「羽生結弦」をめぐるあれこれ

1.詩とイメージ

  リンクに2か月間も立てなくなるほどの怪我を背負いながら、負傷後わずか4か月後の平昌オリンピックで見事金メダルを獲得した羽生結弦選手。世界中が固唾を飲んで見守る中での演技はまさに驚異的な鉄人としての彼を感じさせましたが、フリープログラムでの演技は妖艶さを前面に押し出しながら雄々しい力強さも兼ね備え、見るものすべてを彼の世界へと引き込んでいきました。

  世界中のメディアが彼への賞賛の言葉を浴びせる中、中国中央電視台の陈滢さん(女優のジーニー・チャンさんとは別人)が演技の放送の最中に諳んじた“容颜如玉,身姿如松,翩若惊鸿,宛若游龙。” (顔は玉石のごとく、姿は松のごとく、飛び立つ様子は白鳥のようで、しなやかさは遊ぶ竜の様だ)という詩的表現が日本でひときわ話題になりました。

 http://sports.qq.com/a/20180217/006951.htm

 (こちらは当日の中国中央電視台の記事です。参考まで)

 

 これは彼女のオリジナルというよりも、中国で美しいとされるものを並べて詩的に仕立てたものですが、そのような表現がスポーツの実況中に出てくる素晴らしさに驚きとともにうれしくなって、つい私もこの話題をツイッターリツイートしていました。少しだけご紹介させていただきますと、オリジナルと言われている表現は主に曹植の洛神賦から引き継がれたもので、曹植というのは三国志で有名な曹操の息子であり、幼い時より才に恵まれ曹操にもとてもかわいがられていたので将来も嘱望されていたのですが、天才にありがちな他人に無頓着な部分が現実的で抜け目のない兄の曹丕に劣っていたため、政治では兄に王の座を奪われるとともに中央に帰ることなく人生を送ったひとです。

 

 詩に関して言えば曹操曹植曹丕もとても優れたものを残していて三人合わせて三曹と呼ばれ並び称されていますが、曹植は特に「八斗の才」(天下の全才能の八割を独占する)と謝霊運に言わせるほど唐以前の詩人では最高位の席におかれている人です。

 

 陈滢さんの詩のオリジナルとされている洛神賦は、曹操の最大のライバルとなった袁紹の子袁煕の妻であった甄(けん)氏のことを読んだ賦だと言われています。甄氏は袁煕亡き後その美貌を見止められ袁煕を攻め落とした相手である曹丕の妻となります。甄氏は美しさばかりでなく教養も深く兼ね備えており、曹植は兄の妻であるにもかかわらず彼女を愛し妻にと望みますが、甄氏はのちに曹丕の正妻となる郭貴嬪の陰謀により夫である曹丕から死を賜り毒を飲んで死んでしまいます。彼女の死後曹丕の元を訪れた曹植曹丕から甄氏が使っていたという枕を賜ると、帰りがけに通った洛水のほとりでそこにいるという女神の伝説を聞きそれに照らして彼女の詩を作ったということです。ただ有名な詩にありがちなのですが、実は曹植の恋の話は出所が明らかではなくあとから創作されたものではないかともいわれています。

 

 さて、洛神賦の本文で引用されていると思われる部分を書きだしてみます。

 翩若驚鴻,婉若游龍。

 榮曜秋菊,華茂春松。

 髣彿兮若輕雲之蔽月,飄颻兮若流風之迴雪。

 

舞い上がる様は驚いて飛び立つ白鳥のようであり、しなやかさは自由に遊ぶ龍のよう

華やかさは秋に咲く菊のようであり、若々しさは春に繁る松のよう

 薄い雲のかかった月のようにぼんやりとして、

 強い風に舞う雪のように揺らめく

 (訳に間違いがあったら申し訳ありません!)

 

 後半部分を読むとよりわかりやすくなりますが、これらは美しい女神を形容する褒め言葉です。こうして比較してみると、強さと美しさと柔らかさを畳みかけるように読んだ曹植らしい表現のうち、力強さの感じられる部分を引用することで羽生選手の演技の素晴らしさを表したのはとても説得力がある方法だと改めて感心させられました。

  しかし、このような表現をより身近に感じるのは、有名な漢詩の中には現代でも生きてその表現を見聞きすればどのような状況であるのか思い浮かぶようものがたくさんあって、それは日本にいる私たちでもイメージできるくらいだということに私は改めて感心させられるのです。玉(宝石)は容姿の美しさを強調しているということも分かりやすいですし、実はオリジナルのことなど知らなくても、なんとなくこの表現はこういうことを表しているのだろうなということが思い浮かびます。それは当たり前なのではなくて、おそらく長い時間私たちの生活に沁み込んでいろいろな場に現れては私たちを楽しませてくれていた。そういうもののうちのオリジナルといわれるような表現があると知るだけでわくわくしてしまいます。

 

2.スケート選手と陰陽師

 羽生選手が表現しようと選んだ陰陽師がこの女神と通ずるところが多いことはわかりやすいことです。安倍晴明というひとはその時代には陰陽師として名声を馳せた人ですが、物語となった彼はすでに現実離れした魔法使いのような主人公で、実はとても実学的でもあったその技でさえ私たちの頭の中では魔法のように思えます。

  帰国後の記者会見で羽生選手は「SEIMEI」という曲を使用した理由について、体形や技術面においてもアジア人がスケートの選手として活躍できること自体がつい最近まで皆にとって信じられなかったことであり、アジアらしい曲を使用することでそれが可能であるということがもっと印象付けられればいいと思ったというようなことをおっしゃっていました。

 しかし「SEIMEI」での彼の演技を見れば、能や狂言などの芸術におけるトリックスター的な存在にかなり魅力を感じていたのだろうということは一目瞭然です。物語である『陰陽師』の主人公の安倍晴明は言わずと知れたトリックスターであり、陰陽道を駆使して闇の世界と光の世界を縦横に駆け回り、危険を冒しながらも彼なりの秩序を目指します。物語に出てくる音楽の役割はまるで予定調和を促すもののような扱いになっていて、清明の親友である源弘雅は音楽(の神)に愛されて生まれた存在として描かれています。

  このような物語を知れば、この音楽を使って演じることのよって清明のように自らを中心とした世界を作り上げられるかもしれないという野望が叶いそうに思われるのも当然です。そして今回のオリンピックの演技で彼のその野望はほぼ叶ったように思われます。つまりそれは、あらゆる人が彼に引き付けられ魅了される世界を彼が創造できたということです。

  今日の多様化された世界では以前にもまして「一つの世界」に到達することは困難で、ましてやオリンピックのような国の威信を賭けた戦いの最中、世界のだれもが一緒に魅了されるような場を作ることはかなり難しいように思います。それをやってのけた羽生結弦という人はまさにトリックスターのようでした。私にはその時、本当に魔法を見ているように感じられたのです。

  「世界の王」は人間がまだ偽の主権者に支配される以前の、地上に国家が出現する以前の記憶をはっきりと保持している。新石器文化をつくりあげていた人間たちの「野生の思考」が生み出した、粗末だけれども豊かな心の産物を、この精霊たちはなによりも美しいものとして大切に守っている。ミシャグチやもろもろのシャグジたちや宿神たちがそうしてきたように。

  またこの王は、未来の人間の世界に出現しなければならない「主権」の形についての、明瞭なヴィジョンを抱いており、それをなにかの機会には、心ある人間たちに伝えようとしているように、私には見えるのである。古代の王たちから現代のグローバル資本主義にいたるまで、偽の「主権者」たちによってつくりあげられてきた歴史を終わらせ、国家と帝国の前方に出現するはずの、人間たちの新しい世界について、もっと正しいヴィジョンを抱きうるものは、諸宗教の神ではなく、長いこと歴史の大地に埋葬され、隠されてきた、この「世界の王」をおいて、ほかにはない。しかし、すべては私たちの心しだいである。この王の語りかけるひそやかな声に耳を傾けて、未知の思考と知覚に向かって自分を開いていこうとするのか、それとも耳を閉ざして、このまま淀んだ欲望の世界にくりかえされる日常に閉塞していくのか。すべては私たちの心にかかっている、と宿神は告げている。

中沢新一著 『精霊の王』 講談社 p320

 

  中国のメディアが女神への形容で伝えた羽生結弦という人が作った魔法のような演技が、時空を超えて世界中を駆け巡り、そして見る人を別世界に送り込んでいった。このことが今後どのような影響を及ぼすかは知り得ませんが、少なくとも私には魔法の時はあるのだと思えました。そしてそのことが国や宗教や人種を越えて人々を同じ世界に引き込んでいく力を皆に感じさせて、魔法は未来に繋がっていく何かになり得るという期待に成長させてくれたらいいなと思いました。

  今はお気の毒なくらい忙しすぎる羽生さんも、未来を担う若者として彼によって成し遂げられたことがいったいどういうことだったのか見つめられる時間をもう少し与えてもらえたらいいのにと感じます。そして国家や誇りや名誉だとかそういうものを越えて、そこにたしかにあって人々を一つの世界に連れていくことのできた彼の起こした魔術について、彼自身が思う所を彼の口から聞いてみたい気がします。

 

【メモ】

 詩と賦について

  漢詩を勉強したことのある人ならだれでも律詩だとか絶句だとかを始めにやらされるので、陈滢さんの詩や洛神賦を見て違和感があるのではないかと思います。

  多様な文体を収めながらも、『文選』のなかで最も多いのは「賦」と「詩」である。「賦」は巻一から巻一九の途中まで、「詩」は巻一九の途中から巻三一まで、つまり全六十巻の半分以上を「賦」と「詩」が占める。これは「賦」と「詩」こそが文学のなかでも最も中心となるジャンルとみなされていたからだろう。漢代の書物の全体を分類整理した『漢書』芸文志は、書物を「六芸略」「諸子略」など六つの分類に分け、狭義の文学に相当する分野として「詩賦略」を立てているが、「詩賦略」の名にあらわされるように、「詩」と「賦」が文学を代表するものであった。ちなみに「文学」という言葉は明治の初めにliteratureの訳語として採用されるまでは、孔門の四科に「徳行・言語・政事・文学」として挙げられるように、古典の素養、学問を意味するものであった。今言う所の「文学」を意味する語はなかったにしても、『漢書』が「詩賦略」を立てたことから、文学に当たる概念はすでにあったと考えられる。また「詩賦略」に「詩」を挙げていても、それは広い意味における詩であり、実際には「歌」であった。

  「詩」とならんで文学の中心とされる「賦」は、押韻はするものの「詩」と違って一句の字数、一篇の句数に定めがない。漢代の文学を代表するものが「賦」であった。賦は魏晋以降も叙事性から抒情性へと性格を変えながら作られていくが、文学の中心は「賦」から「詩」に移った。とはいえ、賦は早い時期の文学ジャンルの代表であったために、格式の高い文体として、のちのちまで別集、総集は賦から始められることが多い。

 川合康三他注釈 『文選 詩篇(一)」岩波文庫 pp385~386

 

 

 参考にさせていただいたブログです。とても助かりました。ありがとうございます。

 

「私家版 曹氏建集」ブログ

 http://humiarisaka.blog40.fc2.com/tb.php/66-cb3a958a

 
www.geocities.jp

 

死者に手向ける花の話 (ブレードランナーとホライゾン 番外編)

  1. 手向けられた花

 

 ホライゾン・ゼロドーンにはいくつかの収集アイテムがあるのですが、その中の一つに〈鉄の花〉というのがあります。鉄の花は機械が異常行動をし始めた頃から各所に見られるようになった文字通り鉄でできた一輪の大きな美しい花です。なぜか三角形の形に植えられた(本物の花の)花壇のぽっかりと開けられた中心部分にあって近づくとぱっと咲きます。そして採集するとその一輪一輪にそれぞれ別の詩のデータが入っているのです。

 

 最後までプレイすることでこのお話の要であるAIガイアの生みの親であるエリザベト・ソベックの墓らしきものがやはり三角形の花囲いの中にあることがわかるので、これはおそらくガイアがソベック博士の死を悼んで手向けのために作ったのではないかと推測できます。アーロイの世界では鉄の花はその美しさゆえにお金持ちに人気のコレクションアイテムになっているようで、アーロイはその辺境に点在する花の収集を商人に依頼されるのです。

 

 さて、花を手向けることで印象的なシーンはブレードランナー2049の中にもありました。Kがサッパー・モートンの農場の死んだ木の根元に一輪の小さな花を見つけたときのことです。おそらくその花はモートンがレイチェルの墓に手向けたもので、花を不審に思ったKはその土の下にレイチェルの死体の入った謎のコンテナを発見します。くしくも花が見つかったことがレイチェルの死の尊厳を奪うことにはなるのですが、「希望を持ったことがあるか」というKへの問いかけや写真、ピアノに隠された子供用の靴下などから、花を手向けていたモートンの心情について、死者への愛情や尊敬、あるいは崇拝等々いろいろと想像できます。

 

 生きているうちに近しい関係にあれば亡き者への愛着があるのは当たり前ですし、家庭にある仏壇に花が生けられている風景が原風景になっているようなこの国以外でも、墓に花を手向ける様子は万国共通に見られるように思います。しかし、当たり前となったこの行動がいったいどこから来るのかについては無意識の中に入り込んで、本当のところなぜ花を供えているのかということについては案外考えなしに行われているのではないでしょうか。

 

 ではなぜ死者に花を手向けることがどうしてこんなにも特別に扱われるのでしょう。

 

 ご存知の方も多いと思いますが、発掘されたネアンデルタール人の死体のそばにあった大量の花粉から、その花こそ人が死者に手向けた最初の花ではないかといわれています。これには否定的な見方もあるようですが、太古の人類が死者に花を手向ける光景を思い浮かべるとき、手向けた古代人の死者への愛情に思いを馳せないではいられません。

 死者への情愛が花を手向けさせる唯一の理由ならば、花は手向ける側の人間の愛の形であると言えます。愛の形として花をプレゼントすることは日常的に、もちろん生きている人相手にでもよく見られる行為です。ただし、墓前に花を手向ける行為はプレゼントするのとは意味を異にします。それは「手向ける」という語を使用している点においても指摘できるように思います。

 「手向け」とは供物を供えるという事です。生活の場から宗教への場に移行していくのはどの状態からかというのはとても難しい問題ですが、相手が死者になると明らかに宗教的な意味合いを感じられるようになります。それはたぶん、実在しないものの存在を見つめて行われる行為だからです。それでは、宗教的に花を手向けるということはいったいどんなことなのでしょう。

 

 1、供犠の材料。 供犠を動物的な獻物と植物的な獻物とに分つことは獻物―衣服武器宝物などのような奉納供進とは別個の―の主要物が食べられるものから、そして実際人間の食物の中心を形づくっている種類のものからとられることを意味している。これはレビ記の法律に於て正確にそうなっている。

 

W.R.スミス著 永橋卓介訳『セム族の宗教 後編』p13 岩波文庫

 

 

 いろいろと調べてみたのですが、古代の宗教において供犠に使用された花に対する記述を見つけることが出来ませんでした。調べられた限りでは神への貢物として相応しいものは自らの血肉あるいは血肉になり得るものということになっており、そこには神に対する絶対的な忠誠を感じさせられます。そして、上記の記述を見ると献花は奉納献進の一部であって神聖さにおいては一段下がるように思わされます。

 一方で、日本大百科全書の供花の頁に「仏あるいは死者に供える花のこと。供華とも書き、「くうげ」ともいう。仏教は発生当初から花と深くかかわっていて、教典にもその功徳が説かれ、花は仏の供養の第一とされた。」とあります。

 なぜセム族が神々にとって花は血肉に劣るとし、なぜ仏教がそうしなかったのかは詳しく調べればもっとおもしろくなりそうなのですが、少なくとも仏教においては、血肉にならない花に血肉になるものと同等の価値を明確に与えていたという事になります。

 ではそこにある花の価値とはいったいなんでしょうか。

 

  1. 花の価値

 二.自然

 人間が、感覚の把えるさまざまの対象をまとめてある共通の名称で呼び、それを自分と対置してみようと考え及ぶまでには長い年月がかかったことであろう。訓練すれば発達はめざましい。そして、およそ発達をとげていく場合には、ちょうど光線の屈折に比較できるような、分割と分岐とが生じる。そのようにわれわれの内面も徐徐に分岐を重ね、かくてこのように多様な力が生じてきたわけで、さらに不断の訓練を怠らなければ、この分岐もますます進んでいくだろう。もし後世の人々が、精神のこのように錯乱した色彩を再び混ぜ合わせて、随意にもとの単一な自然状態を復元したり、あるいは、これらの色彩の間に新しい種々の結合を作り出したりする能力を失っているとすれば、それはひとえに、彼らの資質が病的になってしまったためかもしれない。そうした結合が鞏固であればあるほど、あらゆる自然物やあらゆる現象はいよいよ渾然と、いよいよ完璧に、いよいよ個性的に、その結合の中へ滔々と流れ込む―けだし、印象のありようとは五感のありように呼応するものだからだ。これ故に、かの昔日の人々には、万物が人間的で馴染み深く、親しいものに思えたはずだし、彼らの目には最も鮮やかな特性がそのままに映じたに違いなく、彼らの表現はことごとく真の自然の息吹であり、彼らの表象は周囲の世界と一致し、その世界そのものの忠実な表現になっていたに違いない。従って、外界の事物についてのわれわれの父祖の思考とはすなわち、当時の地上の自然状態の必然的な産物、あるいは、その自画像だとみなすこともできるし、またとりわけ、万有を観察するために最もふさわしい道具としてのこのような思考を見ると、その万有の主たる関係、すなわち当時の人々に対する関係、また、人々の万有に対する当時の関係がはっきりと判るのである。

われわれの知るところによれば、まさしくこの最も崇高な問いに当時の人々の注意が真っ先に向けられ、彼らはこの驚異に満ちた建物の鍵を、あるときはあれこれの現実の事物の中に求め、あるときは未知なる感覚がつくり出した対象の中に探した。ここで注目すべきは、そろいもそろって、その鍵は流体とか気体とか無形のものの中にあると彼らが予感したという事実である。おそらくは、固体の不活潑さと無器用さが、それが従属的で一段低いものだという考えをひき起こす誘因になったのだろうとしても、あながち意味のないことではなかろう。だが、たちまち、一人の考究型の人間が、こうした形なき力や海から、形あるものを如何に説明するかという難問にぶつかった。彼はこの難点を一種の集合という考えによって説こうとした。つまり、最初の始まりを形ある個体の微粒子だとし、しかも想像を絶するほどの小さいものと想定して、こうした微粒子の海からこの壮大な建物が築き上げられうると考えたのである―とはいえ勿論、これらと共に作用するさまざまの思考的存在、すなわち、惹き寄せまた突き放す諸々の力の助けが無かったわけではない。

 さらに時代を遡ると、科学的な説明のかわりに、共同の職匠としての人間や、神々、動物などといった不思議な比喩的な姿に満ちたメルヘンや詩が存在して、そこではきわめて自然に世界の生成の歴史が述べられているのがうかがえた。少なくとも、世界が偶然に道具によって発生したのは確かだと聞いているが、想像力の産み出す放恣な産物を軽蔑する人にとっても、この観念は十分意味のあるものである。世界の歴史を人間の歴史とみなし、何処を向いてもただ人間にかかわる事象や状態しか見ないという態度は、さまざまな時代に繰り返し新しい装いで現われる不滅の観念となって、驚くほどの影響力をもち、容易に人を納得させ、常に優秀であったようである。それに、自然の偶然性ということも、言わばおのずから、人間の個性という観念に結びつき、また、その個性たるものは人間の本質なりと、ごく単純に理解されてもいるらしい。このことからしても、詩が真に自然を愛する人の最も好個の道具になりもし、詩の中にこそ自然の霊は最もあからさまに顕現するのでもあろう。真の詩を読んだり聞いたりすると、そこに自然の内的知識が蠢き、あたかもそれが天使のように自然の只中にも自然の上にも漂っているのが感じられる。自然研究者と詩人は「一つの言語」を用いることによっていつも「一つの族」であるかのようにふるまってきた。前者が全体的に蒐集し、大まかな整然たるまとまりのうちに示したものを、後者は人間の心を養うための日々の糧や必需品に変成し、あの広大無辺の自然を細分して、さまざまの小さな好ましい自然へと造形した。詩人たちが果敢なく流れゆくものを心軽やかに追い求めていったのに対し、自然研究者たちは鋭利なメスで自然を部分に切り分け、その内部構造や関係性を探ろうと試みた。彼らの手にかかるとあの親しげな自然は死んでしまい、そこにはただぴくぴくと痙攣する屍しか残らなかった。これに対し詩人の手になると、まるで芳醇な葡萄酒を飲んだときのように、自然は一段と生気を帯び、いとも神々しく晴朗な思いつきを聞かせてくれ、日常的な生活圏を越えて、天まで翔っては舞い踊り、予言を語って、いかなる客人をも愛想よく迎え、喜ばし気にその財宝をばらまくのだった。こうして自然は詩人と一緒に天国のようなひとときを楽しむが、自然研究者を招じ入れるのは、病気になり従順になったときだけである。こういう場合には、自然は彼らのどんな質問にも答えてやり、この生まじめで厳格な人を尊重するのにやぶさかではなかった。だから、自然の心情を本当に知ろうと欲する者は、詩人たちの中にそれを尋ねなければならない。そこでは自然は身を開き、玄妙なるその心を吐露してくれるのである。だが、自然を心底愛することなく、もっぱら自然にあれこれの点を見つけては驚き、これをただ見聞しょうとのみ努める人は、自然の病室や納骨堂を小まめに訪れなければならない。

 

ノヴァーリス著 今泉文子訳 「ザイスの弟子たち」

『ドイツロマン派全集第二巻 ノヴァーリス』pp256~258 国書刊行会

 

 

 ここでノヴァーリスを長く引用させていただいたのは、花を手向けることは自らにある複雑な胸の内を花という自然の作り出した集約された美に重ねて献上するということであり、そこには自然が集約することができる美に対する人の敬虔さも現れていて、それはちょうどノヴァーリスが自然と語り合うことで自然の声を聞き、その声を分断することなくある種の統合性を選んで表現することは可能であるし、それができるのは詩の言葉であろうというのに似ていると感じたからです。

 鉄の花に俳句や詩が入力されていたことは単なる偶然ではなくて、ガイアが手向ける花に思いを込めるのにそれらがふさわしいと考えたからでしょう。ノヴァーリスが示した自然へのあるべき態度と人間の複雑さを簡単に包み込んでしまう自然とそれを表現できる詩という芸術への理解をガイアというAIにさせようとした意味の奥深さについて考えずにはいられませんでした。鉄の花が美しい風景が見える高台に花を設置されていたのも偶然ではありません。それが花のある場所にふさわしいと考えられたからです。

 

 鉄の花を作っていた時のガイアのことを考えると、おそらく孤独な中で困難にも見舞われ、ソベック博士の死にも順応しきれなかったのかもしれません。逃避の直前、自らの存在の危機を感じながら、「もう一度あなたの声が聞きたかった」と言って消えたホロスコープもとても印象深かったです。

 そういった状況に晒された時に何が心の支えになるのかというスタッフの思いで鉄の花は作られたのだろうかと思うと更に考えさせられました。

 

 先日、今はAIの作成にあたってフレーム理論からオントロジーに移行している話を聞いてなるほどなぁと思いました。統合する精神というものはどうあるべきかという課題について、きちんと向き合わなければならない時代なのだと思います。

 

 美と自然についてはもう一つヘーゲルを読まなくてはと思っているので、また何か書けるといいなと思っています。

 あと、自然と芸術については実はシェリングも参考にしたかったのですが完全に勉強不足なのでもう少し勉強して書き足せたらと思っています。

 

 またとりあえずで申し訳ありません!

 とりあえずおしまい

 

ブレードランナーとホライゾン❷  ― 科学と精神の分離について ―

 ホライゾン ゼロ・ドーンは狩場クエストクリアを諦めたので、その他のクエストは二月の頭には終了することができました。後半のストーリー展開はいよいよアーロイの出生の秘密に迫るものでしたし、様々な冒険を続け心ならずも英雄となってしまったアーロイの心中を思うと、仲間を得て心強くなったものの常になにか痛みを抱えているようで、前半程のびのびとプレイできない感じを持ちました。物語の終盤が見えてくるころによく訪れるこのカタルシスが作品の価値を引き上げるということを知っていても、なかなかそれを楽しめるほどに成長しない自分は困りものだとも思います。

 映画である「ブレードランナー2049」とゲームの「ホライゾン ゼロ・ドーン」を比較して、SFに出てくる近未来と人間のことを考えてみようと思ってこのブログを書き始めたのですが、思いのほかホライゾンが多くの情報量をゲームに盛り込んでいたので、何を書いたらよいかとても悩みました。最近のゲームのストーリーというのは、フィールドが広がって自由度が増した分、様々な地域でサブキャラクターとの関係性を築くとそちらのお話も広がっていってまた別の物語が様々な地域で展開されるというような多様さがより増しています。そのお話がメインストーリにも反映されていく展開は「分岐」には違いないのですが、一つ一つのストーリーが緻密になっているので、まるでメインキャラクターの人格形成がその経緯によって変化しているように体感してしまうようなところがありました。

 映画はもう完成された一つのストーリーを追いながら主人公の体験を遠くから眺めて考えてみたり、自らに重ねてみたりするものですから、そのあたりのギャップが更に広がっているように思います。「動かす」ことによる感情の移入度が、ゲームのフィールドの緻密さに関係してこうした感覚が深まっているのかもしれません。そのために、別段なにか表現されている場でなくとも「アーロイがこうなってきている」と身近に感じてしまうのだと思います。私はよく観劇している時にそういう感覚を持つことが多いのですが、このところそういった感覚をゲームをプレイすることによって得られることが増えているように感じます。身体がある〈場に触れる〉ことにより生じる仮想世界へ入り込みの問題はVRの発達によりより深く考察されるようになっています。空間と身体の関係性を変化させる状態がどの時点から起こっているのか、そしてそれは何によってどう変化するのかは本当に興味深い問題です。

さて前置きはこの辺りにして…

 

コード化と精神の苛立ち

 コード化が行う客観化は、一貫性というものの論理的統制の可能性、つまり形式化の可能性を導入します。それによって、明示的規範性の確立、つまり文法なり法なりの確立が可能になるわけです。言語とはコードであるとよく言われますが、それがいかなる意味においてであるかが、明確に述べられることは滅多にありません。実は厳密に言えば、言語自体がコードであるわけではないのです。言語は、情報図式体系のほとんど法的なコード化に他ならない文法によって、コードとなるにすぎないのです。言語がコードであるなどと述べるのは、この上ない〈詭弁〉fallacyつまり、研究対象たる人びとがしていることを理解するためにこちらが意識しておかなければならないものを、当のその人びとの意識の中に据えつけてしまうという詭弁を犯すことになります。外国語を理解するには文法を習得せねばならないという口実で、まるで当のその言語を母国語として話している人びとが文法に従っているかのように、とらえてしまうわけです。コード化とは、性質の転換、存在的分身の転換であり、それは、実践的状態で使いこなされている言語的図式から、法的な作業に他ならないコード化の作業によって、コードに、文法に移行する際に行われている転換なのです。このコード化の作業というもの、これは、法学者たちがコードを作成する際に、現実の中で何が起こるかを知るために分析する必要があるものですが、それと同時に、実践についての科学を行なう際に、人が知らず知らず、自動的に何をしてしまうかを知るためにも、分析する必要があるものです。

 

ピエール・ブルデュー 石崎晴巳訳 『ブルデュー自身によるブルデュー 構造と実践』 藤原書店 PP129~130

 ブルデューが語った言語のコード化とは何かというこの文章は、分類のためにコード化された言語は言語そのものではないということを私たちに教えてくれます。

 Kはコード化された情報を組み込まれたAIに過ぎないのに、そのKが記憶と自身の生い立ちについて苦慮する様を見せられる時、私はどこか引っ掛かって違和感に捕らえられてしまいます。それは知り得た情報を適切に処理するだけの器官にとって、エラーはエラーとだけ判断されるべきで、それ以上でもそれ以下でもあり得ないのではないかという素朴な疑問によるものです。それなのにAIのKが危険を冒してまで任務から逸脱して自己の調査に乗り出していくのはなぜでしょうか。

 はじめに推測できるのは、すでにある情報に様々な外的情報が組み込まれるうちに、そこに不足しているものへの探究心が深まるからではないかということです。上書きされた外的情報はコードではなくて身体に触れる世界と言葉自体です。そこにはブルデューのいう通りコード化できない部分の情報も含まれています。一方、自己の内にある情報と外から来た情報のギャップを埋めることへの欲求は、誰もが持ち経験する生存のためのプロセスと言えるでしょう。生きるために経験によって得られた情報を上書きするという生存のためのプロセスに生物がその行動のほとんどを費やすことを考えればそれは自然な行動なのかもしれません。

  しかし私たちは人であるがゆえに、そこで「生存とは何か」という問題に行きついてしまいます。生存するとは無論生命を維持することです。ただ、生命を維持するために必要だと思われる物事に対する考えは人間の場合は個人によって異なります。食事や睡眠などの生理的な欲求に応えることは生命を維持するために最低限必要なことですが、それを押してまで他の欲求に応答し行動するような経験を多くの人が持っています。

 

 「何かを成し遂げよう」とするこの欲求に対応し、成功することと失敗することを繰り返して書き換え可能なコードに変換していく作業は、ブルデューのいう社会の形式化のためのコード化とは別のものです。自分のために自分向きの自然を探し出してコード化するこの作業を通じて私たちは幸福感を得ることができます。(※1)この幸福感を求める行為を生存の価値と考える場合も多いように思います。

 

  レプリカントを生み出した人間は、フォークト=カンプフ法という質問を多用する方法を用いてその被験者が感情移入できなないことが認識できれば、その被験者はレプリカントであると識別できるとしていました。また、彼らにはレプリカントが感情移入できるようになった時こそ人類に危機が訪れるであろうという危機感もありました。それでも彼らはAIがそこを乗り越えるには相当の壁があって多くの個体は乗り越え不可能であろうと信じていたように思います。

 しかし、実際にはレプリカントたちは感情移入の壁を乗り越え、自らの生存の意味を各々考えるようになっていました。受胎できる個体の発生とレプリカント同士での繁殖の可能性、そして初めての子孫の誕生を知った時にそれを神聖視すること。あるいは、優越性が主人の愛情の対象となり主人の特別でいられると認識すること。これらは生存そのものというより生存の意味を問うものです。そしてこれらの生存の意味は他者の行動から呼び起こされ感情移入によって拡大するものです。

 

 

自然であること/科学であること

 17世紀の哲学者たちがガリレオの成功から引き出すべきであった教訓は、ヒューウェールやクーン的なものでなければならなかった。すなわち、科学の進歩を、いろいろある仮設のうちのどれが真であるかを決めるということに関わる問題としてではなく、そもそもそうした仮説を作るのに用いられる正しいジャーゴンを見つけるという問題として考えるということだった。だが、すでに述べたように、彼らが実際にそこから引き出したのは、その新しいボキャブラリーは自然が常々それで記述されることを望んでいたものである、という教訓であった。わたしの考えでは、これには二つの理由があった。第一に、彼らは、ガリレオボキャブラリーが形而上学的な慰めに欠け、道徳的な含意や人間的な興味に乏しいという事実を、それがうまくいった理由のひとつだと考えたのである。彼らは、ガリレオ派の科学者があれほど成功を収めたのは、彼が果てしない宇宙の恐ろしい深淵に面と向かうことができたからだと漠然と考え、彼が常識や宗教的感情から距離を置いていること―つまり、人がいかに生きるべきかに関する決断から距離を置いていること―を彼の成功の秘密の一部だとみなした。こうして、われわれのボキャブラリーが形而上学的慰めに欠け、道徳的に無意味であればあるだけ、われわれが「実在に触れ」、「科学的」であり、実在をそれが記述されることを望んでいる通りに記述し、それによって実在を支配する見込みも大きくなる、と彼らは言うのである。第二に、彼らは、「主観的」な概念―われわれのボキャブラリーでは表現できるが、自然のボキャブラリーでは表現できない観念―を取り除く唯一の仕方は、ガリレオニュートンボキャブラリーにある用語、つまり「第一性質」を述べた用語に定義よって結びつけられない用語は使わないことだと考えた。

 この相互に密接した関連の誤り―つまり、ある用語は、道徳的に無意味であり、かつ予測に役立つ真なる一般化のなかで使われるものである場合に、「実在的なものを指示する」見込みが大きいという考え―が(バーナード・ウィリアムスの言う)「絶対的実在像」を求めるものとしての「科学的方法」という観念に内実を与えている。この「絶対的実在像」とは、われわれの表象であるのみならず実在自身の表象でもあるような表象によって表された実在、実在が実在自身にとってそう見えるはずの実在、もし実在が自分自身を記述できるとすればそう記述するはずの実在だと考えられている。ウィリアムズやデカルト主義に立つその他の論者は、この考えを筋の通ったものと考えているだけでなく、それを知識の本性に関するわれわれの直感のひとつとみなしている。だが、わたしに言わせれば、それはたかだか哲学的であるとはどういうことかに関する直感のひとつにすぎないのである。それは―はじめプラトンによって紡ぎ出された―古い哲学的空想のデカルト的な形態である。その空想とは、あらゆる記述や表象をくぐり抜けて、ありえないことなのだが、いまだ分節されていない直接的出会いと言語的定式化双方の最良の特徴を兼ね備えた意識状態へと到達することであった。〈自然自身のボキャブラリー〉を発見する、そして発見したということがどうにかしてわかるという空想は、ガリレオニュートンが「冷たい」「人間味のない」数学用語で書かれた、予測に役立つひとまとまりの普遍的一般化を定式化したとき、一歩具体化したように思われた。そして当時から今日にいたるまで、「合理性」、「方法」、「科学」といった観念はそうした一般化の追求に結びつかられてきたのである。

 

リチャード・ローティ著 室井尚ほか訳 『プラグマティズムの帰結』 ちくま学芸文庫 pp515∼518

 少し長い引用になりましたが、ローティが(認識論的に)今まで考えられてきた実在と科学の関係について述べた部分になります。ここで私が認識しておくべきと思ったのは、われわれが本物の実在に触れるためには理想や根本的原理といった証明不可能と思われる事柄から隔離されなければならないということが、「科学的である」という名の正しさと結びつけられて考えられてきたということです。その理論で言えば、私たちが科学的に理解可能な実存する存在であるためには幸福や希望からは遠く離れる必要があるのです。ばかばかしく聞こえるかもしれませんが、そういった考え方は今でも私たちの心理に根強く遍在しています。たとえば数値や統計に基づかない理想や理念を科学的でない絵空事として軽視するような状況は現代社会の中では多く見られます。そしてこの考え方がディストピアの根本になっているように思います。

 科学の粋を尽くして創生された新型レプリカントが不幸な存在であるのは、幸福と結びつく一切の物から隔離されているからであり、同じように制作した人間自身も幸福にはなれないのです。ただし、幸福を得るためにレプリカントは彼らにとってあり得ないかもしれない世界を夢見て行動を起こそうとしています。

 それはまさに、科学と精神という人間の創造を二分して真理に近づこうとした弊害に病んでいる世界への呼掛けであるように思います。

 

 ホライゾン ゼロ・ドーンは、自律型完全自動兵器スワームの暴走であるファロの災禍によって地球が破壊し尽くされ生物が絶滅する危機に対して、スワームの破壊から地球の再生までを人類亡き後AIであるガイアに託すゼロ・ドーン計画が実行された後の世界での出来事になります。ガイア構築に当たり、責任者のエリザベト・ソベックはなるべくガイアに人の感情を移入することを試みます。それがこの計画にとって不可欠なことを知っていたからです。

 実際に世界の構築に失敗し危機的な状況が発生した場合に発動するはずだったハデスの逆行プログラムが発動しようとしたときガイアが取った行動は、未来をソベック博士のクローンに託し身を隠すことでした。

 これがゲームの背景になります。

 

 プレーヤーはアーロイの正体は知らずに、養父ロストに育成を託された子どものころのアーロイからプレイし始めるのですが、父母のいないアーロイは異端の者として周囲に忌み嫌われています。その子どもがあるとき機械とアクセスできるフォーカスを手に入れた時から世界が変わっていくという設定です。

 

 この内容からも少しお分かりいただけると思いますが、ホライゾンの世界観は科学と宗教や思想、芸術との関係を並列させて成り立たせようとするものです。そして、前回も書かせていただきましたが、分岐の選択肢は常に3種類あって、それぞれ力、知恵、心というふうになっています。経験の内に習得するものを選択する際、アーロイは常に力と知恵と心のいずれの選択かを問われます。

 私にはこの工夫がとてもすごいことのように思えました。

 

 アーロイは次々と過去最先端であった科学について学び、そして周囲では人間や社会について学びとっていきます。育ての親であるロストを失ってからはほぼ一人きりでそれをこなしていかなくてはなりません。そんなときに彼女の脳裏に浮かぶ選択肢は常に三種類あり、そのことに悩まされます。そんなアーロイの姿は、今ある私たちの姿として自然で健全なことであろうとゲームをプレイしていくうちに気づかされていきます。

 

 他方、孤独なレプリカントは選択に対して常に無力で従うしかない存在として描かれていたように思います。たとえ選択したように思えたとしても、夢や希望には到底届かないものです。そのことは、科学と精神を分離した私たちの功罪ではないかと思えて仕方がありません。やっとの思いでKが託した希望が実りあるものになるかどうかわからないまま物語は終焉を迎えます。

 ブレイドランナー2049という物語がレプリカントに預けたのは科学と精神の両立という課題でした。そしてそこにいる人間は、生まれさせておきながらそのことを妨げる存在でしかないのです。

 

 このことは二つの作品を通じて一番大きく感じられたことになります。その他にも書きたいことはたくさんあるのですが、とりあえずこのトピックスはいったんここで終了させていただきまして、次回はまた別の話題にて書かせていただきます。

 

(※1)の個人による自然のコード化と存在についてもただいま試行錯誤中

 

 いつもご拝読いただきましてありがとうございます。ブログがなかなか更新できずに失礼をいたしました。実はここに至るまでの道のりが大変遠かったので、それらも含めまた少しずつ書かせて頂けたらいいなと思っています。

 

 今後ともよろしくお願いいたします。

2018年の抱負  ― ルールとディシプリン ―

 あけましておめでとうございます。

 いつもきていただいてありがとうございます。昨年は実はインプットを多めにしたせいで考え込んでしまうことも多くなってしまい、なかなかブログ更新できない中、こんな内容のブログなのにたくさんの方に見に来ていただけてとてもうれしかったです。

 

 このところ(年のせいかもしれませんがw)独りよがりな考えが多い事にも自分なりに葛藤があって、今年は少し外へ出ていろいろな方とお話が出来たらいいなぁと思っています。昨年から毎週お世話になっているお三方とももう少しちゃんとお話をしたい…。

 

 さて、去年の始まりのごあいさつに危機感については散々書かせていただいたのですが、政治的には騒ぎがあっても変化はなく、バブルが来たらしいといってバブルを懐かしむという変わった光景にもびっくりすることもなく、戦争の気配さえ感じられる日があったりして、今年は昨年より明るい道がさらに遠ざかっているように思えます。薄暗さや不安に反発するために社会全体が無理やり別の方向をみようとしているようにも見えないでもありません。そんな中「不感症なのに過敏」という、それは生理的には違うのでは…と思える病気がそこいらじゅうに蔓延してしまっているように感じます。人間は同じ病気ならば多感なのに鈍感であったほうがはるかに生きやすいはずで、私が育った下町などは昔はそんな人たちの集まりでした。しょっちゅう誰かの何かに対して心配したり喜んだり怒ったりしながら、でも多少触られてもなに?っているような、残酷ではあるけれどとにかく触れることはできていたので、そこではまだ感情の範囲で処理できる人間関係であったように思います。

 

 不感症なのに過敏である人間関係は、まずは触れられない。そして触ったとしても理解できない。残酷ではないのかもしれないけれど、そこに何も生まれない荒涼な世界が広がっているようです。そういう世界が出来てしまった背景には、おそらくいろいろなことに疲れてしまって残酷さに耐えられる余裕がなくなってしまったことが大きく影響しているのだろうと思います。平和に、穏便に生活することで安らぎを得ることはとても大切なことです。だからそうなろうとすることが悪いことであるはずがありません。でも、普通の人は生きることはそれでは済まされないこともよくわかっている。しかも周囲に敏感にならなければ自らに危険が及ぶかもしれないと察知させられるような環境がある。だから不感症なのに敏感になるのです。結果、誰かに対して理解ができなくなって不安の種ばかりが大きくなる。そういうディレンマに晒されなければならなくなってしまうほど疲れてしまったのはなぜなのだろうと悲しくなり、そして自分なりに相手を思いながらできる対処法を考えることにしました。

 

 まずは疲れないようにする。これは私が言うと怒る人がいるのであまり声を大にして言えないのですが、手を抜けるところは手を抜こう。

 

 そしてもう一つは、自分ルールは作る。でも自分ディシプリンは作らない。要するに、ある物事に対する適切な対処法についての判断はルール、つまり場合においてするものにして、規範、つまり自己支配してしまうような範疇の規則性から除外するということです。ルールがディシプリンからできることもあるので明確な使い分けは難しいのですが、とにかくその場その場できちんとルールは作っていこう。そして、そのルールが適応できない場においては、そこでまた考えていこうという方法です。

 実を言うと社会性とか精神性とか一貫性とかいう問題が次々出てくることが予測されますし、一方通行で相手方に迷惑がかかる場合も大いに考えられます。そこについてはもう一度自分の中で立て直していきたいという気持ちが大きいのです。ルールを作っていくうえできっと思いがけないことを発見することも、自分の嫌な面を直視する場面も出てくるように思います。それがねらいでもあります。

 

 今更何をと言われても仕方がないのですが、一年の初めですからバカみたいでも少し大き目な目標を立ててもいいかという気持ちになりました。

 

 さて、最初の今年のルールは本を整理して目録を3か月以内に作るにします。

 これはその、去年の課題の続きなので書いておいて自分を追い詰めるやつです…。

 

 

 こんな私ですが、本年もよろしくお願いいたします。

 また是非ブログに立ち寄って、できれば楽しんでいってください(^^)/

ブレードランナーとホライゾン❶ ― 情緒と生きやすさの問題 ― 

 先日ツイッターでホライゾン・ゼロドーンのことを少しつぶやきました。

 ダウンロードコンテンツ「凍てついた大地」の作中で、自分のことを神と崇める(可能性がある)人々に対して、人工知能であるシアンが彼らに自分の本当のことを言えないために不安感と違和感を持ち続けていることを主人公のアーロイに相談する場面についてです。

私は決して彼らの世界観や霊的信仰を否定する気はありません。

不確定要素が多かったためオーリアとの会話では多くの事実を排除していました。

 

嘘をつくべきか迷っているのか?

 

平たく言えばそうです。

 

〈選択〉

・真実を伝えるんだ(力の選択)

・自分で決めるんだ(知恵の選択)

・理解してやれ(心情の選択)

 

知恵の選択を選ぶ→

お前に任せるよ、シアン

オーリアの時は外のことを知らなかったんだ。慎重になって正解だよ。

だから自分の思うようにするといい。迷信を肯定しない限りだけどな。

 

バヌークは私のことを霊的存在だと信じています。どう反応されるか予測できません。

 

とにかくできるだけ正直に答えたらいい。そのうちわかる。

 

なるほど。あなたの助言に従います。

 

 少し補足すると、人間が破滅に追い込まれる危機の中、ある任務を帯びて作られた感情を持った優秀な人工知能であるシアンは、乗っ取りの危険を避けるために一旦終了し危機が過ぎたら再び目覚めるプログラムを開発者であるチャウ博士にインプットされます。そして目覚め孤独の中作業を続けるシアンに初めて接して話しかけた人間がオーリアで、オーリアが属する種族がバヌーク族になります。

 

 このゲームのシステムでは物語の分岐で3種類の選択肢が出て、それぞれ力・知恵・心情に依ったものであるということになっています。選択する語の末尾にそれがどの種類の選択肢になっているのかがわかるマークがついていて、プレーヤーが考えるヒントになっています。

 私が参考に見させていただいているYouTuberの方は少し悩んで知恵の選択をされました。それを見た時に、自らが信仰の対象になるかもしれないといった複雑な選択について感情を導入した人工知能(シアンには身体は与えられていない)に自分で判断させる選択をするということがどういう意味を持つのか考えさせられました。

 

 人工知能に感情を持たせるという行為は、外からの情報を基に自らの心情を発生させ更には表現させるということで、身体のないシアンの場合の感情表現は無論発話によるもののみです。ですからもちろんそのすべては言語による表現になります。

一方シアンは優れた人工知能なので、相手のある交流の場合その相手の状況を判断する術を持っていて、言葉遣いや心拍、動作などから相手がどのような状況にあるか推測することが可能です。そのうえで自らの適切な行動を選択して対応するということを実行します。

 ただしここで注視しなければならないのは、彼女が感情を持っているということは、その都度不安になったり喜んだりする自分を感じているということです。実際終了プログラムをインプットされる時、開発者であるチャウ博士に相当の不安を訴えています。チャウ博士はシアンの会話の内容から彼女の不安を理解し、それは恐怖であること、そして恐怖は誰でも持ち合わせる感情であることを説明します。

 

 チャウ博士がシアンに感情を引き起こすプログラムをインプットした理由は、それが彼女に与えられた役割(仕事)に必要だと判断したからです。彼女が適応能力を持つことの一環であり、それによって判断能力が向上することを意図していたと思われます。

 そこで、AIの任務の正確な遂行にあたって感情は必要なのだろうかという疑問が生じます。適切な作業を遂行するということは、その作業を分析して最適な作業を選択していくという事です。ここに感情を差し入れることが最適さの数値をあげられるかといえば、将棋や囲碁の世界で既に名人と呼ばれる人々が次々と人工知能に敗北する姿を見てもわかる通りそうとは言えないように思えます。

 

 それではチャウ博士はなぜ任務の遂行に感情の導入が必要だと感じたのでしょうか。

 

 実は作中チャウ博士が組織に対してシアンのプラグラムに感情を導入したことをいくらか誤魔化して申請した件が出てきます。そこまでしてなぜ博士はシアンに感情をプログラムすることが将来的に任務の遂行に有効になると判断したのかというと、私はシアンの任務が長期にわたって人々の安全を保障するための任務であったことが深く関係しているのだろうと思っています。安全性の確保のためには、その任務が本当に必要なのか、誰のための、何のための、そしてその任務を遂行した結果人々にどのような環境を提供することになるかなどが熟慮される必要があります。なぜならある安全性を確保したことで別の安全性を排除しなければならなくなるような場合が十分考えられるからです。そしてそのような判別しがたい判断に際して様々な配慮を下すために必要な情緒というものが人間には具わっていて、それによって機能性を重視した場合よりも安全のバランスが保たれる場合が確かにあるように思えます。

 このことは人間が感情を持つことのメリットと言えます。

 

 情緒は感情とは違い、ある物事への一時的な心の動きではなく、継続する心の働きです。

 

 一般的に生まれたばかりの乳幼児が適切な情緒を身に付けるためには他者の愛情が必要とされています。そのことについてはゲームの作中チャウ博士とシアンのやり取りを見てもシアンが愛情を受けて育つ環境が用意されていた様が容易に伺えます。そのためか、シアンの感情は非常に情緒に富み、それは適切に発生されたもののように思えます。

 

 そしてシアンはその情緒を持ってバヌークへの配慮について思いついたのです。

 

 さて、ホライゾンのことを考えた時、私には同時にブレードランナー2049のことが思い出されました。AIであること、幼児体験、情緒、安全性の確保、そして任務、存在。それらについてこの二つの物語を整理して比較することはとても楽しそうです。

 

 ということで、ずいぶんと長い事ブログの更新をお休みしてしまいましたが、この話題について次回以降もう少し深く掘り下げていきたいと思っています。

 

※今回参考にさせていただいた動画はこちらになります。2BROさんの動画はいつも参考にさせていただいています。
ありがとうございますm(__)m

youtu.be

自分でもプレイし始めたのですが、ここまで行くにはまだまだです。
このゲームについては他にも考えさせられることがたくさんあります。

 

【PS4】Horizon Zero Dawn Complete Edition

【PS4】Horizon Zero Dawn Complete Edition

 

 

恋愛の業と芸術性について  ― 北畠八穂(と深田久弥)のお話❷ ―

 生きるものとして存在すれば様々な環境下に晒されるのはやむを得ないことで、その晒され方によって私たち=自己の中に生まれる感情や精神の状態あるいはそれによって起こされる行動を人間性と呼ぶならば、私たちはそれとどのように付き合っていくべきでしょうか。

 

 相手がある場合(ほとんどの場合は相手があるものですが)、それによって双方の幸福が成立すればそれは安心で夢のある世界が開けることなのかもしれないし、双方が不幸ならば関係性が継続される限り地獄のような日々が続くのかもしれないし、片方が幸福で片方が不幸ならば有頂天になっている人がいきなり不幸になったり、苦しい人が苦しみから逃れるために不幸な人を作ってしまうかもしれません。しかしこれらは全て一過性のもので、関係性も時間の経過とともに変化していくのが普通です。人間性と呼ばれているものが素晴らしいものだといわれる理由は、その変幻自在さにあるように思われますが、他方、他者に対する配慮をもって周囲も自らも幸福であろうとする立場に生きる法則を人間性と呼ぶ人もあります。

 よりよく生きるという欲求を満たすために私たちは様々な行為を行っているわけですが、すべての人にその機会が平等にあり得るわけなどなく、しかも、どんな人物のどの行動に対してもそれに関わる他者の反応はまちまちで、それによって相手が幸福になるとか不幸になるとかいった予測は当てにならないことが多いものです。

 そのような状況で私たちは人間性と言われるものを抱いて生きているわけです。

 

 私は、業というものは自然発生的なものではなく、またカルマのような宿命的なものでもなく、この自らの内に生まれた人間性を自らの欲求を満たすために使用される意思の伴う行為によって生まれるものではないかと思っています。始めの意思自体はどこから生まれたのかも分からないですし、結果自分がどこへ行くのかも本当はわからないのですが、決定する意思によって得られる快楽的なもの(あるいは破滅的なもの)に私たちは魅せられてしまいます。

  恋愛と業との相性が良いのは、恋愛自体もどうしようもない感情から沸き起こるものであり、たちまち所有欲と相まって、いつの間にか人を違った環境に運び去っていくような、そういうものだからではないかと思います。

 人間性は人間を人間として存在させるため、その人にあらゆる思考や感情を生まれさせ、そして選択させます。選択することは移動することですから、移動することによって得たもの・捨てられたものが発生します。そしてその一連の意思の働きが業と呼ばれるものだろうと思うのです。

 

「なアによ、これ」

 歩けたウチョウテンの続きで、舌出しサンバの振りで手紙をヒラヒラさせた。振りむいた夫は、みるみるマキが20年近くの間、まだ見た例のない顔つきに変わった。血のひいたえぐれた、イビツな笑いだ。

(ンな、はずない)

(狂ったんじゃないか)

 二つが重なり、ななめに飛び交い、一つから一つが抜けて通って、かわりがわり抜けて、またならんで、むきあって、ぶつかった、その操作でマキは、急に中身をぬかれた半濁の、キミのないシロミばかりの卵になった。しかもカラまでブヨブヨする。半濁のシロミに、冷っこい臭いシラミがウジョとわいた。

 イビツな笑いを、別な方角のイビミに変えた夫は、ニカワでかたまる舌を、はがしでもするネバリで、

「マコに、知れるのが、こわかった」

(ペッ、マコって呼び方。声を出そう、私は消えそうだ)

「子供は」

貴方のかとは、喉につかえた。

「男の子だ。去年の、○月○○○日に生れた」

「―誰」

半濁のよどみの底に漂って聞く気遠さだ。

「久木の姉」

 もう一度マキは底を破った下にくぐらされた。

 久木は、マキが、サという場合、まして夫の友人達にも相談しにくい、こういう場合、頼りにしたい、とっときの青年だ。ものごとを、かみわけられる、わかりのいい、マキをも、よくわかってくれると思い込んで居た青年だ。シラミは黒くふえた。

 (非常扉がふさがった)

 久木の姉も、マキは見ないが知って居た。

 マキが病みついてから幾年かたつと、弱って死ぬかも知れないと、あとのことも気になった。夜、ならんでねて居る夫へ、

「ね、私が死んだらね。あとの奥さん」

「お、マコの御スイセンか」

おもしろそうに、夫は横顔で微笑した。

「ン、マキは死んだって、貴方の右の目と左の目に入っちゃうんだけど」

「そこで」

「久木さんの姉さんに来てもらって」

 トタンに夫の形相が、けわしく変わった。

「バカにするなッ」

 そんなはずではなかったマキは、

「だって、あの方、もう三十も半ばでしょ。も、いいんじゃない」

 オロオロととりなした。夫は、やっと、ふだんの、おだやかな夫になって、

「お前、どこかに世話して上げるンだナ」

 さアそれはと、マキは当惑してテレた。

 

北畠八穂 『東宮妃』収録「右足のスキー」 文治堂書店p101~104

 

 この場面は、まさに夫の裏切りを主人公のマキが知るシーンです。ここだけ書いてしまうと分かりづらいのですが、この場面は実はマキの回想シーンで、今マキはすでに無くなってしまった郷里の実家の敷地内にあった、かつての使用人の娘で霊媒師であるヌイの家にいます。ヌイの激怒と悲しみに触れ、マキはヌイには口にできないものの、かつて自分にあった出来事を想います。彼女が悲しみの淵にあった自分をその痛みと共に思い出している場面になっています。

 

 実は「右足のスキー」で本当に悲しいのはマキが夫に捨てられたことではありません。マキの幼少の頃思い描くことのできる楽園は、姑である祖母と母が仲睦まじく生活する〈健全家庭〉にこそありました。マキの父と長兄にはそれぞれ妾があり、すでに母は亡くなっているものの、それぞれの家庭は崩壊していることもあって〈健全家庭〉である自らの家をことのほか愛し、守り抜きたいと思っていました。そしてマキはその〈健全家庭〉の主である健全な夫のためなら自分のすべてを与えることを厭わない人でした。自らは病に侵されながらも〈健全家庭〉の女主人であることがマキの生きがいだったのです。そして、その〈健全家庭〉を周囲にも自慢にし、周囲も羨んでいました。なぜそこまで〈健全家庭〉にこだわったのか。それはたぶん居場所の問題なのだろうと私は思いました。

 

 25年前、テナーが初めてル・アルビに来て暮らしはじめた時、コケはばばなどではなく、まだ若かった。コケはひょいと頭を下げておじぎをし、この「若いお嬢さん」「白いお嬢さん」のほうを見て、にこっとした。オジオンの養女で、かつお弟子さんともなれば、直接口をきくのもはばかられる。とりあえずは最高の敬意を払って……というつもりらしかった。テナーはこの敬意がにせもので、その仮面の下に、嫉妬や嫌悪や不信が渦巻いているのを感じとった。どれも、自分がかつて高い位にあったとき、自分に仕える女たちからいやというほど見せつけられたものばかりだ。女たちは自分たちはなんの力もない庶民で、テナーは自分たちとはちがった特権階級の人間と見なしていた。アチュアンの墓所で大巫女の位にあったときも、よそ者でありながらゴントの大魔法使いの養女となってからも、テナーはいつもみんなから離されて上に置かれた。男たちはテナーに権力を与えた。男たちは自分たちの持つ権力を彼女と分ちあった。女たちは?女たちのなかにはそんなテナーに、ときに競争心をかきたてられる者があらわれはしたものの、おおかたはなんとなくばかにしながら、遠くから眺めていた。

 テナーは自分をいつも外に置かれた者、閉めだされた者と感じていた。彼女は陸の孤島のような墓所を支配する力から逃げだし、のちには自分を引きとってくれたオジオンが差し出してくれる学問の技や力からも身をひいた。テナーはこうしたものすべてに背をむけて、まったく逆の、女たちのいるもうひとつの部屋へ、その仲間になりたくて走った。テナーはそこで男の女房になった。百姓の女房になった。母親となり、女主人となった。そうやってテナーは女と生まれたからには誰もが引き受けることを引き受け、男たちの取決めによって女に与えられた権限を行使した。

 

ル=グウィン著 清水真砂子訳 『ゲド戦記Ⅳ 帰還』 岩波書店 pp50~51

 

 同じ子どもの本を書く人で、この気持ちを表現した人がいなかったかなぁと思い返して浮かんだのがル=グウィンの描くテナーの生活です。なによりも、自分の才能のすべてよりも、得ることを欲してしまうような〈居場所としての家庭〉というものの魅力について、そんな憧れを抱くのは女性ならではの価値観なのかもしれないと思うと同時に、この価値観の悲しみと生活というものに対しての人の有様について考えました。そして実はこの価値観こそが安住の地である家庭という夢を長いこと人に見させ続けている根源であるのだろうなと思います。

 

 マキは小説を一切読めなくなり、科学ものは味気なくなり、文化史と、道元の書と、知人の中で頭脳と言われる人の本しか読めなかった。

 人づてに、ある人が、

「マンガじゃないか。カカアは、カタワになって、テイシュの代わりに家業をやる。用がなくなったテイシュは、出来た金とヒマで、子を産ませる、バレりゃ、上がっちまって、処置ができない。アイコだねバカサ加減。」

 と苦笑したときくと、マキは、タダレに鹽をもみこまれて焼鉄を押っつけられたムゴさで、厚くたかったシラミの層の下に、性が生きた。マキの夫と誰より仲のいい友人が、

「お宅の女関係なら、ゾックリ知って居ますよ」

 ウフフと嘲った。マキのカサブタは、むけた。

 

北畠八穂 『東宮妃』収録「右足のスキー」 文治堂書店p133~134

 

 周囲の心ない言動によって傷つけられることにもはや耐えられなくなったことに加え、復員した夫の行動により拍車がかけられ、マキはとうとう耐え切れずに離婚を決意し、夫に申し出ます。

 しかし、離婚後もマキには穏やかな生活が訪れたわけではありませんでした。

 

 離婚してからのマキにも、この地獄の余波は、面相を変えて続いた。最下位のヤツラは、マキに夫という盾がないのに、つけこんだ。マキもまた、その盾の無さにとまどった。

 一丁と歩けないマキが、おぶさって用を足すと、

「あのザマで出歩くとは」と嘲られもした。

(これが健全家庭の妻なら)と、かむほど、ムダと知る歯をかんだ。

 

同上 p136

 

 他人からマンガだと言われ、私から見れば偽物の〈健全家庭〉も、マキにとってはとても大切な居場所であり、〈健全家庭〉にいられることが彼女にとってどれほど支えになっていたのかは明らかです。しかし、彼女にとっての〈健全〉を守ろうとしたあまりに彼女の目に映らなかった多くのものごとが、見えるようなったとたんに彼女をどんどんと追い詰めていく様子が、ここでは飾りっけなしに表現されています。〈健全家庭〉というマキの業が作らせた空間は、幸福を生み、また不幸も生みました。

 

 マキにとっては最終手段の、離婚という〈健全家庭〉を自ら放棄する方法を取った後にも、その傷がいえる間もなく世間はマキに冷水を浴びせかけます。それでもマキは小説家という仕事を武器に、なんとか自分の生活を軌道に乗せていきます。

 

 津軽の昨今と、マキの住む鎌倉の観光話が、ひとしきりあってから、ヌイの息子が、

「や、巫女様」

母親の杯をみたし、

「それ、いつでもマコさまを残念がってる、あすこ、しゃべれスナが(言ったら如何)」

と、けしかけた。くぐもり笑いをしたヌイは、

「ンス。ワレ思うんだ。マコさまがよ。バカみたいにつくしたのに、カタワにして、ああした目みせて、ヤソ様、見殺しにしたネシ」

 間が悪げに嫁が、煮つまった貝焼に鉄ビンの湯をさした。マキはヒジを起こした。

「ンや、ヌイ、ンばかりでも無い」

「ンで無いこと無いス」

 おだやかだけにヌイの非難は根深げだ。

「ヤソ教ではよ。ヌイ、一切、親玉に任せてあるのよ。親玉がやることを摂理ってナ」

「何ず事だべ。オカシコテ(めいわくな政事をする)大臣か、その親玉」

 ヌイは鰊のムシリ身をつまみかけた箸をつままずにふった。たじろいだマキだが、よんどころなく、

「ヤソの親玉はよ、ヌイ、出来ないものなしよ。出来ないものなしの為ることは、人のモノサシで測れない。ンだな。人からみれば、ツジツマの合わないこともある、けどもよ」

「無理だネシ、ヤソは」

 ヤソのわからずを憤ってヌイは鰊をつつく。

「なってないと見えてもよ。ヌイ、親玉が何か為る途中のスジミチだってば」

 息子が煙草の灰をはたいて応じた。

「ン、工事中ネシ、足場組むこともあるシ」

 不満げにヌイは鰊から箸をはなし、

「途中?途中は尺に合わなくてもいいスか」

「尺って人の尺だもの。ヤソの親玉は、尺いらず、ノビ、チヂミ自在にユウズウきくンでないかヤ。親玉の仕事の途中でな、ハカリかねる切ない場を支えた者は、つまり親玉が大事にしてる人だと約束があるのよ、ヌイ」

 ンッとクソいまいましげなヌイだ。マキは当惑だが、マキなりに、ヤソを背負わなければならない。

「ワレアよ、ヌイ、ワレにもツジツマの合わない摂理ってスキーを右足にはく。左足にはたのしみのスキーをはくんだ。左足のはよ。ワレの息の根止める十字架が能る度によ。その苦しみで今までにない根性がつくたのしみよ。」

「ワイハ、足もと悪いマコさまだエ、ドシラと乗ったら誰か引っぱって蹴るソリさ乗せたいネシ」

 マキの舌足らずな解説は、ヌイを納得させるどころか、とんでもない危険な方向へツンのめらせた。

「わからねエ、わからねェ、してもマコさま、どうしても、その片方ずつ、ヤソのスキーはくのだベシ、ワレア荒行ス」

 マキはあわてた。霊媒巫女が荒行するのは腹イセの呪いの時だ。

 ―相手を殺しちゃえば、つまんない―

 では、このヌイは収まるまい。

 

同上 pp144~146

 

 多くの傷を負いながらも自立への道筋を整え、マキはなんとか郷里に行けるまでの元気を取り戻し帰郷します。迎えるヌイはマキの味方であり続けてくれる身内であり、彼女の郷里は彼女をそのまま包み込んでくれる現実として存在していました。

 ところが、ヌイはマキを傷つけるすべてのものを憎しみの対象としたため、マキの信仰するキリスト教にまで恨み言をいいます。苦しみのあまり神を呪う物語はたくさんありますが、この場面のマキの反論、両足に履くそれぞれのスキーに自らの信仰生活と実生活の在り方を例えた例は、苦しみから抜け出せたからこそ言うことができる力強い言葉になっています。

 私がおもしろいと思ったのは、この物語の題名がたのしみのスキーである左足ではなく、摂理のスキーである「右足のスキー」であることでした。ヌイにははっきりとは言えなかったものの、信仰は確かに彼女の支えとなっており、何かを与えるというよりは、どんな自分であっても許しを乞える相手がいるということが彼女の支えになっているのではないかと私は勝手に思っています。絶対的な摂理の前にまごうこと無く立つことのできる右足のスキーは、誰が何といおうと自分の支えになるものです。信仰の尊さではなく信仰による強さとはどんなことかが私はここから読み取れました。

 この後の文章では意外な展開でキリスト教徒とはかけ離れた血の成す技としての救いについて書かれています。ユーモラスな表現の中にも私は少し怖いなぁと感じたのですが、ご興味を持たれた方は是非お読みになってみてください。

 

 話される言葉に対し、書かれる言葉は、思考と夢が反響しあう抽象的なこだまを喚び起こすという大きな強みをもっている。口で語られる言葉はわれわれからあまりにも多くの力を取りあげ、あまりにも多くの現前を要求し、われわれの緩慢さを完全に支配するゆとりを与えない。われわれを、限定されない静かな反省へと誘い込む文学的イメージが存在する。そのとき、イメージ自体に深みのある沈黙が合体するのが認められる。もしもわれわれがこの沈黙と詩の合体を研究しようとするなら、朗読にそって、休止と爆発の単純な線的弁証法を用いるべきではない。詩における沈黙の原理は、隠れたる思考、隠密の思考であることを理解しなければならない。イメージのもとに身を隠すことの巧みな思考が物陰で読者を待伏せるやいなや、喧騒は抑圧され、読書が、緩やかな夢見がちな読書が始まる。表現的な沈殿物の下に隠された思考を求めてゆくうちに、沈黙の地質学が発展してゆく。リルケの作品には、一字一句あの深い沈黙の数多くの例が見出されるが、この沈黙によって、詩人は読者をして耳に達する喧騒から遠く離れ、昔の言葉の古い呟きから遠く離れて思想に耳を傾けしめる。かくして、人が奇妙な表現的な息、告白のもつ生の飛躍を理解するのは、この沈黙がうまれたときである。

 

ガストン・バシュラール著 宇佐見英治訳 『空と夢』法政大学出版 pp376~377

 

 文学作品となった人間性は、喧騒から離れ、イメージの深層へと送り込まれ、生の飛躍の理解へと送り込まれていきます。そこで私たちが見るものは、もはやスキャンダルにまみれた非社会的な言動ではなく、生の存在があった証であり、様々に照らして思うことのできる表現世界の大空間に浮かぶイメージです。

 

 ところで、作家が現実的に体験した出来事、ここで私が引用した、マキの幸福な空間作りが引き起こすことになった業の深さや、マキの夫が妾を作り子を成したという業の深さを、読者である私たちはどうやって消化したらよいのでしょうか。

 このブログ記事の表題なのでこの部分を追求しなくてはならないのですが、ここまで書いてみて私には作品にしてしまった時点で作家にとって現実はとうに過去のことになっていて、事件そのものについて正確に話すことのできる人はいなくなってしまっているのだよなぁと感じました。当事者が過去にしてしまっているものを、作品から憶測して実際にあったことをどうこう考えるのは少し違うのではないかとも思います。

 研究者ならば、作家の人生や生い立ちを調べて作品に照らして研究することは意味のあることですし、作家に興味のある人は同じように作家自身について考えることもおもしろいでしょう。

 

 ただ、恋愛の業について、作家の恋愛の業をいくら調べたところで、自らが知らないことはわからないのではないかと思うのです。作品による疑似体験はあくまで疑似体験であって、疑似体験の業の深さに死にたくなるようなことがあってはならないし、あったとしても偽物だとしか思えません。

 一方で、恋愛の業はあるという感覚を持つことは大切なことだと思います。今回の「右足のスキー」の場合の夫の業とマキの業。そのどちらも感じることが必要で、それを感じることのできた感想を持つことには意味があったと感じています。

 

 自らの業や自らが体験することになった他者の業について、それを作品にすることも業であるならば、その業は作家や芸術家という職業が持つ特殊な業であり、作品は業によって作られたいわば人間性の縮図なのですから、芸術作品というものは業の形であり、芸術家は業に形を与える人々だということもできるように思います。

 

 そんなことをした人を許せないという気持ちを持ったり、それは人間であるから仕方のないことだと思うことは、こちら側の判断でしかないのですから、当の作品の作家にとっては大きなお世話でしょう。それは作家として受ける批判ではなく人間として受ける批判であるべきだと思います。そして、そこを分けて考えることは、芸術を芸術として成り立たせるためにはとても大切なことでしょう。

 同じ人が作っている以上、受け手から見れば難しい事かもしれないとは思いますが、そうでなければ豊かな芸術作品と呼ばれるものは生まれなくなってしまうように思われます。

 

 そこに業があった。それは私の知るもの(知らないもの)であった。その業はある場所を焼き尽くして、そして違う場所に違う形で再生させた。

 

 作品が生むものがたりを身近に感じ、それが私たちの奥深いところに語り掛ける静かなイメージを持つことが私たちにとって芸術体験と呼ばれるものであるならば、実は業は作品のコアな部分で心音を立てる心臓のような役割を果たしたりしているのかしらと思いました。

『フクロウの声が聞こえる』 いつかがいつか❷

 まだ『フクロウの声が聞こえる』を聞いていらっしゃらない方のためにあまり突っ込んだ書き方をしないほうがいいかなという思いもあったのですが、思いのほか読んでくださっている方が多くて、申し訳なかったです。

  前回書かせていただいたものが「感想を聞かせて」に対して「感想を述べました」というものだったので、わりと無根拠に思ったことを並べただけな感じになってしまっていて、ブログを読んでいただいた方には全く分からなかっただろうなぁと反省しております。ここにもう少し具体的に書かせていただきます。

 

(1)子どもと魔法の親和性、そして混沌について

 小沢さんはご自身の二番目のお子さんの誕生を迎え、セカオワのSaoriさんが妊娠されていることを公表されましたが、そのこととこの曲を作ることとの関連の不思議さもYouTubeのなかで少しおっしゃっていましたね。

 命が生まれるというのは、生物学的に言えばとてもシンプルで、種の保存の法則に乗っ取っているだけといえばそうなのですが、その命に意思があって生命が宿っていることについての不可思議さから人は逃れることはできません。そして子どもといると、その意思とは自然なものから始まっているのかもしれないと思われる瞬間があります。

 ともあれ、進化にせよ、思考にせよ、ストカスティックな過程の中では、新しいものはランダムに生じるものの中から引き抜かれてくるほかはない。そして新しいものが、ランダムな世界でたまたま姿を現したそのときに引き抜かれてくるためには、その新案が、以降も存続していくことを請合う何らかの選択構造が存在していなければならない。何か自然選択のようなものが、その自明の理とトートロジーをもって支配していなければならない。「新しいものが生き続けていくためには競争相手より強い耐久力をもっている必要がある」「ランダムな現象の波のなかにあって長く消えずに残るものは、より早く消えていくものより必ず長く生き続ける」―自然選択理論とは、凝縮していうならば、こんな理論なのである。

 マルクス主義歴史観は―ダーウィンが『種の起源』を書かなくとも、ほかの誰かが5年以内に同じ内容の本を書いていたはずだという主張につながるあの歴史観は―社会全体の変転過程が収束的であるという見解を、個々の人間が関わる出来事へ適応しようとした不幸の努力であったといえる。誤りはここでも理論階型の混同にある。

 

※ ストカスティック stochastic(語源であるギリシァ語のstochazeinは「的を目がけて弓を射る」、つまり、出来事をある程度ランダムにばらまいて、その中のいくつかが期待されている結果を生むことを狙う、の意。)出来事の連続がランダムな要素と選択的プロセスの両方を兼ね備え、ランダムに起こった結果の一部しか存続を許されない場合、それをストカスティックな連続と言う。

 

グレゴリー・ベイトソン著 佐藤良明訳『改訂版 精神と自然 生きた世界の認識論』新思索社 p58

 

  「個々の人間が関わる出来事は収束的ではない」ということについて、大人になるにつれ忘れてしまうのは、おそらく社会というものの中に生きる私たちに植えつけられる烙印みたいなものかもしれないと思ったりしています。子どもが自然の魔法の中で自由に生きられるように見えるのは、この烙印からまだ逃れられているからで、彼らが見る世界は、神と同じランダムな世界なのかもしれません。そしてその世界が見える人たちと自然の中に入っていくと、あたかも神が見るような混沌とした世界が広がって、その世界が本当の世界だと感じることができるでしょう。

 

渦を巻く 宇宙の力 深く僕らを愛し 少し秘密を見せてくれる

 

『フクロウの声が聞こえる』

 

 神が取捨選択する方法において、何がいいもので何が悪いものという判断は、人間のそれとはずいぶんと違う。それは大昔から分かりきっているので、自然の神々はみな少し箍が外れて見えます。その箍が外れた恐ろしさが魔法を魔法と呼ぶ理由だと私は思っています。そして無垢な子供は、その魔法を素直に身に受け怖ろしさの中に人知を超えた勇壮で偉大な心躍る何かを見出すことができるのです。

 

神々の手の中にあるのなら

その時々にできることは

宇宙の中で良いことを決意するくらいだろう

 

無限の海は広く深く

でもそれほどの怖さはない

宇宙の中で良いことを決意する時に

 

『流動体について』

 

   それを知っている私たちは、この世界でよりよく生きるためにできることは、宇宙の中で良いことを決意することだといっていたのが小沢さんが前回発表された『流動体について』でした。

 


小沢健二 - 「流動体について」MV

 

 

 

 まだ今の社会ではなく、自然の神と一緒に生活していたころ、人は混沌の中で生きる術を学んでいました。それは世界と繋がって生きていくことでした。しかし人はいつか自然の支配者として生きる方法を模索し、そのためにあらゆる努力をしてきました。そうするうちに人は自然とも神ともどんどんと遠い存在になっていきます。そんな中にあって混沌と生活することはとても難しいことです。そのことに気がついたときにできることとはいったい何でしょう。

 それは現状を見ればいろいろとわかることですが、収束的に生きてきた人はおそらく急に得策を思いついて回避できるほど器用ではなくて、間違いを起こして失敗しなければ分からないことが多いようです。

 

いつか混沌と秩序が一緒にある世界へ

 

いつか孤高と共働が一緒にある世界へ!

 

導くよ!宇宙の力 何も嘘はつかずに ありのままを与えてほしい

震えることなんかないから 泣いたらクマさんを持って寝るから

 

『フクロウの声が聞こえる』

 

 最後の一行の解釈は難しいところですが、 私はこの歌のコンセプトはいつか自然と社会とが一体になって生きられる方法が見つけられるはずだという小沢さんの思いと、子どもたちの未来への希望なのだろうと思います。

 

 それで私が、今をどう生きるべきか不安になったのは、クマさんがなんなのかを具体的に書けないのが芸術だからなのかもしれません。

 

 単調な価値とは、上昇または下降を続ける値を言う。その曲線にはこぶがない、つまり上昇から下降へ、下降から上昇へと転じることがない。生物が欲求する物質、物体、パターン、あるいは生物が何らかの意味で”いい”と感じる経験―食物、生活条件、温度、楽しみ、セックス等―に関しては、多ければ多いだけいいというようなことはけっしてあり得ない。つまり物質や経験の最も好ましい量というものが存在する。その量を越えてしまうと、毒性が生じ、その量から落ち込むと欠乏感が生じる。

 この生物的価値のもつ特性は金銭には当てはまらない。金銭の価値は常に単調な関数をなす。多ければ多いほどよいとされている。1001ドルのほうが1000ドルより常に好まれる。ところが生物学的にこのような価値は存在しない。カルシウムの量が多ければ多いほどいいということはない。各生物にとって、摂取すべきカルシウムの最適量というものが存在するのである。この量を越えると、カルシウムも毒性を持つようになる。同様に、われわれが呼吸する酸素の量も、食物およびその成分の量も、そしておそらく人間関係、生物関係のあらゆる構成要素についても、過ぎたるは”十分”に及ばない。精神療法の施し過ぎという場合さえ存在する。戦いのない関係は生気がなく、戦いが多すぎる関係は毒性を持つ。望ましいのは、戦闘性が最適値にある関係だ。金銭も、それ自体ではなく、それが所有者に及ぼす作用を考えるときは、やはりある限度を越えると毒性に転じるといえよう。いずれにせよ、金銭哲学―金は多ければ多いほどよいという答えをはじき出すような前提の集合―はまったくもって反生物的である。とはいえ、この哲学を生物が学習しうるということも、また事実ではある。

 

グレゴリー・ベイトソン著 佐藤良明訳『改訂版 精神と自然 生きた世界の認識論』新思索社 p70 

 

 とりあえず、もう間違えを侵さずに考えていこうよということが具体的に提案できるところまで示してくれるものを、私はクマさんにしたいのかなぁと思いますが、みなさんはいかがですか?

 

精神と自然―生きた世界の認識論

精神と自然―生きた世界の認識論

 

 

 この本はよく見ないと軽い本だと勘違いされやすい表紙だよなぁと常々思っているのですが、ベイトソンがその知識を具体的に分かりやすく示してくれたとても勉強になる本です。今見たら定価の倍以上の値段になっていて驚きました…。

 違う場面でもう少し詳しくご紹介できたらいいなと思います。

 

 ここまでで長くなってしまったので、神の音と神の声などのお話はまた今度。