させるのでなければ不可能であったように―魂の全体といっしょに生成流転する世界から一転させて、実存および実存のうち最も光り輝くものを観ることに堪えうるようになるまで、導いて行かなければならないのだ。そして、その最も光り輝くものというのは、われわれの主張では、〈善〉にほかならぬ。そうではないかね?」

「そうです」

「それならば」とぼくは言った、「教育とは、まさにその器官を転向させることがどうすればいちばんやさしく、いちばん効果的に達成されるかを考える、向け変えの技術にほかならないということになるだろう。それは、その器官のなかに視力を外から植えつける技術ではなくて、視力ははじめからもっているけれども、ただその向きが正しくなくて、見なければならぬ方向を見ていないから、その点を直すように工夫する技術なのだ」

「ええ、そのように思われます」

「そうすると、魂の徳とふつう呼ばれているものがいろいろとあるけれども、ほかのものはみなおそらく、事実上は身体の徳のほうに近いかもしれない。なぜなら、それらの徳はじっさいに、以前にはなかったが後になってから、習慣と訓練によって内に形成されるものだからね。けれども、知の徳だけは、何にもまして、もっと何か神的なものに所属しているように思われる。その神的な器官〔知性〕は、自分の力をいついかなるときもけっして失うことはないけれども、ただ向け変えのいかんによって、有用・有益なものともなるし、逆に無益・有害なものともなるのだ。それとも君は、こういうことにまだ気づいたことがないかね―世には、『悪いやつだが知恵はある』と言われる人々がいるものだが、そういう連中の魂らしきものが、いかに鋭い視力をはたらかせて、その視力が向けられている事物を鋭敏に見とおすものかということに?この事実は、その持って生まれた視力がけっして劣等なものではないこと、しかしそれが悪に奉仕しなければならないようになっているために、鋭敏に見れば見るほど、それだけいっそう悪事をはたらくようになるのだ、ということを示している」

「まったくそのとおりです」と彼は答えた。

「しかしながら」とぼくは言った、「そのような素質をもった魂のこの器官が、もし子供のときから早くもその周囲を叩かれて、生成界と同族である鉛の錘のようなものを叩きおとされるならば、―この鉛の錘のようなものは、食べ物への耽溺とか、それと同類のものの与える快楽や意地きたなさなどのために、この魂の器官に固着してその一部となり、魂の視線を下のほうへと向けさせるものなのだが―、もしそういったものから解放されて、真実在のほうへと向きを変えさせられるとしたならば、同じ人間のこの同じ器官は、いまその視力が向けられている事物を見るのとまったく同じように、かの真実在をも最も鋭敏にみてとることであろう」

 

プラトン著 藤沢令夫訳 『国家(下)』岩波書店 pp115~117

 

  『1984年』でウィンストンが考えた「人間の持つ何か」と彼の夢見た国家とその指導者について、この先の部分にも多くのヒントが隠されているのですが、いかんせん人の世とは、ソクラテスが考えるような、本来は誰もが持ち合わせている正義について、方向を定めさせてくれないものなのだなぁとつくづく感じます。

 

 二重メタファーの脅威を抜けて、まっすぐ光を見て生きられる世の中にいられることになった『騎士団長殺し』の主人公は、奇跡の娘を得て幸福に暮らします。最後の東日本大震災の映像を彼女に見せなかった時の「何かを理解することと、何かを見ることは別なのだ」だとか、「どこかに私を導いてくれるものがいると、私は率直に信じることができる」と自分を考えることのできる主人公は、この物語を読むと、ある意味英雄なのかもしれないと思ってしまったりもするのです。この時代の英雄は一人の指導者ではなくて、自分自身と戦える人なのかもしれないと。

 

「心は記憶の中にあって、イメージを滋養にして生きているのよ」

 

村上春樹著 『騎士団長殺し 第2部 遷ろうメタファー編』 p376

 

イメージは私の大好物。心について考えるのも難しいけれど楽しいですね。

 

 

おしまい

内省するサイコパスと夢の儚さについて

霜草蒼蒼蟲切切

村南村北行人絶

独出門前望野田

月明蕎麦花如雪

 

村夜 白居易

 

サイコパスと内省するサイコパス

  自分はサイコパスという人の話を今日は二度聞きました。

 

  私はふーんと考えながら、サイコパスには夢があるんだなぁと思っていました。

 

  国会はまさに自分の言うことこそ真実だと疑わないサイコパス達の巣窟で、昨日言ったこととは反対のことを言っているのに、その真実性を滔々と訴えていました。アメリカではそれを大統領補佐官によって〈オルタナティブ・ファクト〉と定義されたらしい。穴埋めする事実で私たちは本当のことを目隠しされようとしている。意識は理論に遠ざけられて真実は捻じ曲げられていく。もちろんアメリカではそんなことは許されない。日本では?

 

   そもそも真実の穴埋めは歴史によってなされていました。それが正しいか正しくないかが書き換えられることなど、どの時代にもあったことで、我が国を神の国だとする『古事記』がその代表格だといえます。私たちが遠い大陸から渡り着いた何種類もの人種による混血の集団であるという事実と、神の作りたもうた国の神の子だという〈オルタナティブ・ファクト〉は、私たちの血に既に両立する真実として刻印されていて、日の丸を見るたびに固有民族の固有国家というイメージを私たちに印象付けます。

  私は、そのこと自体に嫌悪感を持つほどの正義感は持ち合わせてはいませんが、事実と〈オルタナティブ・ファクト〉の両方を受け入れている自分は感じます。そして、そのことに対して別段危険は感じません。なぜならそれは、日本という国家に積み重ねられた歴史上の真実だと認識できるからです。そして、真実などというものは個人の思い込みで、事実とは異なるということを知っているからです。

 

  このことが皆に把握されている限り、そう危険はないはずだというのは私の思い込みで、実は〈オルタナティブ・ファクト〉だけが真実だと説く独裁者が現れ、そしてそれが一度皆の心理に受け入れられれば、生命の危険を回避できない経験を繰り返すという罪。その罪に自国が突進していくとは、よもや起こるまいと思っていたので最近の出来事は思いもよらぬことでした。まさに光の矢が自分に降ってきた感じも否めません。

 そしてそういうことこそが、サイコパスの罪だと私は思います。

 

 ヒットラーが自分の犯した罪について深く恐怖を抱いていたか知ることは、自害して果てた彼に聞くことはできないので無理ですが、いま日本でその事実を目にする限り、そんな恐怖を抱く者はいないように思います。むしろ恐怖を抱いているのは、戦争という体験を通して死を間近に感じた人達であろうかと思いますが、愛国心とは恐ろしいもので、人殺しをしても恐怖しない人を作ってしまう。そんな人達もサイコパスなのだろうなぁと思います。

 

 この人たちに内省する行動を強いることはできません。なぜならサイコパスだから。

 私が今日話を聞いた二人のサイコパスと自称するサイコパスは内省するタイプのサイコパスで、なるほどサイコパスには、というよりサイコパスという語には、夢があるのだなぁと感じました。

 

内省するサイコパスの儚い夢

  私の今日出会った内省するサイコパスには、共通の夢がありました。それは、「自分は異常者だから正常には成れない」という夢です。これのなにが夢かとお思いになる方もいらっしゃるかと思いますが、〈常に正常であること〉は通常かなり難しく、ふつうこの境地に達したいと思うなら出家するしかないよねというのが私の考えです。出家とは私の認識だと、この世から縁を切るということです。この世と縁を切るというのは、死ぬということでは決してなくて、世俗を離れるということです。

 

 人が世俗で正常であり続けるためには、普通は日常で受けた傷を癒す場が必要であり、それが家庭であるのが一般的とされてきたので、何かのサークルであったり、SNS内の別人格であったり、ゲーム内の別人格であったりすることで少し混乱は起きている気はしますが、人はその(まあ異常が許される)場をもってやっと正常が保たれるのです。だから、「自分は異常者だから正常には成れない」夢は夢であって、異常者になって夢が叶うならそれもありかなぁと思わせました。 

 

 私はこんな性格なのでサイコパスになる夢は持てなくて、今は隠遁の身でありますが、それでも家庭の私であったり、ツイッターの私であったり、勉強する私であったり、ブログを書く私であったりして私をやっと保っていけていて、そのために家族や私に手を貸してくださる方がいる世界と、たった一人ぼっちの私である世界の二つの必要性は感じています。

 

 内省するサイコパスたちもそのことは重々承知しているようで、それじゃあどこが異常なんだよということになると、まあ、サイコパスに夢を持つ異常なんだよってことですよね。それがいいのか悪いのかは人によって判断されにくいと思いますが、それが病的だと言えばそうだし、いや、今は一般論として普及しているのじゃないかという人もあるかもしれません。私はどんな夢でも夢を持つのは悪いことじゃないし、それで本人が救われてたり落ち込んでたりするのを楽しく拝見させていただいている方の性格異常者ですw

 

 ということで、あー今日も遅くまでこんなことをしてしまった。でもブログ読んでねって思っていますw(ちなみに4時だぁ)

 

 冒頭の白居易の詩はお気に入りなので載せただけで別段内容とは関係はございません。ツイッターにも載せましたが、今日ふと口に出て、本当に韻の美しさって偉大だなぁと思ったので載せました。読み仮名は振ってないのですが、興味のある方はぜひググって読んでみてください。秋の詩で季節外れですが、グッときますよ!

そうそうそうそう、むしせつせつ(うわ、ブルル)

『騎士団長殺し』の考察 ― 2.メタファーについて(2)芸術と存在 ―

いまの私は、まちがった私で、なるべき私にならなかったのだ。

まとった衣装がまちがっていたのだ。

別人とまちがわれたのに、否定しなかったので、自分を見失ったのだ。

後になって仮面をはずそうとしたが、そのときにはもう顔にはりついていた。

 

フェルナンド・ペソア 『断章』55

 

メタファーが住み着いた絵

意識は、ある経験の契機の人為性を強化する武器である。それは最初の〈実存〉の重要性との関係にしたがって、最終的〈現象〉の重要性を昻める。こうして、意識のうちで明晰判明なのは、〈現象〉であり、そして意識内でほとんど区別されえない諸細部を伴って漠として背景に横たわっているのは、〈実在〉である。意識の注意のうちに飛び込んでくるのは、〈実在〉そのものの直観というよりも、むしろ〈実在〉に関する一塊りの前提である。誤りに陥りがちなことが起こってくるのは、まさしくここである。明晰判明な意識の引き渡しは、経験内での明晰でも判明でもない要素に照会することによる批判を必要とする。これらの要素は、逆に、漠然としており、重厚で、そして重要なものである。これらの要素は、芸術に、色調のあの最終的背景を提供するものであり、それを度外視すれば、芸術の効果は薄れてしまう。人間の芸術が探し求めるタイプの〈真理〉は、明晰な意識に現示される客体につきまとうこの背景を引き出すところにある。

 

ホワイトヘッド著作集第12巻『概念の冒険』 山本誠作・菱木政晴訳 松籟社 p372

 

 私がこの引用で何が言いたかったかといえば、あの雨田具彦画伯の絵にはなぜメタファー(顔なが)が描かれていたかということです。もちろん、メタファーであるところの〈顔なが〉は雨田具彦が描いた時には、この「絵には隠された秘密がある」ということの隠喩の部分を表現するために描かれたということは想像できます。しかし、その部分は一般的には描かれるようなものではないはずです。

 上述のホワイトヘッドの引用にもあるように、「人間の芸術が探し求めるタイプの〈真理〉は、明晰な意識に現示される客体につきまとうこの背景を引き出すところにある」のですから、「漠然としており、重厚で、そして重要なもの」として鑑賞側に読み取られなくてはならないものです。そこを、敢えて描くことによって表象したのは、無論雨田画伯の思いの強さが引き起こした衝動からであり、あの絵が他者に触れることなく客間の屋根裏に隠されていた理由でしょう。それだけ雨田具彦のあの絵に込めた思いは強く、重く、そしてメタファーによって深い深い闇の中に隠蔽されていたのです。

メタファーが繋ぐもの

 見者が自閉的に自らの幻視に淫したり、秘教知への解釈の鍵を欠いていたりすると、理性にして、かくて非理性と、あざとく踝を接するのである。プラトンにとって、そして特に後期の幻覚好きなネオプラトニストにとって、知は内観であり、判別知の高められた何かであった。個をそれに先行するものから峻別すべき分離分別などない。何かが真と言えるのは、個別の中小真理が不十分に反映しうるのみの大真理イデアあればこそである。一者がその表現形態のうちの何かと同一ということはありえないが、それらはそれぞれのやり方で同じ現実に参加している。探究者と探究対象の間の類似が見抜けないでは親和力(affinities)の発見も何もあったものではない、とプラトンは言っていた。しかるに、繋ぎとめる営みがアレゴリー化されるにつけ、とはつまり、精神に観念として現れる世界を、思惟の外側に存する世界から唐突に分けてしまう分断を、主体がほとんど超自然的に意識するにつれて―関係付け(making connections)はどんどん恣意的なものになっていった。

 美の瞑想の中で自意識を失っていくことが、我々がその対象に対して持つ空間的、時間的、そして因果の関係を意識することを止めるということを、ショーペンハウアーにとって意味したとすれば、ヘーゲルにとってそれは贖いとなる総合の最終的な復活と言うべきものを意味した。思想や存在のあらゆる差を奇跡のように「止揚」し、それらの欠除をより完全な第三項に総合するヘーゲルの〈理性(Vernunft)〉の超絶‐円環は弁証法的同一性にいたる。ヘーゲルの理想主義哲学は、社会がつくりだした二元論カテゴリーを解体しようと腐心した一昔前の象徴狂いを後から体系的になぞったという体のものである。鋭い知覚力を持った主体には、二重化するイメージ、表にあらわれる照応関係の発見と創造を介して、具体化を待つ受動的現実の上に出て、これを変容させる力が具わっている。互いに違うところもあるが、ヘーゲルショーペンハウアーともに、その瞑想された対象は、我々の意思を脱し、あるいはミメーシスを超えて、非表題的(nonprogrammatic)な音楽を最高の受肉形態とするところの非表象的(nonrepresentational)な知と化していく。

 

バーバラ・M・スタフォード著 高山宏訳『ヴィジュアル・アナロジー つなぐ技術としての人間意識』 2006 産業図書 p97

 

 スタフォードの引用は難しいけれどいろいろ考えさせられるところが大きいと思います。理解を深めるため長文の引用をしましたが、私がここで使用したかったのは最後の部分です。「その瞑想された対象は、我々の意思を脱し、あるいはミメーシスを超えて、非表題的(nonprogrammatic)なもの(音楽)を最高の受肉形態とするところの非表象的(nonrepresentational)な知と化していく」

 

 主人公は絵の中の主人公に成り代わってイデアを殺しました。

深く深くメタファーの中に沈められていた思いを表象させ世界に再現させたことは、歴史を変えたことに等しくそこには責任が伴う。それは、非表題的なものをメタファー通路を通ることにより非表象的な知として返し、芸術として昇華させることによって初めて可能となるのです。

 

 主人公がなぜメタファー通路を通る試練を受けなければならないのか。それは秋川まりえを救うためなのですが、まりえが受ける受難と「騎士団長殺し」の再現により歴史を変えることが繋がっていることをイデアは予め知っていて、そのためにまりえの前にも現れたと考えると、それまでの間イデアがまりえを救うために奔走していたことと辻褄が合います。

 

 そうして、無事試練を超えて主人公が穴に戻り、免色に救われたと同時に、歴史が元に戻ってまりえはまりえの歴史を生きることが可能になった。実は免色も免色の正しい歴史を生きることも可能になった。

 

この部分の私の読み方はこのような感じになりました。ここは読み手によって読み方が異なることもあるかもしれません。しかし、このように読むことが自然であるように思います。

 

次回は二重メタファーとイデアに本当の悪と呼ばれた男のことをオーウェルの『1984年』の引用を使って読み解きたいと思います。

『騎士団長殺し』の考察 ― 2.メタファーについて(1)『ねじまき鳥クロニクル』との比較―

人為的なもの、それは自然なものに近づくための道である。

 

フェルナンド・ペソア 『断章』16

 

 

村上春樹と暗くて深い穴について

村上春樹の本が好きなひとにとって『ねじまき鳥クロニクル』はおそらく特別な一冊になっていることと思います。私も、彼の本は勧められて数冊読みましたが、『海辺のカフカ』と『ねじまき鳥クロニクル』はファンタジーとして楽しく読めました。

さて、『ねじまき鳥クロニクル』と『騎士団長殺し』の類似点といえば、そこに暗くて深いけれど入らなければならない〈穴〉があることです。

ねじまき鳥クロニクル』では、その穴は別世界、あるのだけれどない世界、深層心理世界あるいは実世界への闇の通路のようなものとして登場してきます。主人公は妻を取り戻すために何度かそこに入り込むことになるのですが、それはあくまで義理兄の綿谷ノボルとの闘いを意味する、いわば、歪んだ世界を正常な世界に戻すための儀式に使用されたように私には思えました。『ねじまき鳥クロニクル』自体が神秘性に富んでいて、ちょっと神がかっている世界観に覆われた物語ですから、そこに登場するある人物は特殊能力を持っていて、その能力は実生活とは実は無縁の、縁があるとすれば、それはそれを必要とすると感じた人のみがその人と接触を持って受けなくてはならないような、そんな能力のある世界です。

現実にも、占い師とか祈祷師とかそういう人たちは存在していて、そういう人たちは私たちの想像を超えた深層への道を乗り越えて、そこから情報が得られるのだろうというような意識で書かれたのだろうと想像できます。

 

しかし、今回『騎士団長殺し』の中に出てきた穴は、イデアである騎士団長を開放し、メタファー通路の終着点として主人公が最後に到達した場所になりました。それは、人工物でありながら、私たちの世界により近しいものとして存在するなにかでした。そして、そこにまず存在したのはイデアであり、『ねじまき鳥クロニクル』の中にちらついていた宗教性を排除するような意思を私たちに思わせます。

 

ここはこの世界の一部ですと。

 

『騎士団長殺し』の中の一貫したテーマは、この「この世界とは何か」ということではないかと私は思うのです。

 

前章の「イデアとは何か」の中で、私は、〈イデアは私たちや私たち以外の事物の根源を世界(自然)に存在させるために不可欠な存在〉と書かせていただきました。私たちを私たち足らしめる存在ともいえます。

ねじまき鳥クロニクル』には、井戸の底で起こった出来事が実際の自分に影響している(例えば顔にアザができるとか)ことについて、本人の意識はまるで追いついていきません。それどころか、向こうの世界の影響を受けて、知らないうちに自分の顔にアザができていたという不気味さと不思議さに本人は翻弄されます。しかし、実際に自分の身に起きた事実について、そこまで意識が離れていることは、存在自体に何が関与したのかわからないという感覚を読者に植えつけます。それがこの物語のおもしろいところでもあるのですが、煙に巻かれたような、そういう意識を持たされる気分にもなります。ナツメグとの出会いや、ナツメグからあの家ごと井戸を買い取るためにしていた行為についても、ナツメグが商売にしていた行為についても謎のままです。ナツメグがしていた、ただ誰か(女性)の頭にある悪いものとの接触とそれを宥めることが、人の存在の何に触れ何をしたのか。

そして、ナツメグの過去とシナモンの書いた「ねじまき鳥クロニクル」になぜ井戸の中の世界での主人公の行動様式が深くかかわっていくのかも、〈ねじまき鳥の声を聴くものの繋がり〉としか連想することができません。

それらを全てひっくるめて、一連の出来事は、妻を助けると決めた主人公の上に降りかかった運命的な出来事として扱われているように思います。

 

『騎士団長殺し』を読んだ方で、まだ『ねじまき鳥クロニクル』を読まれていない方のため『ねじまき鳥クロニクル』についての記載はこのくらいにしておきますが、『騎士団長殺し』を深くお読みになりたい方には『ねじまき鳥クロニクル』をお読みになることをお勧めします。

(比較でなくても、時間と歴史の問題やファンタジー的な要素について考えるだけでもおもしろい作品です。)

 

『騎士団長殺し』では、雨田具彦の描いた絵画に描かれた真実を、事実ではない、けれど真実としてこの世界に存在させるために主人公は尽力することになります。

 

それは、主人公の妻が離婚を申し出た時から、あるいはそれ以前から、決められていた運命なのかもしれません。しかし、主人公のその後の行動は『ねじまき鳥クロニクル』とは全く違って、自らが家を出て東北を旅するというものでした。その旅の途中の出来事も、その後の彼の在り方に深く影響するのですが、ここで私が言いたかったのは、『ねじまき鳥クロニクル』の主人公は30歳で、『騎士団長殺し』の主人公は36歳。この差は実は大きいのではないかということです。『騎士団長殺し』の主人公は、この部分を含め、物ごとに対する対応が、すべて一貫性を求めて思考した結果であり、他の人々への配慮もされています。

もちろん、主人公の人格的な差異の問題なのかもしれません。しかし、『ねじまき鳥クロニクル』の主人公も決して思慮に欠けた人物ではありません。おそらく、経験の差が大きいのだろうと私は感じます。そしてこの経験の差は、人生においてそれだけ人を変化させているということも、村上春樹が言いたかったことなのかもしれないと思うのです。

 

話が少し横道に逸れましたが、この部分に触れておきたかったのは、『騎士団長殺し』の主人公は、自分のためにというよりも、自分が巻き込まれてしまった、けれども抗えない何かのために力を尽くすことに対して、既に抵抗よりもできる限りのことをすることを選択できるということです。もちろん、果敢に挑戦するほど勇敢な性格ではありません。ただ、むやみに抗わない。そしてそのことが、この物語を順序良く進めていくために重要なアイテムの役割を担います。

客間の天井裏にあった絵を発見しても、それについて製作者の意を汲んで秘密にできること。真夜中に聞こえる鈴の音。その場所を突き止めても無力だと知り、適切な協力者に協力を依頼できること。騎士団長の存在を受け入れること。そしてその願いを聞き入れること。女性問題もあるし、それらすべてをさせようと思ったら、少年でもなければ、私でも一番年少でも36歳くらいにするかなぁと思います。

そして何より、彼は芸術家であった。芸術家とは世界を具現化する術を持つトリックスターでもあるのです。

 

 

次回は芸術と世界の具現化について書かせて頂こうと思います。

こちらは少しいろいろな人の考察を引用させていただいたものを交えて、少し本格的に考えていけたらいいなぁと思います。

 

今回はあえて作品の引用は避けさせていただきました。村上春樹さんの作品は引用すると何だか急に色を失ったようになる気にさせます。それだけ構成に凝っているということなのか、はたまた全体で読ませる作りになっているのか。世の批評家の間では新しいものが書けなくなっているのではないかと言われていることもあるようですが、私はそうは思いませんでした。むしろ両方とも面白くしているように思います。

 

ひとつだけ、フェルナンド・ペソアの『断章』の部分は、これから先も冒頭に付けさせていただこうと思っています。

それは趣味ですw