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『騎士団長殺し』の考察 ― 3. 二重メタファーと本当の悪である男のこと ―

詩人はふりをするものだ

そのふりは完璧すぎて

ほんとうに感じている

苦痛のふりまでしてしまう

 

フェルナンド・ペソア  『断章』 1

 

 

二重メタファーについて

 

…心 が〈 二重 思考〉 の 迷宮 へと さまよい こん で いく。 知っ て い て、 かつ 知ら ない で いる こと ─ ─ 入念 に 組み立て られ た 嘘 を 告げ ながら、 どこ までも 真実 で ある と 認める こと ─ ─ 打ち消し 合う 二つ の 意見 を 同時に 奉じ、 その 二つ が 矛盾 する こと を 知り ながら、 両方 とも 正しい と 信ずる こと ─ ─ 論理 に 反する 論理 を 用いる ─ ─ 道徳性 を 否認 する 一方 で、 自分 には 道徳性 が ある と 主張 する こと ─ ─ 民主主義 は 存在 し 得 ない と 信じ つつ、 党 は 民主主義 の 守護 者 で ある と 信ずる こと ─ ─ 忘れ なけれ ば いけ ない こと は 何 で あれ 忘れ、 そのうえで 必要 に なれ ば それ を 記憶 に 引き戻し、 そして また 直ちに それ を 忘れる こと、 とりわけ この 忘却・想起・忘却 という プロセス を この プロセス 自体 に 適用 する こと( これ こそ 究極 の 曰く 言い がたい デリケート な 操作)─ ─ 意識的 に 無意識 状態 になり、 それから、 自ら 行なっ た ばかりの その 催眠 行為 を 意識 し なく なる こと。〈 二重 思考〉 という 用語 を 理解 する のにさえ、〈 二重 思考〉 が 必要 だっ た。

 

ジョージ・オーウェル著 高橋 和久訳  『一九八四年 』(ハヤカワepi文庫)  早川書房 Kindle 版 (Kindle の位置No.982-993).

 

 これはオーウェルの『1984年』の中の二重思考(Doublethink)について詳しく記載されている部分です。これと『騎士団長殺し』の二重メタファーとの類似性についてずっと考えていたのですが、メタファー通路で捕まってしまうと危険だとメタファーから告げられた二重メタファーとは、この文章の最後の部分〈意識的 に 無意識 状態 になり、 それから、 自ら 行なっ た ばかりの その 催眠 行為 を 意識 し なく なる こと〉をそのまま応用して〈意識的に暗喩に変換し、自ら行ったその暗喩したものの本体について、さらに暗喩して別の物として本体自身のことを自身でも解らなくしようとすること〉と定義することができるように思います。そして、『1984年』でビッグ・ブラザーと呼ばれている(架空の、そして至高だと信じられている)指導者は、『騎士団長殺し』では、「あなたの中にありながら、あなたにとっての正しい思いをつかまえて、次々に貪り食べてしまうもの、そのようにして肥え太っていくもの。それが二重メタファー。それはあなたの内側にある深い暗闇に、昔からじっと住まっているものなの」と言われる白いスバル・フォレスターの男なのです。

 

 さて、『騎士団長殺し』の主人公はメタファー通路の無を行き、無と有の間の狭間(川)を渡り、行動の関連性の道を通り抜け二重メタファーとの対決の時を迎えます。彼を二重メタファーから解き放った鍵は、理性を捨て去り、〈その場所のすべては関連性の産物だ。絶対的なものなど何もない、すべては相対的なものなのだと信じる〉ことでした。

 

正義について

 

「分かり ませ ん ─ ─ どう でも いい ん です。 でも どうやら あなた 方 は 失敗 し そう です。 何 かが あなた 方 を 打ち破る。 人生 が あなた 方 を 打ち破る でしょ う」 「われわれ が 人生 を すべて の レベル で コントロール し て いる の だ よ、 ウィンストン。 君 は 人間性 と 呼ば れる よう な 何 かが 存在 し、 それ が われわれ の やる こと に 憤慨 し て、 われわれ に 敵対 する だろ う と 思っ て いる。 だ が われわれ が 人間性 を 作っ て いる の だ。 人間 という のは 金属 と 同じ で、 打て ば ありとあらゆる かたち に 変形 できる。 いや ひょっと する と、 プロレタリア か 奴隷 が いつ の 日 か 蜂起 し て、 われわれ を 打ち倒す など という 以前 の 考え に 逆戻り し た のかね。 そんな 考え は 捨て去る こと だ。 かれ ら は 無力 だ、 動物 と 同じ。 人類 が 党 なの だ。 他 は 除けもの に し て いい ─ ─ 関係 が ない の だ」 「構い やし ませ ん。 最後 に はかれ ら が あなた 方 を 打ちのめす。 遅かれ 早かれ、 かれ ら は あなた 方 の 真 の 姿 を 知っ て、 ずたずた に 引き裂い て しまう でしょ う」 「そんな こと が 起こり そう な 証拠 でも どこ かに ある のかね?   あるいは そう なる という 必然的 な 理由 でも?」 「いいえ。 わたし が 信じ て いる だけ です。 あなた 方 が 失敗 する と 分かっ て いる ん です。 宇宙 には 何 か ─ ─ わたし には 分かり ませ ん が、 精神 とか 原理 といった よう な もの で ─ ─ あなた 方 が 絶対 に 打ち勝つ こと の 出来 ない もの が ある ん です」 「神 の 存在 を 信じ て いる のかね、 ウィンストン?」「いいえ」 「それなら われわれ を 打ち破る という その 原理 とは、 いったい 何 なの だ?」 「分かり ませ ん。『 人間』 の 精神 です」 「それで、 君 は 自分 の こと を 一人 の 人間 だ と 思っ て いる のかね?」 「はい」 「君 が 人間 だ と し たら、 最後 の 人間 に なる、 ウィンストン。 君 の よう な 人間 は 絶滅種 なの だ。 後継者 が われわれ だ。 自分 は 独り だけ だ という こと が 分から ない かね?   君 は 歴史 の 外 に いる、 君 は 非存在 なの だ」 彼 の 態度 が 一変 し、 それ まで 以上 に 荒々しい 口調 で 言っ た ─ ─「 君 は われわれ よりも 道徳的 に 優越 し て いる と 思っ て いる の だろ う?   われわれの よう に 嘘 は つか ない、 われわれ の よう に 残酷 では ない と?」 「はい、 自分 の 方 が 優れ て いる と 思っ て い ます」

 

ジョージ・オーウェル著 高橋 和久訳  『一九八四年 』(ハヤカワepi文庫)  早川書房 Kindle 版 (Kindle の位置No.7966-7994)

 

 結局自らはビッグ・ブラザーの手に落ちてしまった哀れなウィンストン。彼がオブライエンとの洗脳の戦いの最中口にする言葉です。ウィンストンのいる環境は過酷で逃れる術はなかった。なぜなら、ウィンストンこそが英雄の器だったからです。たった一人の少女を救う闘いと、国を救う闘いとでは相手が違って当然ですが、この物語でウィンストンが目指した勝利を『騎士団長殺し』の主人公が勝ち取ることは、村上春樹が意図したことであっただろうと想像できます。

 『1984年』をじっくり読み解くことは結構な苦痛を強いますが、やはりきちんと読んでおくことをお勧めします。『騎士団長殺し』で表現されている雨田具彦氏に起きた事実や洗脳について、『騎士団長殺し』の中でも酷いことであったと想像はできますが、より具体的にどれほどの傷を負わせられるものなのか、その時人は何を思うのかを考えさせられます。

 

「ひとりひとりの人間がもっているそのような〔真理を知るための〕機能と各人がそれによって学び知るところの器官とは、はじめから魂のなかに内存しているのであって、ただそれを―あたかも目を暗闇から光明へ転向させるには、身体の全体といっしょに転向させるのでなければ不可能であったように―魂の全体といっしょに生成流転する世界から一転させて、実存および実存のうち最も光り輝くものを観ることに堪えうるようになるまで、導いて行かなければならないのだ。そして、その最も光り輝くものというのは、われわれの主張では、〈善〉にほかならぬ。そうではないかね?」

「そうです」

「それならば」とぼくは言った、「教育とは、まさにその器官を転向させることがどうすればいちばんやさしく、いちばん効果的に達成されるかを考える、向け変えの技術にほかならないということになるだろう。それは、その器官のなかに視力を外から植えつける技術ではなくて、視力ははじめからもっているけれども、ただその向きが正しくなくて、見なければならぬ方向を見ていないから、その点を直すように工夫する技術なのだ」

「ええ、そのように思われます」

「そうすると、魂の徳とふつう呼ばれているものがいろいろとあるけれども、ほかのものはみなおそらく、事実上は身体の徳のほうに近いかもしれない。なぜなら、それらの徳はじっさいに、以前にはなかったが後になってから、習慣と訓練によって内に形成されるものだからね。けれども、知の徳だけは、何にもまして、もっと何か神的なものに所属しているように思われる。その神的な器官〔知性〕は、自分の力をいついかなるときもけっして失うことはないけれども、ただ向け変えのいかんによって、有用・有益なものともなるし、逆に無益・有害なものともなるのだ。それとも君は、こういうことにまだ気づいたことがないかね―世には、『悪いやつだが知恵はある』と言われる人々がいるものだが、そういう連中の魂らしきものが、いかに鋭い視力をはたらかせて、その視力が向けられている事物を鋭敏に見とおすものかということに?この事実は、その持って生まれた視力がけっして劣等なものではないこと、しかしそれが悪に奉仕しなければならないようになっているために、鋭敏に見れば見るほど、それだけいっそう悪事をはたらくようになるのだ、ということを示している」

「まったくそのとおりです」と彼は答えた。

「しかしながら」とぼくは言った、「そのような素質をもった魂のこの器官が、もし子供のときから早くもその周囲を叩かれて、生成界と同族である鉛の錘のようなものを叩きおとされるならば、―この鉛の錘のようなものは、食べ物への耽溺とか、それと同類のものの与える快楽や意地きたなさなどのために、この魂の器官に固着してその一部となり、魂の視線を下のほうへと向けさせるものなのだが―、もしそういったものから解放されて、真実在のほうへと向きを変えさせられるとしたならば、同じ人間のこの同じ器官は、いまその視力が向けられている事物を見るのとまったく同じように、かの真実在をも最も鋭敏にみてとることであろう」

 

プラトン著 藤沢令夫訳 『国家(下)』岩波書店 pp115~117

 

  『1984年』でウィンストンが考えた「人間の持つ何か」と彼の夢見た国家とその指導者について、この先の部分にも多くのヒントが隠されているのですが、いかんせん人の世とは、ソクラテスが考えるような、本来は誰もが持ち合わせている正義について、方向を定めさせてくれないものなのだなぁとつくづく感じます。

 

 二重メタファーの脅威を抜けて、まっすぐ光を見て生きられる世の中にいられることになった『騎士団長殺し』の主人公は、奇跡の娘を得て幸福に暮らします。最後の東日本大震災の映像を彼女に見せなかった時の「何かを理解することと、何かを見ることは別なのだ」だとか、「どこかに私を導いてくれるものがいると、私は率直に信じることができる」と自分を考えることのできる主人公は、この物語を読むと、ある意味英雄なのかもしれないと思ってしまったりもするのです。この時代の英雄は一人の指導者ではなくて、自分自身と戦える人なのかもしれないと。

 

「心は記憶の中にあって、イメージを滋養にして生きているのよ」

 

村上春樹著 『騎士団長殺し 第2部 遷ろうメタファー編』 p376

 

イメージは私の大好物。心について考えるのも難しいけれど楽しいですね。

 

 

おしまい

内省するサイコパスと夢の儚さについて

霜草蒼蒼蟲切切

村南村北行人絶

独出門前望野田

月明蕎麦花如雪

 

村夜 白居易

 

サイコパスと内省するサイコパス

  自分はサイコパスという人の話を今日は二度聞きました。

 

  私はふーんと考えながら、サイコパスには夢があるんだなぁと思っていました。

 

  国会はまさに自分の言うことこそ真実だと疑わないサイコパス達の巣窟で、昨日言ったこととは反対のことを言っているのに、その真実性を滔々と訴えていました。アメリカではそれを大統領補佐官によって〈オルタナティブ・ファクト〉と定義されたらしい。穴埋めする事実で私たちは本当のことを目隠しされようとしている。意識は理論に遠ざけられて真実は捻じ曲げられていく。もちろんアメリカではそんなことは許されない。日本では?

 

   そもそも真実の穴埋めは歴史によってなされていました。それが正しいか正しくないかが書き換えられることなど、どの時代にもあったことで、我が国を神の国だとする『古事記』がその代表格だといえます。私たちが遠い大陸から渡り着いた何種類もの人種による混血の集団であるという事実と、神の作りたもうた国の神の子だという〈オルタナティブ・ファクト〉は、私たちの血に既に両立する真実として刻印されていて、日の丸を見るたびに固有民族の固有国家というイメージを私たちに印象付けます。

  私は、そのこと自体に嫌悪感を持つほどの正義感は持ち合わせてはいませんが、事実と〈オルタナティブ・ファクト〉の両方を受け入れている自分は感じます。そして、そのことに対して別段危険は感じません。なぜならそれは、日本という国家に積み重ねられた歴史上の真実だと認識できるからです。そして、真実などというものは個人の思い込みで、事実とは異なるということを知っているからです。

 

  このことが皆に把握されている限り、そう危険はないはずだというのは私の思い込みで、実は〈オルタナティブ・ファクト〉だけが真実だと説く独裁者が現れ、そしてそれが一度皆の心理に受け入れられれば、生命の危険を回避できない経験を繰り返すという罪。その罪に自国が突進していくとは、よもや起こるまいと思っていたので最近の出来事は思いもよらぬことでした。まさに光の矢が自分に降ってきた感じも否めません。

 そしてそういうことこそが、サイコパスの罪だと私は思います。

 

 ヒットラーが自分の犯した罪について深く恐怖を抱いていたか知ることは、自害して果てた彼に聞くことはできないので無理ですが、いま日本でその事実を目にする限り、そんな恐怖を抱く者はいないように思います。むしろ恐怖を抱いているのは、戦争という体験を通して死を間近に感じた人達であろうかと思いますが、愛国心とは恐ろしいもので、人殺しをしても恐怖しない人を作ってしまう。そんな人達もサイコパスなのだろうなぁと思います。

 

 この人たちに内省する行動を強いることはできません。なぜならサイコパスだから。

 私が今日話を聞いた二人のサイコパスと自称するサイコパスは内省するタイプのサイコパスで、なるほどサイコパスには、というよりサイコパスという語には、夢があるのだなぁと感じました。

 

内省するサイコパスの儚い夢

  私の今日出会った内省するサイコパスには、共通の夢がありました。それは、「自分は異常者だから正常には成れない」という夢です。これのなにが夢かとお思いになる方もいらっしゃるかと思いますが、〈常に正常であること〉は通常かなり難しく、ふつうこの境地に達したいと思うなら出家するしかないよねというのが私の考えです。出家とは私の認識だと、この世から縁を切るということです。この世と縁を切るというのは、死ぬということでは決してなくて、世俗を離れるということです。

 

 人が世俗で正常であり続けるためには、普通は日常で受けた傷を癒す場が必要であり、それが家庭であるのが一般的とされてきたので、何かのサークルであったり、SNS内の別人格であったり、ゲーム内の別人格であったりすることで少し混乱は起きている気はしますが、人はその(まあ異常が許される)場をもってやっと正常が保たれるのです。だから、「自分は異常者だから正常には成れない」夢は夢であって、異常者になって夢が叶うならそれもありかなぁと思わせました。 

 

 私はこんな性格なのでサイコパスになる夢は持てなくて、今は隠遁の身でありますが、それでも家庭の私であったり、ツイッターの私であったり、勉強する私であったり、ブログを書く私であったりして私をやっと保っていけていて、そのために家族や私に手を貸してくださる方がいる世界と、たった一人ぼっちの私である世界の二つの必要性は感じています。

 

 内省するサイコパスたちもそのことは重々承知しているようで、それじゃあどこが異常なんだよということになると、まあ、サイコパスに夢を持つ異常なんだよってことですよね。それがいいのか悪いのかは人によって判断されにくいと思いますが、それが病的だと言えばそうだし、いや、今は一般論として普及しているのじゃないかという人もあるかもしれません。私はどんな夢でも夢を持つのは悪いことじゃないし、それで本人が救われてたり落ち込んでたりするのを楽しく拝見させていただいている方の性格異常者ですw

 

 ということで、あー今日も遅くまでこんなことをしてしまった。でもブログ読んでねって思っていますw(ちなみに4時だぁ)

 

 冒頭の白居易の詩はお気に入りなので載せただけで別段内容とは関係はございません。ツイッターにも載せましたが、今日ふと口に出て、本当に韻の美しさって偉大だなぁと思ったので載せました。読み仮名は振ってないのですが、興味のある方はぜひググって読んでみてください。秋の詩で季節外れですが、グッときますよ!

そうそうそうそう、むしせつせつ(うわ、ブルル)

『騎士団長殺し』の考察 ― 2.メタファーについて(2)芸術と存在 ―

いまの私は、まちがった私で、なるべき私にならなかったのだ。

まとった衣装がまちがっていたのだ。

別人とまちがわれたのに、否定しなかったので、自分を見失ったのだ。

後になって仮面をはずそうとしたが、そのときにはもう顔にはりついていた。

 

フェルナンド・ペソア 『断章』55

 

メタファーが住み着いた絵

意識は、ある経験の契機の人為性を強化する武器である。それは最初の〈実存〉の重要性との関係にしたがって、最終的〈現象〉の重要性を昻める。こうして、意識のうちで明晰判明なのは、〈現象〉であり、そして意識内でほとんど区別されえない諸細部を伴って漠として背景に横たわっているのは、〈実在〉である。意識の注意のうちに飛び込んでくるのは、〈実在〉そのものの直観というよりも、むしろ〈実在〉に関する一塊りの前提である。誤りに陥りがちなことが起こってくるのは、まさしくここである。明晰判明な意識の引き渡しは、経験内での明晰でも判明でもない要素に照会することによる批判を必要とする。これらの要素は、逆に、漠然としており、重厚で、そして重要なものである。これらの要素は、芸術に、色調のあの最終的背景を提供するものであり、それを度外視すれば、芸術の効果は薄れてしまう。人間の芸術が探し求めるタイプの〈真理〉は、明晰な意識に現示される客体につきまとうこの背景を引き出すところにある。

 

ホワイトヘッド著作集第12巻『概念の冒険』 山本誠作・菱木政晴訳 松籟社 p372

 

 私がこの引用で何が言いたかったかといえば、あの雨田具彦画伯の絵にはなぜメタファー(顔なが)が描かれていたかということです。もちろん、メタファーであるところの〈顔なが〉は雨田具彦が描いた時には、この「絵には隠された秘密がある」ということの隠喩の部分を表現するために描かれたということは想像できます。しかし、その部分は一般的には描かれるようなものではないはずです。

 上述のホワイトヘッドの引用にもあるように、「人間の芸術が探し求めるタイプの〈真理〉は、明晰な意識に現示される客体につきまとうこの背景を引き出すところにある」のですから、「漠然としており、重厚で、そして重要なもの」として鑑賞側に読み取られなくてはならないものです。そこを、敢えて描くことによって表象したのは、無論雨田画伯の思いの強さが引き起こした衝動からであり、あの絵が他者に触れることなく客間の屋根裏に隠されていた理由でしょう。それだけ雨田具彦のあの絵に込めた思いは強く、重く、そしてメタファーによって深い深い闇の中に隠蔽されていたのです。

メタファーが繋ぐもの

 見者が自閉的に自らの幻視に淫したり、秘教知への解釈の鍵を欠いていたりすると、理性にして、かくて非理性と、あざとく踝を接するのである。プラトンにとって、そして特に後期の幻覚好きなネオプラトニストにとって、知は内観であり、判別知の高められた何かであった。個をそれに先行するものから峻別すべき分離分別などない。何かが真と言えるのは、個別の中小真理が不十分に反映しうるのみの大真理イデアあればこそである。一者がその表現形態のうちの何かと同一ということはありえないが、それらはそれぞれのやり方で同じ現実に参加している。探究者と探究対象の間の類似が見抜けないでは親和力(affinities)の発見も何もあったものではない、とプラトンは言っていた。しかるに、繋ぎとめる営みがアレゴリー化されるにつけ、とはつまり、精神に観念として現れる世界を、思惟の外側に存する世界から唐突に分けてしまう分断を、主体がほとんど超自然的に意識するにつれて―関係付け(making connections)はどんどん恣意的なものになっていった。

 美の瞑想の中で自意識を失っていくことが、我々がその対象に対して持つ空間的、時間的、そして因果の関係を意識することを止めるということを、ショーペンハウアーにとって意味したとすれば、ヘーゲルにとってそれは贖いとなる総合の最終的な復活と言うべきものを意味した。思想や存在のあらゆる差を奇跡のように「止揚」し、それらの欠除をより完全な第三項に総合するヘーゲルの〈理性(Vernunft)〉の超絶‐円環は弁証法的同一性にいたる。ヘーゲルの理想主義哲学は、社会がつくりだした二元論カテゴリーを解体しようと腐心した一昔前の象徴狂いを後から体系的になぞったという体のものである。鋭い知覚力を持った主体には、二重化するイメージ、表にあらわれる照応関係の発見と創造を介して、具体化を待つ受動的現実の上に出て、これを変容させる力が具わっている。互いに違うところもあるが、ヘーゲルショーペンハウアーともに、その瞑想された対象は、我々の意思を脱し、あるいはミメーシスを超えて、非表題的(nonprogrammatic)な音楽を最高の受肉形態とするところの非表象的(nonrepresentational)な知と化していく。

 

バーバラ・M・スタフォード著 高山宏訳『ヴィジュアル・アナロジー つなぐ技術としての人間意識』 2006 産業図書 p97

 

 スタフォードの引用は難しいけれどいろいろ考えさせられるところが大きいと思います。理解を深めるため長文の引用をしましたが、私がここで使用したかったのは最後の部分です。「その瞑想された対象は、我々の意思を脱し、あるいはミメーシスを超えて、非表題的(nonprogrammatic)なもの(音楽)を最高の受肉形態とするところの非表象的(nonrepresentational)な知と化していく」

 

 主人公は絵の中の主人公に成り代わってイデアを殺しました。

深く深くメタファーの中に沈められていた思いを表象させ世界に再現させたことは、歴史を変えたことに等しくそこには責任が伴う。それは、非表題的なものをメタファー通路を通ることにより非表象的な知として返し、芸術として昇華させることによって初めて可能となるのです。

 

 主人公がなぜメタファー通路を通る試練を受けなければならないのか。それは秋川まりえを救うためなのですが、まりえが受ける受難と「騎士団長殺し」の再現により歴史を変えることが繋がっていることをイデアは予め知っていて、そのためにまりえの前にも現れたと考えると、それまでの間イデアがまりえを救うために奔走していたことと辻褄が合います。

 

 そうして、無事試練を超えて主人公が穴に戻り、免色に救われたと同時に、歴史が元に戻ってまりえはまりえの歴史を生きることが可能になった。実は免色も免色の正しい歴史を生きることも可能になった。

 

この部分の私の読み方はこのような感じになりました。ここは読み手によって読み方が異なることもあるかもしれません。しかし、このように読むことが自然であるように思います。

 

次回は二重メタファーとイデアに本当の悪と呼ばれた男のことをオーウェルの『1984年』の引用を使って読み解きたいと思います。

『騎士団長殺し』の考察 ― 2.メタファーについて(1)『ねじまき鳥クロニクル』との比較―

人為的なもの、それは自然なものに近づくための道である。

 

フェルナンド・ペソア 『断章』16

 

 

村上春樹と暗くて深い穴について

村上春樹の本が好きなひとにとって『ねじまき鳥クロニクル』はおそらく特別な一冊になっていることと思います。私も、彼の本は勧められて数冊読みましたが、『海辺のカフカ』と『ねじまき鳥クロニクル』はファンタジーとして楽しく読めました。

さて、『ねじまき鳥クロニクル』と『騎士団長殺し』の類似点といえば、そこに暗くて深いけれど入らなければならない〈穴〉があることです。

ねじまき鳥クロニクル』では、その穴は別世界、あるのだけれどない世界、深層心理世界あるいは実世界への闇の通路のようなものとして登場してきます。主人公は妻を取り戻すために何度かそこに入り込むことになるのですが、それはあくまで義理兄の綿谷ノボルとの闘いを意味する、いわば、歪んだ世界を正常な世界に戻すための儀式に使用されたように私には思えました。『ねじまき鳥クロニクル』自体が神秘性に富んでいて、ちょっと神がかっている世界観に覆われた物語ですから、そこに登場するある人物は特殊能力を持っていて、その能力は実生活とは実は無縁の、縁があるとすれば、それはそれを必要とすると感じた人のみがその人と接触を持って受けなくてはならないような、そんな能力のある世界です。

現実にも、占い師とか祈祷師とかそういう人たちは存在していて、そういう人たちは私たちの想像を超えた深層への道を乗り越えて、そこから情報が得られるのだろうというような意識で書かれたのだろうと想像できます。

 

しかし、今回『騎士団長殺し』の中に出てきた穴は、イデアである騎士団長を開放し、メタファー通路の終着点として主人公が最後に到達した場所になりました。それは、人工物でありながら、私たちの世界により近しいものとして存在するなにかでした。そして、そこにまず存在したのはイデアであり、『ねじまき鳥クロニクル』の中にちらついていた宗教性を排除するような意思を私たちに思わせます。

 

ここはこの世界の一部ですと。

 

『騎士団長殺し』の中の一貫したテーマは、この「この世界とは何か」ということではないかと私は思うのです。

 

前章の「イデアとは何か」の中で、私は、〈イデアは私たちや私たち以外の事物の根源を世界(自然)に存在させるために不可欠な存在〉と書かせていただきました。私たちを私たち足らしめる存在ともいえます。

ねじまき鳥クロニクル』には、井戸の底で起こった出来事が実際の自分に影響している(例えば顔にアザができるとか)ことについて、本人の意識はまるで追いついていきません。それどころか、向こうの世界の影響を受けて、知らないうちに自分の顔にアザができていたという不気味さと不思議さに本人は翻弄されます。しかし、実際に自分の身に起きた事実について、そこまで意識が離れていることは、存在自体に何が関与したのかわからないという感覚を読者に植えつけます。それがこの物語のおもしろいところでもあるのですが、煙に巻かれたような、そういう意識を持たされる気分にもなります。ナツメグとの出会いや、ナツメグからあの家ごと井戸を買い取るためにしていた行為についても、ナツメグが商売にしていた行為についても謎のままです。ナツメグがしていた、ただ誰か(女性)の頭にある悪いものとの接触とそれを宥めることが、人の存在の何に触れ何をしたのか。

そして、ナツメグの過去とシナモンの書いた「ねじまき鳥クロニクル」になぜ井戸の中の世界での主人公の行動様式が深くかかわっていくのかも、〈ねじまき鳥の声を聴くものの繋がり〉としか連想することができません。

それらを全てひっくるめて、一連の出来事は、妻を助けると決めた主人公の上に降りかかった運命的な出来事として扱われているように思います。

 

『騎士団長殺し』を読んだ方で、まだ『ねじまき鳥クロニクル』を読まれていない方のため『ねじまき鳥クロニクル』についての記載はこのくらいにしておきますが、『騎士団長殺し』を深くお読みになりたい方には『ねじまき鳥クロニクル』をお読みになることをお勧めします。

(比較でなくても、時間と歴史の問題やファンタジー的な要素について考えるだけでもおもしろい作品です。)

 

『騎士団長殺し』では、雨田具彦の描いた絵画に描かれた真実を、事実ではない、けれど真実としてこの世界に存在させるために主人公は尽力することになります。

 

それは、主人公の妻が離婚を申し出た時から、あるいはそれ以前から、決められていた運命なのかもしれません。しかし、主人公のその後の行動は『ねじまき鳥クロニクル』とは全く違って、自らが家を出て東北を旅するというものでした。その旅の途中の出来事も、その後の彼の在り方に深く影響するのですが、ここで私が言いたかったのは、『ねじまき鳥クロニクル』の主人公は30歳で、『騎士団長殺し』の主人公は36歳。この差は実は大きいのではないかということです。『騎士団長殺し』の主人公は、この部分を含め、物ごとに対する対応が、すべて一貫性を求めて思考した結果であり、他の人々への配慮もされています。

もちろん、主人公の人格的な差異の問題なのかもしれません。しかし、『ねじまき鳥クロニクル』の主人公も決して思慮に欠けた人物ではありません。おそらく、経験の差が大きいのだろうと私は感じます。そしてこの経験の差は、人生においてそれだけ人を変化させているということも、村上春樹が言いたかったことなのかもしれないと思うのです。

 

話が少し横道に逸れましたが、この部分に触れておきたかったのは、『騎士団長殺し』の主人公は、自分のためにというよりも、自分が巻き込まれてしまった、けれども抗えない何かのために力を尽くすことに対して、既に抵抗よりもできる限りのことをすることを選択できるということです。もちろん、果敢に挑戦するほど勇敢な性格ではありません。ただ、むやみに抗わない。そしてそのことが、この物語を順序良く進めていくために重要なアイテムの役割を担います。

客間の天井裏にあった絵を発見しても、それについて製作者の意を汲んで秘密にできること。真夜中に聞こえる鈴の音。その場所を突き止めても無力だと知り、適切な協力者に協力を依頼できること。騎士団長の存在を受け入れること。そしてその願いを聞き入れること。女性問題もあるし、それらすべてをさせようと思ったら、少年でもなければ、私でも一番年少でも36歳くらいにするかなぁと思います。

そして何より、彼は芸術家であった。芸術家とは世界を具現化する術を持つトリックスターでもあるのです。

 

 

次回は芸術と世界の具現化について書かせて頂こうと思います。

こちらは少しいろいろな人の考察を引用させていただいたものを交えて、少し本格的に考えていけたらいいなぁと思います。

 

今回はあえて作品の引用は避けさせていただきました。村上春樹さんの作品は引用すると何だか急に色を失ったようになる気にさせます。それだけ構成に凝っているということなのか、はたまた全体で読ませる作りになっているのか。世の批評家の間では新しいものが書けなくなっているのではないかと言われていることもあるようですが、私はそうは思いませんでした。むしろ両方とも面白くしているように思います。

 

ひとつだけ、フェルナンド・ペソアの『断章』の部分は、これから先も冒頭に付けさせていただこうと思っています。

それは趣味ですw

『騎士団長殺し』の考察 ― 1.イデアについて ―

イデアとは何だったのか

『騎士団長殺し』の一番難解なところは、騎士団長であるところのイデアとはいったい何者なのかということに尽きると私は思っています。「私は(私の)イデアだ」というときのイデアだったとしたら、「私は私たらしめるもの自身だ」という意味で捕らえられることですが、騎士団長はイデアそのものであり、その場合のイデアとは個々の存在を存在たらしめる役割を担うものということになります。しかし、騎士団長はいつの間にか私はイデアになっていたと言っている。

完全にネタバレになってしまうのでここには詳しくは書きませんが、騎士団長が騎士団長でなければならなかったのは、一連のものごとを開始させるためであり、一連のものごとの必然の帰結でもあると、後に騎士団長の口から語られます。

そうなると、村上春樹のいうイデアとは、ものごとの始まりと終わりを司るメッセンジャーということになります。しかし、私たちの存在は、自己を取り囲む事象の変化に基づいて自然に変化することが一般的で、イデアとはその変化に適応した自分であることを保証する存在ではないかと私は思っていました。私が人であること。私が女であること。わたしがポンキチであること。それらをこの世界につなぎ留めておくことのできる何かがイデアであるのではないかと思うのです。そして、イデアは私たちや私たち以外の事物の根源を世界(自然)に存在させるために不可欠な存在であるはずです。

なぜ村上春樹イデアにそのような役割を担わせることになったのか。その答えは、本当はあるべきであった事象が起きていないとイデア自身が動き出さなければならないような事件が起きてしまったからです。そして、それは雨田具彦が直面した戦時中の事実と彼への破壊によって生み出された〈騎士団長殺し〉という絵画の存在です。雨田具彦は口では語らなかった物事を、成し遂げられなかった出来事を、寓意として絵の形にし、それは絵の中で実現したものであるにも関わらず、起こるべきであった出来事としてイデアに読み取られてしまった。そのような事件をこの物語の本質として設定することにより、雨田具彦のみならず、あの戦争によって殺害された多くの人たちの存在を、語られなかった存在としてイデアに認めさせること。それがあの戦争を体験して死んでいくものや死んでいったものへの村上春樹の鎮魂的なメッセージとしてあるということを、読み手は読みとるべきではないかと私は感じます。

一つの不思議があります。雨田具彦の騎士団長殺しの絵の中になぜ〈顔なが〉が存在したかということです。作中で語られる通り〈顔なが〉はメタファーです。〈顔なが〉は確かに〈騎士団長殺し〉の中に描かれていましたが、そのためには雨田具彦が〈顔なが〉の存在を知らなければならない。しかし、逆に言えば、雨田具彦がこの絵の中には真実が秘密裏に隠蔽されているということを表すために描いた何かが、今度はメタファーの形を取って現れたと言えます。ここに書いていてやっと自分でも納得できました。

そうなると〈メタファー通路〉を雨田具彦は知っていたのだろうか?気になりますよね。

 

 

次回に続く

 

追記

 

 人間の本性にかんする問題、つまりアウグスチヌスのいう「私自らを対象とした問題」quaestio mihi factus sum は、個人の心理学的意味においても、一般的な哲学的意味においても、回答不可能なように思える。自分以外のことなら、まわりにあるすべての物の自然的本質を知り、決定し、定義づけることのできる私たちが、自分自身についても同じことをなしうるというのは、あまりありそうにないことである。それは自分の影を跳び越えようとするのに似ている。その上、人間が他の物と同じような意味で、本性とか本質をもっていると考えられる根拠はなにもない。いいかえると、かりに私たちが本性とか本質を持っているとしても、それを知り定義づけられるのは、明らかに神だけである。神がそれをよくなしうるのは、なによりもまず、神は“who”について、それがあたかも“what”であるかのように語ることができるからであろう。厄介なことに、「自然的」特質をもつ物―人間とは有機的生命の最も高度に発展した種の一例にすぎないと限定してしまえば、ここに人間自身を含めてもよい―には適用できる人間の認定方式も、「われわれは何者であるか?」(who are we?)という問いを提出できる場合には通用しない。これこそ、人間の本性を定義づけようとする企てが、必ず、ある神の創造に終わり、結局、哲学者たちが最後には神を創造せざるをえない理由なのである。プラトン以来、この神はよく調べてみると、一種のプラトン的人間のイデアとして現れている。だから、もちろん、このような神の哲学的概念は、実のところ人間の能力と特質の概念化にすぎないと暴露することはできる。しかし、そうしてみたところで、別に神の非存在が証明されるわけでもないし、神の非存在を主張することにもならない。しかし、こうはいえる。つまり、人間の本性を定義づけようとすると、「超人」としかいいようがない、したがって神といってもいい一個の概念に必ずゆきつくという事実は、ほかならぬ「人間の本性」という概念そのものに疑いを投げかけるものであると。

 他方、人間存在の諸条件―生命それ自体、出生と可死性、世界性、多数性、地球―は「われわれは何者であるか?」という問いにも答えることができない。それはこれらの条件が私たちを絶対的に条件づけていないという単純な理由によってである。このように説明してきたのは常に哲学であって、人類学、心理学、生物学など、やはり人間自体に係わっている科学はそうはいわなかった。たしかに、人間は今も、おそらくは将来も、地球の条件下に生きるであろう。しかし、今日にいたって、人間は、単に地球に拘束されたままの被造物ではないということが、科学的にも立証されたといってもよいのではないだろうか。近代の自然科学は大きな勝利を収めてきたが、それは、地球に拘束された自然を完全に宇宙の視点から眺め、取り扱うことができたからである。そして、この宇宙の視点というのは、わざと地球の外部にはっきりと設定されたアルキメデスの立場にほかならない。

 

 

ハンナ・アレント 清水速雄訳『人間の条件』ちくま学芸文庫 pp23~25

 

 

 

 プラトンイデアの正体について、私の知識の不足を補うためにアレントの引用をさせていただきました。「われわれは何者であるか」を知るためには「超人」としかいいようがない何かを設定する必要があること。そして、それは普通〈神〉と呼ばれるものであることが、この引用で理解しやすくなると思います。

 なぜ村上春樹が〈神〉ではなく〈イデア〉を召喚したのかはまた後程考えていきたいと思っています。

 アウグスチヌスやアクィナスが不勉強で引いてこられないことは全く私の不勉強のせいなので、ここのところはもう少しちゃんと理解を深めていきたいと思っています。アレントに感謝!

小沢健二の新曲と新聞広告の幸福感について

小沢健二世代

小沢健二といえば、私の世代の人たちは大好きで、東大でバブリーで、ポップで、この上なく愛し愛された人というイメージで、時代の移り変わりにうんざりして、作詞もしなくなって、そうして日本を飛び出してしまったという感覚だったが、このたびの新曲や新聞広告は、今の日本の現状に耐え切れなくなってやってきた聖人君子になって帰ってきたのかしらと思わせた。もちろん歌も広告も概ね受けはよくて、引っ提げてやってきた歌「流動体について」ではもちろん、間違いに気づいて遠くに行っていた僕が、宇宙の中で良いことを決意する。

 

そして意思は言葉を変え

言葉は都市を変えていく

 

カルピスを飲みながら、問いかけられた現状に自らの下した結論を確かめながら、

 

無限の海は広く深く

でもそれほどの怖さはない

 

 

僕らの世代は中途半端だ。実はバブルも弾ける寸前なのに、おじさんたちはその気配にはうわの空で世界を我が物顔で謳歌していた。やりたい放題やられた後に、ほんの少しの残像を残してまだ浮かれている人たちを横目に見て、家族を守る幸福を得るためにあえて馬鹿な人たちを放りだしておいて、できることをした。というより、できるだけフォローしてしまった気がする。それが現状なのだから、将来に向かっては悪いことをしていたのだなぁという感覚がヒリヒリと残っている。結局、馬鹿にしながら苦笑するのではなく、罵倒してでも世界を打破するべきだったのか。

いやでも、いい子ちゃんに育てられた我らには、フォローが精いっぱいだっただろうなぁと今でも思う。

 

そして、その感覚をきっと持っている小沢健二は、今その(逃げていったことへの)反省を基に、世界を変えに戻ってくる決意をしたのだと思った。もちろん、子どもたちのために。

そう、もうフォローしてやる必要もない。彼らは好き放題して去って行った後でさえ、まだこの世界に傷を残そうと画策しているように思えてならないのだ。それは自分たちの子どもたちへの傷になっていることにさえ気づかず、更に私たちの子どもたちへの傷にさえなろうとしているのだ。

時は熟してしまった。

 

報復と言葉と世界を美しく語ること

 小沢健二朝日新聞に出した広告は、甘く甘美なものだった。食パンの柔らかさ、イチゴの甘酸っぱさ。ショッカーの残していった剣術士たちの殺戮の方法まで。甘くなったトマトを食べたら何というだろうと思った。

それは、ハイレゾという言葉で表現されているものの、ある意味自然に逆らっても快楽を選択する日本人の甘い夢の結晶だ。彼の決意は日本人にもう一度その決意を促し、世界を明るく照らす人工照明にすることだ。そのことにためらいなく足を踏み入れたかといえば、カルピスを飲みながらそれなりに考えた結果なのだよと語りかける。そうでもしなければ、日本は日本であることを放棄しかねない。その危機感は私にもある。現に、世界中から非難を浴びるアメリカ大統領に擦り寄る首相の支持率が伸びることなど国を放棄したのも同然であって、メディアはそのようなことには無関心で、もはや自分たちの力ではどうにもならない経済を、どうにかしてくださいと神頼みしているようなものなのだから。

それはもう、賭けに出る決意をさせるには十分すぎる理由であり、甘美すぎる言葉でもって現実逃避させてでも、古来から続く日本を守る唯一の方法だと思わせる何かが、遠い国からはよく見えていたのだろう。

君よ、君であれ。

君よ、我であれ。

そんな言葉が私には聞こえてきた。

 

言葉とは残酷なのだ。

 

一方で、「神秘的」では宗教の詩を引き合いに出して、それは現実に繋がっているのだよということを説明する。

自然は偉大な創世主であり、神の詩はそれを私たちに告げるハイレゾなのだ。そしてそれ以上のハイレゾなど存在しないのだ。それは知ってるのさ、わかってやってるのさ。

でもね、わかってはいてもそれをすることで子どもたちの未来が繋がるのなら、僕らはそれをしなくてはならない。

長い沈黙の後で、父親になって帰ってきた小沢健二は、人間的で優しさを持った残酷な大人になっていて、私たちはそこを汲んで、乗ってあげるべきなのかもしれないと少し思った。

とにかく、言葉を聞いてあげよう。そして、そういう世界になってしまった責任について、彼だけに押し付けるのではなくきちんと考えよう。

 

ハイレゾを受け入れるか、受け入れないかは個人の自由で、そこは自然の中でもっと生き物の一員らしい生活を求めるもよし、それで世界が守れるのなら、ほんとうはそれが一番良いのだけれど、彼の二つの曲が都市の自分と田舎の自分を持つように、二人の自分を器用に持てなければ、私たちは多分消えてしまうだろう。精神的に。

 

世界で言葉を紡ぐことは、残酷で、無責任で、滑稽な一方、優しく、心強く、支えになれるのだ。それを理解して深みに嵌る覚悟をした彼の素顔を支えるのは、家族なのだろうなぁとしみじみ感じた。

恋愛と結婚の愛について   ― リルケと「君の名は。」と「逃げ恋」と ―

あれは私の窓。私は今ちょうど

うっとりと目がさめたところだ。

なんだか漂っているみたいだった。

どこまでがこのわたしの生身で、

どこからが夜なのだろう。

 

まわりのものはまだみんな

私自身みたいな気がする。

水晶の奥深くのように透明で、

ほの暗く、しんとしている。

 

私はあの星すらも私自身の内部に

抱きしめることができそうだ、私の心が

そんなに大きなものに思える。この心は

よろこんであの人を手放すことだってできそう、

 

たぶん私が愛しはじめ、

たぶん私が引きとめはじめているあの人を。

言いようもなく馴染みない目つきで

私の運命がじっと私を見つめている。

 

こんな限りもなくひろがったものの下に

私はどうして置かれているのだろう、

草原のように匂いながら、

あちらへこちらへ揺られながら、

 

呼びながら、それでもやはり

だれかが聞きつけるのを恐れながら、

そうしてだれか他の人の中に

自分自身を失ってしまうように定められて。

 

リルケ 「恋する少女」 高安国世訳

 

恋愛についての考察

このリルケの詩は、恋をする少女について、非常に繊細に、それでいて的確に美しく現していると私は思っています。

 恋を自分でコントロールしてできる人などこの世にはいないはずです。それは、ある日突然知らない人とだったり、昔馴染みといつの間にかだったりしますが、恋を自分で作りだしたものと感じる人はいないでしょう。

 もし、そういう人があるとすれば、その恋はまがい物であると私は思います。

 

 上の詩の中で、少女は自分自身の心について、どのような形でどのような大きさだか感じてみようとしますが、その努力は無駄に終わります。その上、そのような状況に彼女を置いている恋や恋人でさえ、馴染みない目つきの中であいまいに見つめる運命に身を任せるしかないことを悟らされているのです。

 恋は残酷です。

 

呼びながら、それでもやはり

だれかが聞きつけるのを恐れながら、

そうしてだれか他の人の中に

自分自身を失ってしまうように定められて。

 

この部分は恋というものについて、リルケが少女を題材に一番言いたかった部分だと私は思います。恋とはだれか他の人の中に自分自身を失ってしまう定めの、始まりであるのです。

無邪気な少女はやがて恋をして運命を知り、自分自身を他者に埋没させていく。それこそが、恋愛と結婚という、人間の愛についての原初であり、少女ばかりでなく少年だって同じように体験していくのです。

ここまでは『君の名は。』にすっぽりと当てはまります。新海監督は恋についての原初の部分を美しく書き上げて作品に仕上げられました。少女と少年は入れ替わりながらお互いを少しずつ相手に吹き込み、最終的には瀧君は口噛み酒を飲んだことで彼女の半分を自分に受け入れます。そして再会が叶うのです。

 

 自分自身を他人に埋没させることが苦痛であるか否かは、自分というものについてどう考えているか、そして、愛というものについてどう考えるかで違ってきます。

 自己愛は決して無意味なものではありませんが、それだけで生きていけるほど世界は優しくできていません。私はここで生殖という部分で精しく考えることを避けさせていただきますが、それは人にとって避けられない欲望の根本でありますし、その欲求は当たり前にすべての人に与えられた乗り越えられるべき壁でもあります。

 私はここでは、生殖というよりは、家族愛について考えたいと思います。生殖を乗り越えたその先にあるのは、人間の本来守るべきである子孫です。子孫を残すことは人にとってだけでなく、すべての生物にとってあるべき姿です。そう書くと、子供のできない人に失礼だろうと言われる方があるかもしれませんが、子供を残すことは未来を繋ぐことです。そのことに異論のある方はいらっしゃらないでしょう。

 ここまで来て、やっと『逃げるは恥だが役に立つ』の話ができるようになります。

『逃げ恋』は、とにかく恋愛ベタな平匡と超現実的でありながらどこかへ飛んでいってしまうみくりのラブコメディですが、雇用契約としての結婚を契機に、恋愛と結婚について、そして結婚と生活について切り込んでいくところがおもしろい構成になっています。恋愛関係が進展すれば契約結婚などというものは霞んでいって、本当に得たいものが見えてくるのですが、契約結婚から入ったことで、生活が自分にとってどのように重要で、そのために結婚がどのように必要か、逆説的に説明する構成になっています。リルケでいうと、自分自身を失いたくない人が自分自身を失うということをいかに受け入れるかを、始めに恋愛ありきから生活ありきにして物語っているということになります。恋はどこへいってしまうのだろうと不安にさせながら、生活をきっちり守っていくみくりにはまった人も、自分には恋はできないと思いながらもみくりに恋していく平匡にはまった人もいらっしゃるとは思いますが、私は、二人が全く違う価値観を持ちながら話し合いで解決していく様がおもしろかったです。平匡は最後までみくりのようにはなれないと言いますが、実はいろいろな場面で妄想の中に取り込まれて完全にみくりのようでしたし、みくりは自立の意味を知って個人事業主になろうとします。最終的には未来や将来の話になって子供が出てきてほっとしました。

 

 この二つの物語が流行った背景を考えると、人はみなリルケの詩のような感覚を持ち続けていて、今はまさに現実とのギャップに悩み続けているのだということがわかります。「逃げ恋」のような境遇にあうこともないと思いますが、私はもっと素直に、自分自身を失うことへの不安を持ちながら溶け合う気持ちを知り、苦しんだり、楽しんだりしながら愛を育むことを恐れないでいくことが大切だと思います。そんなこと言っても相手が見つからないという人も多いでしょうが、恋は自分で作れるものではなくて、あちらから勝手にやってくるもので、そのことに敏感になれなくなっていることや拒絶していることが問題なのかもしれない。そのことについては、今日のツイッターの写真を見ていただけた方はお気づきかと思いますが、ちゃんと考えているところです。

 

 ここまでの説明を読んでいただくと、星野源の「恋」の歌詞も少し違って見えるかもしれません。

 

胸の中にあるもの

いつかは見えなくなるもの

それは側にいること

いつも思い出して

君の中にあるもの

距離の中にある鼓動

恋をしたの貴方の

指の混ざり 頬の香り

夫婦を超えてゆけ