恋愛の業と芸術性について  ― 北畠八穂(と深田久弥)のお話❷ ―

 生きるものとして存在すれば様々な環境下に晒されるのはやむを得ないことで、その晒され方によって私たち=自己の中に生まれる感情や精神の状態あるいはそれによって起こされる行動を人間性と呼ぶならば、私たちはそれとどのように付き合っていくべきでしょうか。

 

 相手がある場合(ほとんどの場合は相手があるものですが)、それによって双方の幸福が成立すればそれは安心で夢のある世界が開けることなのかもしれないし、双方が不幸ならば関係性が継続される限り地獄のような日々が続くのかもしれないし、片方が幸福で片方が不幸ならば有頂天になっている人がいきなり不幸になったり、苦しい人が苦しみから逃れるために不幸な人を作ってしまうかもしれません。しかしこれらは全て一過性のもので、関係性も時間の経過とともに変化していくのが普通です。人間性と呼ばれているものが素晴らしいものだといわれる理由は、その変幻自在さにあるように思われますが、他方、他者に対する配慮をもって周囲も自らも幸福であろうとする立場に生きる法則を人間性と呼ぶ人もあります。

 よりよく生きるという欲求を満たすために私たちは様々な行為を行っているわけですが、すべての人にその機会が平等にあり得るわけなどなく、しかも、どんな人物のどの行動に対してもそれに関わる他者の反応はまちまちで、それによって相手が幸福になるとか不幸になるとかいった予測は当てにならないことが多いものです。

 そのような状況で私たちは人間性と言われるものを抱いて生きているわけです。

 

 私は、業というものは自然発生的なものではなく、またカルマのような宿命的なものでもなく、この自らの内に生まれた人間性を自らの欲求を満たすために使用される意思の伴う行為によって生まれるものではないかと思っています。始めの意思自体はどこから生まれたのかも分からないですし、結果自分がどこへ行くのかも本当はわからないのですが、決定する意思によって得られる快楽的なもの(あるいは破滅的なもの)に私たちは魅せられてしまいます。

  恋愛と業との相性が良いのは、恋愛自体もどうしようもない感情から沸き起こるものであり、たちまち所有欲と相まって、いつの間にか人を違った環境に運び去っていくような、そういうものだからではないかと思います。

 人間性は人間を人間として存在させるため、その人にあらゆる思考や感情を生まれさせ、そして選択させます。選択することは移動することですから、移動することによって得たもの・捨てられたものが発生します。そしてその一連の意思の働きが業と呼ばれるものだろうと思うのです。

 

「なアによ、これ」

 歩けたウチョウテンの続きで、舌出しサンバの振りで手紙をヒラヒラさせた。振りむいた夫は、みるみるマキが20年近くの間、まだ見た例のない顔つきに変わった。血のひいたえぐれた、イビツな笑いだ。

(ンな、はずない)

(狂ったんじゃないか)

 二つが重なり、ななめに飛び交い、一つから一つが抜けて通って、かわりがわり抜けて、またならんで、むきあって、ぶつかった、その操作でマキは、急に中身をぬかれた半濁の、キミのないシロミばかりの卵になった。しかもカラまでブヨブヨする。半濁のシロミに、冷っこい臭いシラミがウジョとわいた。

 イビツな笑いを、別な方角のイビミに変えた夫は、ニカワでかたまる舌を、はがしでもするネバリで、

「マコに、知れるのが、こわかった」

(ペッ、マコって呼び方。声を出そう、私は消えそうだ)

「子供は」

貴方のかとは、喉につかえた。

「男の子だ。去年の、○月○○○日に生れた」

「―誰」

半濁のよどみの底に漂って聞く気遠さだ。

「久木の姉」

 もう一度マキは底を破った下にくぐらされた。

 久木は、マキが、サという場合、まして夫の友人達にも相談しにくい、こういう場合、頼りにしたい、とっときの青年だ。ものごとを、かみわけられる、わかりのいい、マキをも、よくわかってくれると思い込んで居た青年だ。シラミは黒くふえた。

 (非常扉がふさがった)

 久木の姉も、マキは見ないが知って居た。

 マキが病みついてから幾年かたつと、弱って死ぬかも知れないと、あとのことも気になった。夜、ならんでねて居る夫へ、

「ね、私が死んだらね。あとの奥さん」

「お、マコの御スイセンか」

おもしろそうに、夫は横顔で微笑した。

「ン、マキは死んだって、貴方の右の目と左の目に入っちゃうんだけど」

「そこで」

「久木さんの姉さんに来てもらって」

 トタンに夫の形相が、けわしく変わった。

「バカにするなッ」

 そんなはずではなかったマキは、

「だって、あの方、もう三十も半ばでしょ。も、いいんじゃない」

 オロオロととりなした。夫は、やっと、ふだんの、おだやかな夫になって、

「お前、どこかに世話して上げるンだナ」

 さアそれはと、マキは当惑してテレた。

 

北畠八穂 『東宮妃』収録「右足のスキー」 文治堂書店p101~104

 

 この場面は、まさに夫の裏切りを主人公のマキが知るシーンです。ここだけ書いてしまうと分かりづらいのですが、この場面は実はマキの回想シーンで、今マキはすでに無くなってしまった郷里の実家の敷地内にあった、かつての使用人の娘で霊媒師であるヌイの家にいます。ヌイの激怒と悲しみに触れ、マキはヌイには口にできないものの、かつて自分にあった出来事を想います。彼女が悲しみの淵にあった自分をその痛みと共に思い出している場面になっています。

 

 実は「右足のスキー」で本当に悲しいのはマキが夫に捨てられたことではありません。マキの幼少の頃思い描くことのできる楽園は、姑である祖母と母が仲睦まじく生活する〈健全家庭〉にこそありました。マキの父と長兄にはそれぞれ妾があり、すでに母は亡くなっているものの、それぞれの家庭は崩壊していることもあって〈健全家庭〉である自らの家をことのほか愛し、守り抜きたいと思っていました。そしてマキはその〈健全家庭〉の主である健全な夫のためなら自分のすべてを与えることを厭わない人でした。自らは病に侵されながらも〈健全家庭〉の女主人であることがマキの生きがいだったのです。そして、その〈健全家庭〉を周囲にも自慢にし、周囲も羨んでいました。なぜそこまで〈健全家庭〉にこだわったのか。それはたぶん居場所の問題なのだろうと私は思いました。

 

 25年前、テナーが初めてル・アルビに来て暮らしはじめた時、コケはばばなどではなく、まだ若かった。コケはひょいと頭を下げておじぎをし、この「若いお嬢さん」「白いお嬢さん」のほうを見て、にこっとした。オジオンの養女で、かつお弟子さんともなれば、直接口をきくのもはばかられる。とりあえずは最高の敬意を払って……というつもりらしかった。テナーはこの敬意がにせもので、その仮面の下に、嫉妬や嫌悪や不信が渦巻いているのを感じとった。どれも、自分がかつて高い位にあったとき、自分に仕える女たちからいやというほど見せつけられたものばかりだ。女たちは自分たちはなんの力もない庶民で、テナーは自分たちとはちがった特権階級の人間と見なしていた。アチュアンの墓所で大巫女の位にあったときも、よそ者でありながらゴントの大魔法使いの養女となってからも、テナーはいつもみんなから離されて上に置かれた。男たちはテナーに権力を与えた。男たちは自分たちの持つ権力を彼女と分ちあった。女たちは?女たちのなかにはそんなテナーに、ときに競争心をかきたてられる者があらわれはしたものの、おおかたはなんとなくばかにしながら、遠くから眺めていた。

 テナーは自分をいつも外に置かれた者、閉めだされた者と感じていた。彼女は陸の孤島のような墓所を支配する力から逃げだし、のちには自分を引きとってくれたオジオンが差し出してくれる学問の技や力からも身をひいた。テナーはこうしたものすべてに背をむけて、まったく逆の、女たちのいるもうひとつの部屋へ、その仲間になりたくて走った。テナーはそこで男の女房になった。百姓の女房になった。母親となり、女主人となった。そうやってテナーは女と生まれたからには誰もが引き受けることを引き受け、男たちの取決めによって女に与えられた権限を行使した。

 

ル=グウィン著 清水真砂子訳 『ゲド戦記Ⅳ 帰還』 岩波書店 pp50~51

 

 同じ子どもの本を書く人で、この気持ちを表現した人がいなかったかなぁと思い返して浮かんだのがル=グウィンの描くテナーの生活です。なによりも、自分の才能のすべてよりも、得ることを欲してしまうような〈居場所としての家庭〉というものの魅力について、そんな憧れを抱くのは女性ならではの価値観なのかもしれないと思うと同時に、この価値観の悲しみと生活というものに対しての人の有様について考えました。そして実はこの価値観こそが安住の地である家庭という夢を長いこと人に見させ続けている根源であるのだろうなと思います。

 

 マキは小説を一切読めなくなり、科学ものは味気なくなり、文化史と、道元の書と、知人の中で頭脳と言われる人の本しか読めなかった。

 人づてに、ある人が、

「マンガじゃないか。カカアは、カタワになって、テイシュの代わりに家業をやる。用がなくなったテイシュは、出来た金とヒマで、子を産ませる、バレりゃ、上がっちまって、処置ができない。アイコだねバカサ加減。」

 と苦笑したときくと、マキは、タダレに鹽をもみこまれて焼鉄を押っつけられたムゴさで、厚くたかったシラミの層の下に、性が生きた。マキの夫と誰より仲のいい友人が、

「お宅の女関係なら、ゾックリ知って居ますよ」

 ウフフと嘲った。マキのカサブタは、むけた。

 

北畠八穂 『東宮妃』収録「右足のスキー」 文治堂書店p133~134

 

 周囲の心ない言動によって傷つけられることにもはや耐えられなくなったことに加え、復員した夫の行動により拍車がかけられ、マキはとうとう耐え切れずに離婚を決意し、夫に申し出ます。

 しかし、離婚後もマキには穏やかな生活が訪れたわけではありませんでした。

 

 離婚してからのマキにも、この地獄の余波は、面相を変えて続いた。最下位のヤツラは、マキに夫という盾がないのに、つけこんだ。マキもまた、その盾の無さにとまどった。

 一丁と歩けないマキが、おぶさって用を足すと、

「あのザマで出歩くとは」と嘲られもした。

(これが健全家庭の妻なら)と、かむほど、ムダと知る歯をかんだ。

 

同上 p136

 

 他人からマンガだと言われ、私から見れば偽物の〈健全家庭〉も、マキにとってはとても大切な居場所であり、〈健全家庭〉にいられることが彼女にとってどれほど支えになっていたのかは明らかです。しかし、彼女にとっての〈健全〉を守ろうとしたあまりに彼女の目に映らなかった多くのものごとが、見えるようなったとたんに彼女をどんどんと追い詰めていく様子が、ここでは飾りっけなしに表現されています。〈健全家庭〉というマキの業が作らせた空間は、幸福を生み、また不幸も生みました。

 

 マキにとっては最終手段の、離婚という〈健全家庭〉を自ら放棄する方法を取った後にも、その傷がいえる間もなく世間はマキに冷水を浴びせかけます。それでもマキは小説家という仕事を武器に、なんとか自分の生活を軌道に乗せていきます。

 

 津軽の昨今と、マキの住む鎌倉の観光話が、ひとしきりあってから、ヌイの息子が、

「や、巫女様」

母親の杯をみたし、

「それ、いつでもマコさまを残念がってる、あすこ、しゃべれスナが(言ったら如何)」

と、けしかけた。くぐもり笑いをしたヌイは、

「ンス。ワレ思うんだ。マコさまがよ。バカみたいにつくしたのに、カタワにして、ああした目みせて、ヤソ様、見殺しにしたネシ」

 間が悪げに嫁が、煮つまった貝焼に鉄ビンの湯をさした。マキはヒジを起こした。

「ンや、ヌイ、ンばかりでも無い」

「ンで無いこと無いス」

 おだやかだけにヌイの非難は根深げだ。

「ヤソ教ではよ。ヌイ、一切、親玉に任せてあるのよ。親玉がやることを摂理ってナ」

「何ず事だべ。オカシコテ(めいわくな政事をする)大臣か、その親玉」

 ヌイは鰊のムシリ身をつまみかけた箸をつままずにふった。たじろいだマキだが、よんどころなく、

「ヤソの親玉はよ、ヌイ、出来ないものなしよ。出来ないものなしの為ることは、人のモノサシで測れない。ンだな。人からみれば、ツジツマの合わないこともある、けどもよ」

「無理だネシ、ヤソは」

 ヤソのわからずを憤ってヌイは鰊をつつく。

「なってないと見えてもよ。ヌイ、親玉が何か為る途中のスジミチだってば」

 息子が煙草の灰をはたいて応じた。

「ン、工事中ネシ、足場組むこともあるシ」

 不満げにヌイは鰊から箸をはなし、

「途中?途中は尺に合わなくてもいいスか」

「尺って人の尺だもの。ヤソの親玉は、尺いらず、ノビ、チヂミ自在にユウズウきくンでないかヤ。親玉の仕事の途中でな、ハカリかねる切ない場を支えた者は、つまり親玉が大事にしてる人だと約束があるのよ、ヌイ」

 ンッとクソいまいましげなヌイだ。マキは当惑だが、マキなりに、ヤソを背負わなければならない。

「ワレアよ、ヌイ、ワレにもツジツマの合わない摂理ってスキーを右足にはく。左足にはたのしみのスキーをはくんだ。左足のはよ。ワレの息の根止める十字架が能る度によ。その苦しみで今までにない根性がつくたのしみよ。」

「ワイハ、足もと悪いマコさまだエ、ドシラと乗ったら誰か引っぱって蹴るソリさ乗せたいネシ」

 マキの舌足らずな解説は、ヌイを納得させるどころか、とんでもない危険な方向へツンのめらせた。

「わからねエ、わからねェ、してもマコさま、どうしても、その片方ずつ、ヤソのスキーはくのだベシ、ワレア荒行ス」

 マキはあわてた。霊媒巫女が荒行するのは腹イセの呪いの時だ。

 ―相手を殺しちゃえば、つまんない―

 では、このヌイは収まるまい。

 

同上 pp144~146

 

 多くの傷を負いながらも自立への道筋を整え、マキはなんとか郷里に行けるまでの元気を取り戻し帰郷します。迎えるヌイはマキの味方であり続けてくれる身内であり、彼女の郷里は彼女をそのまま包み込んでくれる現実として存在していました。

 ところが、ヌイはマキを傷つけるすべてのものを憎しみの対象としたため、マキの信仰するキリスト教にまで恨み言をいいます。苦しみのあまり神を呪う物語はたくさんありますが、この場面のマキの反論、両足に履くそれぞれのスキーに自らの信仰生活と実生活の在り方を例えた例は、苦しみから抜け出せたからこそ言うことができる力強い言葉になっています。

 私がおもしろいと思ったのは、この物語の題名がたのしみのスキーである左足ではなく、摂理のスキーである「右足のスキー」であることでした。ヌイにははっきりとは言えなかったものの、信仰は確かに彼女の支えとなっており、何かを与えるというよりは、どんな自分であっても許しを乞える相手がいるということが彼女の支えになっているのではないかと私は勝手に思っています。絶対的な摂理の前にまごうこと無く立つことのできる右足のスキーは、誰が何といおうと自分の支えになるものです。信仰の尊さではなく信仰による強さとはどんなことかが私はここから読み取れました。

 この後の文章では意外な展開でキリスト教徒とはかけ離れた血の成す技としての救いについて書かれています。ユーモラスな表現の中にも私は少し怖いなぁと感じたのですが、ご興味を持たれた方は是非お読みになってみてください。

 

 話される言葉に対し、書かれる言葉は、思考と夢が反響しあう抽象的なこだまを喚び起こすという大きな強みをもっている。口で語られる言葉はわれわれからあまりにも多くの力を取りあげ、あまりにも多くの現前を要求し、われわれの緩慢さを完全に支配するゆとりを与えない。われわれを、限定されない静かな反省へと誘い込む文学的イメージが存在する。そのとき、イメージ自体に深みのある沈黙が合体するのが認められる。もしもわれわれがこの沈黙と詩の合体を研究しようとするなら、朗読にそって、休止と爆発の単純な線的弁証法を用いるべきではない。詩における沈黙の原理は、隠れたる思考、隠密の思考であることを理解しなければならない。イメージのもとに身を隠すことの巧みな思考が物陰で読者を待伏せるやいなや、喧騒は抑圧され、読書が、緩やかな夢見がちな読書が始まる。表現的な沈殿物の下に隠された思考を求めてゆくうちに、沈黙の地質学が発展してゆく。リルケの作品には、一字一句あの深い沈黙の数多くの例が見出されるが、この沈黙によって、詩人は読者をして耳に達する喧騒から遠く離れ、昔の言葉の古い呟きから遠く離れて思想に耳を傾けしめる。かくして、人が奇妙な表現的な息、告白のもつ生の飛躍を理解するのは、この沈黙がうまれたときである。

 

ガストン・バシュラール著 宇佐見英治訳 『空と夢』法政大学出版 pp376~377

 

 文学作品となった人間性は、喧騒から離れ、イメージの深層へと送り込まれ、生の飛躍の理解へと送り込まれていきます。そこで私たちが見るものは、もはやスキャンダルにまみれた非社会的な言動ではなく、生の存在があった証であり、様々に照らして思うことのできる表現世界の大空間に浮かぶイメージです。

 

 ところで、作家が現実的に体験した出来事、ここで私が引用した、マキの幸福な空間作りが引き起こすことになった業の深さや、マキの夫が妾を作り子を成したという業の深さを、読者である私たちはどうやって消化したらよいのでしょうか。

 このブログ記事の表題なのでこの部分を追求しなくてはならないのですが、ここまで書いてみて私には作品にしてしまった時点で作家にとって現実はとうに過去のことになっていて、事件そのものについて正確に話すことのできる人はいなくなってしまっているのだよなぁと感じました。当事者が過去にしてしまっているものを、作品から憶測して実際にあったことをどうこう考えるのは少し違うのではないかとも思います。

 研究者ならば、作家の人生や生い立ちを調べて作品に照らして研究することは意味のあることですし、作家に興味のある人は同じように作家自身について考えることもおもしろいでしょう。

 

 ただ、恋愛の業について、作家の恋愛の業をいくら調べたところで、自らが知らないことはわからないのではないかと思うのです。作品による疑似体験はあくまで疑似体験であって、疑似体験の業の深さに死にたくなるようなことがあってはならないし、あったとしても偽物だとしか思えません。

 一方で、恋愛の業はあるという感覚を持つことは大切なことだと思います。今回の「右足のスキー」の場合の夫の業とマキの業。そのどちらも感じることが必要で、それを感じることのできた感想を持つことには意味があったと感じています。

 

 自らの業や自らが体験することになった他者の業について、それを作品にすることも業であるならば、その業は作家や芸術家という職業が持つ特殊な業であり、作品は業によって作られたいわば人間性の縮図なのですから、芸術作品というものは業の形であり、芸術家は業に形を与える人々だということもできるように思います。

 

 そんなことをした人を許せないという気持ちを持ったり、それは人間であるから仕方のないことだと思うことは、こちら側の判断でしかないのですから、当の作品の作家にとっては大きなお世話でしょう。それは作家として受ける批判ではなく人間として受ける批判であるべきだと思います。そして、そこを分けて考えることは、芸術を芸術として成り立たせるためにはとても大切なことでしょう。

 同じ人が作っている以上、受け手から見れば難しい事かもしれないとは思いますが、そうでなければ豊かな芸術作品と呼ばれるものは生まれなくなってしまうように思われます。

 

 そこに業があった。それは私の知るもの(知らないもの)であった。その業はある場所を焼き尽くして、そして違う場所に違う形で再生させた。

 

 作品が生むものがたりを身近に感じ、それが私たちの奥深いところに語り掛ける静かなイメージを持つことが私たちにとって芸術体験と呼ばれるものであるならば、実は業は作品のコアな部分で心音を立てる心臓のような役割を果たしたりしているのかしらと思いました。

『フクロウの声が聞こえる』 いつかがいつか❷

 まだ『フクロウの声が聞こえる』を聞いていらっしゃらない方のためにあまり突っ込んだ書き方をしないほうがいいかなという思いもあったのですが、思いのほか読んでくださっている方が多くて、申し訳なかったです。

  前回書かせていただいたものが「感想を聞かせて」に対して「感想を述べました」というものだったので、わりと無根拠に思ったことを並べただけな感じになってしまっていて、ブログを読んでいただいた方には全く分からなかっただろうなぁと反省しております。ここにもう少し具体的に書かせていただきます。

 

(1)子どもと魔法の親和性、そして混沌について

 小沢さんはご自身の二番目のお子さんの誕生を迎え、セカオワのSaoriさんが妊娠されていることを公表されましたが、そのこととこの曲を作ることとの関連の不思議さもYouTubeのなかで少しおっしゃっていましたね。

 命が生まれるというのは、生物学的に言えばとてもシンプルで、種の保存の法則に乗っ取っているだけといえばそうなのですが、その命に意思があって生命が宿っていることについての不可思議さから人は逃れることはできません。そして子どもといると、その意思とは自然なものから始まっているのかもしれないと思われる瞬間があります。

 ともあれ、進化にせよ、思考にせよ、ストカスティックな過程の中では、新しいものはランダムに生じるものの中から引き抜かれてくるほかはない。そして新しいものが、ランダムな世界でたまたま姿を現したそのときに引き抜かれてくるためには、その新案が、以降も存続していくことを請合う何らかの選択構造が存在していなければならない。何か自然選択のようなものが、その自明の理とトートロジーをもって支配していなければならない。「新しいものが生き続けていくためには競争相手より強い耐久力をもっている必要がある」「ランダムな現象の波のなかにあって長く消えずに残るものは、より早く消えていくものより必ず長く生き続ける」―自然選択理論とは、凝縮していうならば、こんな理論なのである。

 マルクス主義歴史観は―ダーウィンが『種の起源』を書かなくとも、ほかの誰かが5年以内に同じ内容の本を書いていたはずだという主張につながるあの歴史観は―社会全体の変転過程が収束的であるという見解を、個々の人間が関わる出来事へ適応しようとした不幸の努力であったといえる。誤りはここでも理論階型の混同にある。

 

※ ストカスティック stochastic(語源であるギリシァ語のstochazeinは「的を目がけて弓を射る」、つまり、出来事をある程度ランダムにばらまいて、その中のいくつかが期待されている結果を生むことを狙う、の意。)出来事の連続がランダムな要素と選択的プロセスの両方を兼ね備え、ランダムに起こった結果の一部しか存続を許されない場合、それをストカスティックな連続と言う。

 

グレゴリー・ベイトソン著 佐藤良明訳『改訂版 精神と自然 生きた世界の認識論』新思索社 p58

 

  「個々の人間が関わる出来事は収束的ではない」ということについて、大人になるにつれ忘れてしまうのは、おそらく社会というものの中に生きる私たちに植えつけられる烙印みたいなものかもしれないと思ったりしています。子どもが自然の魔法の中で自由に生きられるように見えるのは、この烙印からまだ逃れられているからで、彼らが見る世界は、神と同じランダムな世界なのかもしれません。そしてその世界が見える人たちと自然の中に入っていくと、あたかも神が見るような混沌とした世界が広がって、その世界が本当の世界だと感じることができるでしょう。

 

渦を巻く 宇宙の力 深く僕らを愛し 少し秘密を見せてくれる

 

『フクロウの声が聞こえる』

 

 神が取捨選択する方法において、何がいいもので何が悪いものという判断は、人間のそれとはずいぶんと違う。それは大昔から分かりきっているので、自然の神々はみな少し箍が外れて見えます。その箍が外れた恐ろしさが魔法を魔法と呼ぶ理由だと私は思っています。そして無垢な子供は、その魔法を素直に身に受け怖ろしさの中に人知を超えた勇壮で偉大な心躍る何かを見出すことができるのです。

 

神々の手の中にあるのなら

その時々にできることは

宇宙の中で良いことを決意するくらいだろう

 

無限の海は広く深く

でもそれほどの怖さはない

宇宙の中で良いことを決意する時に

 

『流動体について』

 

   それを知っている私たちは、この世界でよりよく生きるためにできることは、宇宙の中で良いことを決意することだといっていたのが小沢さんが前回発表された『流動体について』でした。

 


小沢健二 - 「流動体について」MV

 

 

 

 まだ今の社会ではなく、自然の神と一緒に生活していたころ、人は混沌の中で生きる術を学んでいました。それは世界と繋がって生きていくことでした。しかし人はいつか自然の支配者として生きる方法を模索し、そのためにあらゆる努力をしてきました。そうするうちに人は自然とも神ともどんどんと遠い存在になっていきます。そんな中にあって混沌と生活することはとても難しいことです。そのことに気がついたときにできることとはいったい何でしょう。

 それは現状を見ればいろいろとわかることですが、収束的に生きてきた人はおそらく急に得策を思いついて回避できるほど器用ではなくて、間違いを起こして失敗しなければ分からないことが多いようです。

 

いつか混沌と秩序が一緒にある世界へ

 

いつか孤高と共働が一緒にある世界へ!

 

導くよ!宇宙の力 何も嘘はつかずに ありのままを与えてほしい

震えることなんかないから 泣いたらクマさんを持って寝るから

 

『フクロウの声が聞こえる』

 

 最後の一行の解釈は難しいところですが、 私はこの歌のコンセプトはいつか自然と社会とが一体になって生きられる方法が見つけられるはずだという小沢さんの思いと、子どもたちの未来への希望なのだろうと思います。

 

 それで私が、今をどう生きるべきか不安になったのは、クマさんがなんなのかを具体的に書けないのが芸術だからなのかもしれません。

 

 単調な価値とは、上昇または下降を続ける値を言う。その曲線にはこぶがない、つまり上昇から下降へ、下降から上昇へと転じることがない。生物が欲求する物質、物体、パターン、あるいは生物が何らかの意味で”いい”と感じる経験―食物、生活条件、温度、楽しみ、セックス等―に関しては、多ければ多いだけいいというようなことはけっしてあり得ない。つまり物質や経験の最も好ましい量というものが存在する。その量を越えてしまうと、毒性が生じ、その量から落ち込むと欠乏感が生じる。

 この生物的価値のもつ特性は金銭には当てはまらない。金銭の価値は常に単調な関数をなす。多ければ多いほどよいとされている。1001ドルのほうが1000ドルより常に好まれる。ところが生物学的にこのような価値は存在しない。カルシウムの量が多ければ多いほどいいということはない。各生物にとって、摂取すべきカルシウムの最適量というものが存在するのである。この量を越えると、カルシウムも毒性を持つようになる。同様に、われわれが呼吸する酸素の量も、食物およびその成分の量も、そしておそらく人間関係、生物関係のあらゆる構成要素についても、過ぎたるは”十分”に及ばない。精神療法の施し過ぎという場合さえ存在する。戦いのない関係は生気がなく、戦いが多すぎる関係は毒性を持つ。望ましいのは、戦闘性が最適値にある関係だ。金銭も、それ自体ではなく、それが所有者に及ぼす作用を考えるときは、やはりある限度を越えると毒性に転じるといえよう。いずれにせよ、金銭哲学―金は多ければ多いほどよいという答えをはじき出すような前提の集合―はまったくもって反生物的である。とはいえ、この哲学を生物が学習しうるということも、また事実ではある。

 

グレゴリー・ベイトソン著 佐藤良明訳『改訂版 精神と自然 生きた世界の認識論』新思索社 p70 

 

 とりあえず、もう間違えを侵さずに考えていこうよということが具体的に提案できるところまで示してくれるものを、私はクマさんにしたいのかなぁと思いますが、みなさんはいかがですか?

 

精神と自然―生きた世界の認識論

精神と自然―生きた世界の認識論

 

 

 この本はよく見ないと軽い本だと勘違いされやすい表紙だよなぁと常々思っているのですが、ベイトソンがその知識を具体的に分かりやすく示してくれたとても勉強になる本です。今見たら定価の倍以上の値段になっていて驚きました…。

 違う場面でもう少し詳しくご紹介できたらいいなと思います。

 

 ここまでで長くなってしまったので、神の音と神の声などのお話はまた今度。

 

 

『フクロウの声が聞こえる』 いつかがいつか

 皆さんお待ちかねの小沢健二さんの今年二回目の曲のリリースがありましたね。『フクロウの声が聞こえる』自体は去年からコンサートなどで歌われていたらしいのですが、今回リリースされたものはSEKAI NO OWARIとのコラボでとても賑やかで力強い曲になっています。

 曲の聞きどころや楽しみ方などはもうYouTubeにご本人たちが披露なさっているので特に言えることもないのだけれど、何も持っていないはずの「子ども」だけが持っているエネルギーが大人の私たちにさえ見せる魔法のような力と、それにさらに媚薬のような力を与える夜の森のざわつきが、夢と現実の狭間のような空間に浮かび上がる世界を作り出すさまが、美しく元気に表現されていると思います。

 私にとってこのような体験ができる作品に出合ったのは初めてではなくてJane Yolenさんによる絵本『OWL MOON』(邦題『月夜のみみずく』)を読んだときに得た静かなイマジネーションから、静けさと神々の音と星の声を引いて、明るさと混沌と神々の声を足したような感じでした。

 神々の音とは静けさと同じようなのですが、分かりやすく言うと静かな夜に聞こえるしーんという音のことです。あのしーんの中に聞いている音が本当にあるんだよっていうのは以前何かのテレビの番組で見たことがあるのですが、頭の中では聞き覚えのないその音に人は勝手に恐怖や美しさを感じて戦慄するものですよね。今回の曲はそうではなくて、それは神々の声になってたくさんの囁きを耳元に放って、それを聞き分けてくらくらと酔っているような印象をうけました。同じ恐怖や美しさでもなんだか色付けされてカーニヴァルのようにやってくるようで、その大きさによってだいぶ印象が変わるものなのだなというのが私がこの曲に持った大きな感想になります。だからなんだか混沌として、でもずいぶんと感情は豊かに揺さぶられて、子どもって本当はこっちの方を聞いているのかもしれないとも思いました。ひょっとしたら時代が変えるものもあるのかもしれない。(小沢さんのテンションの問題なのかもしれないw)

 時代といえば、『フクロウの声が聞こえる』もそうなのですが、最近聞いた曲、LUCKY TAPESの『シェリー』だとかPerfumeの『If you wanna』だとかみんな〈いつか〉の音楽だと感じています。〈いつか○○できたら〉とか〈もし○○だったら〉。最近に限らず、希望を曲にするというのはよくあることだとは思います。しかし、勝手な思い込みかもしれませんが、それがなんだか最近は大きな願望みたいにどんどん膨れ上がって、なんだか破裂しそうな勢いで、うまく消化できていないように感じられて少し怖いです。

 「子どもにとっては子どもである今がすべてで、私や君にとっても今はとてもとても大切で、夢は今を生きるための糧にはなるのだけれど、今を生きる実感からはどんどんと遠のかせてしまうんだよ。」なぁんて声が聞こえたりするのです。

 いつかがいつか。それは私にとっての約束事で、儚いものではなくて、目の前にあるいつかをこのやろうと手を伸ばしてぶんどってやろうとするようなものなら、いつかもいいかと思ったりはします。

 

 

Owl Moon

Owl Moon

 

 

 

 お友達に感想をと言われたのでサクサクっと書いたものになります。今回のことで気になって前は図書館で借りて読んだ『OWL MOON』を取り寄せてみました。絵本は素敵ですよね。小沢健二さんの詩も素敵なので対比したりできたらおもしろいかなと思っています。

 

 北畠八穂さんの続きはもう少々お持ちください(m(__)m)

 

恋愛の業と芸術性について  ― 北畠八穂(と深田久弥)のお話 ―

 ひどい痛みの中から、私のみつけたものは、わが身がしみじみ生きているということだ。健康な時は、あるとは知らずつかっていた足が、確かに在るとはっきりしたことだ。生きている以上、足が在る以上、どんなに痛くとも、これからどうなってゆくかと、未来を持てる探検欲を出せることだ。もっとはげしく、どんな風に痛むか、もし、死の中へ入ってゆくとしたら、それはまたいっそうどんなことか、まるきり興味なくもない。しかし、痛いのがいやだから、死にたいとは恐らく思ったことがない様だ。死をくぐりぬけても生きるつもりで、痛んでいる様だ。だから、テレて、笑ってしまったりするのだろう。

 死にたいと思うのは、うれいにたえきれなくなった時だ。このたえきれないうれいを一切なくしてしまいたいあまり、死という健康な方法を選むと思う位だ。痛んで身のおき所がない時は、おきどころのない身が次にはどういうおき所にどうしてあるかと、テレたりしてまで、興味がもてた私も、全く生きることにあいそがつきたためしが二度ある。そういう時間の切なさは、この世のうれいがすきまなくせめよせて、わが身を命から追いだそうとしているのを、ひしひしと痛まねばならないあえぎだ。私は、その時、いつしらず、にげ場をみつけていた。空にただよう雲をみつめることだ。この世に居場所のない私は、雲にのっていた。雲にいるうちの私の思いは安らいだ。雲に静養した私は、次第にすこやかな目をとりかした。その目でみたうれいは、すでにぬぎすて様としているシナビかけたカラであった。私は弱弱しいが、再び生まれなおした瑞瑞しさであった。うれいに冬ごもりしたのを、この瑞瑞しさを得るために、よかったと思うたくましさも出来た。それから私は、雲を古綿のなつかしさでみる。

 終日雲をみるまもなくすぎた夕方、ほんのひとすくいの雲に、夕映えがいまうすれようとするのをみつめて、神は無いと思われる程大いに健康な事実をみつけている病人だ。

 

  北畠八穂 『津軽野の雪』 朝日新聞社 pp120~121

  先日、作品の美しさを評するあまり作家の業を忘れてはいけないというようなツイートがタイムラインに流れてきて、普通はもっと有名な谷崎潤一郎太宰治なんかの作家が思い浮かんだり、残酷だけれどロマンチックな話を思い浮かべたりするものなのかもしれないけれど、私は真っ先に百名山で有名になった深田久弥と、その前妻で作家の北畠八穂のことが思い浮かびました。

 二人が亡くなって久しくなった今では、深田久弥は後妻の志げ子と仲睦ましい様子で登山するフィルムなどが百名山の特集等で見られることが多く、彼が有名になることになった文学作品が実は八穂の手によるもので、それは様々な方面から憶測されていたものの、久弥の不義により八穂の口からも洩れることになり、文壇を追われることになったということはあまり世間では取り上げられ無くなっているように思います。

 

 こちらには結婚の経緯もよく書かれています。

 

 八穂は幼い頃より病んでいることが多く、末娘であり病気がちということで津軽の実家ではとても大切に育てられました。特に幼少期の祖父母から得た愛情と津軽の自然が、生命の逞しさや自然への慈しみ、愛情によって人が育くみ・育くまれていくものなどについて、彼女の作品の根本に深く息づいて生き生きとした表現を作り上げています。

 とにかく、とても素直な人です。

 

 しかし、中には八穂のそのまっすぐな素直さが、時として大変残酷に見える作品もあります。まるで子どもの目から大人の世界を見、生活の苦しみを超越した美を賛美するあまりに、その片側にある苦々しい思いなど消し飛ばしてしまうような明るさが、その日陰にある人の痛みに辛く当たっているように思えるのです。

 きっとそういうことが、生活に貧窮したとはいえ、久弥に自分の作品を提供してこれを使えばいいといった気持ちに繋がったのだと思うし、それまで幾日も自問自答を続けただろうと思われる久弥の思いに到達できなかった理由だと思います。

 無論、久弥の裏切りは許されるべきものではないし、八穂の作品を自分の作品だとして発表してしまった弱さが一番の罪であることは間違いありません。

 それは、人間としての正しさから遠く離れた、自分勝手でわがままな存在意義を求めた結果であり、そういう人が他方有名人であり続けられることに憤慨する気持ちももちろんあります。それほどのことをしたのなら、せめて山に逃げた記録ではなくて、その業そのものを文学作品に生かすくらいの強い人ならばよかったのにとも思います。

 

 そんなことを考えていた矢先に、夢を見ました。

 私は夫に裏切られ、先方には既に子どもがありました。

 どうしようもなく悲しい気持ちで、なぜそんな仕打ちをしたのか相手を責めました。

 そして、私が発した言葉は

 「どうして、どうしてもっと早く言ってくれなかったの?」

 というものでした。

 

 早く言ったところで裏切りは裏切りなのですが、きっとそんなになる前に言ってくれたら、もっとすっきりさよならできたように思うのです。恋愛感情の縺れなどどうしようもないとあきらめもつくように思うのです。相手の不義を許せない気持ちはもちろんありますが、女性にとって、ましてや母親になれないであろう体の八穂にとって、相手に子どもがあったことがどれほどの悲しみをもたらしたか、その時初めて思い知らされました。

 それは、未来に対する悲しみなのです。自分の決して手に入れられない未来に直面させられた希望の人が、いったいどうなったのだろう。

 私は泣いていました。こんなに残酷なことはあってはならないと思いました。そして久弥を恨みました。世界を恨みました。

 

 私はこんなふうに実に小心者なのですが、八穂は立ち直って世界を愛しました。それはその後彼女を支える白柳美彦という人の存在もきっと大きかったように思いますが、結局は雲の上に立つことで悲しみを脱ぎ捨てた八穂の生きる強さの勝利だったのです。実は私は夫の不義や代筆について外に言って歩ける強さもすごいなぁと思います。それが怒りからだったのか悲しみからだったのか、発狂しそうな自分を抑えるためだったのか、自分には想像しかできませんが、雲に飛ぶ自分と現実に走る自分を持つことが、その後の敗北者ではない八穂を作る大きな鍵であっただろうと思います。

 生きるというのは難しいことですが、その複雑さが単純化されない過程こそが人を人として生かす道であろうと感じています。

 

 このままだと全然芸術性に到達できていない文章ですので、次回のこの話題で北畠八穂の『右足のスキー』の感想と彼女の〈マンガ的〉という語の使用について考えていきたいと思っています。

 

 

恐怖の増幅器としての私と恐怖を忘却する私

  恐怖は危険から回避するために備わったとても原始的でかつ貴重な感情です。しかし、人間は見通しを立てて生きるという、一見安全を確保するための最良の方法を選択しているようでいて、その実常に恐怖と向かい合わなくてはならないという危険を自らの内に抱えて生きる、生存に適しているのかいないのか非常にわかりづらい生き方を脳に強いられているのではないかと思ったりしています。

 人間は、恩恵なしには消しがたい、生来の誤謬に満ちた存在でしかない。何ものも彼の真理を示さない。すべてが彼を欺く。真理の二つの原理である理性と感覚とは、それぞれが誠実性を欠く上に、相互に欺き合っている。感覚は偽の外観でもって理性を欺く。感覚が理性に持ってくるこのまやかしは、それと同じものを今度は感覚が理性から受け取るのである。理性が仕返しするのだ。霊魂の感情が感覚を乱し、偽りの印象を与える。彼らは競って嘘をつき、だまし合っている。

 パスカル『パンセⅠ』前田洋一 由木康訳 中央公論新社 p71

 

   とても幼い時から悪夢に悩ませ続けられ、なぜ自分だけがそんな目に会うのだろうかと思いながら起きる朝が続いていた頃、一方で私は怖い話を見聞きするのが大好きでした。それはたぶん恐怖というものに対して、恐ろしさ以上に興味関心が勝っていたためで、この恐ろしさ(の正体)はなんだろうという気持ちに対して目の前に現れる他人の恐怖が自分の感情に上書きされる度にある種の満足を与えられてしまって、「ああ怖かった。今回のは今までの中で一番怖さが心に残った。」とか「今回は気持ちが悪いだけだった。」とか「人の恨みは恐ろしいなぁ。」といった感想を持ちながら、自ら体験することはほぼない、というより現実的にはあり得ないような事象に取りつかれたようにのめり込んだものでした。今となってはそのうちに自分の見る悪夢が大したことのない経験だと思い込むことができると信じていたからかもしれないと思っていますが、悪夢が収まったのは引っ越しをして環境が変わってからでした。ちょうど多感な時期だったからかもしれませんが、今思い出せるものでももう二度と夢として見たくないなぁと思います。悪夢独特の空気がねっとりと絡み付く感じや、自分ではない自分が自分である感覚。その時の私の持った体験は特殊なものだとしても、多くの場合自分と関わりのない恐怖を欲する事は、私は自分と関わりのない場の恐怖によって自分の恐怖を克服しようとする心の動きではないかと思っています。

 パスカルが神の恩恵なしではどうしようもなく仕方がない存在として示した人間の有様。それは生きていく過酷さが他の動物以上に精神的苦痛として生命を食いつぶしていくことからどう逃れるかという切迫した危機感から自然に生まれた行いだと私は思うのですが、この私の行動一つを見てもその愚かしさは明確です。

 根本的な解決のためには恐らく恐怖の元凶であった何かを発見して取り除かなければならなかったのですが、私はその元凶から逃れるために別の恐怖を欲することにしました。そしていつの間にか、その元凶であった恐怖のことには触れなくなってしまっていたのです。この忘却された私にとって触れることのできなかった(untouchableな)恐怖とはいったい何だったのでしょうか。

 冒頭にも書かせていただいた通り、実はそのことは今までもたくさんの人が考えてきた、生きていることによって増幅する恐怖への恐怖であると私は思います。その恐怖からいかに逃げられるかも今まで多くの人たちに考え尽くされてきました。パスカルのように自分で何もかも処理できると考えてしまう人間に対して警告を与えた人もあったし、それは恐怖ではなく畏怖だと考える人も、それは科学的な反応でしかないと考える人もいました。そのすべては合理的であるような気もするし、不合理な気もします。しかし、根本的な解決になるためにはやはり個々の相当な努力と忘却の力が必要なのです。

 宗教のようにシステムとして組み上がった恐怖から逃れ強さを維持する方法も、それが強さである以上確立すればするほど他のシステムと対立し、その対立は恐怖の大きさに比例して深く、大きな溝を作り出してしまう。争いは無論恐怖の排除を試みるために行われるものですが、争いを避けるために構築されたシステムの中でさえ力があれば争いを産んでしまいます。ことことは過去の歴史を顧みてもおそらく避けられないことなのでしょう。なぜなら、それが他者のものであっても、自分の物であっても、力こそが恐怖の想像に繋がってしまうからです。

 

 とてつもない恐怖に晒されると記憶を無くしてしまう話を聞いたことがあります。体験による恐怖に関する記憶は個人のものとして蓄積し、増殖を重ね人を蝕んでいく。私は実際記憶を失うまでの方にお会いしたことはありませんが、きっと増幅しつづける恐怖を脳では処理しきれないと判断されるほどになってしまったに違いないと思います。おそらくそこまで身体的に変化してしまうようなことはごく稀で、普通の体験においては自己防衛のためにその恐怖を記憶から排除しようと試みることが一般的だと思われますが、そのことには罪の意識が伴うことがとても多いものです。そしてその苦痛が人を歪めてしまうこともしばしばです。それが人間の悍ましさと感じるか人間らしさと感じるかは人それぞれです。ただし、歪められてしまった自分をどうするかということに直面した時に人はまた恐怖しなくてはならなくなります。知らないでいた自分に戻ることはできないので、知ってしまった自分とどう向き合うかという対応を迫られるのです。

 私はここできちんと向き合って結論さえ出せていれば、そのあとはもとの恐怖の記憶は、忘れても忘れなくても、もどちらでもいいのではないかと思っています。もちろんそんなに簡単に忘れられるものが恐怖の記憶になるはずがないので、忘れられないけれど記憶の片隅に追いやるという事ですが、そのくらいの行為が許されないようなら人はどうやっても生き延びられないように思うからです。

 都合よく記憶を書き換えることで乗り越えようとする人も中にはいますが、それはきっと歪められた自分を直視できずに情報に救いを求めた人たちなのかもしれないと思っています。そういう人たちは歪められた自分のまま、誰の目から見ても最も醜く、最後まで本当の自分との再会は果たせない人たちでしょう。個人的に自分の中だけで解決できればその人だけの問題になりますが、それを誰かに吹き込むことはあってはならないことだと思っています。厄介なのは都合よく書き換えられてしまった恐怖は、本当のことをいとも簡単に塗りつぶせるという事です。そういう人たちに対して、本当のことを尋ねるのはもはや無駄で、こういう忘却は生きるためのものというよりは、美しく死ぬためのものなのかもしれないと考えたこともあります。美しく死ぬことに対する欲望というものも恐らく人間特有のものだと思うのですが、それは死という究極の恐怖から逃れる手段です。将来やってくるであろう自らの死を美しく飾ることでその先の恐怖から逃れようとするのはとてもおもしろい行為だと思います。しかし、罪から逃れるためのそのような行為は時として人を好ましくない行動へと導きます。生きることから離れてしまった考え方である以上、それが未来への思考に通じないからです。未来への思考に通じなければ、よりよいことからは離れていきます。こうして手段に手段が重なってしまった時に過ちが犯されやすいことはいつでも同じで、結局は経験が影響する変化が何も与えられないまま、返って後退するようなことになってしまうのです。本来恐怖によって変えられるべきなのはよりよい生存への道筋なのですが、そうもいかないのはこうした理由があるためだと思われます。

 ただ、怨恨の類でこうなってしまうのはどうしようもないのかもしれないとも思っています。恨みを持った人が怖ろしく醜く映るのはそのせいで、何も悪いことをしていないのに一方的にとてつもない脅威に晒された場合も、悪いことをしているのに書き換えを行っている人の場合も、歪められた自分を乗り越えられないままという現実が変わらない以上、人から見た目は同じようになってしまう。それならば、いっそのこと忘れてしまうことで醜くならないで済むようにいようというのも悪くないように思うのですが、なかなかそれも難しいようです。怨恨という感情についてはまた深く考えていきたいです。

 少し本題から外れましたが、恐怖の増幅器としての自分があって、忘却する自分があることを私は忘れずにいたいと思います。そうすることで、いくらかでも自分らしくいられるような気がするからです。それを自由と呼ぶのは悲しい気もしますが、自由ということを考えるために必要な手段であるように思います。恐怖から少しでも自由であろうとすることが人間にとって大切なことは明らかです。そして、人間にとっては他者の恐怖を取り除くことが、結局は自分の恐怖からも遠ざける手段であることについて考えを深めていけたらいいと思います。

 

 独りよがりな感じになってしまって申し訳ないです。夏なので少し恐怖とは何だろうと考えてみたくなった次第です。夏はなぜだか恐怖に関する話題が多くなります。それは日本ではお盆という年中行事が死者を向かい入れるためのものであるからかもしれませんが、私は四季を通じて夏が一番生命力の強さを感じさせるからだと思っています。春の生まれ成長する生命力とは違って、夏の生命力は増殖や繁殖に繋がっていく。そしてそのことは逆に死を連想させます。死に対する恐怖が人のイメージに与える影響はとても大きくて計り知れませんが、夏には特に考えたくなります。私にとってはそんな感じなのですが、冬に感じる死のイメージというのも確かにありますね。それはまた冬に考えてみてもいいかもしれない。

 

 いつもブログを覗いていただいてありがとうございます。更新が遅れてしまって申し訳ないです。今いろいろと勉強中ですので、またそんなことも書いていけたらいいなと思っています。

 これからもよろしくお願いします!

 

 

 

『鏡のなかの鏡』 ―生存の意味と存在について―

 先日ブログで読みますとご紹介したエンデの『鏡のなかの鏡』、3回読んで最終的には30あるお話の一つ一つの要約やキーワードを書き出して、やっと自分なりに自分のものにできたかもしれないと感じています。

 まず、私はここではこの本をエンデが自身の中にある人物やものたちに物語を与え、その人物やものたちが自分の中にどう配置しているかを示しているのではないかという視点で読み、そのことに対して自分が受け取ったものの内で私がここで一番言いたいと思ったことを書かせていただいています。おそらくこの物語を読まれたことのある方なら誰しも様々な感想をあちこちのお話の断片から、そしていくつかの物語の共通項から持たれていることと思いますが、私もこのほかにもいくつも考えさせられる場面を持ちましたし、そういう風に万華鏡のように見える配置もこの物語の魅力であると思います。

 さて、それぞれの人物やものたちは、私たちにとってはエンデの著作の中で見かけたことがあるものや初めて出会うものであったりしますが、エンデにとってはどれもが古くからの顔馴染みのように思えます。それらがそれらであるところの自己の内の世界では、時間や空間は一定した規則性を持たないので、人やものは夢や幻のようにひょっこり現れてはまた消えていきます。しかしそれらの存在は私という存在のなかの存在であり、存在の外の存在ではあり得ない。ただし現実世界と同じように、同じ時間と空間に存在しそこで継続してあり続けているものだけが同じものであって、同一の形や名を持つなにかであったとしても同じ空間と時間にいなければ違う存在になります。そしてある物語の核心は違う物語では外縁へと遠のき、確定したと思われる出来事は実は別の物語への序章に過ぎず、今ここで初めて出会ったと思われたものはいつか知っていたものに過ぎないというような複雑な形で関係しあうようになります。

 まるで混乱し錯乱した世界のようですが、私たちの今生きるこの世界でも確定していることなど一つもなく、自分の目にしている世界はおおよそ自分の頭の中で工作され可視化された世界だという事実を思えば、そのことを受け入れられないと拒絶できる余地は少しもありません。

 そして、そのいくつかの物語の中では子どもが重要な役割を果たしています。なぜなら、子ども(と自分のなかの子ども)はあるものを新しいものとして見ることができ、それを受け入れ、そして変えていくことができるからです。これは「知らない」という事だけが既成の出来事から自分を解放できるということに繋がっていきます。「知らない」ことは「見ない」ことではなく、「知らないことに忠実な私」=「子どものように物事を見ることができる私」ということであり、知ることを楽しむことで自分の世界を作っていくことのできる私であるわけです。子どもにとっての遊びとは、何かを受け止め、変形させ、自分の感情に届くものにして自己を満足させる行為のことです。その行為は、時には喜びとして、時には恐怖として、時には悲しみとして自分の中に残り心の中に蓄積していきます。そしてそれこそが人生を豊かにし、人生の救いになっていくのです。

 ところで子どもはいつか大人になります。自分の中の子どもも、もちろんひとしきり遊んで周囲に自分の世界を作った後、少年になり、外の世界を知らなければならならなくなります。そうしなければ世界はいつか現実とかけ離れ、そのことによって自身もろとも崩壊してしまう危険があるからです。そのために少年を外の世界に連れ出し少しずつ何かを教える者の存在が必要なのですが、エンデはいくつかの物語の中にその手助けするものを登場させています。父、兄弟、魔術師、ジンなどです。それらは少年への手助けをすることを運命づけられているようです。そしてその助けによって少年は外の世界に行く準備をします。大人へのステップを踏むこと、それは今まで作り上げた世界から飛び出し全く未知の世界(奈落)に落ちる行為であり、また思い切って空を飛ぶような行為でもあります。外への恐怖を和らげ、飛び立つための材料を持ち、そのために捨て去るべきものも知って、青年になった子どもは世界へと飛び出していくのです。

 無事に外へ飛び出したとしても、その先に青年を待ち受けるものは様々な誘惑と困惑に満ちた大人の世界です。そこで青年は挫折を知り、時には汚れていきます。そうした果てにやってくる感情が郷愁です。故郷へ戻るためにもたくさんの試練があり、その試練を乗り越えやってきた故郷も時には変わり果てています。しかしそこで何かを得ることでしか、彼は本当の目的を思い出すことができないのです。

 様々な場所を訪れクエストを完了したとしても、本当の自分を見つけ出すことなどできはしない。そう思って悲観に暮れた時、目の前に現れたものをどう捉えるか。チャンスを掴むために今までに培った経験を生かすことができるかどうかは、本人がまだ子どもの心を持てているかにかかっています。お話の中のいくつかの場面ではそれは母なるものを愛せるかということに繫っていきます。愛せなければ彼は決してその先に進むことはできません。けれども、彼女はすでにあなたの母親ではなく、あなたの目の前にいる一個の女性であり、彼女には彼女の過去があったり、彼女と言う存在のよい部分も悪い部分も含めてすべてを受け入れる勇気が必要だったりします。

 さて、これだけ書くとエンデは勇敢な冒険談を書いているの?と思われる方がいらっしゃるかもしれませんが、この物語で描かれているのはほぼ失敗した人たちのお話です。それぞれの物語中では、登場人物の置かれている状況も行動の段階もまちまちで、主人公たちの人格も立場も状況も違っていて、物語の終わりにどうなっていくのかも違っています。敗北者たちは絶望を突き付けられ傷つき暗く、酷い目にあったり殺されたりする場合もあります。それなのにそれぞれの物語には微妙に繋がりのあるアイテムが仕込んであり、これらがただ一つ一つの独立した物語としてあるのではないという示唆がなされています。つまりは私のなかには成功者ばかりでなく、実はそれ以上の不幸な敗北者がたくさん積み重なっているのだということが語られているのだと思います。

 私の読み方ではこれらのお話は、ある時点で私の中に生まれ、何かを体験し、結果私を形成していく私のなかの子供たちの物語で、つまり私が私であるために発生し私の中にある何人もの人たちの物語であり、私にとっての生存の物語であると同時にその子供たち一人一人の物語でもあります。そしてこの物語はそれら敗北者たちを含めた子供たちの存在を忘れないでいるための慰霊の物語ではないかと感じられました。本当の自分自身を発見するということなど所詮は実現不可能なことであり、生きるという事は変化する自分に戸惑いながら何でもないものとしての自分を生き続けるということなのだけれど、救いや希望を自身の中に発見し歩み続けることはできる。ただしそのために必要なものは数々あって、その発見と使用のためには自分のなかの子供たちに様々な体験をさせ、経験を促し、時には死んでしまうことも事も受け入れなければならない。そうしてそのことだけが、私たちが今ここにあるということの証明になるのだからということが語られているように思えました。

 そこにいるのは、まさに供物としての子ども、子供なのだなぁと思いました。

 ここまでが30の物語を通じて私が持った感想のうち一番言いたかったことになります。ただ、この文章はそれぞれに多くの示唆が含まれており、通じて読むことの重要性がどこまで望まれるものなのかは不明です。例えば展覧会の絵のように、1枚1枚をじっくり見て鑑賞することの方がこの展覧会を企画したキュレーターの目的を考えることより重要な時もあります。ただ、物語を真摯に自分なりに受け止め読み解こうとする姿勢で読んでいかなければ、この物語はただの悪夢の集まりになってしまいかねません。また、目眩を起こさせるような感覚を受けたり、打消しの効果で何も見えなくなったり、幾通りもの物語として見ることができるなど、独特な構造を作ることによってかなり凝った形式になっているので、どう捉えるかで読み方も読者によってだいぶ変わってくるのだろうとも思います。しかし実は読み解くために自分の原点に返ることを余儀なくされることによって、物語のその向こうに見えるのは、独特な郷愁(懐かしさと物悲しさ)さえ含んだなにかを私たちに見せてくれる世界です。これは読書体験ではよく語られる内容ですが、より内へ内へと入り込んでいくことによって、自分の中で忘れ去られていったなにかにぐっと近づいていく感覚を得られているように思います。

 迷うことを苦しく思うのも楽しく思うのも本人次第で、私が何とか楽しく読めるようになったのは、この物語を読むという事は自分のなかの子どもを駆使して彼に語らせ、大人の自分が聞くことで何とか聞こえる声を聞き取る作業なのかもしれないと思えるようになったからかなと思います。そしてそれは、なんのことはないファンタジーを読むときの私の本の読み方で、ここでもほらエンデに試されているのかと思わず笑ってしまったというのが私のなかのオチになります。

 『はてしない物語』や『モモ』を読むこととはかなり違った読書体験ができるということは受け合います。何かに迷っている時に読むのもいいかもしれません。ただし、そこに解決を見出そうという感覚で読もうとすることはお勧めできない本になります。私はいい挑戦ができたと思っています。(このくらいのことしか言うことができなくて申し訳ないです)

 

 

〈脱線します!〉

  先日BUMP OF CHICKENの「記念撮影」という曲を聴いたときに、この文章を考えている最中でもあり、時間の流れと自分の関係についてとても考えさせられました。『鏡のなかの鏡』は自分の内側から見た世界ですが、現実の世界で自分の過去と現在と未来に翻弄されることについて〈記念撮影〉という語を使ってうまく作られた曲だなぁと感心しました。曲の中に目眩が起きるような感覚も持つことができます。

 一方で小沢健二の「流動体について」の、「もしも間違いに気がつくことがなかったのなら 並行する世界の僕はどこらへんにいたのかな」と考えられるようになった自分もおもしろい。「神の手の中にあるのなら その時々にできることは 宇宙の中で良いことをする決意くらいだろう」といったあと、「無限の海は広く深く でもそれほどの怖さはない 宇宙の中で良いことを決意するときに」といえる辺り、この人はいったい何人の子供を殺して得ることのできた感覚なのかなぁと思わせてくれます。そのような考えを起こさせるに至る辺りがこの読書体験の成果なのだなぁと思います。

 この歌の歌詞には「だけど意思は言葉を変え 言葉は都市を変えていく」というくだりもありますね。実は『鏡のなかの鏡』で文字に関する示唆もたくさん受けているのですが、そのあたりはまたこんど違う機会にでも書かせていただけたらいいなって思っています。

『静寂 ―ある殺人者の記録』感想文 死と円環する生について 【ネタバレ注意】

【はじめに】

 今回のブログ記事は、トーマス・ラープ著/酒寄進一訳『静寂 ―ある殺人者の記録』の読者モニターとしてゲラを読ませて頂き、東京創元社様に提出した原稿を一部変更したものを掲載させていただきます。

 多大なネタバレ要素を含みますので、これからお読みになろうとしている方はご注意ください。

 

【本文】

 人はいったい何を求めて生きているのか。

 カール・ハイデマンは生まれつき人並外れた聴力を持ってしまったために、生まれる以前から音に対する極度な過敏によるストレスに苛まれていた。生まれた日から寝ているとき以外泣き止もうとしない息子の異常な聴力に気づき、彼のために地下室を生活の場へと移すことに決めた父の配慮によって、彼は人の生きる場ではなく、一人ぼっちで過ごすことのできる地下の部屋の中から生きる人々の暮らしを思うこととなった。彼の聴覚をもってすれば村人の生活は音によって赤裸々にされ、それは彼が理解する限り、醜く排他的で歪んでいた。

 母親は彼のあまりに奇怪な行動を理解できずに、心を病んで入水した。その時に母親に連れられて一部始終を見届けることになり、さらに母親に対して言葉を発しなかったカールが、必死で掛けた最後の一言によって入水を助長してしまうことになった。

「行け」

 それは彼にとっては父親との懐かしい思い出の中の一言であった。喜んでもらえるはず、そうであったはずなのに、幼な子の彼に詳細を説明できるわけもなく、また、そのことを母が知るはずもなく、彼女はその言葉に従い湖の奥に進み死んでいった。

 母親が水から上げられ、彼が母親の死体に見たものは、それまでの苦痛に満ちた生から解放することのできる安らかな死の美しさであった。そうして、カールの心の中に死への崇拝が巣食うことになる。

 物語前半のカールの殺人は、生の苦渋の足枷から人々を開放するために執り行われる儀式であり、白い殺人だ。なるべく痛みを伴わない方法で安らかに死を与えることが人々の上に幸福を与えることだと信じて執行されていく。白くぶよぶよした肉体の醜いカールが美しい白い殺人鬼であること。この醜さと内面の純真無垢さとの対比が実に印象的で、その無邪気さからつい大量殺人鬼である彼に優しい感情移入をしてしまう。そしてこの物語の中では、殺人事件の担当刑事でありながら、その殺人者に魅せられ、大人として救いの手を差し伸べ、逆に救われることになるホルストシューベルト刑事もまた魅力的な存在として描かれている。カールが彼を信頼していることは後々大きな形で現れる。この二人の関係性は、この物語をただの殺人鬼の話で終わらせない大きなターニングポイントになっているように思う。

 物語中盤、カールは最愛の人マリー・ポクロフスキと出会い恋に落ちる。全盲で無垢で美しい心の持ち主のマリーは、出会ってすぐにカールと意気投合する。しかしながら、マリーを守りたい一心でカールが行った行動が招いた不幸により、カールは許しがたい理不尽な仕打ちを受けることになり、死への信頼を失い黒い殺人鬼になってしまう。世間で悪党と呼ばれる人々に恐怖の鉄槌を食らわせるためだけの殺人。反抗期の怒りをぶつけるかのように殺人を犯し、痩せ衰えていく心と体。ついには逃避行の旅に出ることになる。

 逃避行の末にたどり着いた場所。そこは異国の小さな修道院であった。神聖な神の場でカールは再び変身をする。悲しいことにもちろん殺人鬼として。神の使いの美しい白い死神。そこでもカールは人々を苦しみから解放するために殺人を繰り返す。そして命の恩人であり、カールを死神と知りながら最後には自らの死を彼に欲し、最愛の人の元に旅立つようアドバイスした修道士パオーロ・モローダもまた、物語の中での重要人物だ。彼なしでは最後のカールは望めなかっただろう。

 最愛の人の元にたどり着いたカールは、思いを遂げ、また思いをかみ殺して最後の決断をする。

 

 この物語の主人公カール・ハイデマンは、いったい何人の人を殺し、何匹の動物を殺したかわからないくらいの殺害を繰り返す。しかし、彼の行為を薄気味悪い精神異常者の行動として見ることはできない。なぜなら、作中で彼が望むものは他者の幸福であり、自らに人々に苦痛を与えるものとしてではなく喜びを与えるものとしての役目を課し、そのことを徹底して執り行うからである。だから私たちは彼を無慈悲な殺人者としてではなく、時に迷える若者として受け入れ、時に美しい聖人のようにも思い、彼の殺人を肯定さえしてしまいそうになるのである。しかし、それこそが著者トーマス・ラープのこの作品に仕掛けた大掛かりなトリックであり、倫理観と正しいことの隙間を上手にすり抜けて、「彼(のやり方)は嫌い?」と読み手を混乱させる手法なのである。その技に私たちは翻弄され続けることになる。

 一方で、彼は暴力を嫌いながら自らが行使している暴力についてあまりに無自覚である。彼自身が命の重みを生ではなく死に寄せ過ぎているために、彼にとって死は暴力以上の美を持って迎え入れられる。しかし、死をもたらされた人々にとって、彼らに与えられた死は無尽蔵な暴力の果てに送り付けられた結果でしかなく、その事実は変えることができない。

 後半の要になる修道院での生活は、彼に彼の意志によって殺人を止めさせることのできる最後のチャンスであったが、彼はそこに死ねない人たちの苦しみに寄り添う殺人者としての道を切りひらいてしまう。彼はパオーロやほかの修道士たちに救われた自らの命について、なぜ救われたのか最後の最後まで理解できずにいたように思う。宗教の場で、彼が取りつかれた死への崇拝から救い出されることなく殺人者として再び生まれ変わることは、命の尊さを説く宗教の敗北を意味する。ここでも読者は試される。「彼のしていることは正しいことでしょう?」しかし、脱出する際に行われる行為によって、私たちは彼の本質に触れ正気に戻されることになる。彼にとって命の重みとは、死の安らぎを得るためにあるもの以外のなにものでもないのだ。

 最後に彼は愛を回復して、相手の命の尊さを思うことにより、初めて死よりも重い命について直視しなくてはならなくなる。この物語のクライマックスだ。そこで彼が何を得て何を失ったかを考えることは、私たち各々が持つ愛と命についての思いを振り返らせる。

 カールは不幸だったのか。カールに殺された人々は不幸だったのか。それとも幸福だったのか。人にとって死とは永遠の幸福なのか、断絶の不幸なのか。

 このような問いに対する答えは一昔前ならば簡単に与えられていた気がする。しかし、善と悪についてこうも複雑になってしまった世の中にあっては簡単に答えが出せない。

 厳しい現実を見逃すことによってなんとか生きようとする私たちにとって、この物語は問題を直視できる場に緩やかに運んでいく船である。むごたらしい殺害による恐怖の中にではなく、美しいセンシティブな物語の中にある殺人に対して畏怖ともいえる感情を私たちに植えつけ、静けさの中にある二つの眼を見つめさせる。そして、その眼はもはやカールのものではなくなって、私自身のものなのかもしれないと気が付いた時に、改めて受けることになる衝撃は少なくない。死に対する私たちの感覚・感情は、間違っているのか、いないのか。死への恐怖が引き起こす誤った行為や生への執着が引き起こす他者への暴力的な態度が、彼のしていることとどれほどの違いがあるのだろうか。

 生き生きと生きることへの困難が引き起こす社会病理の中では、カールは常に私たちの心にあって私たちを死に誘う天使であり得るのだ。

 しかしながら、私たちがマリーやシューベルト刑事やパオーロ修道士といった人々との接触によって受ける感情は、カールのそれとは異なっていることもこの物語は教えてくれる。私たちは人の中で生まれ育ったのだ。たとえそれが混沌として美しいものでなかったとしても、そのことだけが私たちの感情に明かりを差し伸べ行く手を照らしてくれる術になる。それが私たちとカールとの確かな違いだ。

 カールは愛を受け、母親の愛を思い出し、死んでいく。初めから破滅への道であったとしても、そのことが私たちをどこか人間らしさへと回避させてくれる。そして物語の終わりは始まりに還っていくのだが、そういった手法も、新しい命を迎え、この物語の中にあっては特別のもののように思える。

 終わる命と始まる命。循環する生命。

 命を互いに支え合わせ繋ぐことのできる〈愛〉の存在こそが人の生きる意味なのだと。

 

【おわりに】

 いかがでしたでしょうか。なるべく作品の魅力をお伝えできるように書かせていただいたつもりですが、引用がないため本文の美しい文体がお知らせできていない旨はご容赦ください。しんしんと降り積もる雪のように穏やかに美しく、そしてそれゆえに私たちの心に消えない跡を残していくような文章です。原作者のトーマス・ラープ氏の才能と、それを見事に日本語に翻訳された訳者の酒寄進一氏のお仕事は素晴らしいものでした。

 6月13日に発売されて、すでに書店には出回っています。ご興味を持たれた方はぜひお読みになってみてください。

 

 

静寂 (ある殺人者の記録)

静寂 (ある殺人者の記録)