『騎士団長殺し』の考察 ― 1.イデアについて ―

イデアとは何だったのか

『騎士団長殺し』の一番難解なところは、騎士団長であるところのイデアとはいったい何者なのかということに尽きると私は思っています。「私は(私の)イデアだ」というときのイデアだったとしたら、「私は私たらしめるもの自身だ」という意味で捕らえられることですが、騎士団長はイデアそのものであり、その場合のイデアとは個々の存在を存在たらしめる役割を担うものということになります。しかし、騎士団長はいつの間にか私はイデアになっていたと言っている。

完全にネタバレになってしまうのでここには詳しくは書きませんが、騎士団長が騎士団長でなければならなかったのは、一連のものごとを開始させるためであり、一連のものごとの必然の帰結でもあると、後に騎士団長の口から語られます。

そうなると、村上春樹のいうイデアとは、ものごとの始まりと終わりを司るメッセンジャーということになります。しかし、私たちの存在は、自己を取り囲む事象の変化に基づいて自然に変化することが一般的で、イデアとはその変化に適応した自分であることを保証する存在ではないかと私は思っていました。私が人であること。私が女であること。わたしがポンキチであること。それらをこの世界につなぎ留めておくことのできる何かがイデアであるのではないかと思うのです。そして、イデアは私たちや私たち以外の事物の根源を世界(自然)に存在させるために不可欠な存在であるはずです。

なぜ村上春樹イデアにそのような役割を担わせることになったのか。その答えは、本当はあるべきであった事象が起きていないとイデア自身が動き出さなければならないような事件が起きてしまったからです。そして、それは雨田具彦が直面した戦時中の事実と彼への破壊によって生み出された〈騎士団長殺し〉という絵画の存在です。雨田具彦は口では語らなかった物事を、成し遂げられなかった出来事を、寓意として絵の形にし、それは絵の中で実現したものであるにも関わらず、起こるべきであった出来事としてイデアに読み取られてしまった。そのような事件をこの物語の本質として設定することにより、雨田具彦のみならず、あの戦争によって殺害された多くの人たちの存在を、語られなかった存在としてイデアに認めさせること。それがあの戦争を体験して死んでいくものや死んでいったものへの村上春樹の鎮魂的なメッセージとしてあるということを、読み手は読みとるべきではないかと私は感じます。

一つの不思議があります。雨田具彦の騎士団長殺しの絵の中になぜ〈顔なが〉が存在したかということです。作中で語られる通り〈顔なが〉はメタファーです。〈顔なが〉は確かに〈騎士団長殺し〉の中に描かれていましたが、そのためには雨田具彦が〈顔なが〉の存在を知らなければならない。しかし、逆に言えば、雨田具彦がこの絵の中には真実が秘密裏に隠蔽されているということを表すために描いた何かが、今度はメタファーの形を取って現れたと言えます。ここに書いていてやっと自分でも納得できました。

そうなると〈メタファー通路〉を雨田具彦は知っていたのだろうか?気になりますよね。

 

 

次回に続く

 

追記

 

 人間の本性にかんする問題、つまりアウグスチヌスのいう「私自らを対象とした問題」quaestio mihi factus sum は、個人の心理学的意味においても、一般的な哲学的意味においても、回答不可能なように思える。自分以外のことなら、まわりにあるすべての物の自然的本質を知り、決定し、定義づけることのできる私たちが、自分自身についても同じことをなしうるというのは、あまりありそうにないことである。それは自分の影を跳び越えようとするのに似ている。その上、人間が他の物と同じような意味で、本性とか本質をもっていると考えられる根拠はなにもない。いいかえると、かりに私たちが本性とか本質を持っているとしても、それを知り定義づけられるのは、明らかに神だけである。神がそれをよくなしうるのは、なによりもまず、神は“who”について、それがあたかも“what”であるかのように語ることができるからであろう。厄介なことに、「自然的」特質をもつ物―人間とは有機的生命の最も高度に発展した種の一例にすぎないと限定してしまえば、ここに人間自身を含めてもよい―には適用できる人間の認定方式も、「われわれは何者であるか?」(who are we?)という問いを提出できる場合には通用しない。これこそ、人間の本性を定義づけようとする企てが、必ず、ある神の創造に終わり、結局、哲学者たちが最後には神を創造せざるをえない理由なのである。プラトン以来、この神はよく調べてみると、一種のプラトン的人間のイデアとして現れている。だから、もちろん、このような神の哲学的概念は、実のところ人間の能力と特質の概念化にすぎないと暴露することはできる。しかし、そうしてみたところで、別に神の非存在が証明されるわけでもないし、神の非存在を主張することにもならない。しかし、こうはいえる。つまり、人間の本性を定義づけようとすると、「超人」としかいいようがない、したがって神といってもいい一個の概念に必ずゆきつくという事実は、ほかならぬ「人間の本性」という概念そのものに疑いを投げかけるものであると。

 他方、人間存在の諸条件―生命それ自体、出生と可死性、世界性、多数性、地球―は「われわれは何者であるか?」という問いにも答えることができない。それはこれらの条件が私たちを絶対的に条件づけていないという単純な理由によってである。このように説明してきたのは常に哲学であって、人類学、心理学、生物学など、やはり人間自体に係わっている科学はそうはいわなかった。たしかに、人間は今も、おそらくは将来も、地球の条件下に生きるであろう。しかし、今日にいたって、人間は、単に地球に拘束されたままの被造物ではないということが、科学的にも立証されたといってもよいのではないだろうか。近代の自然科学は大きな勝利を収めてきたが、それは、地球に拘束された自然を完全に宇宙の視点から眺め、取り扱うことができたからである。そして、この宇宙の視点というのは、わざと地球の外部にはっきりと設定されたアルキメデスの立場にほかならない。

 

 

ハンナ・アレント 清水速雄訳『人間の条件』ちくま学芸文庫 pp23~25

 

 

 

 プラトンイデアの正体について、私の知識の不足を補うためにアレントの引用をさせていただきました。「われわれは何者であるか」を知るためには「超人」としかいいようがない何かを設定する必要があること。そして、それは普通〈神〉と呼ばれるものであることが、この引用で理解しやすくなると思います。

 なぜ村上春樹が〈神〉ではなく〈イデア〉を召喚したのかはまた後程考えていきたいと思っています。

 アウグスチヌスやアクィナスが不勉強で引いてこられないことは全く私の不勉強のせいなので、ここのところはもう少しちゃんと理解を深めていきたいと思っています。アレントに感謝!

小沢健二の新曲と新聞広告の幸福感について

小沢健二世代

小沢健二といえば、私の世代の人たちは大好きで、東大でバブリーで、ポップで、この上なく愛し愛された人というイメージで、時代の移り変わりにうんざりして、作詞もしなくなって、そうして日本を飛び出してしまったという感覚だったが、このたびの新曲や新聞広告は、今の日本の現状に耐え切れなくなってやってきた聖人君子になって帰ってきたのかしらと思わせた。もちろん歌も広告も概ね受けはよくて、引っ提げてやってきた歌「流動体について」ではもちろん、間違いに気づいて遠くに行っていた僕が、宇宙の中で良いことを決意する。

 

そして意思は言葉を変え

言葉は都市を変えていく

 

カルピスを飲みながら、問いかけられた現状に自らの下した結論を確かめながら、

 

無限の海は広く深く

でもそれほどの怖さはない

 

 

僕らの世代は中途半端だ。実はバブルも弾ける寸前なのに、おじさんたちはその気配にはうわの空で世界を我が物顔で謳歌していた。やりたい放題やられた後に、ほんの少しの残像を残してまだ浮かれている人たちを横目に見て、家族を守る幸福を得るためにあえて馬鹿な人たちを放りだしておいて、できることをした。というより、できるだけフォローしてしまった気がする。それが現状なのだから、将来に向かっては悪いことをしていたのだなぁという感覚がヒリヒリと残っている。結局、馬鹿にしながら苦笑するのではなく、罵倒してでも世界を打破するべきだったのか。

いやでも、いい子ちゃんに育てられた我らには、フォローが精いっぱいだっただろうなぁと今でも思う。

 

そして、その感覚をきっと持っている小沢健二は、今その(逃げていったことへの)反省を基に、世界を変えに戻ってくる決意をしたのだと思った。もちろん、子どもたちのために。

そう、もうフォローしてやる必要もない。彼らは好き放題して去って行った後でさえ、まだこの世界に傷を残そうと画策しているように思えてならないのだ。それは自分たちの子どもたちへの傷になっていることにさえ気づかず、更に私たちの子どもたちへの傷にさえなろうとしているのだ。

時は熟してしまった。

 

報復と言葉と世界を美しく語ること

 小沢健二朝日新聞に出した広告は、甘く甘美なものだった。食パンの柔らかさ、イチゴの甘酸っぱさ。ショッカーの残していった剣術士たちの殺戮の方法まで。甘くなったトマトを食べたら何というだろうと思った。

それは、ハイレゾという言葉で表現されているものの、ある意味自然に逆らっても快楽を選択する日本人の甘い夢の結晶だ。彼の決意は日本人にもう一度その決意を促し、世界を明るく照らす人工照明にすることだ。そのことにためらいなく足を踏み入れたかといえば、カルピスを飲みながらそれなりに考えた結果なのだよと語りかける。そうでもしなければ、日本は日本であることを放棄しかねない。その危機感は私にもある。現に、世界中から非難を浴びるアメリカ大統領に擦り寄る首相の支持率が伸びることなど国を放棄したのも同然であって、メディアはそのようなことには無関心で、もはや自分たちの力ではどうにもならない経済を、どうにかしてくださいと神頼みしているようなものなのだから。

それはもう、賭けに出る決意をさせるには十分すぎる理由であり、甘美すぎる言葉でもって現実逃避させてでも、古来から続く日本を守る唯一の方法だと思わせる何かが、遠い国からはよく見えていたのだろう。

君よ、君であれ。

君よ、我であれ。

そんな言葉が私には聞こえてきた。

 

言葉とは残酷なのだ。

 

一方で、「神秘的」では宗教の詩を引き合いに出して、それは現実に繋がっているのだよということを説明する。

自然は偉大な創世主であり、神の詩はそれを私たちに告げるハイレゾなのだ。そしてそれ以上のハイレゾなど存在しないのだ。それは知ってるのさ、わかってやってるのさ。

でもね、わかってはいてもそれをすることで子どもたちの未来が繋がるのなら、僕らはそれをしなくてはならない。

長い沈黙の後で、父親になって帰ってきた小沢健二は、人間的で優しさを持った残酷な大人になっていて、私たちはそこを汲んで、乗ってあげるべきなのかもしれないと少し思った。

とにかく、言葉を聞いてあげよう。そして、そういう世界になってしまった責任について、彼だけに押し付けるのではなくきちんと考えよう。

 

ハイレゾを受け入れるか、受け入れないかは個人の自由で、そこは自然の中でもっと生き物の一員らしい生活を求めるもよし、それで世界が守れるのなら、ほんとうはそれが一番良いのだけれど、彼の二つの曲が都市の自分と田舎の自分を持つように、二人の自分を器用に持てなければ、私たちは多分消えてしまうだろう。精神的に。

 

世界で言葉を紡ぐことは、残酷で、無責任で、滑稽な一方、優しく、心強く、支えになれるのだ。それを理解して深みに嵌る覚悟をした彼の素顔を支えるのは、家族なのだろうなぁとしみじみ感じた。

恋愛と結婚の愛について   ― リルケと「君の名は。」と「逃げ恋」と ―

あれは私の窓。私は今ちょうど

うっとりと目がさめたところだ。

なんだか漂っているみたいだった。

どこまでがこのわたしの生身で、

どこからが夜なのだろう。

 

まわりのものはまだみんな

私自身みたいな気がする。

水晶の奥深くのように透明で、

ほの暗く、しんとしている。

 

私はあの星すらも私自身の内部に

抱きしめることができそうだ、私の心が

そんなに大きなものに思える。この心は

よろこんであの人を手放すことだってできそう、

 

たぶん私が愛しはじめ、

たぶん私が引きとめはじめているあの人を。

言いようもなく馴染みない目つきで

私の運命がじっと私を見つめている。

 

こんな限りもなくひろがったものの下に

私はどうして置かれているのだろう、

草原のように匂いながら、

あちらへこちらへ揺られながら、

 

呼びながら、それでもやはり

だれかが聞きつけるのを恐れながら、

そうしてだれか他の人の中に

自分自身を失ってしまうように定められて。

 

リルケ 「恋する少女」 高安国世訳

 

恋愛についての考察

このリルケの詩は、恋をする少女について、非常に繊細に、それでいて的確に美しく現していると私は思っています。

 恋を自分でコントロールしてできる人などこの世にはいないはずです。それは、ある日突然知らない人とだったり、昔馴染みといつの間にかだったりしますが、恋を自分で作りだしたものと感じる人はいないでしょう。

 もし、そういう人があるとすれば、その恋はまがい物であると私は思います。

 

 上の詩の中で、少女は自分自身の心について、どのような形でどのような大きさだか感じてみようとしますが、その努力は無駄に終わります。その上、そのような状況に彼女を置いている恋や恋人でさえ、馴染みない目つきの中であいまいに見つめる運命に身を任せるしかないことを悟らされているのです。

 恋は残酷です。

 

呼びながら、それでもやはり

だれかが聞きつけるのを恐れながら、

そうしてだれか他の人の中に

自分自身を失ってしまうように定められて。

 

この部分は恋というものについて、リルケが少女を題材に一番言いたかった部分だと私は思います。恋とはだれか他の人の中に自分自身を失ってしまう定めの、始まりであるのです。

無邪気な少女はやがて恋をして運命を知り、自分自身を他者に埋没させていく。それこそが、恋愛と結婚という、人間の愛についての原初であり、少女ばかりでなく少年だって同じように体験していくのです。

ここまでは『君の名は。』にすっぽりと当てはまります。新海監督は恋についての原初の部分を美しく書き上げて作品に仕上げられました。少女と少年は入れ替わりながらお互いを少しずつ相手に吹き込み、最終的には瀧君は口噛み酒を飲んだことで彼女の半分を自分に受け入れます。そして再会が叶うのです。

 

 自分自身を他人に埋没させることが苦痛であるか否かは、自分というものについてどう考えているか、そして、愛というものについてどう考えるかで違ってきます。

 自己愛は決して無意味なものではありませんが、それだけで生きていけるほど世界は優しくできていません。私はここで生殖という部分で精しく考えることを避けさせていただきますが、それは人にとって避けられない欲望の根本でありますし、その欲求は当たり前にすべての人に与えられた乗り越えられるべき壁でもあります。

 私はここでは、生殖というよりは、家族愛について考えたいと思います。生殖を乗り越えたその先にあるのは、人間の本来守るべきである子孫です。子孫を残すことは人にとってだけでなく、すべての生物にとってあるべき姿です。そう書くと、子供のできない人に失礼だろうと言われる方があるかもしれませんが、子供を残すことは未来を繋ぐことです。そのことに異論のある方はいらっしゃらないでしょう。

 ここまで来て、やっと『逃げるは恥だが役に立つ』の話ができるようになります。

『逃げ恋』は、とにかく恋愛ベタな平匡と超現実的でありながらどこかへ飛んでいってしまうみくりのラブコメディですが、雇用契約としての結婚を契機に、恋愛と結婚について、そして結婚と生活について切り込んでいくところがおもしろい構成になっています。恋愛関係が進展すれば契約結婚などというものは霞んでいって、本当に得たいものが見えてくるのですが、契約結婚から入ったことで、生活が自分にとってどのように重要で、そのために結婚がどのように必要か、逆説的に説明する構成になっています。リルケでいうと、自分自身を失いたくない人が自分自身を失うということをいかに受け入れるかを、始めに恋愛ありきから生活ありきにして物語っているということになります。恋はどこへいってしまうのだろうと不安にさせながら、生活をきっちり守っていくみくりにはまった人も、自分には恋はできないと思いながらもみくりに恋していく平匡にはまった人もいらっしゃるとは思いますが、私は、二人が全く違う価値観を持ちながら話し合いで解決していく様がおもしろかったです。平匡は最後までみくりのようにはなれないと言いますが、実はいろいろな場面で妄想の中に取り込まれて完全にみくりのようでしたし、みくりは自立の意味を知って個人事業主になろうとします。最終的には未来や将来の話になって子供が出てきてほっとしました。

 

 この二つの物語が流行った背景を考えると、人はみなリルケの詩のような感覚を持ち続けていて、今はまさに現実とのギャップに悩み続けているのだということがわかります。「逃げ恋」のような境遇にあうこともないと思いますが、私はもっと素直に、自分自身を失うことへの不安を持ちながら溶け合う気持ちを知り、苦しんだり、楽しんだりしながら愛を育むことを恐れないでいくことが大切だと思います。そんなこと言っても相手が見つからないという人も多いでしょうが、恋は自分で作れるものではなくて、あちらから勝手にやってくるもので、そのことに敏感になれなくなっていることや拒絶していることが問題なのかもしれない。そのことについては、今日のツイッターの写真を見ていただけた方はお気づきかと思いますが、ちゃんと考えているところです。

 

 ここまでの説明を読んでいただくと、星野源の「恋」の歌詞も少し違って見えるかもしれません。

 

胸の中にあるもの

いつかは見えなくなるもの

それは側にいること

いつも思い出して

君の中にあるもの

距離の中にある鼓動

恋をしたの貴方の

指の混ざり 頬の香り

夫婦を超えてゆけ

心はどこへいくのか

 このところ何だか心に穴が開いてしまっているようだなぁと感じることがあります。感情がすぅーっとそこから漏れだして、自分の中に残るはずだった何かが遠くへ流れ出てしまっているような、そんな感じです。

 ここにあるたくさんのものに囲まれて生活する私は、決して不幸せではないのだけれど、常にどこかに行ってしまった私を不安げに探し回っているような感覚に捕らわれることが近頃は多いように思います。何かに触れれば、必ず自分の中に何かが残ります。それを記憶とかいう脳の機能だという人が多いのだけれど、私はそんなふうにではなくて、体が一瞬何かに捕らわれの身になって、解放される代わりに置いて行かれるものなのじゃないかと思います。捕らわれの身になる体は、他のものから隔離されて、そのものの牢に閉じ込められた後、短い尋問を受けて解放されます。その尋問の証が私の心に刻まれた小さな傷になって残る。あるいは小さな塊になって残る。その小さな傷や塊が私の心に満ちているとき、私は幸福であるとか不幸であるとか考えることが出来るのではないでしょうか。

 さて、心に穴が開いている状態の私は、自分が幸福であるのか、不幸であるのか、よくわからなくなっているのです。そしてそこには不安が残るのです。確かに、捕らわれの身になり尋問を受ける際、不自由さには出会います。不自由さは時にはうっとうしさや怒りになって、私を不快にさせることもあります。ほとんどは一瞬の出来事ですが、時にはどこまでこの尋問が続くのだろうと叫びだしたくなる時もあります。けれどもそこには確かな生があり、自分自身を認識することもできるのです。

 そうして、この世界でたった一人きりだと思わないための方法は、それ以外ないだろうと私は思っています。でも、そう思うために自分から他者に働きかけるためには作法が必要です。その作法が、今はなんだか混乱してしまっているのではないかと思うのです。作法が違えば、尋問を受けずに何かを得ることが可能なのかもしれませんが、そのかわり傷も塊も残らない穴の開いた心が私になります。

 だから、かろうじて覚えている作法で自ら尋問を受けていこうと思っています。自由主義者からどんな目で見られようと、古いやり方だとなじられようと、心が空っぽになっていくのを放っておくわけにはいきません。頭のいい人なら、もっとうまくやれるのかもしれません。でも、私にはほかの方法が思い浮かびません。

 私の時間は有限で、それはとても無駄に見えるかもしれません。でも何かに触れてその檻に入れられたとき、しめたと思う瞬間がまた好きなのかもしれません。

 やられっぱなしじゃないからね!

「秋の底が抜ける」ことについて ―私と物質と二種類の想像力―

1     大森荘蔵の自然感

 先日ツイッターで、今年は秋の話題をあまり聞かないという話をしたら、satoruさんがお知り合いの僧侶のかたが「秋の底が抜け始めましたなぁ」とお話しされていたという話題を教えてくださって、それはどういうことなのか考えたら、わりと面白くなってしまって、その時は「きっと同じ季節を語りあう人がいなくなれば、秋も通り過ぎられてしまうということかもしれない」と思い、そういうお答えをしたのですが、ひょっとしたら、もっとおもしろいことになっているのかもしれないぞと不謹慎ながら思ってしまいきちんと考えてみることにしました。

 活きている物と自然感

 物と自然は昔通りに活きている。ただ現代科学はそれを死物言語で描写する。だがわれわれは安んじてそれに日常語での活物描写を「重ね書き」すればよいのである。ここで大切なのは、その日常言語による活物描写は、「自然」そのものの活写であって、われわれの「内心」の描写ではない、ということである。陰うつな空とか、陽気な庭とかいうとき、陰うつや陽気は私の「心の状態」ではなく、空自身の、庭自身の性質なのである。無常非情の空や庭が私の内なる心に陰うつとか陽気な「感情」を引き起こす(これがデカルトの二元論の考えである)のではなく、空や庭そのものが陰うつさや陽気さをもっているのである。空の青さや庭の明るさが空や庭自身のものであるように。一言でいえば、空や庭は有情のものであり、誤解を恐れずにいえば、心的なものなのである。

 そのことは単に情緒や知覚についていえるだけではなく、記憶、想像、感情、意思、といった、いわゆる「心の働き」のすべてについていえると私には思われる。それをここで精しく述べる紙数がないのでそれを仮定する。つまり、「心の働き」といわれているものは実は「自然の働き」なのである。心ある自然、心的な自然が様々に(感情的、過去的、未来的、意思的、等々)立ち現われる、それが「私がここに生きている」ということそのことに他ならない、こう私はいいたいのである。

 かりにそういえるとすれば、私と自然の間に何の境界もない。ただ私の肉体とそれ以外のものに境界があるだけである。自然の様々な立ち現れ、それが従来の言葉で「私の心」といわれるものにほかならないのだから、その意味で私と自然は一心同体なのである。当然、〈主観と客観〉と従来いわれてきた分別もない。〈世界と意識〉という分別もない。これは禅的な意味や神秘的な意味での「主客合一」とか「主客未分」とかいうこととは全く別のことである。ごく当たり前の日常生活の構造そのものの中に主観と客観、世界と意識といった分別がない、ということだからである。ごく当たり前の日常生活の構造そのものの中に主観と客観、世界と意識といった分別がない、ということだからである。四六時中そうなのである。

 感性を取り戻すということ

 これがわれわれの祖先がもっていた感性に近いのではないかと私には思われる。そしてこの感性は、以上述べてきたように近代科学と少しも矛盾しない。矛盾しないどころか近代科学の進展に連れそうべきものなのである。それを迷わしたのがガリレイデカルトの水先案内だったのである。しかしわれわれ現代人は生まれてこの方、ずっとこの迷路の中にいる。骨の髄までこの迷路が入り込んでいる。それゆえわれわれの祖先がもっていた感性を取り戻すのは一朝一夕にできることではない。それは入信したり、改宗したり、棄信したりするのに似て、理屈の上のことではなく、理屈を含んで全生活を変えることだからである。自然観、人間観、政治観、文学観、芸術観、倫理観、人生観、等々のすべてを改変し、それを実生活の中で実践することだからである。当てずっぽうではあるが、現代文化が基本的に変化するとすればこの方向ではないかと私には信じられる。

 本書で試みたのは、この変化は可能であり、また近代科学の路線の本来あるべき道であるということを示すことであった。

大森荘蔵著  『知の構築とその呪縛』 ちくま学芸文庫 pp237~239

 

 引用に『物と心』を使わなかったのは少しずるいかなと思いながら、こちらを使わせていただきました。

 大森荘蔵のこの考え方は確かに最近の最新の哲学の中に生きていると思います。自然と私たちを隔てる壁を築き、人は自分の中の自分(偽装された自然)に住まうことを選択した。それを進歩と呼べばそうなのかもしれないし、後退と呼べばそうなのかもしれない。(欧米では特に)文化と呼ばれるものだったのかもしれない。そこのところをもう少し深く掘り下げて考えていきます。

2    物質と想像力

   私たちはこう言おう、他でもないこのしかたで事物が存在しなければならない理由が存在すると信じているあいだは、私たちはこの世界をひとつの神秘にするだろう、なぜならそうした理由が私たちに与えられることは決してないのだから、と。しかしながら私たちはそこから発して、今まさに私たちを支配している事柄にたどり着く―必然的な理由を要求することは、たんに、イデオロギーのまやかしや理論的な逃げの結果ではないのだ。というのも、実のところその要求は、事実論に対する一見したところ決定的な反論にもとづき、動機づけられた拒絶に由来するのだから。その反論は、もし私たちが思弁的な歩みに最小限の信頼性を保証したいのならば、明確にして正確に反駁しなければならないものだろう。

 その反駁というのは、次である—事物のみならず、自然法則までもが実存的に偶然的であると主張するのは、馬鹿げていると思われる。なぜなら、もしもそれが真だとするならば、自然法則は、いかなる理由もなしに、実際にいつも変化していることが可能なのだと認めねばならないであろうから。

カンタン・メイヤスー著 千葉雅也、大橋完太郎、星野太訳  『有限性の後で』 

人文書院pp138~139

 

 この本は、私など読みこむほど難しくなる感が大きいのですが、この部分で言われている、物事はすべて偶発性によってできているという理論は、現代哲学の根幹をなす新しい形(ある規則性によって事物がそこにあるという理由を探し求める永遠の体系=形而上学の呪縛からの脱出)を試みる挑戦として面白く読ませていただきました。

 ただ、偶然にあるものと偶然にいる自分との関係を思うとき、そこにある自然に、〈なにもない〉ではなく〈なにかが生まれる〉と思うとき、私たちの中に発生する感情や情景が(それが夢だとしても)自分自身を鮮やかに色づける化学変化を起こしていると私は思うのです。それが大森のいう「私の心」であるとすれば、そこで生まれる心の鮮やかさがこそが、私だけの私であるといえるのではないでしょうか。

 秋の底が抜けたのは、偶然性に〈なにもない〉を組み込ませすぎた現代人の病かもしれない。そこにある自然について自分の中に〈なにかを生ませる〉技術は、きっと私たちの中ごく普通に組み込まれている自然の一部なのだろうにと思ったりするのです。

 

 われわれの精神がもつ想像する能力は大いに異なった二本の軸に沿って展開する。

 一方の能力群は新しさからその飛翔力をとりだす。つまり絵画的なもの、多様な変化、思いがけない出来事から楽しみをとりだすのだ。この能力が刺激する想像力はいつでもひとつの春を描きだす。自然の中で、この能力はわれわれから遠く離れて、しかもすでに活発になっており、さまざまな花を生みだすのである。

 他方の想像する能力群は、存在の根底を掘り進む。それは存在の中に原始的なるものと永遠なるものを同時に見いだそうとするのだ。こちらの能力群は季節と歴史を支配している。それは自然の中に、われわれの中でも、またわれわれの外でも、さまざまの萌芽を作りだしている。その萌芽の形体はひとつの実体の中に埋め込まれており、その形態は内在的である。

 これをまず初めに哲学的にいうとすると、ひとは二種類の想像力を区別できるということになろう。ひとつは形相因を活気づかせる想像力であり、他のひとつは質料因を活発化する想像力である。あるいはもっと手短にいってしまえば、形態的想像力と物質的〔質料的〕想像力である。簡約したかたちで表現されたこの新しい概念は、詩的創造の完全な哲学的研究のためには、実際に不可欠であるとわれわれには思われるのだ。作品が多彩なことばと光の変幻する生命をもつためには、感情の動機、心情の動機が形相因にならなければならない。しかし、想像力の心理学者がじつに頻繁にもちだす形体のイマージュのほかに―われわれがこれから示すように―物質のイマージュ、物質の直接のイマージュが存在するのである。イマージュに名前をつけるのは視覚だとしても、イマージュを認識するのは手なのである。それらのイマージュにダイナミックな喜びが触れ、捏ね、軽くする。こうした物質のイマージュを、人々は実体的に、こころの底で夢想する、しかも形体、滅びやすい形式、むなしいイマージュ、表面での生成を遠ざけながら。物質のイマージュたちはひとつの重さをもっており、それらはひとつの芯をなしているのだ。

ガストン・バシュラール著 及川馥訳 『水と夢』 法政大学出版局 pp1~2

 

 

 バシュラールは想像力を二つに分類して、物質に対する直接的な想像力の存在をここで強く説いています。

 それらは、私たちの中で作り替えられ重さを持ち芯をなすということ。つまりは、私たちにとって、物質をただの物質から意味のある物質に変化させる大元であるといっていると私は思っています。そのことについて、私たちはあまりに無頓着であったのかもしれない。人工物に囲まれすぎて、その利便性や美しさへの干渉と制作は、ここでいうところの前者の想像力の産物であり、後者の想像力がたとえ生まれたとしても、捏ねたり、手に取ったりするようなことをしてみているだろうか。

 そう考えると「秋の底が抜ける」という意味に近づけるのではないかと思うのです。

 

3    これからの自然と物質について

 

 科学を愛さないとしても、あなたたちは多分、世界の諸事物を愛しているのではないだろうか?年代確定されたその詳細が、私の肉体と同じようにあなたたちの肉体を貫いているのだ。政治や、古い人文科学や、アカデミックな文化は、そのことをほとんど気にも留めていなかった。まるで私たちが、室内や人々のうちで、都市の公的な温室の中で、闘争の純粋なスペクタクル、スペクタクルの純粋な闘争のまえで自分たちだけが暮らしているかのように、われわれの狂った日々の実践によって、外的で、大量で、単一で、不明瞭なものになった一つの自然に無関心だったのである。こうした冷淡さに、自然はこの数十年のあいだ復讐をしているように見える。また他の何十年間かには、もっと致命的な復讐を仕掛けてくるだろう。

 ここにあるのは、愛すべき、人類の文化であり、それは逆に世界の事物から出発し、そしてそこへと帰還してゆくのだ。私たちとして(comme nous)。自然と文化の婚姻である。

ミシェル・セール著 清水隆志訳 『作家、学者、哲学者は世界を旅する』 水声社 p151

 

 

私は、バシュラールのお弟子さんであるセールの言葉としてこれを読むことにとてもふかい感慨を覚えます。自然の復讐とセールはいうけれど、私たちこそは自然の一部なのですから、バシュラールのいうような想像力を持って接する世の中に変わっていける。そして、「秋の底が抜ける」ような事象も眼と手を使って防ぐことが出来ると私は信じています。

二種類の想像力のバランスこそが世界を救う手立てになり、自然と離れた契約など始めからできることなどできない人間にとって、生きにくさから解放される唯一の手立てであろうかと強く思います。

 

※ 追加 

 われわれが物質のもつ美の概念について考察を始めたとき、すぐさま驚いたことは、美の哲学の中に物質〔質料〕因が欠如していることだった。なかでも物質の個別化する能力が低く評価されているように思われた。なぜ人々はつねに個体の概念を形式の概念と結びつけるのであろうか。物質を、その最小の分割部分においても、つねにひとつのまとまりとしておくような深い個別性は存在しないのであろうか。物質をその深さの遠近法に立って考察するならば、物質はまさしく形体から分離しうる成分となりうるのである。物質は形相活動のたんなる欠如態ではない。物質はあらゆる変形、あらゆる細分化にもかかわらず、それ自体としてあり続けるのだ。それどころか物質は二つの方向で価値定立化される。ひとつは深化の方向、そしてもうひとつは飛躍上昇の方向である。深化の方向をとると物質は、測りえないものとして、ひとつの神秘的なものとして現れる。飛躍の方向をとればひとつの奇跡のように、汲み尽くしえない力として現れる。いずれの場合も、ひとつの物質についての深い考察は、開かれた想像力を鍛えるのである。

ガストン・バシュラール著 及川馥訳 『水と夢』 法政大学出版局 pp3~4

  バシュラールのこの言葉の真意を私たちはもっと深く思うべきかもしれない。どうしても、人は人の思う通りに〈物質=自然〉を自由自在に変幻させられるという勘違いから抜けられなくなっているように思います。自分自身の中の自然を自分自身の壁の中に押し込めた病と、自然に対する想像力を偏らせてしまった功罪は軽くないようには思います。

 私が思い悩むのは、逃げないことをどうすれば皆が受け入れることができるだろうかということです。自分の中の自然から逃げないこと。あらゆる想像から逃げずに見つめること。そうでなければきっと自然は私たちへの浄化という名の復讐をやめないだろう。そういうことが可能なのだろうか。

 セールの予言はそのことへの諦めを示しているように思えてならないのです。

 

ネモフィラを見に行く

ひたち海浜公園ネモフィラを見に行ってきました。


そしたら、チューリップが満開でした。
朝いちだったので人がいない間にと思ったら
素敵なおばあさまがよい佇まいで立っておられて
こういう写真がもっときちんと撮れたらと思いました

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不思議なぶつぶつが写っていて
いやーフィルター汚れてたかなぁと思ったら
虫でしたー
おもしろいのでそのまま張っておきます
拡大して確かめると一匹ずつ虫の形になりましたww

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ネモフィラは群生しているところもきれいですが
一輪一輪がかわいらしいから人気があるんですよね


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桜・菜の花・トロッコ列車

 

 

とうとう桜も見納めかという頃

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菜の花も私の眼の下くらいまで成長していました

ちょっとびっくり

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カメラマンがわんさか押し寄せる中

トロッコ列車の登場です

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今度はゆっくりトロッコ列車に乗るのもいいなぁと思いました