「秋の底が抜ける」ことについて ―私と物質と二種類の想像力―

1     大森荘蔵の自然感

 先日ツイッターで、今年は秋の話題をあまり聞かないという話をしたら、satoruさんがお知り合いの僧侶のかたが「秋の底が抜け始めましたなぁ」とお話しされていたという話題を教えてくださって、それはどういうことなのか考えたら、わりと面白くなってしまって、その時は「きっと同じ季節を語りあう人がいなくなれば、秋も通り過ぎられてしまうということかもしれない」と思い、そういうお答えをしたのですが、ひょっとしたら、もっとおもしろいことになっているのかもしれないぞと不謹慎ながら思ってしまいきちんと考えてみることにしました。

 活きている物と自然感

 物と自然は昔通りに活きている。ただ現代科学はそれを死物言語で描写する。だがわれわれは安んじてそれに日常語での活物描写を「重ね書き」すればよいのである。ここで大切なのは、その日常言語による活物描写は、「自然」そのものの活写であって、われわれの「内心」の描写ではない、ということである。陰うつな空とか、陽気な庭とかいうとき、陰うつや陽気は私の「心の状態」ではなく、空自身の、庭自身の性質なのである。無常非情の空や庭が私の内なる心に陰うつとか陽気な「感情」を引き起こす(これがデカルトの二元論の考えである)のではなく、空や庭そのものが陰うつさや陽気さをもっているのである。空の青さや庭の明るさが空や庭自身のものであるように。一言でいえば、空や庭は有情のものであり、誤解を恐れずにいえば、心的なものなのである。

 そのことは単に情緒や知覚についていえるだけではなく、記憶、想像、感情、意思、といった、いわゆる「心の働き」のすべてについていえると私には思われる。それをここで精しく述べる紙数がないのでそれを仮定する。つまり、「心の働き」といわれているものは実は「自然の働き」なのである。心ある自然、心的な自然が様々に(感情的、過去的、未来的、意思的、等々)立ち現われる、それが「私がここに生きている」ということそのことに他ならない、こう私はいいたいのである。

 かりにそういえるとすれば、私と自然の間に何の境界もない。ただ私の肉体とそれ以外のものに境界があるだけである。自然の様々な立ち現れ、それが従来の言葉で「私の心」といわれるものにほかならないのだから、その意味で私と自然は一心同体なのである。当然、〈主観と客観〉と従来いわれてきた分別もない。〈世界と意識〉という分別もない。これは禅的な意味や神秘的な意味での「主客合一」とか「主客未分」とかいうこととは全く別のことである。ごく当たり前の日常生活の構造そのものの中に主観と客観、世界と意識といった分別がない、ということだからである。ごく当たり前の日常生活の構造そのものの中に主観と客観、世界と意識といった分別がない、ということだからである。四六時中そうなのである。

 感性を取り戻すということ

 これがわれわれの祖先がもっていた感性に近いのではないかと私には思われる。そしてこの感性は、以上述べてきたように近代科学と少しも矛盾しない。矛盾しないどころか近代科学の進展に連れそうべきものなのである。それを迷わしたのがガリレイデカルトの水先案内だったのである。しかしわれわれ現代人は生まれてこの方、ずっとこの迷路の中にいる。骨の髄までこの迷路が入り込んでいる。それゆえわれわれの祖先がもっていた感性を取り戻すのは一朝一夕にできることではない。それは入信したり、改宗したり、棄信したりするのに似て、理屈の上のことではなく、理屈を含んで全生活を変えることだからである。自然観、人間観、政治観、文学観、芸術観、倫理観、人生観、等々のすべてを改変し、それを実生活の中で実践することだからである。当てずっぽうではあるが、現代文化が基本的に変化するとすればこの方向ではないかと私には信じられる。

 本書で試みたのは、この変化は可能であり、また近代科学の路線の本来あるべき道であるということを示すことであった。

大森荘蔵著  『知の構築とその呪縛』 ちくま学芸文庫 pp237~239

 

 引用に『物と心』を使わなかったのは少しずるいかなと思いながら、こちらを使わせていただきました。

 大森荘蔵のこの考え方は確かに最近の最新の哲学の中に生きていると思います。自然と私たちを隔てる壁を築き、人は自分の中の自分(偽装された自然)に住まうことを選択した。それを進歩と呼べばそうなのかもしれないし、後退と呼べばそうなのかもしれない。(欧米では特に)文化と呼ばれるものだったのかもしれない。そこのところをもう少し深く掘り下げて考えていきます。

2    物質と想像力

   私たちはこう言おう、他でもないこのしかたで事物が存在しなければならない理由が存在すると信じているあいだは、私たちはこの世界をひとつの神秘にするだろう、なぜならそうした理由が私たちに与えられることは決してないのだから、と。しかしながら私たちはそこから発して、今まさに私たちを支配している事柄にたどり着く―必然的な理由を要求することは、たんに、イデオロギーのまやかしや理論的な逃げの結果ではないのだ。というのも、実のところその要求は、事実論に対する一見したところ決定的な反論にもとづき、動機づけられた拒絶に由来するのだから。その反論は、もし私たちが思弁的な歩みに最小限の信頼性を保証したいのならば、明確にして正確に反駁しなければならないものだろう。

 その反駁というのは、次である—事物のみならず、自然法則までもが実存的に偶然的であると主張するのは、馬鹿げていると思われる。なぜなら、もしもそれが真だとするならば、自然法則は、いかなる理由もなしに、実際にいつも変化していることが可能なのだと認めねばならないであろうから。

カンタン・メイヤスー著 千葉雅也、大橋完太郎、星野太訳  『有限性の後で』 

人文書院pp138~139

 

 この本は、私など読みこむほど難しくなる感が大きいのですが、この部分で言われている、物事はすべて偶発性によってできているという理論は、現代哲学の根幹をなす新しい形(ある規則性によって事物がそこにあるという理由を探し求める永遠の体系=形而上学の呪縛からの脱出)を試みる挑戦として面白く読ませていただきました。

 ただ、偶然にあるものと偶然にいる自分との関係を思うとき、そこにある自然に、〈なにもない〉ではなく〈なにかが生まれる〉と思うとき、私たちの中に発生する感情や情景が(それが夢だとしても)自分自身を鮮やかに色づける化学変化を起こしていると私は思うのです。それが大森のいう「私の心」であるとすれば、そこで生まれる心の鮮やかさがこそが、私だけの私であるといえるのではないでしょうか。

 秋の底が抜けたのは、偶然性に〈なにもない〉を組み込ませすぎた現代人の病かもしれない。そこにある自然について自分の中に〈なにかを生ませる〉技術は、きっと私たちの中ごく普通に組み込まれている自然の一部なのだろうにと思ったりするのです。

 

 われわれの精神がもつ想像する能力は大いに異なった二本の軸に沿って展開する。

 一方の能力群は新しさからその飛翔力をとりだす。つまり絵画的なもの、多様な変化、思いがけない出来事から楽しみをとりだすのだ。この能力が刺激する想像力はいつでもひとつの春を描きだす。自然の中で、この能力はわれわれから遠く離れて、しかもすでに活発になっており、さまざまな花を生みだすのである。

 他方の想像する能力群は、存在の根底を掘り進む。それは存在の中に原始的なるものと永遠なるものを同時に見いだそうとするのだ。こちらの能力群は季節と歴史を支配している。それは自然の中に、われわれの中でも、またわれわれの外でも、さまざまの萌芽を作りだしている。その萌芽の形体はひとつの実体の中に埋め込まれており、その形態は内在的である。

 これをまず初めに哲学的にいうとすると、ひとは二種類の想像力を区別できるということになろう。ひとつは形相因を活気づかせる想像力であり、他のひとつは質料因を活発化する想像力である。あるいはもっと手短にいってしまえば、形態的想像力と物質的〔質料的〕想像力である。簡約したかたちで表現されたこの新しい概念は、詩的創造の完全な哲学的研究のためには、実際に不可欠であるとわれわれには思われるのだ。作品が多彩なことばと光の変幻する生命をもつためには、感情の動機、心情の動機が形相因にならなければならない。しかし、想像力の心理学者がじつに頻繁にもちだす形体のイマージュのほかに―われわれがこれから示すように―物質のイマージュ、物質の直接のイマージュが存在するのである。イマージュに名前をつけるのは視覚だとしても、イマージュを認識するのは手なのである。それらのイマージュにダイナミックな喜びが触れ、捏ね、軽くする。こうした物質のイマージュを、人々は実体的に、こころの底で夢想する、しかも形体、滅びやすい形式、むなしいイマージュ、表面での生成を遠ざけながら。物質のイマージュたちはひとつの重さをもっており、それらはひとつの芯をなしているのだ。

ガストン・バシュラール著 及川馥訳 『水と夢』 法政大学出版局 pp1~2

 

 

 バシュラールは想像力を二つに分類して、物質に対する直接的な想像力の存在をここで強く説いています。

 それらは、私たちの中で作り替えられ重さを持ち芯をなすということ。つまりは、私たちにとって、物質をただの物質から意味のある物質に変化させる大元であるといっていると私は思っています。そのことについて、私たちはあまりに無頓着であったのかもしれない。人工物に囲まれすぎて、その利便性や美しさへの干渉と制作は、ここでいうところの前者の想像力の産物であり、後者の想像力がたとえ生まれたとしても、捏ねたり、手に取ったりするようなことをしてみているだろうか。

 そう考えると「秋の底が抜ける」という意味に近づけるのではないかと思うのです。

 

3    これからの自然と物質について

 

 科学を愛さないとしても、あなたたちは多分、世界の諸事物を愛しているのではないだろうか?年代確定されたその詳細が、私の肉体と同じようにあなたたちの肉体を貫いているのだ。政治や、古い人文科学や、アカデミックな文化は、そのことをほとんど気にも留めていなかった。まるで私たちが、室内や人々のうちで、都市の公的な温室の中で、闘争の純粋なスペクタクル、スペクタクルの純粋な闘争のまえで自分たちだけが暮らしているかのように、われわれの狂った日々の実践によって、外的で、大量で、単一で、不明瞭なものになった一つの自然に無関心だったのである。こうした冷淡さに、自然はこの数十年のあいだ復讐をしているように見える。また他の何十年間かには、もっと致命的な復讐を仕掛けてくるだろう。

 ここにあるのは、愛すべき、人類の文化であり、それは逆に世界の事物から出発し、そしてそこへと帰還してゆくのだ。私たちとして(comme nous)。自然と文化の婚姻である。

ミシェル・セール著 清水隆志訳 『作家、学者、哲学者は世界を旅する』 水声社 p151

 

 

私は、バシュラールのお弟子さんであるセールの言葉としてこれを読むことにとてもふかい感慨を覚えます。自然の復讐とセールはいうけれど、私たちこそは自然の一部なのですから、バシュラールのいうような想像力を持って接する世の中に変わっていける。そして、「秋の底が抜ける」ような事象も眼と手を使って防ぐことが出来ると私は信じています。

二種類の想像力のバランスこそが世界を救う手立てになり、自然と離れた契約など始めからできることなどできない人間にとって、生きにくさから解放される唯一の手立てであろうかと強く思います。

 

※ 追加 

 われわれが物質のもつ美の概念について考察を始めたとき、すぐさま驚いたことは、美の哲学の中に物質〔質料〕因が欠如していることだった。なかでも物質の個別化する能力が低く評価されているように思われた。なぜ人々はつねに個体の概念を形式の概念と結びつけるのであろうか。物質を、その最小の分割部分においても、つねにひとつのまとまりとしておくような深い個別性は存在しないのであろうか。物質をその深さの遠近法に立って考察するならば、物質はまさしく形体から分離しうる成分となりうるのである。物質は形相活動のたんなる欠如態ではない。物質はあらゆる変形、あらゆる細分化にもかかわらず、それ自体としてあり続けるのだ。それどころか物質は二つの方向で価値定立化される。ひとつは深化の方向、そしてもうひとつは飛躍上昇の方向である。深化の方向をとると物質は、測りえないものとして、ひとつの神秘的なものとして現れる。飛躍の方向をとればひとつの奇跡のように、汲み尽くしえない力として現れる。いずれの場合も、ひとつの物質についての深い考察は、開かれた想像力を鍛えるのである。

ガストン・バシュラール著 及川馥訳 『水と夢』 法政大学出版局 pp3~4

  バシュラールのこの言葉の真意を私たちはもっと深く思うべきかもしれない。どうしても、人は人の思う通りに〈物質=自然〉を自由自在に変幻させられるという勘違いから抜けられなくなっているように思います。自分自身の中の自然を自分自身の壁の中に押し込めた病と、自然に対する想像力を偏らせてしまった功罪は軽くないようには思います。

 私が思い悩むのは、逃げないことをどうすれば皆が受け入れることができるだろうかということです。自分の中の自然から逃げないこと。あらゆる想像から逃げずに見つめること。そうでなければきっと自然は私たちへの浄化という名の復讐をやめないだろう。そういうことが可能なのだろうか。

 セールの予言はそのことへの諦めを示しているように思えてならないのです。

 

ネモフィラを見に行く

ひたち海浜公園ネモフィラを見に行ってきました。


そしたら、チューリップが満開でした。
朝いちだったので人がいない間にと思ったら
素敵なおばあさまがよい佇まいで立っておられて
こういう写真がもっときちんと撮れたらと思いました

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不思議なぶつぶつが写っていて
いやーフィルター汚れてたかなぁと思ったら
虫でしたー
おもしろいのでそのまま張っておきます
拡大して確かめると一匹ずつ虫の形になりましたww

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ネモフィラは群生しているところもきれいですが
一輪一輪がかわいらしいから人気があるんですよね


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桜・菜の花・トロッコ列車

 

 

とうとう桜も見納めかという頃

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菜の花も私の眼の下くらいまで成長していました

ちょっとびっくり

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カメラマンがわんさか押し寄せる中

トロッコ列車の登場です

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今度はゆっくりトロッコ列車に乗るのもいいなぁと思いました

墨東紀行 夜桜編

いつの世も、美しいものは恋人たちの夢の中に存在します
私と同じにのぞき見の人も

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夜船のにぎやかさが、かえって桜の妖艶さを増すような
川面に映る明かりさえ、春には違って見えるものです

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すっかり舗装された桜の並木道は
古いものの時間と新しいものの時間の
違いを語っているようです

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精霊の守り人の神話考3

1     人は救われることができるのか

 今回ブログのアップが遅くなったのは、久しぶりに本格的に体調を崩したせいでもあるのですが、それよりなにより、ドラマの悪口はやめたかったのに、絶対に嫌だという場面にぶち当たってしまったからです。

 私にとって、「精霊の守り人」の冬ごもりのシーンは好きなシーンの中の一つです。冬穴に籠って過ごす日々によってチャグムはバルサの人生を知って大きく成長し、それとともに、バルサは昔の自分やジグロと向かい合うことができるという大切なシーンだからです。だから、ここで起きたことは後の物語にとって大きな起点になる部分なのです。

 バルサはドラマの中でジグロの臨終の時のことを回想します。

 「ジグロが殺してしまった8人の仲間たちを弔うために8人を助ける。だからジグロは安心して天国に行ってほしい。」とバルサが言うと、ジグロは「人を救うのは殺すよりもずっと難しい。自分はバルサを救ったとは思っていない。」といいます。そこまでは、ジグロらしいなぁと思って聞いていたのですが、そのあとジグロは「バルサとの生活は楽しかった。バルサの成長を見るのがうれしかった。自分はバルサと旅ができて幸せだった。」と言ってしまうのです。

 ジグロは、物語の中でも、アニメでも、決して幸せを口にしません。それは、たとえバルサを救うためだったとしても、自らの信念で人を殺す自分は幸せになる資格がないと思っているからです。

 しかも、ジグロは友との殺し合いをしている最中にも、心躍る自分を押しとどめることができないことも自覚しています。

 人を殺めることを楽しんでしまう自分の本性を一番よく知っているのは本人です。だからこそ、どんなときにもジグロは笑わないのです。心の底から笑うことができないようになってしまう怖さは、ドラマの2話中でバルサはのちに自らが手をかけて殺してしまうことになる用心棒の男から聞かされています。「人を殺すとその時から人生が変わってしまうのだ。」と。

 だから、死に際であっても、ジグロは自分の幸せは決して口にしないはずです。いくらバルサのこれからの人生のためだとしてもです。そんな理由で私は受け入れられませんでした。

 そう思って本を読んでみると、『夢の守り人』の最後の最後で、バルサはタンダにこういうのです。

「あれほどの思いをかけてくれたことを、わたしは信じられぬほどのしあわせだと思って生きるべきだったんだ。・・・・・好きな者をまもって生きることには、よろこびもあるんだから。あんな人生だったけどけれど、ジグロにも、そんなよろこびがあったと思いたい。

 チャグムをまもっていたとき、わたしはしあわせだった。他人のチャグムのために、死ぬかもしれない危険な闘いをしたけれど、それでも・・・・・・しあわせだったんだよ。」

 12話完結のドラマだと『夢の守り人』は省かれてしまうかもしれないと感じながら、『闇の守り人』でのジグロとの本当の別れを終えて、帰ったとたんに起こる奇怪な事件とチャグムとの再会を通じ、バルサが人生のしあわせを取り戻していく自分を自覚するこの場面は、私はとても重要であると思うのです。ジグロはしあわせだったとは言わなかったけれど、ジグロは自分と同じようにしあわせだったに違いないとバルサが悟ることができた。そのことで、バルサもジグロもどれだけ救われることか。

 「人は人を救うことができるんだ、しかも人を救うときにこそ自分が救われるんだ」というテーマは、精霊の守り人シリーズ全体に流れる血液のように感じます。

 

2     人間らしさとは何か

 精霊の守り人のドラマ作中で描かれる人物は、その中でも特に宮中の人々は、自らの欲に忠実で、しかもその欲望のために行動を起こすことにはまったく戸惑いを見せない、時にはコミカルといっていいほどわかりやすい人物像になっているように思います。実際私たちはけっして欲がないわけではありませんが、その行動を押しとどめる何者かの力によって、強欲と言われるほどの行動は抑制されます。

 一般的に、神は私たちのそんな愚かさを知り、たしなめ、時には罰する存在として君臨するものです。その神が王であるという国を作ってしまったことが、宮中の無秩序を呼び起こし、破滅を生むのだというのは、それもとてもわかりやすいように思います。

 一方、精霊の守り人における新ヨゴ国は、ナユグとサグという二つの世界の境界が怪しくなり、崩壊の道を歩んでいるということが物語を追うにつれ深い影になっていきます。こちらの滅びの影は天のなせる技のようなものなので、宮中の人々にも、それこそ無欲な市井の人々にも関係なく襲ってきます。

 そのうえ、この後国家間の争いも激しくなり、チャグムは否応なく巻き込まれていきます。

 普通のファンタジーの世界では、人を取り巻く環境がこれほど複雑に表現されることはないと思います。前回も触れましたが、複雑なネットワークの中で生きる人がどう生きるかは、どこと深くかかわるかでだいぶ違ってきます。しかし、宮中の人々は宮中という狭い世界にいるから狂っていっている、チャグムはそんな宮中から抜け出して外の世界に触れたから正気でいられるというのはいささか簡潔に考えすぎです。何かに触れ、感じ、心に描き、表現する。人が繰り返すこの無限の行動が人を作り上げていくのです。相手が人であれ、人以外のものであれ、何かに触れる限り人は繰り返す。それは自らを取り巻く環境に適応するため与えられた動物的な行動であるのかもしれない。しかし、私たちは肥大に膨れ上がった脳によって得られたあらゆる可能性を持っているのです。

 ドラマではあっけなく殺害されそうなサグム王子ですが、私はアニメのサグム王子が大好きでした。狭い宮中にあって、心を遠くに持てる人でした。

 人のそういう可能性を人間らしさというのは間違っているでしょうか?

 王の苦悩は自らが確固たる王として存続するためのものだけではないでしょう。伝統を重んじる重要性と孤独に耐えなければならない重圧、家臣の忠義を受けるためにあらねばならぬ人物像と自分とのギャップ、ましてや、人ではなく神であるという自分と神とはなにかという葛藤も。

 御簾の中でうなだれるアニメの中の王と、水晶玉を持って暴れまわるドラマの王。

 二人の王のどちらがらしいのかと考えたら、頭が痛くなりました。

 このらしさは人間らしさのらしさではなく、この物語の王らしさということです。

 そもそも人間らしさは何によって決められるのだろう。

 ひょっとしたら、そこには人間に対する期待度が大きく影響しているのかもしれない。期待度が薄ければたいしたことのない欲におぼれた人が人間らしく、期待度が高ければ清廉潔白な徳の高い人が人間らしく。そんな風に思えました。

 次回で第1部も終わりになります。

 いよいよチャグムの精霊の守り人としての最終試練の時が来ますね。ちょっとCGが心配でもありますが、楽しみにすることにします。

今年の桜はよい桜~♬

 3月30日に桜を撮りに横浜に行ってきました。

 お天気予報は晴天だったのにまたまた曇り。写真を真剣に撮るようになったら、曇り=明るい(明るすぎる!)っていう考え方に変わってしまいました。

 

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関帝廟狛犬さんはとってもユニーク

 

 

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まだ2,3分咲きだったのに風が強くて、咲きたての花たちに少し意地悪すぎないかって思いました。つぼみのピンク色がかわいらしくて、うまく撮れるといいなぁと思っていたんですが。

ついでに、花がよく揺れたから、私にもそうとう意地悪なお天気でした。

 

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大きなヤマザクラの木は子どもたちに大人気

たくさん子どもたちがかくれんぼしていたのですが、この子らは隠れていないでしょ!

 

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実は金網に張り付いて撮った写真です。

 

 

タイトルは、「今年のボタンはよいボタン~」にかけたんですが、元歌知ってる人いるかな?

 

精霊の守り人の神話考 2

1     3種類の人々

  「お前の王や神はもうどこにもいない。王や神だというものを信ずるな。」

 カンバルを出て新ヨゴ国に入るときに、ジグロはバルサにこう言い聞かせます。それはジグロにとっても同じこと。二人は神を捨てて自分たちだけの力で生き抜く覚悟で新ヨゴ国の土を踏みます。ドラマの中では、王子を救ったことで新ヨゴ国に捕らえられたバルサが、拷問の途中気を失っている間に新ヨゴ国に初めて足を踏み入れた時のことを回想しているシーンになっています。

 この場面は、物語冒頭にバルサという人物像を王が神である新ヨゴ国という国とともに紹介する、やや皮肉が込められた情景になっています。物語の『精霊の守り人』の中ではバルサが拿捕されるシーンはないので、特にドラマ用に作られたものであるようです。

 

 文化の古代的レベルにおいて、宗教は超人間世界、価値論的価値の世界への「入口」を維持する。これらの価値は、神もしくは神話の祖先によって啓示されたと考えているという意味あいで、「超絶的」である。それゆえ、それらは絶対的価値、すなわち全人間行動の範例を構成する。すでに明らかなように、これらの模範は神話によってもたらされる。神話は神の世界であれ、先祖の世界であれ、他界、彼岸を意識させ、それを保持するのにもっとも一般的で有効な手段である。この「他界」は超人間的、「超絶的」次元、すなわち、絶対的実相の次元である。聖なるものの経験―すなわち超人間的実相とのふれあい―こそ、なにかが真に存在し、そこで人間を導き、その存在に意味を与えることのできる絶対的価値があるという考えを芽生えさせるのである。そこで、実相、真理、意味の理念が初めて現れ、後に形而上学的思索によって仕上げられ、体系化されるのは、聖なるものの経験を通じてなのである。

 神話の明白で疑う余地のない価値は、周期的に儀礼を通じて再確認される。原初のできごとの回想と再現は、「未開」人が真なるものを判別、固持するのを助ける。模範的行為の絶え間のない反復の力によって、何かが宇宙の流れの中で動かず、永続的にみえる。かの時のできごととこの周期的反復は、なにかが絶対的に存在することを間違いなく確実なことにする。この「なにか」は「聖なるもの」、すなわち超人間的、超世俗的ではあるが、人間が体験できるものである。「実相」が顕われ、「超絶的」次元から構成されるままになるが、この「超絶性」は儀礼によって体験され、人間生活の主要部分をしめるにいたる。

エリアーデ著作集第7巻『神話と現実』 ミルチャ・エリアーデ せりか書房 1992年 pp158~159

新ヨゴ国の建国神話については前回も触れましたが、それは前述のアリアーデのいうように、国民を導きます。国民は祭りによって再現される神話を大勢で「聖なるもの」の体験として受け入れます。

*アリアーデのこの記述はこの後の展開もおもしろいので、あとで触れる機会があれば触れたいと思います。

 

 一方、原住民であるヨゴ人の宗教は自然とともにある、原始宗教的といえるものです。村長は存在するものの、支配・被支配関係がない生活の中で、宗教は生活の知恵として息づいています。このような場で伝承される物語が神話といっていいものなのか少し不安ですが、ここで人々の生活を支えていることには間違いないのです。

 問題は『精霊の守り人』という物語は、ナユグとサグという二つの世界にまたがった世界が描かれているため、超越世界が実世界に現実として干渉するので、ヨゴ人が言い伝えていることは事実で創造されたものではないということです。物語上も実際このことに直截触れることができる人間は限られているのですが、それは日本における八百万代の神々との世界観と同じなのかはわかりません。

 しかし、前述のアリアーデの世界観とは別だなというのはお分かりいただけると思います。おそらく、政治と宗教の関わり方の違いがそれらを大きく隔てているのだということも理解しやすいと思います。

 そして、その二つの宗教(観)とともに、神も王も持たないバルサという人の在り方も重要になってくるのです。

 

2     政治・宗教・そこに生きること

 人がそこに集団で生きていくということによって、自然発生的に政治は生まれます。その集団がどんな生活の仕方をしようと、集団のルールと秩序は必要になるからです。

 ふつうのファンタジーでは、王の政治理念が大きく取り上げられることが多いのですが、上橋作品中では各個人の政治理念を問うことが多く、それが彼女の作品の特徴であるといえると思います。王の政治理念、あるいは王に近い人々によって成り立つ政治理念によってある出来事が起こり、それが個人レベルに達するときに、各々がそれにどう対処するか。その対処によって物事がどう変わるか。王の命に背く人や物を撃退し人々に幸福をもたらす英雄譚でも、悪い王を排斥して新しい王として立つ勧善懲悪譚でもなく、そこで、その政治下で、生き抜くために人がどうするかということを丁寧に描いていくのです。そこに存在するのが個人の持つ政治倫理や宗教観になります。それは、その人の人生観になり、やがてはその人の生き方になります。そういう過程を丁寧に描くことにより、世界はよりリアルに近づいていきます。

 私たちが生きている世界は、それほど単純にできているのではありません。たくさんのクモの巣上に張ったネットワークの中に私たちは存在しています。その一本一本に関係していながら、私たちが直接的に関わるものはほんの一握りに過ぎません。大切なのは、そういう状況下にあって、常に自分である続けるということです。

 『精霊の守り人』をはじめ、この中に出てくる人たちは誰もがそれを自覚し、その中でも自分であるべくもがき苦しんでいます。その代表がバルサでありジグロであり、チャグムなのです。

 ドラマ2話で、バルサがチャグムにいうセリフに「生きてることを恐れるな。それが一番恐ろしい魔物だ。」というのがあります。そこに、この苦悩に苛まされるバルサという人間の心の声を私たちは聞きとらなければならないのです。運命に打ちひしがれるチャグムに、同じように運命に打ちひしがれて生きてきたバルサがはくセリフの重みと、それをジグロと生き抜いた強さを、このドラマは強調しています。

 そのことにことさらこだわる真意はどこにあるのか。次回はきっとそのあたりにも触れられると思うので、また来週を楽しみにすることにします。