写真についてくる物語たち

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写真を撮るときはついいろいろなところに入り込んで怪しいものを探してしまうんですが
街灯の裏手に見つからないように張ってあるシールがめっちゃかっこよくて
しかも、赤いインクの、指紋かな?付いちゃってるのはなんでだろう
それにしても、この字体、ぎょっとするほどおしゃれですよね




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シャワーオイルのボトルも色とりどりに並んでいるときれいだなぁって思って撮ったんですが
なんだか魔法の薬でも入っているように見えませんか?
実はいろいろな星の光を中に閉じ込めた
恋する女の子のためのキラキラ処方…だったりして




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ウィンドウの中のキッチンの生活感と
ウィンドウに映り込んだ通りを歩く人たちと
お店の中が
混在した感じが撮りたくて
結構粘って撮影しました

私は今一体どこにいるのでしょう?
って、考えたくなる一枚になっていませんか

カメラ持ってる私はさらに異界の人です




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大好きなシスレーの洪水の画みたいに撮れたので
お気に入りになりました
ホワイトモードを電球モードにすると
いつもの写真がぐっとおしゃれになるということを
教えてもらった一枚です




撮影場所は自由が丘界隈です
そんなオサレな街にはあまり行かないので
撮影がとても楽しかったです


このブログは
主にこんな感じでいけたらなぁと思っています
ご感想など、お気軽にいただけたらうれしいです

ポンキチ02

精霊の守り人の神話考1

1     複数のコードの存在と読み取り可能な領域について

 先日鳴り物入りで一回目の放送が始まったばかりのNHKのドラマ「精霊の守り人」ですが、原作に忠実というよりは、原作によって読み取れるものを、より現代日本という国で翻訳し直したような脚本になっていて、判断は人によると思いますが、私は、それはそれでおもしろいかもと思いました。

 今回のドラマがどのような過程で作られたにせよ、上記のような理由で、原作読者の中では原作とは少し違うなという違和感を持たれた方が多かっただろうと感じます。私自身は、物語の世界を忠実に描いた世界観が素晴らしいアニメ擁護派ですが、ドラマだけを見る人にとってはよりすんなりと理解しやすかったかもしれません。それは、この物語の現場となる新ヨゴ国を、現代日本的に読み替えたことによる成果であり、その作業が、精霊の守り人というファンタジー小説の神話性のコードを変換するという作業を経て成り立っていることに、私はとても興味深く感じました。

  脚本に起こすという行為は、単純に言えば書き物を語りに変換させる、つまり文学(文字)を演劇(口語)に変化させるということなのですから、文学の内容が神話に類似するようなものだった場合、当然そういうことは起こりえます。さらに、今回の脚本化にあたって、脚本家の大森氏は、インタビューの中で伊勢神宮へ行って‟日本の神様“を感じてきたと書かれていますので(NHK 「精霊の守り人」ホームページ内)その感じがそのままこのドラマに表れていることは不思議ではありません。ただ、どうしてこのドラマ中で宗教性のコード変換が表象することになったのかといえば、そこには、原作で描かれた精霊の守り人における新ヨゴ国の宗教性では、視聴者にドラマとして訴えかける何かが欠けてしまう、あるいは受け入れがたい何かが残ってしまうのではないかという発想があったのではないかと思われます。

神話が口語での伝承の際様々な変化を経て広がっていくということは過去の研究によって広く知られていることですが、新たな神話が生まれるような環境にはない現在において、このような事例を見られることはほぼないであろうと思っていました。しかし、ファンタジー小説のドラマ化という舞台で、原作に忠実な形で現代の人々に受け入れられやすいものを作るという名のもとに行われた疑似神話体系でそのことを発見できたことに、意外性と日本という土壌の不思議さを改めて感じました。

  例えば、宗教色の強いファンタジーの実写化には、過去に「ナルニア国物語」や「ロード オブ ザ リング」などがあります。これらの制作にあたって監督は原作になるべく忠実に、衣装や小道具に至るまで挿絵に近い形に再現しています。しかし、「精霊の守り人」の原作の世界観とドラマの世界観とはそのような神経質ともとれるような再現性は見られません。「精霊の守り人」という新ヨゴ国建国神話を中心に描かれる物語が、物語の中で読み取り可能な神話のコードを用いて、場所や登場人物ごと変化していくような様子を、私としては興味深く見ていますし、そこには原作者の上橋氏の原作出版20年という節目での挑戦の意思すら感じずにはいられません。

 

2     レヴィ=ストロースのコード

「あらゆる神話は、ひとつの問題を提起し、それが他の問題と類似していることを示して処理する。あるいは、複数の問題が互いに類似していることを示して、同時に処理する。映し出された像がまた他の像へと送り返されるという、この鏡の戯れが、現実の対象に照応することはけっしてない。より正確にいえば神話的思考が複数の言表を並べることによって浮彫りにされる不変の特性が、対象に実態を与える。たいへん単純化していえば、神話とは「それは、・・・・・と同様」「それは・・・・・・のようである」という手法によって定義される論理演算システムなのだ。常軌をこえたもの、矛盾、不祥事は、思考や感情にとってよりなじみやすい、ある秩序の明らさまな構造が現実の他の相において顕在化したものとして描き出される。それによって、特定の問題の解決にもならないひとつの解決が、知的な不安、さらには生きていることの苦悩をしずめる。

神話的思考はしたがって、複数のコードを用いて操作するというその点にその独自性がある。それぞれのコードが、経験のひとつの領域から潜在的な特性をとり出し、こうしてその領域と他の領域との比較が可能となる。ひとことでいえば、それぞれの領域を相互に翻訳することが可能となる。ひとつの言語のみではほとんど理解不可能なテクストが、同時に複数の言語に訳されると、おのおのの異文から読みとられる、部分的で歪められた意味以上に豊かで深い意味が、複数の異文から浮き上がってくることがありうるのと同じように。

 だからといって、ひとつの神話が、可能なすべてのコード、その神話の属する神話群から抽き出しうるすべてのコードを用いているということにはならない。神話は、連立方程式のようにも見える。ただその未知数は、けっして明晰に解かれることなく、伏在する方程式が解けるかもしれないという幻想を与えるように選ばれた具体的な値を用いて、近似されるだけである。その選択は、無意識の合目的性によって導かれているとはいえ、選択の対象になるのは恣意的かつ偶然的な歴史の遺産のみであり、そのため出発点において何が選ばれるのかということは、ひとつの言語を構成する音素がどう選ばれるかということと同様、説明不可能である。そればかりでなく、環境、歴史、文化の提示する諸コードから何が選ばれるかは、ある神話もしくは、ある特定の神話群がみずから解こうとする設問との関わりのなかで決まる。どのようなコードでも、いかなる場所でもかまわず用いられると思ってはならない。」

クロード・レヴィ=ストロース 『やきもち焼きの土器つくり』 みすず書房1997年新装第1版pp241~242

 

今回の「精霊の守り人」における神話コードの読み直しを考えるにあたって、参考にしたのは上記のようなレヴィ=ストロースの考え方です。神話の連立方程式の解として望むものXやYについて、現在日本に住む私たちの共通経験における共通理解上にあるという条件を置けば、作り上げることのできる公式はそれほど難しいものにはなりえません。

また今回の私の試みは、解であるX,Yを求めるのではなく、変化の解として現れたX,Yを用いて方程式(らしきもの)を導き出すことです。それはファンタジー小説という疑似神話体系だからこそできる技法ですが、そのことから方程式を見つけ出すことは、神話を無くした私たちにとっての神話とは何かを考える大きなヒントになるはずです。

 さて、「精霊の守り人」という物語の読者たちは、この物語は新ヨゴ国の創世神話に纏わる読み直しとやり直しの物語であるということを知っています。創世神話は国王の神性と絶対性を高めるため書き換えられ伝承されている一方、消えかけた原住民における神話の継承の中には本当のことが記されています。物語は、国を大干ばつから救うために、この二つの神話を巡って真実と事実の間を右往左往することになります。

 今回、私が扱うのはこの二つの神話の変遷についてではありません。その創世神話が、書き換えられた新たな神話になる、つまり、チャグムが無事に精霊の守り人としてニュンガ・ロ・イムの卵をラルンガから守り抜き、孵化させることで干ばつから国を救う新たな神話に書き換えたこの物語全体を、さらに、ドラマとして書き換える過程において用いられた方程式を求めることを目的としています。

 変化していく神話の物語を語ったファンタジー小説の中の神話性、という大変複雑な作りにはなってしまいますが、要は物語全体の変化とその理由を巡る理論ということになります。

 ここまで大変長くなりましたが、ここに至る理由としては上記の通りです。

 

3      変化したものたち

 ドラマを見た人ならだれもが感じたのこと。それは王室の誰もが人間的であるということだと思います。アニメでは、王をはじめ、お妃、星読み博士、誰もが人間離れすることを義務付けられ、人としてではなく神や神に近いものとしての生活を義務付けられた王室というイメージでした。しかし、ドラマの中では人間味のある設定に変更されているように思いました。

王族の目を見ると下賤のものは目がつぶれるという設定の下、王族が謁見の時に着けていたアイマスクのような覆いも無くなっていました。二の妃は星読み博士のガカイに対してまるで愛人のような女性の態度をとり、ガカイもまた妃に馴れ馴れしい態度で接します。

中でも一番違和感があったのは、王の二の妃がトロガイ氏と接点を持ったことに対して怒りを露わにするシーンです。王が水晶玉のようなものを持って二の妃を苦しめる姿は、神に近い王というよりも呪術師のようでした。自らは手を下さないと言いながら、二の妃の側近を目の前で突き落とさせる場面では、もはや人間以外の何物にも見えない怒りが全身を覆い、かえってそのことで、王が怒りの化身にでもなったかのように見えました。

トーヤが夏至祭りでの王が神のようであったと表現するシーンでは、王はまるで演じるかのように高楼に立って風を呼び、その姿を人々に見せつけることによって威厳を誇示するようでした。ところが、一切はチャグム(の中の精霊)がしていることだった。この時の王のチャグムを見る目は今後の王とチャグムの関係を示唆しています。

 さて、このように王室を神から人に近づけた意図は何だったのか。

 それは、神という存在の設定自体が、「遠い・清い・白い・超自然的な」というイメージから「近い・混濁した・人間的な・自然な」というイメージに近づけることによる変化であるように思います。この変化をどのようにとらえたらいいのか。

 さらに、その変化に及んだ人間的な王室の人々の中にあっても、原作と変わらずに貫かれている宗教性とはどんなものなのか。

精霊の守り人という物語は、ヤクーという原住民の自然の神とともにある自然宗教的な生活と、ヨゴ人の王を神とまつる神道的な生活の二重性も重要な肝になっているように思います。神道的な神とその神の体系によって支配を受けることを人が嫌うという判断であるならば、今回のような変化も頷けます。ただし、それは物語的にはヤクーの宗教との対比にどれだけ耐えられるかにかかっているように思えます。

 次回はおそらくヤクーの宗教性に強くコミットする回になると思われますので、そちらの変化も見ながら、もう少し深く考えていければと思います。

下町今昔梅事情

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 向島百花園の梅は五分咲き
 (2016年2月16日現在)
 ここいらではどこからでも
 スカイツリーが顔を出します







 
 東京の下町、私が育った辺りは、家と家の隙間がないほどびっしりと民家が立ち並び
お宅に梅の木があるよなんて家は少なかったように思います。

 それは戦後焼け出された人たちが焼け野原になった土地にバラックを建てて住みだして、
そのまま一軒建ってたところに何十軒と家を建てて、
一家中空襲で死に絶えたという噂の土地になぜか大家ができて借地にして、
都市に出てきたベビーブーマー達にまで切り刻んだ土地に土地代とって住まわすなんてことしたもんだから
とうとう情緒もなんもなくなってしまったのではないかと思われますが、
江戸時代には梅といえば亀戸の梅屋敷か向島の百花園と謳われていたそうでございます。

 大店の旦さんが歌舞伎役者や俳人なんかの文化人と一緒になって花を愛でたその庭も、
片や地震や大水で跡形もなくなり、
片やお役所に寄贈されて生き残ることとなりました。
おかげで今も江戸情緒の面影を少しだけ垣間見ることができます。

 ところが、私が小さいころの押上界隈といったら、
東向島は玉ノ井、鳩の街
青線の色濃く残る地域であり
自転車でどこでも行ってしまうやんちゃ者
親からはあっちには決して行ってはならないときつく言われておりました。
それでも、一度だけ河に遊びに行った帰り道、大雨降って仕方なく立ち寄ったそこいら辺りの印象は
おっかない街、それ以外はなくて、
夕方の暗い雨のせいなのか、
それとも街の印象そのもののせいなのか、
それからは、河に行きたくなったら江戸川へ
隅田川、十間川界隈にさえ行かなくなったのでありました。
※中川はハゼ釣りにはちょうどいいのに、土座衛門が上がったのを見た友達がいたからいかない

 浅草に電車で行くときは乗換駅
それでも気持ちが悪くって速足で乗り換え
そんな娘の様子を怪しんだ親から理由を尋ねられ
あとでこっぴどく叱られましたとさ。

 そんな時代も遠の昔
今はどこもかしこも同じ高い建物になり
かろうじて残る廃墟のような鳩の街には
あのころの街の全部が紫煙に包まれたような怪しさも
どこからか感じる視線も
何もかもがどこへやら

 向島百花園は平日の午前中はお年寄り天国で
カメラを下げたおじいさんやら
梅そっちのけでおしゃべりをするおばあさんやら

 雀の子が、ばかねぇ何も変わらないよとちゅんと鳴いた
ひよどりは我が物顔で梅の散るのも知ったこっちゃと大暴れ

 そうだねぇ変わったのは私たちかいって
空を見上げてつぶやいた

 空は青空
あんときとはえらい違いだねぇ

「バカにつける薬はない」という話

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うおー、ひっさしぶりの暇人だ
なででくり、なでてくり

な、なんだ
暇人は俺のものだぞ
近づくな
近づくとこの猫手パンチが火を噴くぞ


(散歩中間違って入ってしまったお墓にて ぬこ)

 ※脱出までに20分かかりました







 ここのところ、不倫疑惑とか浮気発覚とか、そんな下世話な話題で持ちきりですが、どの男もまったく悪びれる様子もなく謝るのがむかつきますね。
 悪いことする奴は簡単に謝るな!って最近よく思います。
 謝るという行為は世間にするものじゃなくて、悪いことしてしまった人たちに対してするもので、結果世間を騒がせたことなど二の次であるべきではないかと。
 結局のところ、そういう人たちは自分のために謝っているのであって、そういうのは謝っているというのとは違うのではないかと思うのです。
 
 田中角栄にだって二号さんはいたけど、その人にだって奥さんにだって責任持つって決めてたから謝ったりしなかったのだろうなぁ。
 そういう、全員針の筵的なイエがだめっていうことになって今があるのだと思うけれど、
 何がだめっていう部分がどんどんぼやけてしまって、だめっていうことだけが大きくなっている気がします。
 「奥さんへの愛に忠実でない」という理由はそれはそれで変ですよね。
 「愛に忠実」というのは自分の中で起きることですから、誰へのという部分は変わりえることです。

 もう少し、何がだめという部分をきちんと考えていかなくちゃいけないんだろうな。
 人間はイエや環境の中で生きるもので、一人で生きられるものではないですから。
 
 最も、イエ制度自体が完全に崩壊して、社会全体の中で個が生活できるパターンになれば、恋愛もお互いの責任でという風になっていくのでしょう。
 イクメンの方向ではなく、子育ての形も大きく変わるはずです。
 
 「ひとり親でもりっぱにできる子育て(男性編)」
 議員としてならそっちの充実目指して、がんばったら?
 そのほうがあなたにはあっているかも。

 


 

オタク試考

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きょうもいちにち
たのしかった・・・・

あずまきよひこよつばと!』13巻末尾









 オタクの定義というのはかなり難しいと私は思っているのですが、今やマクドナルドと同じ「世界の言葉」になってしまっているがゆえに、世界中の人々が何らかの形で知り、各々の解釈でオタクという語を使っているのだろうなぁと思うと、逆にワクワクします。
 言葉というものは何より有用性が高ければ高いほど、自在にありようを変えていくものですから、日本語のあいまいさも手伝って、広がりと変化に適応できる、まるでパンケーキみたいな素敵なものになっているような気がします。
 明治時代に作られた造語たちのような、何やら分けのわからぬ理屈を付けられてがんじがらめになっている語(例えば宗教とか!)に比べて、その響きをそのまま世界中に広められる語(「かわいい」とか「もったいない」とか)の特徴は、直接感情にすんなり入ってくる気安さと、それでいて納得の使い心地が得られる安心感で、それはそれは素晴らしいと思います。
(ほら、パンケーキでしょう!)

 〈(一般的な)自分たちとは違うもの〉というオタクという言葉に根付いている差別的な感情は、未だにチェックシャツから連想されるもの的な意味で残されてはいるけれど、ダサさとかっこよさの境界というやつは、例えば女子高生の評価くらいな意味でしか通用しなくなってきたような気がしているのは私だけでしょうか。暗い場所から引きずり出された負の感情は、引きずり出された時点でもう負とは違い方向に飛び散っていくように思うのです。
 さらに、専門に特化した趣味という意味で使用されるオタクという語には、もはやゲーム好きやアニメ好き写真好きといったジャンルから、サッカー好き、ラグビー好き、映画好きといったありとあらゆるジャンルで使用されているのでオタク=文系男子という枠は取っ払われていると考えるのが自然であろうかと思います。

 一方、閉鎖的な場でのオタクという語には、例えばミニコミ誌の性描写のような、人の欲求と切り離せないが公に晒されるにはタブーである部分が多く含まれます。
 そういう部分はオタク文化にとっては大変重要なのですが、開かれた場に出て行ってしまった以上、批判の対象になってしまうのは仕方のないことです。


 これらを鑑みただけでも、オタクという語の示すもの自体が相当複雑で、自らがオタクだと自負している人の多さと多様さを考えるだけで頭を抱えてしまいます。〈狭義のオタク〉とか〈広義のオタク〉とか、そんな風に表現されるのかもしれないなぁとも思いますが、それこそ、文化にとって何が狭義かという部分を規定する勝手さを感じざるを得ません。

 強いて言えば、私たちの日常は思いのほか辛く長く、平坦で面白味のないものですが、そこに色付けをする何かを持っていれば毎日を少しはましに過ごせるかもしれない。その部分を自分の楽しみの方に寄せている人がオタクだと私は思っています。その部分を社会への貢献や政治的な活動に費やしている人たちももちろんいらっしゃっるし、子育てや仕事で手一杯という人もいらっしゃる。ただこういった活動が経済活動にどんどん組み込まれていっている反動で、オタク文化は独自に発展を遂げているのではないかと感じます。
 難しいかもしれないけれど、経済活動と生活時間の変化とオタクに関する研究なんていうのも家政学的には楽しいかもしれないと思ったりします。




 ところで、親愛なる日本女子大学の近藤光博先生が企画なさっているエコノミメーシスR&D
 次回企画は「オタクにとって聖なるものとは何か」
 2月27日(土)13時30分~ 日本女子大学の目白キャンパスでワークショップが行われなます。

lizliz.tea-nifty.com


 時間が合えば参加させていただきたいと考えています。
 皆様もぜひぜひ!

物質のすべては光







純粋数学には美しいアイデアがぎっしり詰まっている。
物理学のとっておきの音楽は、美しいアイデアと現実(リアリティー)のあわいに、いとも調和した響きで流れている。
そろそろ少し現実(リアリティー)について論ずべきころあいだ。


フランク・ウィルチェック著 吉田三千世訳 『物質のすべては光』















 以前からきちんと(でなくてもいくらか)把握しなくてはと感じていた素粒子物理学ですが、買っておいた本もどうも苦手意識から手が出ずに放ったらかしになっていたので、とうとう読み始めました。
 すごく読みやすい本なのに、まあ進まないこと!


 ニュートリノニュートリノ振動(スーパーカミオカンデHPより)
 http://www-sk.icrr.u-tokyo.ac.jp/sk/sk/neutrino.html

 「宇宙を構成するすべての物質は、クォークレプトンという素粒子の仲間から形成されています。例えばクォーク3つからできる陽子1つと、レプトンの仲間である電子1つを組み合わせて水素原子が作られます。」
 ここからして、聞いてないよーという感じなので、素粒子物理学というより科学そのものからやり直し感が大きいです。

 ということで、しばらくこの素粒子と物質の始まりについての考察を行っていきたいと思っています。

無口な神と雄弁な神  「人類学=物語的 想像力の ‟不自由な” 跳躍」感想




「忘れるなよ。たとえ、この世の外側は全き玉だとしても、我々が生きている内側には混沌があるのだ、ということを。その混沌の野をひとつひとつ掘り返して見て、考えて、はじめて、新たな一歩を踏み出せるのだ。
 司祭医は人が病で死ぬことを、はなからあきらめてしまっている。清心教が持ち出す神の道理というのは、そのあきらめを、患者と身内に納得させ、自らの無力を納得するために生み出した究極の理屈だ」

  上橋菜穂子 『鹿の王』







 現代思想の3月臨時増刊号「人類学のゆくえ」を私も読んでいる途中なのですが、巻頭の中沢新一氏と上橋菜穂子氏の討議記事「人類学=物語的 想像力の ‟不自由な” 跳躍」は大変興味深く読ませていただきました。

 内容はまだ読んでいらっしゃらない方も多いかと思うのであまり突っ込まないことにして、この記事を読んで私が感じたのは「無口な神と雄弁な神」のことについてです。
 お二人の学生時代の研究の話題からシャーマンについて語られることも多かったのですが、それではシャーマンに囁く、そして私たちに囁く神は無口なのだろうか、それとも雄弁なのだろうかということがとても気になりました。
 言葉の不自由は私たちに縛りとともに安心を届けます。しかしそれは私たちに近づくために本物としての何かをそぎ落としてやってくるわかりやすさです。雄弁な神は私たちに安心と理解をもたらすでしょう。一方、無口な神は私たちの理解の及ばぬところで私たちを包み影響します。語りかけるのとは別のやり方で私たちに何かを伝える、その方法は私たちの奥深くで感じることしかできない不可解で奇妙な、しかし、私たちが考え及ぶ範囲を大きく超えた、この世にあるありとあらゆるものに通じる何かなのです。しかしそれはおおよそ人知の理解を超えているため、信じることしかできないのです。

 「恐ろしさ」について、私たちはもっと深く自覚するべきなのかもしれないと思います。

 人に及ぼされる様々な恐ろしさから神が救い上げてくれること。それは宗教ではとても大切な部分です。死や病やその他にも、人が生きていくため立ち向かわなければならない苦難は多すぎます。それを凌いでも生きていくために、神は多くのものを私たちに与えることができる存在です。

 しかし、人の究極の恐怖のもとである死は、もともと人だけではなく生きとし生けるものすべてに与えられているものです。そしてそれを与えているのは万物を作り出したあるもの≪神≫であり、人はこのことをすでによく知っています。

 それならば、神は人に受け入れることを諭す装置なのでしょうか?
 だったら、神の声を聴くシャーマンなど必要なくなるのではないでしょうか。
 「あなたはもうじき死にます。それがあなたに与えられた宿命です。」
 「今年は不作です。それがあなたたちに与えられた宿命です。」

 そういうことに抗うために存在していた(本物らしからぬ)神の声を、私たちは本物でないと言ってしまっていいのでしょうか。

 そうして私たちは科学という神に対抗する神を作り出したのだろうなぁと感じるのです。

 だからこそ、シャーマンの聴いていた声が気になるのです。
 神は私たちにどんなふうに何を伝えていたのだろうか。

 ある日大きな竜が天井を泳いでいくのをぼんやりと眺めていると、しばらくして大きな大きな地震がやってきました。
 さて、竜はいったい何しに現れたのだろう。


現代思想 2016年3月臨時増刊号 総特集◎人類学のゆくえ

現代思想 2016年3月臨時増刊号 総特集◎人類学のゆくえ